20150608初
20170627胡
【沿革】
長宗我部地検帳に「是ヨリ市原西分」とある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「市生原村」と記述がある。
明治22年(1889)3月31日、「明治の合併」といわれる新政府の町村制により、市生原村は同じ仁井田郷の七里村・中村・勝賀野村・川ノ内村・北ノ川村・一斗俵村・中津川村・米奥村・作屋村と大野見郷の日野地村・秋丸村が新設合併し「松葉川村」となった。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町・ 東又村・ 興津村・仁井田村と 松葉川村は合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内の行政区は、市生原のみである。
【地誌】
旧窪川町の北部。川奥川が合流する地点の、四万十川左岸に開けた平地。主に農業地域。集落は東の山麓に展開し、主要地方道19号窪川船戸線が通る。八坂山に鎮座する高加茂神社は一言主命を祀るとされ、明治32年に総河内神社を合祀した。神宝に県有形文化財の銅矛6本と、ほかに町有形文化財の銅戈1本がある。総河内神社は四万十川辺にあったといわれ、「南路志」は正体は鉾としている。高加茂神社に現存する棟札に鉾神社とあるのは総河内神社のものか。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央、南流する四万十川の左岸が市生原地区)
【地名の由来】
【字】(あいうえお順)
アトメノ下タ、荒瀬、イダノ下、入船ヤシキ、梅ノ木才能、大切レ、大崎、岡ノ峯、岡ノ屋敷、奥シロベト、梶田、梶田東、上オノヲ、上切レ、上高畦、栗木谷、栗ノ木谷口、小路ノ川、小戸井ノ本、権元ホキ、才能、下オノヲ、下高畦、城ガ森、ジロベタウ、シロベト山、ツルイノクボ、鳥谷山、長ガ田、中谷口、中ダバ、夏ヤケ、二本房、二本棒口、ハザコ、ハチベオノ、ホキノ谷、槇ノ瀬、宮ノ廻リ、宮ノ本、弥五郎田、ヤハズダ、八坂山、山本屋敷、横田、ヲクジロベタウ【46】
(字一覧整理NO.順 市生原p86~87)
1ホキノ谷、2荒瀬、3中ダバ、4ヤハズダ、5大崎、6小路ノ川、7山本屋敷、8小戸井ノ本、9宮ノ本、10宮ノ廻リ、11ハチベオノ、12中谷口、13入船ヤシキ、14横田、15アトメノ下タ、16上切レ、17岡ノ峯、18岡ノ屋敷、19才能、20上オノヲ、21ハザコ、22梅ノ木才能、23下高畦、24上高畦、25イダノ下、26梶田、27梶田東、28権元ホキ、29弥五郎田、30栗木谷、31大切レ、32長ガ田、33ジロベタウ、35鳥谷山、36八坂山、37ヲクジロベタウ、38城ガ森、39シロベト山、40二本房、41二本棒口、42夏ヤケ、43ツルイノクボ、44槇ノ瀬、45下オノヲ、47才能(再掲)、48奥シロベト、49栗ノ木谷口、50城ヶ森(再掲)、51長が田(再掲)
※
【ホノギ】
▼是ヨリ市原西分(仁井田津野領入組地検帳事p571~579/検地日:不明)
イタノエサ川渕、川マイ、カミホキ、松ノ木サイノヲ、カミホキ、壱丁タウ子越、弥五良タ、ツルイノクホ、ナツヤケ、ニホンホウ、永タ、次良別当、ウロ、ナカレタ、ハサコ、セウカク田、コハタ、二良別当、アサノ谷、セキノ本、井ニウラ、ウツシリ、クリ木谷、ミソタ、セウカフチ、カチタ、高畔、ソリタ、二セマチタ、宮ノ後、サカハサイノヲ、刑部サイノヲ、大サイノヲ、フシヤテン、土佐二良、ヲカやしき、ワタリ上、米ノ瀬、ハサマ、フシヤテン、宮ノクホ、サイノヲ、ニイヤヤシキ、中マヤシキ、彦右衛門やしき、かちややしき、丸タ、ヨコタ、弥五良ヤシキ、東カセ、池タ、ヒルタ、西ウラ、中谷、龍泉寺寺中、寺ノ前、山本やしき、ホキ谷、アラセ、島イノカワ、大谷、カキ谷、下ホキ、宮ノ前、神主やしき、大蔵やしき、慶蔵庵北ノ依寺中
【通称地名】
【山名】
山名(よみ/標高:)
【峠】
峠(地区△地区) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
高加茂神社/16たかかもじんじゃ/鎮座地:八坂山
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅱ」)
地検帳は”市原”とのみ記して市原村とはしていない。しかし甲把瑞益の仁井田郷談でも武藤致和の南路志でもともに市生原村と表現している。そして、この部落以北の各部落は名(みょう)制になっている。(同p606)
