20150422初
20170221胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「宇津井川村・宇津井河村」とある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)は「打井川村」、南路志(1813)は「宇津井川村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、打井川村は大字となった。
大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。
昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
大字内は3地区の行政区があり、各地区の班・組編成は、口打井川地区はひとつであるが、中打井川地区は下・中・上、奥打井川地区が下組・中谷・宮組・奥組に区分されている。
【地誌】
旧大正町の南東部。三方を標高500m級の稜線で囲まれ、北部を四万十川が西流。北東は大正北ノ川・上宮、東は弘瀬、南東は黒潮町、南は四万十市、西は希ノ川、北西は上岡に接する。大部分が山地。集落の中央を打井川(全長約8.5km)が蛇行しながら北西に流れ、四万十川に合流する。流域に水田と集落が立地。上流から奥打井川・中打井川・口打井川の地区に分れ、主要地方道55号大方大正線が通り、奥打井川で分岐する県道367号住次郎佐賀線は標高509mの鳥打場の裾を通り、四万十市に通じている。奥打井川まで通学バスが1日2~3便運行される。四万十川と打井川の合流点付近の口打井川の地域は、四万十川の両岸に集落が分かれ、右岸には国道381号が通り、商店がある。バス運行1日7便。左岸にはJR予土線が通り、打井川駅がある。口打川・中打井川・奥打井川の各地区に河内神社があり中打井川には民間信仰の馬之助神社、奥打井川には尊良王の忠臣・秦道文を記る道文神社があり、ともに他地区からの参拝者が多い。町無形民俗文化財の打井川盆踊り(エジマガエシなど) がある。奥打井川にあった旧打井川小学校体育館は、海洋堂創業者の宮脇修氏の取り組みにより平成23年には「海洋堂ホービー館四万十」、平成24年には「かっぱ館」がオープンし「へんぴなミュージアム」として県下有数の観光拠点となった。(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上部、西流する四万十川の左岸流・打井川の流域が打井川地区)
【地名の由来】
四万十町史資料編には『地名の「ウツ」は狭い谷を意味し、「ウツ」は「ウド」と同義であるところから「奥深い狭い谷川」という意味で地名が付けられたという説と、昔、家地川より移り住んできた「影井」という人が苗字を「宇津井」に変え、この地を開いたことから地名が付いたという説がある』と二説を併記している。
多賀一造編「大正のむかし話」の『打井川の始まり(p148)』に詳しく書かれている。江戸期の墓をみると「宇津井」から「討井」に変わり、明治になって今の「打井」になったとある。現在、打井川には打井や宇津井の姓はないが、打井川から山を越えた黒潮町市野々川には打井の姓が4軒ある。
高知新聞連載コラム「土佐地名往来(No293)」では打井川の由来を地形を表す語”うつ”にあるとして「険しい山々に挟まれた凹状の地形を”うつ”と言い、そのあいだを流れる川を”うついがわ”と呼んだ。」と打井川の由来を紹介している。
「奥深い谷川」をウツというなら、土佐の山間はウツだらけになってしまう。また、「ウツ」の地形地名の説明はあるが、「イ」の説明がされていないのが不自然でもある。民俗地名語彙辞典もイの説明にとして「②たんにイを表わす表音文字として使われる。向の向井、境の坂井、酒井になるのもこの例」とある。その解釈からウツだけの説明となったのか、編集子は水関連の「井」と理解したい。
「イ」は暮らしの生命である。香川県民は高知県民の集いでは必ず「高知県の水」に感謝の言葉を述べることを枕詞にする。その早明浦ダムには「四国のいのち」と溝渕知事の揮毫による記念碑が建っている。水は日常の暮らしと水田にとって必須であり、その利用が地名として命名され、新田開発と灌漑技術の向上とともに地名も変化してきた。
イは井であり、泉、井戸、用水溝、水路、井堰のことで新井・井の頭・井上・井関の地名がある。
長宗我部地検帳にもセイモトやツルイがよく見られる。セイは土佐で山中の谷合、モトは本。ツルイは、小谷、それに近接する地点の泉である。
四万十町に見られる長宗我部地検帳のホノギ・ツルイは、ツル井ノスソ(高野村)、ツル井ノモト(若井川村)、ウスツル井(宮内之村)、ツル井ノモト(宮内之村)、ツル井ノシタ(神之川ノ内永野地之村/口神ノ川)、ツル井ノ本(天川之村)、ツル井ノモト(番中之内井細川川口之村内チヨカイチ/南川口)、ツルイノ本(陰山村/本在家)、ツルイノモト(西松ノ村/西影山)、ツルイノハラ(小野川村川)、ツル井ノスソ(中村之村)、ツルイノクホ(市生原村)、ツル井ノモト(藤之川之村)、ツルイノモト(興津村)、大ツルイ(上宮村)、ツルイノクホ(広瀬村/弘瀬)、ツルイノモト(西川村/西ノ川)、カミツルイ(下道村)、ツルイノスソ(大井川村)、ツルイノスソ(小野村)、ツル井ノ谷(大道村)
※比定される字は強調青字にした。
四万十町に見られる字名は、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(志和分)、ユル井ヶ谷(柳瀬)、鶴井谷(上秋丸)、鶴井ノ平(上秋丸)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、ツルイノ本(大正中津川)、クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ奥(昭和)、ツルイノ谷(昭和)、ツルイ本(河内)、釣井ノ口(地吉)、奥釣井(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)がある。
井出の谷、イデノ谷、出ヶ谷もツルイ若しくは井に関連した地名であろう。
「イ」にについては明確な解説がなく釣瓶井戸(つるべいど)の略したものが主流であるが、その解釈について異論を述べたのが下村效氏の「長宗我部地検帳のツルイ(土佐史談194号)」である。
氏はホノギ「ツルイ」を悉皆調査し、ツルイは①小谷、それに近接する地点の泉②水位は高く、井底は浅い③個々の屋敷の敷地外にあり、共同井として利用されていた➃山から掛樋で引いた水を貯めておく水槽・水瓶、水場をさす場合もあるとまとめている。井戸ではないた論文を土佐史談194号に発表している。
川野茂信氏も「長宗我部地検帳のホノキギについて(高知高専学術紀要3~9号)」で水利に関するホノギの解説と分布図を示しているので是非本文を参照して理解を深めていただきたい。
打井川の地名由来が「井」の話となったが、地名は暮らしを刻んだ文化遺産。水利用の変遷を探ることは重要なことである。ツルイ等の水場に関する四万十町内の分布図を下村氏の期待に応え今度まとめることにする。
ちなみに、「打井」を電子国土Webで検索したら、「打井原(和歌山県有田川町)」「打井畑(岡山県真庭市)」があった。また、中国語では「打井」は井戸掘りのことであるという。夏の夕方、玄関先の「打水」は、編集子にとって一日好日のルーティンである。
【字】(あいうえお順)
赤岩、赤瀬、アシカサコ、アシカバ、アヲ木、石神、石神越、イダワタゼ、市ノ又、市ノ又山、イヅ川、一本松、イデン谷、猪ガ奈路、井ノ谷、井ノ谷向、井ノダバ、猪原、井ノ又、植松、ウドワラビ、ウバカ谷、馬ダバ、大ウ子、大サコ口、大田、大平、大弘瀬、大松、大向、沖ダバ、オソ越、カイガイシ、柿ノ木ダバ、影平山、カゴブチ、樫谷、カドタ、上谷、上トビノス、川原田、喜蔵屋敷、行司田、京殿、キリノ木サコ、クイノシガキ、楠ノ木谷、クスノサコ、口カイガシ、口日ノ谷、栗サコ、栗ダバ、栗ノ木サコ、黒尾、コウゲダバ、幸次郎、幸助谷、コエカキダ、コサデ、越エ、コシタ、小ナル川、小畑、コビガ谷、コメコヤ、小森、コヤカ谷、コヲゲダバ、コング、コンダ、サウダ、佐賀越、佐賀道、三升蒔、シブチ、治部藪、下モホキ、下向ヒ、下モダバ、下モホギ、ジヤギレ、ジヤノ川、猩々口、シヨカ、新猩々山、スカ、扇子ダバ、鷹ノス、タキモト、竹屋敷、ダバ、駄場崎、ダバダ、タヲノマエ、茶堂前、忠助屋敷、ツエジリ、寺谷、寺ノ奈路、寺ノ前、土井ダ、堂ガ谷、所林、トシ、トビノス、トヤ、中ゴヤ、永サコ、永サコ口、中谷、中谷口、中谷中、永野、中屋敷、ナシノ木ダバ、ナラカシ、ナルカイチ、ナル川、奈路山、新家、西ケ奈路、西谷口、西谷山、西本、ニッチ、ヌタノダバ、登リ尾、登尾谷、登尾谷口、灰床谷、萩ノシガキ、萩ノナロ、バショヲバ、畑ケ谷、畑ケ谷口、八升蒔田、春ワラビ、春ワラビ谷、番上ヲ屋敷、東イノ又山、東谷、東日ノ谷、東屋敷、引カクシ、ヒダカ、日ノ谷、日ノ平山、ヒラ、平ザンバタ、弘町、札張場、札松、古川、古屋敷、マシガ谷、マシカ谷口、松カダバ、松ノナロ、豆カ谷、宮ガ谷、宮ノ谷、宮ノ奈路、宮ノ脇、向黒尾、向竹屋敷、ム子田、柳ノ奈路、横山、ヨジカ谷、ヨジ谷、六代地、若薮、渡り上り、ヲク越、ヲソ越【175】
(土地台帳・切絵図番順)
※土地台帳の調査は中打井川集落(奥打井川境)の打井川右岸「萩ノシガキ」から始まり、四万十川合流点まで下り、口打井川の四万十川右岸、左岸と進み、あらためて打井川の左岸を奥打井川の黒潮町境まで上り詰めたあと右岸を中打井川境まで進み終了する。
1萩ノシガキ、2幸次郎、3黒尾、4弘町、5スカ、6ヒラ、7若薮、8古川、9中ゴヤ、10楠ノ木谷、11登尾谷、12登尾谷口、13萩ノナロ、14植松、15永サコ口、16永サコ、17栗ノ木サコ、18石神越、19茶堂前、20春蕨谷、21春蕨、22登リ尾、23西ケ奈路、24西本、25宮ノ脇、26大サコ口、27永野、28川原田、29一本松、30大向、31畑ケ谷、32畑ケ谷口、33猩々口、34新猩々山、35下モホキ、36キリノ木サコ、37大弘瀬、38八升蒔田、39ウバカ谷、40ム子田、41バショヲバ、42井ノ谷向、43タキモト、44井ノ谷、45行司田、46寺谷、47寺ノ前、48カドタ、49松ノナロ、50大平、51トビノス、52上トビノス、53井ノダバ、54柿ノ木ダバ、55向黒尾、56樫谷、57市ノ又、58六代地、59ヒダカ、60コヲゲダバ、61石神、62喜蔵屋敷、63コメコヤ、64トヤ、65カゴブチ、66ニッチ、67市ノ又山、68ヌタノダバ、69所林(ところばやし)、70猪原、71ナシノ木ダバ、72小ナル川、73ナルカイチ、75忠助屋敷、76西谷口、77西谷山、78ナル川、79ヨジ谷、80イデン谷、81赤岩、83横山、84向竹屋敷、85クスノサコ、86イダワタゼ、87クイノシガキ、88登り尾、89中谷口、91扇子ダバ、92ウドワラビ、93札松、94東イノ又山、95鷹ノス、96東谷、97小森、98中谷、100ツエジリ、101アシカバ、102上谷、103古屋敷、104三升蒔、105下向ヒ、106コエカキダ、107日ノ谷、108コヤカ谷、109タヲノマエ、110東日ノ谷、111口日ノ谷、112番上ヲ屋敷、113ウバカ谷、114豆カ谷、115コサデ、116井ノダバ、117マシカ谷口、118マシガ谷、119松カダバ、120沖ダバ、121越エ、123トヤ、124ヲソ越、125ナラカシ、126ジヤギレ、127シヨカ、128赤瀬、129佐賀道、130馬ダバ、131下モダバ、132栗ダバ、133新家(にいや)、134ダバ、135引カクシ、136平ザンバタ、137札張場、138日ノ平山、139大松、140堂ガ谷、141大田、142イヅ川、143灰床谷、144東屋敷、145寺ノ奈路、146奈路山、147宮ガ谷、149猪ガ奈路、150柳ノ奈路、151宮ノ奈路、152京殿、153小畑、154中屋敷、155井ノ又、156大平、157アヲ木、158口カイガシ、159影平山、160コビガ谷、161治部藪、162カイガイシ、163大ウ子、164竹屋敷、165駄場崎、166幸助谷
※切絵全図の「20春越谷」は「春蕨谷」、「24西藪」は「西本」、「27長野」は「永野」、「34猩々山」は「新猩々山」、「59ヒクカ」は「ヒダカ」、「68スタノダバ」は「ヌタノダバ」m「69トコロバエ」は「所林」、「101アシカサコ」は「アシカバ」、「112上ヲ屋敷」は「番上ヲ屋敷」、「129佐賀越」は「佐賀道」、「152小畑」は「152京殿」の誤記
※切絵全図の74番、82番、90番、122番、148番は欠番。
※切絵全図の「99上井ダ」は土地台帳になく不明。
※切絵全図に「京殿」の記載がなく、「155大平」と「156大平」が重複している。
※「井ノダバ」、「ウバカ谷」、「登リ尾」、「トヤ」、「大平」の字は、地内に2カ所ある。