・神社
高賀茂神社(無格社/字八坂山鎮座)/合祀:須賀神社、皇王神社、若宮八幡宮
境内社:惣河内神社(村社)
合祀:白皇神社、竈戸神社、水神社
琴平神社、西宮神社
・寺院
龍泉寺、慶蔵庵
■州郡志(1704-1711宝永年間)
市生原村の四至は、東限越行村南限米之川村北限北之川村東西三町南北五町其土赤黒有川流(同p286)
山川は、山本谷、茶木谷
寺社は、流泉寺、一之宮、牛頭天王社、白皇社
古跡は、壘址として「不詳何人居城」とある。
また別に市生原村の四至として「東限窪川領本田西限米之川渡瀬南限本田北限小之川村縦五町横三町」(同p261)とある。
※市生原村の四至に「北限小之川村」とあるが北之川村の誤記載か
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」での市生原村は、石高152.377石、戸数23戸、人口955人、男51人、女44人、馬20頭、牛18頭、猟銃0挺
■南路志(1813文化10年:③p339)
184市生原村 仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也 地百五十二石二斗
川内大明神 宮廻り 正体幣 祭礼九月廿六日
牛頭天王 奥ノ谷・山本ヤシキ 祭礼九月廿七日
一宮大明神 奥ノ谷 祭礼九月廿六日
白王権現 米ケセ 祭礼九月廿六日
弘法大師 トサ一丁ノ上
龍泉寺 久礼村常賢寺末、退転、本尊のミ残。
本尊薬師 (以下略)
■ゼンリン社(2013平成25年)
p16:市生原、四万十川、北ノ川、主要地方道窪川船戸線、北の川橋、Ю上市生原、Ю下市生原
p9:市生原、北ノ川
※東北ノ川と市生原の境界に錯誤。北ノ川合流点から400m位上流域までは両岸とも市生原の区域
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
市生原
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
石ケ森(三等三角点:標高456.11m/点名:いしがもり)市生原字城ヶ森88番地
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
栗ノ木谷橋(栗ノ木谷川/市生原字栗ノ木谷口474―2)
槇ノ瀬橋(北の川/市生原字マキノセ561)
北の川橋(北の川/市生原字上高畦417-2)
大切下橋(北の川/市生原字大切509)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 64市生原の石積み堤防
市生原は、四万十川の上流に近く下流域に比べて増水期の水量は少ない。そのため、四万十川は、本流に築かれた堰によって高南台地の水田を豊かに潤す恵みの川である。
平素は穏やかな川面を湛える四万十川も、台風時や豪雨時の増水は流域の人々の脅威である。そこで、氾濫から農地を守るため、石垣による堤坊を築き、護岸のために川岸に竹を植えた。この竹による護岸は野中兼山が奨励したものとも伝えられている。
市生原には明治末期から大正時代にかけて築かれた延長300mの石積みの堤防が残り、また、四万十川両河岸には護岸のために植えられたという竹林も見られる。市生原の水田は、これら先人たちの四万十川に対する備えによって守られてきた。
構造:底部の幅6m 上部の幅4m 高さ2m 延長300m
・ 645清水大橋
清水大橋は、四万十川左岸の米奥と右岸の市生原の集落を結ぶ沈下橋である。この付近は川幅も広く、102.1mの長さの橋である。
この橋が架橋されるまで、対岸への往来には上流の一斗俵沈下橋まで回らなければならなかった。このため地域の人々は「清水が瀬」にイシグロを積んで橋台を作り、幅1m足らずの板橋を架け往来していた。しかし、板橋は冬季には凍結して転落事故が発生し、夏場には洪水のたびに流失して架け替えは両集落の重荷であった。
清水大橋は、昭和40年の架橋で、窪川地域では一番新しい沈下橋であるが、水中の工事は困難を極め、完成まで6年もの年月を費やしている。現在は、老朽により通行止めとなっているが、米奥には小学校や商店があり、通学や買い物などの日々の往来に利用されてきた橋である。
架橋年度:昭和40年 / 管理者:町 / 構造:鉄筋コンクリート 橋長102.1m・幅員2.8m 橋脚16本
■四万十町広報誌(平成27年8月号)