※土地台帳にある「アシカサコ、オソ越、栗サコ、コウゲダバ、コシタ、コング、コンダ、サウダ、佐賀越、シブチ、下モホギ、ジヤノ川、ダバダ、土井ダ、トシ、中谷中、宮ノ谷、ヨジカ谷、渡り上り、ヲク越」の所在が不明
【ホノギ】宇津井川村・宇津井河村/枝村:なし
▼宇津井川村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳p59-70/検地:慶長2年2月2日)
※検地は奥打井川集落最奥「ジャノ川」から始まり、口打井川集落の四万十川右岸で終わる。
シヤノ川、ヒキカクシ、大タミソ、大タヤシキ、ひかしやしき、にしやしき、名本ヤシキ、こやしき、うはの谷口、番匠屋しき、ホウセンアン、興泉寺中、クホタ、ヲモヤノ南、コヱカキタ、越、宮ノなろ、シモムカイ、、六■マキタ、■シカウ谷、ナカボリタ、■カイタ、イノマタ、イノマタセイモト、大ヒラ、竹ヤシキ、ナロカイチ、■■川谷、ナロ川、イチノマタ、クロヲ、ムカイクロヲ、フル川、ミ■タ、中小や谷、ハキノナロ、ミソ下、はかわらひ、まつのなろ、のほりくも、かとた、とゐヤシキ、なかマヤシキ、吉祥庵寺中、西モト、■ヤウシタ、井ノ谷、タキノモト、大ヒロ瀬、■ノ川、■サチ、■■カイ
▼宇津井河村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳p84/検地:慶長2年2月10日) ※切畑を後段にまとめて記録している。
(切畑)
二ノマタ、中谷、ナル川、フルトイ、にしノ谷、にし谷クチ
※寺社は、興泉寺と吉祥庵とある。検地の流れから「興泉寺」は奥打井川集落の寺ノ奈路。現在は道文神社の横に堂があり、奥泉庵とあるがここに移され「興」が「奥」に転訛したのではないか。「吉祥庵」は口打井川集落の中心となる西ヶ奈路附近と推定される。
【通称地名】
【山名】
【河川・渓流】
奥打井川
オオシ谷、カイガイシ谷
ナカ谷、ヒヨシ谷、ヒガシガ谷
宮ノ谷、カヂガ谷
ヒノ谷
イヌ川
イチノ川
マシガ谷、キレイリ谷、ウツボ谷、アカセ谷(エンコ谷)、ジャノ川
【瀬・渕】
奥打井川
ドウブンブチ、カタブチ、ダイノフチ、水神ブチ、エンコウブチ、シモジャブチ、カミジャブチ
【井堰】
【城址】
【屋号】
奥打井川(奥打井川には、大部分に屋号があった。奥から順に)
オタカヘヤ、シンタク(本山富久宅)、ウマハタ(秋田守、秋田信雄、秋田敏幸宅の三軒)、マツバガバ(本山雪美宅)
アバタ(秋田宅:休み宿)、イヌダバ(秋田幸則宅)、シンヤ(本山博文宅)、カンダバ(小畑孝雄宅)、ヒクガク( )
ドンガ(秋田二男宅)、ナラシ(秋田正男宅:別名ヘヤ)、ヤカ(秋田昇宅)
上ボリ( )、中ボリ(田中穣宅)、下ボリ( )
テランコイ(谷脇延香宅)、ナカヤシキ(小畑耕一宅)、キョウデン(本山昌良宅)
ウエコバタ(小畠正宅)、シタコバタ( :庄屋三良左衛門)
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
河内神社/39かわうちじんじゃ/鎮座地:宮ノ脇 ※村社
(旧:皇子宮)/39.3おうじぐう/鎮座地:西ヶ奈路
(旧:大元神社)/39.4おおもとじんじゃ/鎮座地:ナシノ木ダバ
道文神社/40どうぶんじんじゃ/鎮座地:京殿 ※奥打井川集落(奥分)
河内神社/41かわうちじんじゃ/鎮座地:宮ノ奈路山 ※奥打井川集落(奥分)の産土神
(旧:六十余社)/41.3ろくじゅうよしゃ/鎮座地:横山 ※成川集落
※神社明細帳に「馬の助神社」が掲載されていない。
※ゼンリン社p46の中打井川集落に神社記号が記している。
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)
「続・佐賀越の民俗誌-潮汲みの祭事の道-」
武内 文治
1、はじめに
2018年8月に奥四万十山の暮らし調査団(武内文治代表)が四万十町打井川地区の「佐賀越」の古道調査を実施した。前近代の海と山との交易を調査する高知県立歴史民俗資料館の目良裕昭調査員の提案により、現地での聞き取り調査を第1弾として行った。そのレポートは『地域資料叢書18 続・土佐の地名を歩く―高知県地域史研究論集Ⅰ―』(2019年)に掲載しているが詳細内容はホームページ「四万十町地名辞典」(https://www.shimanto-chimei.com/ )を参照していただきたい。ここには目良裕昭、楠瀬慶太の両名から「山村・峠を歩く」というテーマで2本の論考を寄せている。
目良裕昭「土佐上山氏の支配領域とその構造」は、史料が少なく研究の進んでいない中世の上山郷の領主の支配形態を『長宗我部地検帳』と「棟札」をもとに検証を加えた意欲作。楠瀬慶太「佐賀越の民俗誌―四万十町奧打井川~黒潮町佐賀間の古道を歩く」は、時代の変化とともに忘れられつつある古道の交通・流通の歴史を地元の古老とともに現地を歩きながら聞き取り調査を進めたフィールドワークの演習作である。楠瀬は「佐賀越は伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“軍事の道”、“信仰の道”でもある」と述べ、「佐賀越の古道(峠道)を介して山村―農村―海村―都市がつながる“海山経済圏”とも言える経済流通圏が機能していたことが想定できる」と経済史的視点で交通網が整備されていない社会においての“峠道”の役割を検証したものである。
今回は第2弾として、上山郷の熊野神社(四万十町大正字ウログチ上鎮座)から佐賀越の古道をとおり伊与喜郷(黒潮町佐賀・熊野浦)へ向かう「潮汲みの祭事の道」を歩いてみた。年に一度のこの行事は上山郷の熊野神社が秋の例祭(11月12日)に行われる。片道35km余りのみちのりを歩き「地名」をなぞりながら当時の景観を復元しようとするものである。
2、清浄人
上山郷の熊野神社では、夏と秋の大祭のときに神事に仕え祭事の準備をする人を「清浄人(しょうじゅうど)」という。六根清浄の「清浄」をうけた者が祭事に従事するといった意味と思われる。大祭の前にはかならず宮司による「禊祓(みそぎはらい)」の儀式があり、清浄人を清める行為から祭事の準備が始められる。現在の清浄人は門脇広明(大正大奈路)と沖俊憲(大正北ノ川)の2人で、その役割は、潮汲みに備えて竹筒を設え、大注連縄を綯い、餅を搗き、神前の供え物を揃え、牛鬼や神輿の飾りつけをし、霜月晦日の正月飾りを整えるなど神職ではないが宮司を支える在家の社人といったとこだろう。『南路志』の若一王子宮(香南市香我美町徳王子鎮座)の段に「祭三度ノ神祭、兼日より社人宮籠仕清浄ニ相改、當日卯刻烏喰之御供上申御神楽仕也」(2巻p162)とあり烏喰の儀式に仕える者として「社人宮籠仕清浄ニ相改」と書かれている。また『十和村史』には「星神社の清浄人は四万十川で水垢離をとって祭日3日前から宮に籠り、その仕事は神社の清掃、注連飾りなどであるが、最も重要なのは神饌の調達であり、餅搗きである。従って祭典で神饌に触れることを許されるのも清浄人に限られる」(p1050)と清浄人の役割を述べている。星神社の古式神事には清浄人とともに精進人と呼ばれるものもでてくる。いずれにしても、神職ではない在家の者が禊祓をうけ神社に籠って穢れを断つことによって、神饌等の重要な祭祀に従事することができるとしたものだろう。旧十和村奥大道の天神宮では水行で浄め白装束に袴のいでたちで祭事に仕える清浄人が一人、くじで指名されるという。
山本ひろ子の『変成譜-中世神仏習合の世界』 (講談社学術文庫、2018年)には垢離のための浄水を汲む男として「垢離小男(こりさお)」と呼んでいる。聖なる水を管理して浄祓儀礼の基盤を支え熊野権現に仕える男の神子である。古来より「水」は命そのもので、水を取り扱うものに尊敬の念を込めて呼称されたものであろう。上山郷の熊野神社では、清浄人とも浄汲人とも記録されている。
この潮汲みの路程の途中、奥打井川地区に清浄人が一晩泊まる「塩の宿」がある。今はだれも住んでいないが入口には常夜燈がありその石に「塩ノ宿 郷社熊野神社清浄人(しょうじゅうどう)ノ宿」と刻まれている。「しょうじょうど」が「しょうじゅうど」に音の転訛があったものと思われる。その隣の説明板には「浄汲人の宿 熊野神社の大祭の前日、塩ごり汲みの使いが、打井川を通り、地蔵峠を越えて、佐賀の熊の浦で竹筒に塩水を汲み再び地蔵峠を帰るとき、ふもとの秋田家(常宿)に一泊してその夜は酒肴で大変なもてなしをうけ、翌早朝に熊野神社に帰り奉納した」とまぎらわしく“浄汲人”と書かれている。詳しくは『大正のむかし話』に塩の宿の主人である秋田重保が話者として「清浄人の宿」を語っているので参考にされたい。
清浄人、精進人、浄汲人と色々と呼ばれているが、山本ひろ子の言う「こりさお」と同じく「浄められた潮を汲む人」といったことだろう。ここでは「清浄人」として話を進める。
秋の大祭は11月12日である。清浄人は11月9日に潮汲みのための竹筒を設えるため、直会殿の西側に自生する竹を取り下部に節部を残し20cm位の長さで切り揃え上部にキリで穴をあけ、その穴に棕櫚の葉を縦に裂き葉脈を繊維とした紐を輪にとおしてつくる。事前に作った竹筒は14本である。潮水の竹筒を置く場所は次の13カ所である。『佐賀町農民史』には容器50本とあることから、昔は浄める箇所は多かったのだろう。熊乃屋(山本友明の先祖)は田辺湛増が上陸した際にお供をしていたものとも書かれている。
①熊乃屋の軒下(黒潮町佐賀)
②熊野神社・一の鳥居(右)
③熊野神社・一の鳥居(左)
④熊野神社・直会殿
⑤熊野神社・社務所
⑥熊野神社・御蔵
⑦熊野神社・御札授与所
⑧熊野神社・拝殿入口(右)
⑨熊野神社・拝殿入口(左)
⑩熊野神社・拝殿奥(右)
⑪熊野神社・拝殿奥(左)
⑫熊野神社・本殿(右)
⑬熊野神社・本殿(左)
竹筒の準備が整えば神殿に捧げ、宮司は清浄人を禊払いして、直会となる。
2019年の潮汲みの祭事で清浄人の門脇に同行した。今では軽トラックで移動する潮汲みとなっている。熊野浦での祭事の前に、門脇清浄人は熊野神社の正式の祭事行為ではないが略拝詞とともに般若心経を唱えて潮汲みの儀式を行う。般若心経は神には宝の御経、仏には花の御経、人には祈祷の御経として神仏問わず読み上げられるという。潮のさし初めが過ぎると海に入り、竹筒に海水を入れ磯草で栓をする。13本すべて準備するとひとまとめに束ねる。帰途には、雄松(黒松)・ウラジロ・ユズリハなどを調達し霜月晦日に行われる熊野神社特有の正月行事の仕込みも行った。今では熊乃屋も閉じられて誰もいないが「熊乃屋」と書かれた門灯の横に習わしにより、昨年の竹筒を新しい竹筒一つに取り換える。残りの竹筒を熊野神社にまで運び神前に一旦供えることになる。これが潮汲み祭事に関する清浄人の役目である。
3、潮汲み祭事の道を歩いて
勧請の由来にある800年前、「熊野三千六百峰」と呼ばれる熊野に似た面影をこの上山郷に求めた。潮汲み祭事はその望郷の地に馳せる思いを伝承するために年に一度のルーティンワークとして繰り返されたのではないか。
この潮汲み祭事の道については『地域資料叢書18 続・土佐の地名を歩くー高知県地域史研究論集Ⅰー』で報告したとおり打井川の権現石から塩の宿まで現地を踏査したが夏場のため峠越えを断念した経緯がある。今回はその第2弾として、上山郷の熊野神社から伊与喜郷の熊野浦まで全踏破するものである。途中の集落についてそれぞれ項を立て、大地に刻まれた地名が語る過去の記憶、中世の景観を復元することを試み、また、今回の道程として【道中記】を道草話として記録した。
歩くにあたっては熊野の修験者の装束をまね、白装束・金剛杖・錫杖・珠数を整えた出で立ちで、熊野神社から熊野浦までの道すがら天地草木に祈りをささげ、ひと昔の清浄人の振舞いを思いつつ足を進めた。
▼ 田野々(たのの/ 33.192129,132.971799)
上山郷統治の要となるところが「田野々」で四万十川の最大支流の梼原川との合流点に集落が形成されている。その集落は穿入蛇行による旧河床となったところにあり、還流丘陵となった小高い台地は「亀の森」と呼ばれる。熊野神社の神宮寺も宝亀山長楽寺(本殿の東隣に所在)であり、上山領主の菩提寺である五松寺の山号も萬亀山である。熊野の本宮では、亀は尾から油を出すことから「油戸」と呼ばれ、参拝後の下向に欠かせない牛玉宝印と梛木の葉を頂く特殊な場所を言うそうだ。丁度、熊野神社が鎮座する位置は亀の森の南の端で亀の尾にあたる。そう広くもない田畑が広がるところではあるが、「六月田」「要次田」「門田」「九日田」「池田」「寺田」と多くの田を付す字名がある。『長宗我部地検帳』にも「ワウトシテン(大歳田)」「五月田」のホノギがあり神社の年中行事にあてた神田がたくさんあったことを物語っている。
高知新聞夕刊(2007年9月25日付)の『土佐地名往来』(片岡雅文記者の連載コラム)に田野々が紹介されていた。
「大正町史・資料編には、田野々村は中央に丘陵(森駄場※亀の森)を残し、旧河道跡に平地が開けた地名であり、地名の“たのの”は“たなの”がなまり変わった言葉で、段丘のある開き地に由来するといわれている。」
棚+の(助詞)+野と解釈したのだろうが、「田野々」地名は梼原町田野々、南国市奈路・田野々、徳島県三好市田野々、香川県観音寺市田野々と四国に見受けられるが熊野にも和歌山県古座川町三尾川には古座川に架る田野々橋(田野々集落)があり、熊野市育生町長井にも田野々集落がある。それより不思議なのは「〇野々」の地名をよくみかける。四万十町内には「野々川」や「神野々」、「古味野々」があり、近くには「市野々川(黒潮町)」や「姫野々(津野町)」、「鍵野々(津野町)」、「宮野々(中土佐町)」、「槇野々(中土佐町)」がある。「田」と「野々」と2つに分けてみたら、田でなく「野々」に地名の意味があるのではと考える。近郊の「〇野々」の前にくる「市」や「姫」や「宮」や「槇」も神仏に関連する用語である。『高知県方言辞典』にも「のーのーさん」の項に「【幼】神様・仏様。梼原・中土佐・窪川」とある。楠原佑介・溝手理太郎編『地名用語語源辞典』(1983年)では「巫女に関する地名か。信州では巫女のをノノというこ」とある。巫女研究の第一人者の中山太郎が「信州の北部では巫女をノノーといっているのに反して、南部ではイチイといっているという」(中山太郎『日本巫女史』2012年(p270))というのを引用したのだろう。ノウノウが単なる幼児言葉や方言だけでは説明できない古い言葉のようである。また「タ」の意味であるが『民俗地名語彙辞典』ではタの項で「平の意で、耕作用地の意に用いられる。ヘタ(辺)、ハタ(端)のタ、遠近を表すアナタ、コナタのタがあり、場所を表すタがある」と説明している。
大正地域には、縄文遺跡はあるが弥生遺跡はまだ見つかっていない。農地も少なくその大部分は山林であるが、田野々は河川の合流点として開けた土地。熊野浦から市野々をとおり、上山郷に入ってきたことを熊野神社と関連付けて、「平坦な神領地」と推理する。
【道中記】12月24日冬の朝6時は朝まだき。修験者の装束を真似してきたので出立の儀式として持ってきた『修験道行者諸経要集』の般若心経を読もうと思ったが暗くて読めない。吉野大峰山へ新客として2度行っただけなので暗唱もできない。とりあえず五百五十五円の賽銭を入れ道中安全の祈願をした。境内の防犯カメラが不審者として撮られていたらいけないので田辺宮司への挨拶がてらカメラに一礼をしてスタート。中村まで歩いたことは何度もあるので距離的には何ら問題はなかったが、国土地理院の地形図にある山道を示す破線が頼みの初めての道。それだけが不安である。歩道を歩いたがこの早朝でもさすが国道で車の往来がある。ちょっと恥ずかしいので頭に巻いた白手拭を深く結びなおした。寒いので速足だ。人家のないところでは錫杖を鳴らし金剛杖を大きく振って歩いた。大ジイの瀬音が響く。もうすぐ轟崎である。
(熊野神社/6:13)出発
▼ 轟崎(とどろざき/33.182773,132.971585)
轟(とどろ)は全国に分布する水音からきた地形地名。四万十町でも轟の上(浦越地区)、轟(昭和地区の集落)がある。中村には百笑(どうめき)の難読地名がある。トドの音は十と十で百、どよめき笑う意味だという。大正中津川の成川(なるかわ)や奥打井川の鳴川(なるかわ)もこの類で川が暮らしに寄りそっていることがうかがえる。この轟崎は大字大正(旧田野々)の一部ではあるが『長宗我部地検帳』でもトトロサキ村として枝村の名が記されている。大きく蛇行する1kmも満たない轟崎の流域にこの川一番とも思える瀬里轟や大ジイの二段瀬などがあり10m以上も落差を生むことから命名された「轟崎」地名である。
この瀬里轟の上流にJR予土線のトラス橋がありその鉄骨には「仁井田川橋梁」と書かれている。田野々で梼原川(江戸期の名称は津野山川。当時はこちらが本流であった)を合流した四万十川の名称もいろいろと変遷しているが、仁井田川は昭和の40年代くらいまで使われた名称である。JR予土線(建設中は窪江線と呼ばれた)が全線開通したのは昭和49年(1974)、戦後の渡川電源開発計画に瀬里ダム計画があったため工事が中断し遅れることになった。そんな古い計画であったため当時の公称河川名により仁井田川橋梁と橋名を刻んだのだろう。
『高知県管内地図』のうち大正12年(1923)発行、昭和6年(1931)発行ともに「仁井田川」とある。それ以前の明治27年(1894)発行の『高知県管内全図』では「上山川」と記されている。渡川か四万十川かの論争はあるが、水系の名称は今でも渡川水系であり本流の名称だけ四万十川と変更したことになる。昔から今に至るまで地元の住民同士は「大川」と呼んでいる。
【道中記】国道381号と国道439号が交差するところが轟崎である。ここには道の駅「四万十大正」がある。今ではどこにもあり全国1160駅が登録されているが、その先駆けが道の駅「四万十大正」である。平成5年(1993)4月に第一次分として全国103カ所設置・登録された一つという。JA婦人部が営業していた小さなうどんの店「であいの里」が武内一町長の「新しもん好きの大正」気質故に大化けしたものだ。寒さから早速トイレとなった。「缶ビールを列車の窓に立てて 遠ざかる山を見ながら君のもとに帰る・・」とさとう宗幸が歌う有名なミュージックトイレだ。栃木訛りで朴訥と語る立松和平の作詞である。時刻表を携えて青春18キップを握りしめた貧乏自由気ままな鉄道旅。今やトレンドな旅姿といわれるが歩く旅がもっとトレンド。しんどくても歩くことは修行なのだと自分に言い聞かせる。
(道の駅大正/6:26/1.2km)
地検帳のホノギにも「セリ谷」とある。植物地名のセリが多く採取できる土地を指しているのかもしれない。土佐方言でセリヤイとかセリコセリコするとか体を押し合うさまを「セル」という。狭まった地形地名に「セト」がある。左右両岸ともに通行できないような所をセト・セドというのは関東以西にある地形地名で瀬戸際のセトである。狭まった地形のセル・セトがセリに転化し轟崎境となるこの地を「セリトドロ(瀬里轟)」と呼ぶようになったのではなかろうか。当時の木材の搬送は筏で流すのが主流であった。命がけの仕事である筏師は流材の難所にトドロやセリの地名を刻んできたのだろう。
今村理則は「天竜川の新田と筏」(『地名と風土』10号、2016年)で天竜川流域に刻まれた材木の運搬にかかわる小字を述べ「セリは巨岩に激流があたって渦巻くところをいう」と書いている。
いずれにしても「狭隘な地」をイメージした地名ではあるが、小さな集落にしてはガソリンスタンドもあり、四万十森林組合の集成材工場もある。
【道中記】瀬里轟周辺の景観が一番好きだ。国道の対岸にはリバーパーク轟というキャンプ場がある。利用客が少ないから一人キャンプには絶好のロケーションである。入口で500円を箱に入れる良心市方式の無人施設であるが、トイレも炊事棟も整備されている。見える範囲に人家はないが、瀬里轟の瀑音と時折鉄橋をわたる列車のガタゴトが寂しさを吹き飛ばす。秋には川面のむこうに紅葉が映え、なかでも台湾フーが林立する黄葉も圧巻だ。春の桜並木と桜マラソンも撮影ポイントだ。川霧の中を窪川発6時22分の一番列車がとおる。川奥信号所から江川崎までの鉄路は高規格路線で四万十川沿いを走る鉄っちゃん人気の路線だが、営業係数は1159と四国では最も悪い。昨年は竹の子が列車を止めたとYouTubeで人気となった。川向の鉄路を走る音がここちよい歩くリズムを刻んでくれる。
(瀬里橋/6:44/2.9km)
▼ 四手ノ川(しでのかわ/33.183357,132.990618)
今は希ノ川という。平成の合併による四万十町の発足に合わせ、四手ノ川地区の総意で、地区の名称を希ノ川に改めることとなった。
ひとつには、隣の十和村が「昭和の合併」時、大字名称の「四手」を「昭和」に改めたように、シデの音が死出(死んであの世へ行く)に通じることから忌み嫌ったのだろう。大字名称は変わったが四手峠や四手崎の地名は残っている。当地に流れる四手ノ川川の河川名称も残っている。四万十川に架る橋の橋名板にも四手ノ川橋と刻まれている。この「シデ」の音のある地名は全国にあり、当町にも五社さん(高岡神社)が鎮座する仕出原(しではら)がある。
「四手ノ川」の地名の由来は、二つに谷が分かれる地形が御幣に挟む紙垂(四手)に似ているか、シデの木が群生していた土地であったことによるかと思っていた。窪川の五社さんが鎮座する仕出原の「仕出」は「紙垂(しで)」を由来とするという。『高知県方言辞典』には「シデ:神儀の四手(垂)。しめなわ、または玉串などにつけて垂らす紙をいう。」とある。また幡多の方言で「つちを叩き固めるヘの字型の木の棒」をシデとも書いてある。シデ(四手・椣)の木はカバノキ科クマシデ属の総称で落葉広葉樹。この木の花が紙垂に似ていることから和名となった。四手ノ川川流域をGoogleEarthで俯瞰すれば、地形が御幣に挟む紙垂(四手)に似ていると実感する。
四万十町広報誌『四万十町通信』67号は「集落を千手観音の手のように幾筋もの谷が流れていることから“四方に千手=四手ノ川”と言ったのだろう」と書かれている。中世にこのような合名手法があったとは思えないが、いずれにしても上山郷はどの谷筋も「千手観音」のようであり、シデの木の由来にしても地形地名であることは確かなようだ。
戦国末期の『長宗我部地検帳』にも残る歴史のある四手ノ川の地名を希ノ川に改めた理由は判然としないが、高知新聞連載コラム『土佐地名往来』No614では「その(四手ノ川)古来の地名をあえて捨てたのは、地元の人たちの意思。若い人にも帰ってきてもらいたい。そんな希望の持てる集落に」と地元の声を載せ「切実な願いのこもった地名」として「希ノ川」を好意的に紹介している。営々とそこに暮らし使ってきた400年を超える歴史ある地名を今風の希望に託した思いが大規模風力発電の建設となるのだけは勘弁願いたい。
【道中記】四万十川の特徴である穿入蛇行の流れもここらあたりは真っすぐで桜並木も来春の桜マラソンを待ちわびている。四手ノ川橋を渡ると木樽の側の部材をつくる味元製材があり、四手ノ川に進むと柚オイルやヒノキオイルを抽出するエコロギー四万十の工場がある。この側部材をつくる工場は日本に二か所しかないというし、オイルの抽出にしてもニッチな産業分野である。阪本順治監督の第2作目の映画『鉄拳』の舞台となったのが四手ノ川。町有林の中にリングのセットを作っていたが今もあるだろうか。
(四手ノ川橋/6:53/3.6km)
▼ 下岡(しもおか/33.182675,133.00375)
『四万十町史・資料編』には「仁井田川に北からの下岡川が合流する右岸の山間地域で上山郷上分の一村。下岡の地名は下流にある河岸段丘の意といわれる」(p43)とある。隣の上岡地区と対となる地名だ。
その「岡」だが、「丘」に遅れてやっと平成29年度(2019)から常用漢字となったという。『字源辞典・字統』によると『丘』は象形文字で「土の高きものなり。人の為る所に非ざるなり。四方高く、中央下きを丘となす」とあり、墳丘の象形である丘は丘墳に関する語が多いとある。かたや『岡』は会意(文字の複合)で网に火を加えて、高熱で焼成するものを岡といい、赤土色の焼き固められた鋳型というのが原義とある。上岡川の上流域の番上(ばんじょう)に坑道跡がある。戦前アンチモン鉱山であったという。中世以前にも何らかの鉱山があり溶融する「岡」があったと想起する。ちなみに下岡の産土神は金津風呂神社(かなつぶろじんじゃ)で、祭神は金山彦命である。イザナミの嘔吐物が化身した神で、鉄や銅を溶かした状態が似ていることから鍛冶・鉄鋼の神として「金山彦命」として祀られる。「津」は処、「風呂」は洞(坑道)が転訛したものではないか。
また、田野々の産土神は河内神社で潮汲みのルート沿いの轟崎、瀬里、上岡、口打井川、奥打井川と沿道すべての産土神は河内神社である。『長宗我部地検帳』には下岡村とあるがそれ以前は上岡と下岡は一つの村で何らかの事情により分村され新たに産土神を祭ることになったと推考する。
【道中記】下岡に近づくと最初に下岡の産土神が国道沿い鎮座する。金津風呂神社である。『高知県土佐国神社明細帳』(以下『神社明細帳』)に記載されている5624社に風呂の字を付す神社はここだけだ。少し足を進めると自然酵母のパン屋さん「麦の穂」がある。パン屋と豆腐屋は朝の代名詞だ。明かりは灯っているが開店はまだで昼飯の思いが叶わなかった。
(7:07/5.0km)
▼ 上岡(かみおか/33.181364,133.01156)
上岡の「岡」は下岡と同じように、地形用語としては陸の意味ではある。地面が高くて水のあたりが悪い所をいう地方もある。
『民俗地名語彙辞典』には、岡に傍すじの意味があるとして「岡場所(非公認の遊郭)」、「岡目八目(第三者の対戦者」)、「岡っ引き(同心の個人関係。非公式な捜査機関)」の例を示し「岡」は、「脇」「外」を表す言葉であると述べている。また、新潟県では鉱山仕事のシキに対する語として「岡仕事」といえば鉱外労働のことを指すという。上岡のアンチモン鉱山といい、下岡の金津風呂神社といい、何やら鉱山の匂いのする「岡」である。
『大正町史』では「上流にある河岸段丘」と上岡の地名由来を字づらのみで説明する。
【道中記】上岡は祖母の出里。家は対岸にあり沈下橋を渡って行ったことがある。その沈下橋の正式な名称は「向山沈下橋」だが誰もが上岡沈下橋という。上岡集落は中組・奥組・向山の三班に分かれているが四万十川の対岸(左岸)の班が向山である。この沈下橋はアールヌーボー調の洗練されたデザインと機能性が特徴で沈下橋でも最高位と思っている。設計者は役場職員の武内敏博と聞いたことがある。NHK「にっぽん縦断こころ旅」にも登場した沈下橋だ。橋の命名もいい。昨今「なかよし橋」だの「鮎おどり橋」などおチャラケた命名(命名者は真剣だろうが)が気になる。昔は橋が架かることにより利便を享受する地域の側に立った命名であった。上岡沈下橋でなく向山沈下橋。相手の立場に立った思いやりの橋名である。
(7:18/5.9km)
▼ 口打井川(くちうついがわ/33.176631,133.031044)
『長宗我部地検帳』には「宇津井川村」とある。『土佐州郡誌』は「打井川村」となり『南路志』では先祖返りして「宇津井川村」となっている。集落の中央を打井川(全長約8.5km)が北西に流れ四万十川に合流する。この合流点の集落が口打井川であり、そこに鎮座する産土の神が河内神社である。打井川には2つの河内神社があり、口打井川宮ノ脇鎮座の河内神社は「打井川村ノ産土神ニテ元ト河内大明神。旧社格村社」とあり、奥打井川宮ノ奈路鎮座の河内神社は「打井川村ノ内奥分部落産土神ト尊祭シ元ト河内大明神。旧社格無各社」と『神社明細帳』に記している。大字名は打井川であるが、現在の行政区は口打井川・中打井川・奥打井川の3つの集落に分れている。寛政六甲寅年(1794)の棟札によると口宇津井川村と記してあることから、明治以前は口(下分)と奥(奥分)の2つに分けていたようである。
歩き始めた田野々の産土神が河内神社で、潮汲みの古道に沿いに河内神社が轟崎、瀬里、上岡、打井川と鎮座する。佐賀越を下った市野々も河内神社が産土の神である。気になって『神社明細帳』の河内系神社を調べると、記録された河内神社、川内神社、川之内神社、八社川内神社、八所河内神社、六社川内神社、川内八所神社、河内五社神社、惣河内神社の神社名が合計で136社みられる。鎮座地で県内分布をみると、郡域(市は旧郡域に含む)では安芸郡10社、香美郡1社、長岡郡3社、土佐郡29社、吾川郡14社、高岡郡40社、幡多郡39社と西高東低となる。流域では、四万十川流域73社、吉野川流域19社、仁淀川流域17社、鏡川流域12社、伊与木川流域5社と圧倒的に四万十川流域が多くなる。市町村別では、四万十町42社(窪川16・大正13・十和13)、土佐町14社、高知市12社、津野町10社、いの町9社となる。
『十和村史』の考古編は岡本健児が「河内神社考」の章を立て、十和村の河内神社13社について述べるとともに県内の分布について南路志を使って述べている。岡本は「古代における河神・水神信仰は、中世ないしそれ以前において、下流では木船・神母信仰に、上流の河谷平野では河内信仰に変化するのでないかと考える」(p123)と高知県の神道考古学の第一人者として論考を進めている。
潮汲みの古道に沿う河内神社は、四万十川中流域とともに伊与喜郷(黒潮町佐賀地域)の伊与木川流域にも分布する。このことは岡本のいう「河の神を祭る原始神道の流れ」とともに古代から佐賀越の往来の証左でもあると考える。
この地区名の「打井川」であるが、打井川地区には一軒もない「打井」の姓が、潮汲みの古道の地蔵峠(佐賀越)を越える市野々地区には数件ある。苗字の90%は地名から名づけられると言われる。多賀一造編『大正のむかし話』の「打井川の始まり」(p148)に詳しく書かれている。江戸期の墓をみると「宇津井」から「討井」に変わり、明治になって今の「打井」になったとある。現在、打井川には打井や宇津井の姓はないとある。
それでは「打井」とは何か。高知新聞連載コラム『土佐地名往来』No293では打井川の由来について地形を表す語“うつ”にあるとして「険しい山々に挟まれた凹状の地形を“うつ”と言い、そのあいだを流れる川を“うついがわ”と呼んだ。」と打井川の由来を紹介している。「奥深い谷川」をウツというなら、土佐の山間はウツだらけになってしまう。また、「ウツ」の地形地名の説明はあるが、「イ」の説明がされていないのが不自然でもある。『民俗地名語彙辞典』はイの説明にとして「②たんにイを表わす表音文字として使われる。向の向井、境の坂井、酒井になるのもこの例」とある。その解釈からウツだけの説明となったのかもしれない。ただ、イは水利用の地名として大地に刻まれている大切な言葉。水は日常の暮らしと水田にとって必須であり、その利用が地名として命名され、新田開発と灌漑技術の向上とともに地名も変化してきた。イは井であり、泉、井戸、用水溝、水路、井堰のことで新井・井の頭・井上・井関の地名がある。ウツとイを合わせて解釈してみたがどうもうまくまとまらないので次の機会とする。
【道中記】上岡を過ぎて上宮の大曲までの2kmの国道381号沿いは、四万十川の特徴的な穿入蛇行の景観から一変する直線である。強い風が通り抜けるだけでなく車も高速道路並みに突っ走る。四万十川を渡るとそこはJR打井川駅で、近くに大きな看板「海洋堂ホビー館」がある。キャッチコピーが「へんぴなミュージアム」と自虐的ではあるが、館のなかに入ればカタロニア船がお客を迎えてくれる。有名造形師たちの恐竜から美少女まで展示される世界的なフィギアメーカー海洋堂の軌跡とコレクションのミュージアムである。駅から歩いて1時間。のんびり歩くのも四万十時間だ。
(打井川橋/7:44/7.9km)
▼ 中・奥打井川(おくうついがわ/33.152957,133.045431)
奥打井川は名のとおり、奥深く狭い谷川をこれでもかというくらい入っていかなければならない。その谷筋に人家が点在する。地域の姓の多くは「秋田」で、そのためか家ごとに屋号が残っていて今でも使われるという。奥打井川集落の下流域から屋号を並べてみると「シタコバタ」「ウエコバタ」「キョウデン」「ナカヤシキ」「テランコイ」「下ボリ」「中ボリ」「上ボリ」「ヤカ」「ナラシ」「ドンガ」「ヒクガク」「カンダバ」「シンヤ」「イヌダバ」「アバタ」「マツバガバ」「ウマハタ」「シンタク」「オタカヘヤ」と呪文を唱えているようだ。
打井川の字名に「コウゲ」や「シガキ」がある。『綜合日本民俗語彙』によると「コウゲ 四国の愛媛から中国地方に広く使われる語彙。多くは短い草の生えた土地で、水田はもとより畑にも開き難い所。それ故にしばしば芝の字が宛てられている」とある。シガキについては「猟をするとき身を隠す場所。鹿や猪のよく通る道筋で待ち構えるのに都合のいいところ」の意味で、山口、福岡、長崎、鹿児島、高知など西日本の地名と『民俗地名語彙辞典』は説明する。狭隘な土地に田畑は少なく、焼畑や狩猟が生活を支える重要な産業であったことだろう。戦後の南米移住では村の助役がパラグアイ開拓団の団長になり多くの打井川の次男三男が参加した。旧大正町にはこの南米開拓団の史資料が大切に保存されている。
中打井川の集落を過ぎ、「そうざき半島」の橋を渡る手前にかっぱ館< http://ksmv.jp/kappakan/ >があり、奥打井川には旧打井川小学校体育館を活用したホビー館< http://ksmv.jp/hobbykan/ >がある。海洋堂の創設者・宮脇修氏の斬新なアイデアと行動力をエネルギーにして人から人へと「自然パーク構想」を広布して、へんぴなこの地に2つのミュージアムを創り上げた。
かっぱ館の谷を奥に進めば「馬之助神社」がある。ホビー館を奥に進めば「道文神社」がある。
【道中記】奥打井川のホビー館にむけて、県道の改良が進む。なかでも、かっぱ館を見下ろしながら、2度連続して潜入蛇行する打井川に橋が2つ架る。数年前までは「そうざき半島」とよばれる農家民宿があった。橋の上から眺めるとこれが「半島」と呼ばれる所以かとわかる。メルヘンチックなかっぱ館の景観とその谷奥にある「馬之助神社」。この2つを訪ねれば妖気漂う土地の気を感じることができる。ここから、20分歩けばホビー館となる。開館時刻にはまだ時間があるので「たにんごや」という休憩所で自販機のホットココアを飲みながら一服した。遠くでチェンソーの音がする。ここから「鳥打場越え」にむかう県道の分かれとなる大平橋、少し行って「権現様の休み石」まで20分程度だ。「大平橋」の手前に潜入蛇行する内側の丘に17歳の特攻隊員として戦死した山脇林の墓がある。彼と同じ特攻隊であり同級生でもあった私の父からよく話を聞かされた。彼の兄が山脇敏麿で大正村の助役としてパラグアイ開拓団の団長となった人である。詳しくは大西正祐『17歳の特攻隊員』を読んでいただきたい。僻村の宿命は「棄民」なのか、満蒙開拓団、南米移住、ダム開発計画と幾度も故郷を捨てろという国策に踊らされた。「自由は土佐の山間より出づ」というがそんなキラキラしたものはこの深い谷間には遠い世界のように思える。明治維新も戦後の復興も兵站基地のように支えたものは貧しい田舎の若者である。いつものとおり小高い丘の墓に手を合わせ、山脇林を偲び合掌。
(ホビー館/9:20/15.0km)
▼ 塩の宿(しおのやど/33.134991,133.067071)
塩の生産地と内陸奥地へとつなぐ交易道は全国にいくつもある。高知県では赤岡の塩田と物部の塩峯公士方神社までを結ぶ「土佐塩の道」は整備されて歩きやすい。塩のみならず海と山の生活物資が行き交う道は昔の往還道である。片道30kmを超える道ではあるが、道のパンフレットもあり、沿線には表示板もあるから迷うことはない。駄賃馬の道でもあることから無理な勾配も少なく、常夜燈や見渡し地蔵や丁塚など昔の往来を感じる地物が今もある。
田野々から佐賀へむかう塩の道は、清浄人が潮汲み祭事に往来する潮の道でもある。この塩の宿は往還道を行き交う人の宿ではなく、清浄人が接待を受ける宿である。今は住む人もいなくて少し荒れてきているが、当日は幟も立てて迎えたという。最後に泊った清浄人は下岡の武政利夫さんだったということだが、遠い昔のことである。
【道中記】大平橋を過ぎると「権現の休石」がある。田那部旦増(熊野別当田辺湛増)が上山郷に入る際、3つの組に分かれてひそかに潜入したという伝承がある。その主たるものがこの打井川越で旅の途中この休み石で休憩したのであろう。「権現様の休石」と名付けられているが旅人が休む場所は峠とか坂の始まりとかで、一服して次に備えるところである。大概、水場があり先の道が見通せる景色のいいところが「休場」となり、地名として刻まれる場合が多い。往来地名には休場のほか、「越(こえ・こし)」、「串(くし)」、「遅越」、「登尾」、「折付」、「渡り上り」、「傍示」「鍵掛」「山口」などが各地に見える。この「塩の宿」のあるところは「下ダバ」、上隣りが「馬ダバ」で下隣りが「栗ダバ」、向いが「松ガダバ」と南予から高知県西部に多い「ダバ」地名である。栗焼酎「ダバダ火振」もこれをヒントにして名付けられた。ここまでの道中、奥打井川の秋田八重子さん(屋号ナラシ)に話を伺った。「田那部旦増が上山郷に入るときお供したものが武内七郎。その末裔となる家が私の実家である田野々の武内で、先祖書もあります。3軒とも先祖書があり、うち一つの武内も塩の宿近くに嫁に来ている。熊野さんの不思議な縁です」とのこと。この「塩の宿」から地蔵峠への登り付きとなる。その字名も「佐賀道」とある。
(9:40/16.6km)
▼ 地蔵峠(じぞうとうげ/33.133463,133.074753)
「峠」は不思議な世界である。
風が変わり、景色が変わる「向こうの世界」がここから始まる。
古来から往来の障壁となるのは大川であり高山である。その高山を越えるためには坂を登らなければならないが、なるべく高度差のない山の鞍部を目指すのが一番である。そこが峠であり、その多くが隣の村との境界にもなっている。ときには分水嶺にもなる「別の世界」の始まりでもある。
村人にとっては、罪人や役人を引き継ぐ場所であり、あの世とこの世を結界する祈りの場、災いを止める所でもある。村境として関札も置かれた。十和では大草鞋を置く。
旅人にとっては峠には往来の安全を祈る石や地蔵があり、疲れを癒す湧き水があり茶屋がある。古くは、市もある賑わいの場、風葬をおこなう葬制の場、獣往来の狩猟の場。脱藩の道となる新天地への決意の場・・・などなど「峠」は、なんでもありの「ワンダーランド(おとぎの世界)」である。
この「峠」について服部英雄『峠の歴史学』(朝日選書、2007年)は「数々の峠を結ぶ“道・みち”。人が動き、ものが動く。「道」なくして人々の暮らしも成り立たず、歴史もあり得ない」と延べ、「道」と「峠」を通して歴史の群像を問うている。服部は同書で①通行者のために道を守る側の視点②牛馬の目線の2つの視点でとらえ、峠と古道について、物資交流の道、信仰の道、軍事の道とに分けて各地を案内し探訪へといざなっている。
【道中記】塩の宿から右手に三宝荒神の小高い丘をみながら谷筋の作業道を山に入る。地名では「登尾」が多いが、これから山越えの始まりとなる。林道を少し進むと谷越えとなるところが、山道への入口となる。つづら折れの道を15分くらい登ると名もない峠となる。本当の地蔵峠はその南側であるが、市野々へ降り付くにはここからの尾根筋沿いの道が整備され、国土地理院の地形図にも記載されており迷うことはない。地蔵峠から佐賀への道は作業道が抜かれているため歩く道は寸断され戸惑うし、作業道を歩けば伊与喜川への道となり遠回りとなる。この地蔵峠だが昔話にもでてくる「しゅむか地蔵」もあり、凱旋門もあったという。凱旋門というより歓送門で明治37年というからロシア出兵だろう。旧大正町では5本の歓送門がつくられ、その一つは北ノ川小学校の門柱として今も利用しているので見れば形が分かる。ここから佐賀港も見えるはずだか今は木が繁り眺望はない。
(郷境/10:10/17.5km)
▼ 市野々(いちのの/33.123010,133.100036)
「イチ」地名について、筒井功『日本の地名』(河出書房新社、2011年)では「イチ(漢字は、ほとんどが市か一)の付く地名は各地におびただしくある。なぜ、こんない多いかが、まず謎である。(略)市ノ瀬は代表的なイチ地名の一つで、各地にざらに見られる。大部分は深い山中に位置して、市場とのかかわりは想定しにくい。かといって、いくつかある瀬のうちの何番目という意味でもない。(略)イチの語はおそらく“神をあがめる”の意の“斎(いつ)く”のイツと語源を同じくしているのではないか。(略)東北地方で口寄せを業とするイタコ(コは人といったほどの意)、戦前まで各地で見られた祈祷者のイチコ(略)などもみな一種のイチである」(p173~)と、巫女の一形態である土佐の「佾(いつ)」とイチ地名の関係性を述べている。
筒井の別書『葬儀の民俗学』(河出書房新社、2010年)では「16世紀の末ごろイチと呼ばれる一種の宗教者が住んでいた。(略)16世紀末ごろの土佐に、どれくらいの佾がいたのだろうか。領主から給地を与えられていた者については、『長宗我部地検帳』を丹念に繰っていけば、その数は計算できる。(略)おそらく数百人ほどであったろう」と書き、イチの語義を「神と人をつなぐ人のことである」とし「市ノ瀬など各地におびただしい“イチ”の付く地名も多くはおそらく“イチの場”すなわち祭場に由来」(p168)と述べている。民俗研究の一方の雄である中山太郎は『日本巫女史』で佾(いつ)について一箇所のみ「土佐で多くの社に佾と云う者が居るのも、亦是で(中山曰。巫女の意)であろう。其住所を佾屋敷と云ひ、或は男の神主を佾太夫などとも云ふ」(p34)と諸神社録を引用して述べている。
イチの役割について福島義之が『土佐の祭りと文化』(文芸社、2004年)で、「神幸の御案内」(p149)役として、神歌を歌うほかに、巫女たちの礼儀作法と身の回りの世話だという。平成15年の佐喜浜八幡宮の御神幸(なおばれ)の記録としてイチについて書かれている。この時の神歌は福田徳代さんの歌うカッセトテープに録音された音源によるものだという。福田さんは昭和46年に亡くなった最後のイチである。今に伝わるイチの話であるが、神歌を司る子神子の顔に化粧をする「イチ」には「化粧田として田地一反」が給されるという。地検帳にみられる県下の「佾給」の田の面積をみてみると、一反に満たないものが多い。
『長宗我部地検帳』の刊本の一部には佾(イツ)でなく傊と誤植したものもある。また、ホノギに「イチヤシキ 佾ゐ」とあることから、当時はイツがイチに転訛し呼ばれていたものと考えるが、どちらが正解であるかは不明である。刊本全部をみてみたが「佾ヤシキ」「イチノミコやしき」といったホノギや「佾給」「惣佾」「権佾給」「一宮佾給」「八幡佾給」などの給地が県下100カ所近くみられる。
高知県下に市野々が2つあり、そのふたつとも付近に市野瀬の地名もあわせもつ不思議な関係にある。黒潮町市野瀬は四万十町と黒潮町の境に座する修験の山・五在所ノ峯の南麓にあたる集落で、いっぽうの土佐清水市下ノ加江の市野瀬集落は土佐の延喜式社・二十二座のひとつ・伊豆田神社のふもとにある集落である。この市野瀬川の少し下流の支流が市野々川で、2つの地形図を見比べてみると不思議さがよくわかる。中世以来の地名であり、巫女の一形態である土佐の「佾(いつ)」との関連性をにおわす地名である。またこの「イチ・ノノ」のノノについては、先述の「田野々」のノノと同じである。
もう一つの不思議な縁に、上山郷の熊野神社には「湛増の大蛇退治」の昔ばなしがある。湛増の姫が大蛇に連れ去られ、その大蛇を菖ぶ作の神剣で退治した話。その伝説の地である権現下の洞穴ウログチには社宝である大蛇の角の一部を分かち祀った大蛇塚の碑がある。この昔ばなしには続きがある。姿が鱗のある蛇体となった姫は、伊与喜郷の市野瀬にあるアサナベトドロの渕に身を投げ白蛇となって住んでいるという。
もっと不思議なのは、熊野那智大社のお膝元の集落が市野々であることだ。
【道中記】地蔵峠から尾根道を降り付く途中に開墾された石垣のあとがみえる。山中の平坦地まで生産の手を伸ばすご先祖様は偉いと感心する。今は猪の格好のえさ場であり汢場となっている。ここからは里も近いと暗示するように道も急坂となりつづら折れから獣道との区別が分からなくなる。少し迷ったがそのまま藪こきしたら舗装の道にでた。ここが市野々の上流域だ。ほっとしたまま足を進めると人家がぽつりぽつりとみえてくる。道端の墓には「打井」と刻まれている。河内神社前で人に出くわしたので「打井川から来るには伊与喜川と市野々川とどちらがいいか」と尋ねたら、この道(市野々)がいいとのことだった。「わたしらあも若いころは道文さん(奥打井川に鎮座する道文神社)へお参りに行ったもんじゃ」と語った。
(11:20/20.8km)
▼ 不破原(ふばはら/33.108789,133.102262)
『長宗我部地検帳』に「符場原村」とでてくる。『角川日本地名大辞典』は「はばら(小石まじりの地質)」「ふばら」「ふば(封端)」「はらい(禊を行う場所)」の転訛としつつ、“付場”であれば川舟や筏の付場を意味するという。また18世紀後半の谷真潮の『西浦廻見日記』にある「座頭を送る労役“フ(夫)の賃八銭”ハ(八)を支払う“ハラ(払う)”ことが村名」と村老のいうことも引用している。徳弘勝も『土佐の地名』(1984年)で、この谷真潮の説を引用している。岡村憲治は『西南の地名』(1981年)で角川日本地名大辞典の“はばら”の転訛の説により石地の原野と説明する。
吉田茂樹の『日本地名語源辞典』(新人物往来社、1981年)にはフワ(不破)について「美濃国不破郡がみえ、関ヶ原町周辺の古名で、上古に不破の関が置かれた所。“フハ(封端)”」の意で、東国に向かう端の地を封ずる関のあることを示す地名」と述べる。四万十市の不破は四万十川以西への遠流となる端であり、ここ不破原はもうすぐ高岡郡の境となる東の端に位置する。
地形図を読んでも穿入蛇行する川筋は谷真潮が述べるように険難な道であるとともに幡多と別れ高岡へ向かう東端の首根っこにあたる。ここは「封端(フハ)」と理解したい。
【道中記】市野々川は何も悪いことをしているわけではないが、市野々川地区に佐賀発電所があるのでここを通ると心がざわつく。1989年「津賀ダム撤去運動」、98年から2001年にかけての「家地川ダム撤去運動」と2度のダム撤去運動があった。その系譜を話せば長くなるので地物の命名についてだけ書くことにする。四国電力に照会したのは「ダム湖に沈む集落名をダム(堰提)に刻まないで、導水路の先にある発電所の所在する地名をダム(堰提)の名称とするのか」ということである。四国電力の正式な名称は津賀ダムであり佐賀堰堤であるが、ダム所在の住民は古味野々ダムであり、家地川ダムである。モノの命名については愛情のある命名法をルール化していただきたい。この発電所を過ぎるとすぐに国道56号線に出合う。ここが不破原だ。出合から一つカーブを曲がれば伊与喜となる。
(11:47/22.6km)
▼ 熊居(くまい/33.102228,133.098904)
伊与喜郷の熊野神社が鎮座するところが熊井である。江戸時代の『南路志』に「夫れ(熊野浦)より西の方五十町はかりに鎮座なし奉る、故に其所をさして熊居村と云」(三巻p349)と熊井の地名由来を示している。それ以前の『長宗我部地検帳』には「熊井村」とある。熊居は熊野別当湛増が居を構え熊野神社を勧請したと言いたいのだろうが名づけに無理がある。桂井和雄は高知市の久万、春野町弘岡下の久万、中土佐町大野見の久万秋などを挙げ川沿いの平地の称としている。また、片岡雅文は『土佐地名往来』で南路志や地元の伝承を紹介し「熊野の神の居ますところ」と呼ばれそれが転じて熊井となったと説明する。
熊野のクマ(隈)は、奥まった所、辺鄙な所の意味の他、クマ(曲)の意味する河川の湾曲部分も考えられる。地形図で見れば一目瞭然、伊与木川が熊井で大きく屈曲していることがよくわかる。もう一つ考えられるのが「供米田(くまいでん)」である。中世、神仏にお供えするための米を耕作する田である。仏供田が寺院で、神田が神社の儀式等の費用に充てる米耕作ならば、供米田は神仏習合の熊野神社に充てる田なのかもしれない。
グーグルマップで「熊居」を検索すると、新潟県阿賀野市熊居新田がヒットした。この大字は新潟平野の東南に位置する35haの開発新田が広がり中央に熊野社が鎮座しその周辺だけに人家がまとまる。この景観は、この地の熊井の由来に似ている。また和歌山県有田川町熊井もあるが、『角川日本地名大辞典』をみても熊野神社とは関係がないようだ。
【道中記】不破原から伊与木川に沿って伊与喜に向かう。ややこしいことに、地名は「伊与喜」、住民の姓は「伊与木」で、村名は「伊与木」、郷名は「伊与喜」、大字名は「伊与喜」となる。川は本流が「伊与木川」で小谷の「伊与喜川」がここで合流する。小学校やJR駅は「伊与喜」となっている。伊与喜駅の西側に流れる伊与木川に架かる橋は「伊与喜橋」と複雑でどう読んでもイイヨである。そうこうすると、熊井の熊野神社下に辿りつく。神社は何度も来たので下から手を合わせる。前回、佐賀越の古道調査に来たときに鍛冶屋跡を訪ねた。熊井から遍路道でもある熊井トンネルを抜けようと思ったら工事中のため通行不可とある。予定の昼食は道の駅「なぶら土佐佐賀」の塩タタキと決めていたが藤縄まわりで先延ばしとなった。上分の白石集落に来ると高速道路の工事で美田の半分も埋まっている。中角集落の中を真っすぐ通り抜けると道の駅だ。30分の昼食休憩を取る。
(道の駅/13:07/25.8km)
▼ 佐賀・熊乃屋(さが・くまのや/33.079429,133.104215)
『佐賀町農民史』(1983年)に慶長2年(1597)と昭和57年(1982)の佐賀(下分・町分・浜分)の地図が掲載されている。慶長の地図と地検帳によると仲野々村のカチワラというホノギに弘瀬源左衛門(同書の地図番号26)が住んでいた。昭和57年の地図に合わせてみると熊乃屋旅館がそこにあたるようだ。仲野々村(61戸)、明神浜村(30戸)、安森村(9戸)、大和田村(2戸)と村名が示され、柳原、堂免、横枕、大町、弓場の本、上灘村の地名も見える。
熊乃屋旅館は、清浄人が潮汲みの祭事で立ち寄るところである。旅館は閉ざされているが今でも潮汲みした竹筒を旅館の軒先に吊るしている。熊乃屋を営んでいたのが山本友明さんで、その先祖が田辺湛増にお供してきたという。熊乃屋はその昔錦屋と称して庄屋や逓送の仕事をしていたと思われると佐賀町農民史には記してある。清浄人は熊乃屋で一泊して御接待を受け、帰路に着いたとのことだ。その返礼なのか、秋の祭礼には熊乃屋まで迎えが来ていたとのことだが、今はもうない。
【道中記】3度目の熊乃屋となった。国道が開通するまでは、この熊乃屋の前の通りが中心的な商店街であったことをうかがわせる古い看板が並ぶ。今回は歩いての訪問だから、街角のおばさんの会話や昼時の料理の匂いも五感で知ることができる。海のない大正の人は佐賀が一番近い海。小学校の遠足は必ず佐賀の海岸へとなった。砂浜で遊び、先生は遠くの海を指し「地球は丸いろうが」と気張って説明してくれた。家族でニナを獲りにきたのも佐賀の海岸だ。港に向けて足を進めると海の荒い匂いがだんだんと増してくる。熊乃屋の近くに枡耕の魚屋があるからだ。佐賀を通るときには必ず寄って魚やカツオのたたきを買ったものだった。向いの郵便局はここがかつて街の中心であったことを主張している。この先の交差点にあるガソリンスタンドを過ぎると住宅街とお店が混在する新しい町となる。漁師町の狭い山際のへりをつづら折れに路地を進むと「会所」の表示があった。碁会所のイメージから推理すると身分に関係なく何かを楽しむ空間のように思えるし、路地裏の井戸端会議の周りで子どものはしゃぐ声がする広場にも思える。地区・部落という村落共同体を常会ということから常会の集まる所=会所で、いまの集会所を指すものかもしれない。ただ、会所という姓も佐賀にはあるということで集会所だけでは説明がつかない。この先の切り通しは「野田の坂」。昔、大津波が押し寄せたとき野田不動尊の前でピタッと止まったという。ノタクルは猪などの動物が田畑を荒らしてめちゃくちゃにする様子をいう。ノタは大津波の記憶を刻んだ地名かもしれない。そう考えながら右手に墓を見ながら切り通しを抜けると海となる。白砂が広がり鹿島も見える。
(熊乃屋/13:20/26.8km)
▼ 熊野浦(くまのうら/33.100496,133.142667)
『民俗地名語彙辞典』はクマについて、水の曲流している地形(曲)、水に臨んだ丘陵の端。中国以西では久万または隈と書く。対馬では山麓から峰へ続く高み(稜線)をいうと述べ山岳重疊の中に大河の蛇行する強い景観的対照が、熊野や南九州(球磨川)の景観要素を構成する所にこの地名が見えるとある。これら地形地名のクマを構成する地名の他に、熊野神社の勧請による伝播地名としての「熊野」もある。福岡県筑後市大字熊野には熊野神社と上原々熊野神社があり、すぐ近くに熊野宮、熊野神社、久富熊野神社がある。半径2km四方に6社もあることになる。熊野神社の火祭「鬼の修正会」や久富の熊野神社の「盆綱引き」など伝統行事があるので是非訪ねてみたい。また広島県庄原市西城町熊野の熊野神社はイザナミが眠る比婆山を遥拝する神社。境内には大杉が林立し参道はそれをよけながらのつづら折れ。越知・横倉山の杉原神社に雰囲気が似ておりここも訪ねたいところである。出雲にも熊野大社があり、いわばもう一つの熊野でもある。熊野社が全国に3千社あるのだから伝播地名としての熊野は多いことだろう。
この地の熊野浦の由来は「熊野別当田辺湛増が漂着した地」として名付けられたと伝えられている。同じ熊野浦の地名は二か所あるが、三重県紀宝町の熊野浦は熊野三山のお膝元、鹿児島県中種子町の熊野浦は種子島家第10代島主種子島幡時公の勧請という。
慶長の地検帳には「熊浦村」とあるがクマノ・ウラなのかクマ・ノ・ウラなのかは判別できない。地名の命名で多く見られるのが連体修飾語の「ノ」である。クマ(隈・曲・熊)+の+浦ということになる。いつしかクマとノが一体となり、田辺湛増伝承にのって「熊野」となったのかもしれない。というのも、『南路志』に記述される上山郷の熊野神社と熊井の熊野神社の「応永17年(1410)・応永35年(1428)・享徳2年(1453)の3つの棟札」の記載内容の同一性である。両方とも勧請者は上山郷の領主が名乗る出羽左衛門の職官位と重正の名で勧請年も一致する棟札である。上山郷の出羽左衛門重正が双方とも勧請したように思えるが40年の間に3度も双方を同年に勧請することはあまりにも不自然である。これについて、これまで誰も検証を加えていないのも不思議である。田辺湛増の飛来伝説を物語にするには熊野浦と熊井と上山郷の熊野神社が三位一体となる必要があったのではないかと考える。
熊野浦には久保浦・西谷・東谷・境谷の四集落がある。南の豊かな日差しと潮風をうけた「熊野浦の温州ミカン」はここら界隈のブランド品である。西谷では家の周りの急斜面にツワブキが栽培されている。
【道中記】塩屋ビーチと呼ばれる海岸線を歩くと数軒の塩づくりの小屋がある。小学校の修学旅行では坂出の塩田を見に行ったが今では跡形もない。こういったミネラルたっぷりの手作りの塩がブームとなっている。塩は生きるためになくてはならないもの。近年鹿の個体が増えた要因に、道路の凍結防止剤(塩化カルシウム)を放置していることにあるということだ。塩が山と海の交易、命をつなぐ出発点である。塩の次は熊野浦のミカン畑が続く。海岸沿いの道を徐々に高さを挙げながら進む。カーブの向こうに何があるかを楽しみに足を運ぶ。ほどなく熊野浦分岐となる。左に行けば鈴へも行ける県道中土佐佐賀線である。今も中土佐まで全通していない。青春時代は一部改良の鈴と熊野浦の間を「中央フリーウェイ」にみたて突っ走ったものだ。「片手で肩を抱いて愛してるって言ってもきこえない風が強くて この道はまるで滑走路夜空に続く」。今は歩くのが趣味というおじさんだ。熊野浦の西分に入った。温州ミカンを軽トラに積み込んでいた。黄色いコンテナには「渡辺鹿三」と書いてあった。白装束なので迷い遍路と思われてもいけないと思い「大正の熊野神社の潮汲み祭事の調査できた」というと、自分はここの熊野神社の総代で、大正の門脇清浄人を知っているという。色々話を伺った。佐賀や熊井へはこの西谷を上り詰めた山道で通ったとのこと。古い地図に「大和田への道」とあるから間違いなく清浄人も利用した潮汲みの古道だろう。振り向きながら何度もお礼をしているとすぐに熊野浦についた。そこには「武蔵坊弁慶の父 田邊湛増上陸の地」の説明板がある。来年又来る誓いをこめてこの度初めての般若心経を唱えた。
(14:35/32.6km)到着
【道中記 その2】日を改めて1月3日に熊野浦から山越の道を熊井まで歩いた。潮汲みの潮が差す時間を見計らって午前10時に出発した。西谷の山道を通らずに東谷の車道を県道中土佐佐賀線の出合まで道端の人と話をしながら足を進めた。神戸からの移住者は都会と田舎の半々暮らしという。その上に住むおばさんに山道を訪ねたが「もうほうけてないぞね」と言われた。国土地理院の地形図頼みなので不安になった。県道中土佐佐賀線の出合まで歩くと遠くに五在所ノ峯が秀麗な姿を見せる。修験の山で有名だが、橘川からの山容が一番拝みたくなるくらい良い。出合から少し佐賀よりに進めば右側に作業道がある。地形図にある串山電波塔への取付道まできっと作業道が仕上がっているという期待で足を進めたらそのとおりだった。串山(サルゴシ山/308.5m)の電波塔には防災行政無線、各キャリア携帯局など林立している。ここからは地形図どおりの山道を進まなければならない。串山の「串」は越す意味で窪川の平串、十和の浦越の古名も平串である。稜線には往還道らしい道がある。いくぶん進むと石鎚神社の祠があった。そこから急に下がっていくが、手入れがされていないミカン園の入り乱れた作業道で先が怪しくなる。地図だよりに藪こき風になったが程なく広い開拓地跡のような小平地に出る。道もあり安心したがルートから外れてしまった。遠くに三宝山らしい携帯基地局がみえたので予定の道は諦めて熊井へ降りる道に変更した。小谷沿いに耕作されなくなった田が竹林に浸食されている。法泉寺もありその山上に熊井の熊野神社があるはずだ。伊与木川の氾濫にも影響されず、小谷の水利もよく南受けの田が並ぶ。ここが熊野神社の「供米田(くまいでん)」であると確信した。湛増伝説の「熊野別当湛増の居ます処」が熊居(熊井)の地名由来であるがこれを覆す勝手な推論である。
(熊野浦~熊井/10:00~12:56/7.8km)
現地調査日:2019年9月4日
調査者:奥四万十山の暮らし調査団/楠瀬慶太・武内文治
調査協力者:門脇広明さん(1947年6月生/熊野神社・清浄人)
田邊利成さん(1976年3月生/熊野神社・宮司)
武内繁雄さん(昭和30年3月生)
秋田八重子さん(昭和22年2月生)
脚注・写真・図表は書籍で →当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ
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■奥四万十山の暮らし調査団『土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-』(2018平成30年)
「佐賀越の民俗誌―四万十町奧打井川~黒潮町佐賀間の古道を歩く」
楠瀬 慶太
1、はじめに
2018年8月18日、高知県四万十町の住民団体「奥四万十山の暮らし調査団」(武内文治代表)は、高知県四万十町(旧大正町)と黒潮町(旧佐賀町)で古道調査を実施した。前近代に上山郷(旧十和村・旧大正町)と呼ばれた地域と土佐湾岸地域の関わりを歴史的に研究する高知県立歴史民俗資料館の目良裕昭調査員(目良2016)の提案を受け、約60年前まで使われた「佐賀越」の古道を歩いてみようというものだ 。
調査に同行してくれた四万十町奧打井川地区の古老の「佐賀まで歩いて1時間半。打井川は山の中だが、実は海に近い『大正の玄関口』だった」との言葉が印象的だった。自動車による移動を前提とした現在の道路交通網では、奧打井川地区は奥まった山間地というイメージだが、地蔵峠を越えれば黒潮町佐賀地域の海岸部に出ることのできる地区で、旧大正町中心部の田野々へ向かう交通の要衝でもあったそうだ。
こうした古道の交通・流通の歴史は、時代の変化とともに忘れられつつある。本稿では、歴史資料から打井川の概況を確認するとともに、地図と写真を用いて古道の調査内容を報告し、聞き取り調査も踏まえた「佐賀越の民俗誌」を記してみようとするものである。
2、歴史資料に見る打井川地区
(1)打井川の概況
慶長2(1597)年の検地台帳『長宗我部地検帳』(以下『地検帳』)には「宇津井川村・宇津井河村」、18世紀の『土佐州郡志』は「打井川村」、19世紀の『南路志』は「宇津井川村」と記載している 。明治22(1889)年の明治の大合併により、22村が合併して「東上山村」、打井川村は大字「打井川」となった。 東上山村は大正3(1914)年村名を改称し「大正村」、昭和22(1947)年に「大正町」、平成18(2006)年には窪川町・大正町・十和村が合併し「四万十町」となっている。
打井川地区は旧大正町の南東部に位置し、三方を標高500m級の稜線で囲まれ、北部を四万十川が西流する。北東は大正北ノ川・上宮、東は弘瀬、南東は黒潮町、南は四万十市、西は希ノ川、北西は上岡に接する。集落の中央を打井川(全長約8.5km)が蛇行しながら北西に流れ、四万十川に合流する。上流から奥打井川・中打井川・口打井川の地区に分れ、高知県道(主要地方道)55号大方大正線が通り、奥打井川で分岐する高知県道(一般県道)367号住次郎佐賀線は標高509mの「鳥打場」の裾を通り、四万十市に通じている。打井川盆踊りは町指定無形民俗文化財。大字打井川(口打井川【口】・中打井川【中】・奧打井川【奧】の3行政区)のうち、今回の調査対象となった奧打井川は最奧の集落で、下組・中谷・宮組・奥組(写真1)に区分されている。
(2)『地検帳』に見る打井川
中近世の打井川村の状況を知る史料はなく、近世初期の『地検帳』から打井川村の土地支配の断片を読み解く。一部欠字があり確定的な数字ではないが、『地検帳』に記された田畑の土地所有者(給人)は47人と3寺となっている 。土地所有者として上山分・上山氏が表記され、上山氏の支配地や長宗我部氏の直轄地 となっている村が多い上山郷の中で、打井川村は上山氏の支配下になく50人近い給人(「抱」)が確認できる。彼らは苗字を持たず、所有する土地の少ない給人層であることが推察できる。このような形態の村は田野々村と打井川村のみで、上山郷では珍しい 。打井川村の給人には田野々村に土地を所有する者もいる。また、田野々村には高知城下など都市的機能を持つ場所に見られる「坂の者」(皮革製造や清掃などの生業に従事した職能民)が確認できる。後に紹介する田野々―打井川―佐賀をつなぐ流通の道が中世までさかのぼれるとしたら、零細に見える給人層が田畑耕作だけでなく、物資流通など経済活動に関わり、個々に力を持った可能性もある。
土地開発では、打井川村の『地検帳』には中世の開発名主に由来する「土居屋敷」や隣接する「門田」(直営田)が確認できる。これらの地名から土佐国内の他の村々と同様、土居・門田を中心に谷水田の開発が進んだことが分かる。土佐の山間部では、『地検帳』段階でも中世名主層が村々の土地を一円支配する地域が多く確認できる。一方、打井川村では名主層による一円支配は確認できず、多数の給人が小規模な土地を支配する形態を取っている。今後、『地検帳』記載地名の現地比定を詳細に行い、当時の景観を復元することで、土地開発と分散的な土地支配の関わりを検討していきたい。
また、欠字があり確定数ではないが、『地検帳』の打井川村の屋敷数は34軒と2寺である 。後世の屋敷数は18世紀初頭の『南路誌』(1704-1711年)47軒、1743年の『寛保郷帳』56軒と比較するとか少ない。『地検帳』で土地所有者数と屋敷数が大きくかけ離れているが、江戸前期に家数が増えたのであろうか。
『大正町史通史編』によると、江戸期の打井川村の庄屋宅は口打井川の小字「カドタ」にあり、老(おとな)役宅は奧打井川の小字「中屋敷」にあった。庄屋は長年永山氏が務め、嘉永年間以降は明治まで伊与田氏が務めている。神社棟札から「年寄」「五人組頭」などの役もあったことが分かる。
(3)打井川の宗教
近世の打井川村の動向は古文書が少なく、断片的である。『地検帳』には寺院として奥打井川にある「興泉寺」、中打井川の「カドタ」にある「吉祥庵」が確認できる。「興泉寺」は、江戸中期の『土佐州郡志』に「興善庵 禅宗」とあり、田野々村の「護松寺(五松寺)」(『地検帳』では「悟性寺」)の末寺で、宗教面でも戦国期から田野々との関わりがあったことが伺える。『大正町史資料編』によると、元は小字「寺ノ越」にあって明治8年ごろには授業場として使われていたが、現在は小字「京殿」の道文神社境内に「奥泉庵」として移されている。庵内には木造4体、石像2体があり、石像には「享保九」(1724年)銘があり、「嘉永二」(1849年)の棟札も残っている(写真2)。「吉祥庵」については江戸期の動向は史料からは分からないが、現在の小字「カドタ」には高さ70㌢ほどの五輪塔3基があることから『大正町史資料編』は「吉祥庵」との関わりを指摘している。
神社については、『地検帳』に「宮ノナロ」のホノギが確認できるのみで社殿の存在は文書上確認できない。江戸期については、地誌や『大正町史資料編』記載の棟札類から当時の状況が推測できる。『南路志』には「王子宮」(西ノ本)、「高治明神」(谷口)、「高治明神」(宮カ谷)、「道文社」が記載されている。「王子宮」は小字「西ノ奈路」にあった「皇子宮」(現在は口打井川の河内神社に合祀)にあたる。口打井川・奥打井川にある「河内神社」は江戸期には河内大明神と呼ばれ、『土佐州郡志』は「川内大明神」、『南路志』には「高治明神」と記されている。「道文神社」(写真3)は江戸期には「道文権現」と呼ばれ、木造狛犬の台座銘に「嘉永六」(1853年)、棟札に「安政五」(1858年)の墨書が確認できる。
3、古道を歩く
奧打井川からキレイリ谷(ウツボノ谷 )沿い右側の道を経て地蔵峠に至るのが佐賀越の古道であるが、現在は林道整備などの影響で古道がほとんど残っていない。打井川は民話の里。道すがら地元の古老・本山昌良さん(1944年9月生)からさまざまな民話を聞いた。
(1)奧打井川を歩く
奧打井川の屋号 奥打井川にはほぼ全戸に屋号(屋敷名) がある。打井川上流から「新宅」「馬ハタ」「アバタ(休み宿)」「マツガダバ」「イヌダバ」「新家(シンヤ)」「カミダバ」「ドンガ」「ナラハシヘヤ」「ヤカ」「上ホリ」「中ホリ」「下ホリ」「寺ンコジ(寺ンコイ)」「中屋敷(バクチ屋敷)」「京殿」「ウエコバタ」「シタコバタ」と呼んでいる。また「ジャノ川」の奥の「ナラカシ」と呼ばれる場所にも昔は屋敷が2軒あったという。『地検帳』に記載された「大タヤシキ」「ひかしやしき」「名本ヤシキ」などの屋号は全く確認されない。江戸期に村役人の屋敷だったとされる屋敷は「イヌダバ」「中屋敷」「シタコバタ」と呼ばれている。
「シンタク」「中屋敷」「新家」などの屋敷名が見られる一方で特徴的なのは平地を表す「駄場(ダバ)」地名が多く使われている点である。他にも、小字に由来する「京殿」「寺ンコジ」「馬ハタ」「マツガダバ」、「小畠(畑)」の姓と関わりがある「ウエコバタ」「シタコバタ」があり、多様な様相を呈している。
千賀三郎衛門の話 祖父の話では、打井川の庄屋でもあった千賀(ちが)三郎左衛門は、猟師もしていてイノシシを999頭獲り終えた。1千頭を取る前に祈願のためお四国回りをしている途中、突然犬に激しく吠えられて眠たくなり、自分の鉄砲で犬を殺してしまった。その後、三郎左右衛門は足摺(土佐清水市)の手前で山賊にやられて殺され、その地元で祭られたそうだ。三郎左衛門の屋敷は、屋号「シタコバタ」の位置にあったとされる。
埋蔵金の話 打井川には12反の田んぼをつないだ先に小判が埋まっているという伝説があって、地元の人で埋蔵金を探し回っている人もいたが、見つかっていない。
権現の休み石 田野々村の熊野神社(熊野権現)の勧請に関する逸話のある史跡で、大正地域には上岡、小石、打井川の3カ所にある。『大正町誌』によると、建久元(1190)年11月、熊野三社の別当田辺湛増の子・永旦は、3組に分かれて3方向から熊野様を奉じて田野々村に入ったと伝わっている 。熊野浦から熊井(旧佐賀町)にしばらく滞在し、上岡村を奥に入り芳川村を経由する一行、松原(梼原町)から矢立峠を越え、小石(旧大正町小石)を経由する一行、熊井から地蔵峠を越えて打井川を経由する一行の3組である。それぞれに一行が休んだという権現の休み石があって、伝承が残っている。打井川の休石は旧道側の大石で、側に榊が植えてあったが、県道整備で旧道下の県道側に落下移動させたという。現在も県道沿いに大石があり(写真4)、看板には「この石の上にあがるとにわか大雨になる」と伝えられることから「雨降り石」と呼ばれること、「横に生えている榊は、(熊野権現)一行の中の一人が杖にしたものをおき忘れ、それが根付いたもの」と記されている。
道文神社 奥打井川にある南北朝期の尊良親王家臣・秦道文を祭った神社(写真3)。神社の看板や『大正町誌』によると、南北朝期の1331年に起きた「元弘の乱」で鎌倉幕府の執権・北条高時によって土佐へ流された尊良親王は、家臣の秦武文・道文を伴い、旧大方町有井川に住んだ。道文は親王の命を受けて京都に行く途中、打井川小畑で病気になって亡くなったと伝わる。「道文様」の祭りは幡多・窪川地域からも参拝客が訪れる祭りで、『大正町誌』は佐賀方面からは「地蔵峠」、旧大方町の入野・上川口方面からは「伴太郎坂」、旧窪川町の窪川・仁井田方面は家地川から「寺の越坂」、旧大正町の北ノ川方面からは四万十川を渡り「カイガヤシ坂」をそれぞれ越えて大勢の参拝客があったと記している。奥打井川と他地域との交通がよく分かる事例である。
塩の宿 『大正町誌』によると、四万十町大正(田野々)の熊野神社の秋大祭(11月12日)では、清浄人(しょうじょうど)と呼ばれる者が正副2人選ばれ、祭礼に関するご供物の一切をつかさどった。彼らは、祭礼の3日前から水垢離(みずごり)を取り(水行を行い)清祓いをして身を清めてから奉仕する。祭りで清めに使われたのが、旧佐賀町熊野浦から汲んできた「潮水」である。本山さんによると、熊野浦へ塩汲み(潮汲み)に行く者は、正副2人連れで 、11月9日に田野々を出立し、打井川の渡しで四万十川を渡り、奧打井川から佐賀越の道を歩いて、熊井を経て佐賀の「熊乃屋」で1泊する。「熊乃屋」は大正地域の人たちがよく使う宿だったらしい。10日に熊野浦で潮水を汲んで担いで再び佐賀越の道を通り、奧打井川に到着するとアバジイの家(屋号「アバタ(休み宿)」)(写真5)で1泊し、11日に田野々へ向かった。『大正町史資料編』は、塩の宿に宿泊した際、庭の入口に特別に作った棚の上に潮汲みの竹筒を安置し、夜は「塩迎え」「さか迎え」と称して隣近所が集まって酒盛りをしたことが記載されている。アバジイとは秋田シゲキさんのことで 、97歳まで生きたが、病気のほとんどない人だった。潮汲みに行く者は必ず帰りにアバジイの家に泊まる習慣があった。潮汲みはいつごろか徒歩から車に変わり現在は行われていないという。アバジイの家は現在空き屋になっているが、「塩の宿、郷社熊野神社 清浄人の宿」と書かれた石柱が立てられている(写真6)。
三宝山(さんぽうさん) 屋号「馬ハタ」の裏山(写真7)。山頂に「三宝大荒神」の祠があったが、現在は河内神社に移している。祭神は大歳御年神(おうとしみのしのかみ)。昔は奥打井川の家々が集まる秋祭りで、余興で相撲を取っていた。
材木搬出 戦前までは、材木(丸太)は河内神社下の打井川までは谷を堰留めて水で流し、その後は陸に上げて馬車で打井川口まで出した。そこからは四万十川をイカダで流していたそうだ。山では木炭ガスで移動製材をする人もいた。
生業 打井川の生業は、米・炭・硝煙・シイタケ。ミツマタは作っていなかった。シイタケは愛媛から商人が買いに来ていた。戦後はあちこちにイモ畑があり、カライモを供出した。キビ飯も良く食べた。白米は祭りの時などしか食べられなかった。
(2)佐賀越の古道を歩く
峠道 佐賀港は大阪方面との物流拠点になっており、熊井を経由して市野々から大正方面へ向かう山道(佐賀越えの古道)は「大赤線」。大曲りもせず1本道で、佐賀についた大阪からの荷物を積んだ馬や牛がぎっちり通っていた。「ニナ」などの貝を佐賀の浜へ取りに行くこともあった。登り口付近の道は残っているが(写真8)、頂上までの道はほとんど残っていない(写真9)。頂上は平場になっており(写真12)、峠は地蔵峠(首なしの「しゅむか地蔵」のある峠)と呼ばれる。佐賀方面への降り口は、市野々を通る道と伊与喜に降りる道と2つがあった。打井川から佐賀への道はジャノ川を登りきった野重峠越え(ノジュウトウ、馬之助の生まれたあたり)もある。
御神輿の話 打井川の河内神社の御神輿も、打井川の住民が佐賀から船に乗り、大阪を経由して京都で購入し、佐賀越の道で持ってきたものだという。一行(3人)は大阪の宿で泊まったが、宿代が安かったので大酒を飲んだらお金が足りなくなり、御輿の金が払えなくなった。そこで、部落の人がお金を出し合って御輿代の借金を返したという話がある。
炭俵6つ 打井川から佐賀へと搬出したものとして木炭があった。本山さんの父は白炭を作っていたが、後に黒炭に変わった。炭俵6つを担って佐賀まで歩いて持っていった。地蔵峠から市野々までは約1キロだった。奥打井川から歩いて1時間半ほどで到着した。
しゅむか地蔵 佐賀越の道の頂上付近(大正と佐賀の堺付近、字佐賀越・地蔵山)の平地から少し上がった高所に石製のお堂があり、石の地蔵が4体置かれている(写真10)。右から2つ目の小さな地蔵が「しゅむか地蔵」で、昔は首がなかったが、「かわいそう」とのことで地元の人が首を乗せた。『大正町史資料編』には、首なし地蔵に地元の腕白小僧が「しゅむか、しゅむか」と小便をひり掛けて遊んだことから、「しゅむか地蔵」と名付けられたとある。
幻の道舗装 佐賀越の道は、打井川の人には儲けになるが、佐賀の人には儲けにならない道。道を舗装する話が持ち上がったが、佐賀町長は「いらん」と言って舗装化は実現しなかったという(写真11)。
嫁入り 打井川から佐賀へ嫁に行った人は多い。鳥打場を経由して上川口へ出る道もあった。上川口にも嫁は行っていた。嫁は打井川に来るよりも佐賀へ行く方が多かった。
行商人 上川口や伊田、佐賀から佐賀越えの道を越えて行商人が来た。魚を担ってきて、大正に入っても奥になれば生魚は販売せず、塩サバなどを売っていた。打井川ではカツオやブリ、クジラなどが販売され、新鮮な青物が食べられた。伊田のおばあさんは漁港で上がったブリを丸々担って行商人に来ていた。峠道には馬を使う運搬屋「セグリヤ」もいた。
(3)佐賀への道
熊井の鍜治屋 打井川には鍜治屋がなく、佐賀へ行くときに旧佐賀町熊井(写真13)の鍜治屋によく寄っていた。田野々に行くより熊井に行く方が近い。春先には、皆が牛グワや鋤クワの修理、クワの打ち直しにいった。行きがけに熊井で鍜治屋に預けて佐賀へ行き、帰りにもらっていくこともあった。鍜治屋(現在育苗ハウスがあるあたりにあった)は高橋さんという元々大方町鞭にいた人がやっていた。道文神社の祭りには熊井からも市野々を越えて行った。また、熊井には田辺氏に由来を持つ熊野神社がある(写真14)。
佐賀・熊野浦 佐賀の町には現在は閉まっているが大正地域の人々がよく使った宿屋「熊乃屋」の建物(写真15)、熊野浦には「田辺湛増上陸の地」(写真16)や田辺湛増の水飲み場(写真17)、中世のものと思われる石仏(写真18)などの史跡が残る。熊野神社の潮汲みが行われた海岸の岩場(写真19)も確認できた。海岸沿いを歩けば、佐賀から熊井浦は近い。熊野神社の潮汲みや勧請の伝承から、大正と佐賀・熊野浦とのつながりを実感できた。
4、峠道と海山経済圏
聞き取り調査や現地踏査の結果、佐賀越の古道は約60年前まで田野々―打井川―市野々(伊与喜)―熊井―佐賀―熊野浦をつなぐルートで盛んに利用されていた。古道は、人・牛・馬が行き交う往還として機能し、米や炭、魚などさまざまな物資が往来していた。中でも「打井川」「熊井」はその中継点となる場所にあり、大正・佐賀の玄関口としての機能を果たしていた。そして古道は佐賀港を経由して大阪・京都などの畿内方面とつながっていた「流通の道」であったことも確認できた。
古道の起源は、江戸期の地誌にも記された田辺湛増・永旦や熊野権現勧請の伝承から平安末期までさかのぼる可能性がある。また、南北朝期の尊良親王の家臣・秦道文をまつる道文神社の伝承も存在し、中世の伊与木郷と上山郷をつなぐ「地蔵峠」の重要性が浮かび上がってくる。いずれも源平や南北朝の内乱に付随する中央氏族や貴族の土佐潜伏の際に使われた「軍事の道」であったことも伺える。近世初期の『地検帳』では古道の存在を確認できないが、田野々・打井川の複数給人による特殊な土地支配形態から、一般農村でなく交通流通拠点としての役割を果たした地域である可能性も指摘した。古道を通した佐賀―大正間の交通・流通面での関わりは近世以降も続き、道文神社の祭りや熊野神社の潮汲みなど「信仰の道」としても継続されたことが分かった。
中世史家の服部英雄氏は、全国の歴史的な峠道の性格を「流通」「軍事」「信仰」の3つの道に区分して分析している(服部2008)。「流通の道」は消費地と生産地を結ぶ牛の道、「軍事拠点」は軍事拠点と前線・緊迫地を結ぶ馬の道、「信仰の道」は人の足のみの道と分類しながらも、それぞれの相互性・共通性を指摘している。このような整理に従えば、佐賀越の古道も3つの性格を持った歴史的な峠道であることが確認できる。また、この古道は陸上の道だけでなく海上の道とつながり、古来から土佐の山村社会を畿内などの中央と結びつけていたといえよう。
打井川地区には、2010年オープンの「海洋堂ホビー館四万十」、2012年オープンの「海洋堂かっぱ館」があり、そのキャッチフレーズになった「辺鄙(へんぴ)な」地域として認識されている。しかし、佐賀越の古道の歴史を読み解くと、打井川地区が決して便の悪い、田舎の地区ではなかったことが分かり、打井川の隠れた地域像が明らかになった。すなわち、エネルギー革命以前の社会では、高知県中東部の物部川流域で示した川の道(舟運)を通して山村―農村―町―都市が相互補完的に機能する「流域経済圏」(楠瀬2009)とは異なる、佐賀越の古道(峠道)を介して山村―農村―海村―都市がつながる「海山経済圏」とも言える経済流通圏が機能していたことが想定できる(図2)。このような経済史的視点で、舗装された道路や鉄道などの交通網が整備されていなかった社会について、峠道が地域社会の維持・発展に果たした役割を改めて検証していかなければいけない。
5、おわりに
古道が使用されなくなってから60年、古道の痕跡はほとんど残っておらず、その歴史を知る人も少なくなっているのは残念なことだ。「奥四万十山の暮らし調査団」では、今後熊野神社の大祭で行われた潮汲みを佐賀越を使って再現する計画を立てている。潮汲みの再現には、古老への聞き取りでその経路や作法などをもう少し深く調査する必要がある。
そこで、集落の歴史文化を地域づくりに活かす「地域再生の歴史学」(楠瀬2013)の3段階プロセス(「記録」→「掘り起こし」→「普及」)から今後の取り組みを探ってみたい。まず①本稿で説明してきた調査研究による潮汲みや佐賀越の歴史民俗を「記録」する活動を行う。次に②潮汲みの再現を行い、住民にその歴史の価値を再認識してもらう「掘り起こし」の活動を行う。最後に③住民を巻き込んで佐賀越の道を歩くツアーや潮汲みの再現を行う「普及」の段階へと活動を進めたい。
高知県内でも香美市・香南市の「塩の道」(保存会)や高知市から嶺北地域へ至る参勤交代道「北山道」(5市町連携の北山道保存協議会)など各地で地域をまたいだ古道を活用した活動が行われている。「佐賀越」もこのような形で活用が進めば、歴史資源としての古道を活かした地域振興や四万十町と黒潮町の地域間連携の可能性も模索できるのではないかと考えている。
現地調査日:2016年3月10日
調査者:山の暮らし調査団/楠瀬慶太・小野雄介・武内文治
調査協力者:本山昌良さん(1944年9月生)
道文神社の当屋さんたち
脚注・写真・図表は書籍で →当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→続土佐の地名を歩く)へ
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【補遺/現地調査日:2016年3月10日】
・奥打井川集落には屋号が多い。シンタク(本山富久)、ウマハタ(秋田守、秋田信雄、秋田敏幸の三軒)、マツガダバ(本山雪美)、アバタ(熊野さんの神事であるお水取りの途中の泊宿)、イヌダバ(秋田幸則)、シンヤ(本山博文)、カンダバ(小畑孝雄)、ドンガ(秋田二男)、ナラシ・ヘヤ(秋田正男)、ヤカ(秋田昇)、上ホリ、中ホリ(田中丈三)、下ホリ(谷脇光明)、ナカヤシキ(小畑耕一)、ウエコバタ、シタコバタ(庄屋・三良左衛門)
・上山郷田野々と佐賀との往還道は、熊野神社の由縁か山の幸、海の幸の往来が盛んであった。
・この佐賀越えの道には「アバタ」という休み宿があった。もう一つ佐賀側にもあった。この佐賀道往還の峠は地蔵峠(首なしのしむか地蔵のある峠)という。佐賀への道はジャノ川を登りきった野重峠越え(馬之助の生まれたあたり)もある。
・農耕は黒牛が中心で豊かな農家は馬もいた。
・戦後10年を過ぎると黒牛は赤牛に代わった。当時の馬喰に「儲けいうかよ」と聞くと「もうけりゃせん。色を変えただけよ」といいよった。
・宮の駄場の谷脇光明さんところの上段に宮床がある。今は道文神社の脇に奥泉庵の祠がある。
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■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)
第3章 地域資源地図で見る四万十
奥四万十山の暮らし調査団では、地域調査の成果を視覚的で分かりやすく一般の方に知ってもらうため、報告書や論文などの学術的出版物に加えて地図の形で公表している。地図には、調査で判明した地域の歴史や文化の情報を記し、町歩きや地域づくりに活用してもらうことを念頭に置いて「地域資源地図」という形でまとめている。高知県内の地域資源地図は、林野庁職員で洋画家として活躍している森下嘉晴氏がまとめた絵地図を「奥四万十山の暮らし調査団」のHP「四万十町地名辞典」でPDF公開しているほか、奥四万十山の暮らし調査団の報告書でも紹介している1)。第3章では、第2章で紹介した集落と関連した地域資源地図6枚を作成された経緯や地図の解説とともに掲載する。
3、民話の山里・打井川どきどきマップ(p72)
忘れもしない。このマップを製作している最中、東日本大震災が発生した。「日本の半分が壊れた」。あの時の衝撃は今も鮮明に残る。娘を高知市に迎えに行くのに携帯は混乱して連絡がつかない。高速は通行止め。テレビで見る津波はまるで映画のような地獄の光景で信じられなかった。平和であることが大前提だった今までの日常の暮らしが、どれだけありがたいことだったのか。そして、平和な日常はいかに脆いものであるのかを痛感し、愕然とした。
四万十町打井川。国道381号を南へ渡る。驚くべきはこの谷沿いの集落にあふれる民話の数々。四万十町版遠野物語の舞台である。数ある物語の中でも、最も強烈な舞台は馬之助神社。その妖気漂う雰囲気は背中がぞくっとする。早春の夕方訪れたことがあるが、馬之助の像に思わず息を飲んだことがある。あまりに哀れな物語ゆえ、馬之助くんの無念が昇華して、子ども達の守り神になっていることに救われる思いがする。馬之助の物語に影響を受け、彼の姿を想像して、20号の油絵を馬之助神社に奉納させて頂いたこともある。
また、尊良親王伝説にまつわる道文神社。力比べの「ばんもち石」。首なしの地蔵におしっこをかけて遊んでいた「しむか地蔵」(しみるの意)このマップには載ってないが、打井川から家地川に越えていると、砂が上から降ってくる「すなかけ」の話。四万十市の境にある峠「鳥打場」の話。
何より驚くのは、「天狗にさらわれた子ども」がまだ生存していること!タヌキやキツネに化かされた話は日本全国津々浦々に伝わっている。梼原町でも数多くのタヌキに化かされた話を聞いた。子どもの頃、裏山に遊びに行く時には、祖父からいつも「タヌキは眉毛の数を数えて人をだます。化かされないように、いつも眉毛を唾でかためちょけ」と言われて育った。
人がタヌキやキツネに化かされていたのは、東京オリンピックが開催された頃からぴたりとなくなる。1960年代初め、テレビやラジオが普及し、電灯がともり、人が自然界から急速に遠ざかっていった時期と重なる。狐狸に化かされたり、狐の嫁入りを見たり、えんこうと相撲を取ったり…。半世紀という、つい近年まで、人は普通に自然界と交わりながら生活を営みながら、こうした自然界の者と交信する能力をきっと持っていたのだろう。それが、テレビや電灯を身近に置くことで、その能力が衰退してしまったのではないだろうか。
カッパにであったり、天狗に出会ったり、タヌキやキツネに化かされたり。そんな、どこかどきどきして、どこかのどかで、そしてそれはとても豊かなこと。南風に吹かれながら、この谷沿いの小道を歩いていると、どこかで思いもよらない不思議な体験が待っているかもしれない。
(森下嘉晴)
1)コウゲ
「コウゲ」とは、四国の愛媛から中国地方に広く使われる語彙。多くは短い草の生えた土地で、水田はもとより畑にも開き難い所。それ故にしばしば芝の字が宛てられている(綜合日本民俗語彙②p536)。一般に高原の草地の水流に乏しい所。芝、高下、広原などの地名。カゲに同じ(民俗地名語彙辞典上p345)
2)シガキ
「シガキ」とは、猟をするとき身を隠す場所。鹿や猪のよく通る道筋で待ち構えるのに都合のいいところ。山口、福岡、長崎、鹿児島、高知など西日本の地名(民俗地名語彙辞典上p438)。隠れ場所を竹木で構えるため柴垣、猪垣とも字に書く(綜合日本民俗語彙②p677)
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
(土佐国幡多郡上山郷御地検帳・幡多郡上の1p59~68・切畑p85/検地:慶長2年2月2日~10日)
慶長時代のこの部落の村名は、”宇津井川村”と表現され、枝村はない。
検地を行ったのは慶長2年2月2日(1597年3月19日)
検地は、上山郷の北ノ川(打井川境)から上宮・弘瀬・北ノ川から相去を終えた後、打井川となっている。
打井川地区は、「ジャノ川」から「引キカクシ、大田、東屋敷」と奥打井川集落の最奥から進められ、「中屋敷、井ノ又」と鳥打分かれの「大平」橋まで下り、ホビー館の「竹屋敷」で奥打井川を終える。小成川に入り、宗崎半島の「黒尾」からカッパ館周辺の「市ノ又、向黒尾」から「古川、中ゴヤ、萩ノナロ」と中打井川集落の検地を行い、口打井川集落の中心となる「春蕨、松ノナロ、カドタ、西本、井ノ谷」から四万十川右岸の「大向(地検帳では虫食いでカイだけ判読)」に渡り、打井川地区を終えて、田野々村へと移っている。
この検地簿冊に「此紙新帳を以写書入但八枚之内」と7枚を差し替えているが、その箇所すべてが「扣」である。仕直検地で「抱」としたのを「扣」に一部を差し替えたのは謎である。
検地高は本田と出田で12町6反とある。
検地役人は、重松勘衛門尉 光、久万左兵衛 俊、田多又衛門尉 直房、近沢伝衛門尉 信とある。
脇書の所有関連に鍛冶藤左衛門扣、舟右衛門扣、ホノギに番匠屋敷とあるなど、鍛冶、舟、大工など多様な生産関連が読み取れる。この打井川の川筋は佐賀越えの道筋であり、熊野神社の佐賀・熊の浦への若水取り、塩の道、秦道文神社の信仰など人と物の往来の多い往還道であったのだろう。
地検帳にみられる寺社は
・寺院
興泉寺(興泉庵)、吉祥庵
・神社
特に記載なし。
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p329)
打井川村の四至は、東限上宮村西限上岡村南限伊與木界北限北之川■東西二町南北二里戸凡四十七其土黒
山は、石蕨山・具串山(在村北)、少々山・井股山(在村南西)
寺社は、吉祥庵、興善庵、川内大明神、天神とある。
※貝串山は、町有林、診療所の森となる「カイガイシ」に転訛したものか
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、宇津井村として「石高126.49石、戸数56戸、人口324人、男163人、女161人、馬40頭、牛0頭、猟銃15挺」
■南路志(1813文化10年:3巻p620)
「214宇津井川村 地百廿六石六斗二升七合」
西ノ本(王子宮)、谷口(高治明神)、宮カ谷(高治明神)、道文社
■皆山集(第8巻地理編p)
スカ(第十六区上山郷上分の打井川村の元標の設置場所)
■掻き暑めの記(1984昭和59年)
・製造駄場(上p54)
中打井川にあるホノギ。昔「スリツケ」といってマッチの軸木を製造していたという。
・車越えの坂(上p57)
口打井川の車越への坂を越して上宮の下船戸から川を渡り北ノ川へ向かう。
・スガ(上p140)
明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。宇津井川村の元標は字スガに設置されていた。
・市ノ又山(上p202)
窪川宇和島線の県道が開通するまでは佐賀港が唯一の木炭販売ルートであった。佐賀港においては阪神方面より木炭業者が入り込み来り佐賀村内及東上山村内方面に生産する木炭の品質優良なるに目をつけてそれを一手に取り引きする為に出張所が設けられていた。そんな事情で東上山村東部地区よりは盛んに木炭が生産されて佐賀港へ搬出されたのである。打井川市ノ又山には中村の人の経営する木炭山、上岡の奥ばんじようの中森山、四手の木山には佐賀港の伊勢屋の経営する木炭山があった。
佐賀村の伊与喜、熊井、中角方面から市野々川を経て、地蔵峠を越し、毎日30頭位の駄賃馬が来た。
・ウツボ(上p250)
奥打井川、佐賀越の坂の手前に「ウツボ」というホノギがある。大昔四海波(大潮)に海の魚のウツボがはねあがってきたことからホノギとして伝承されているという。
・お安淵(上p281)
医者に勧せることをはずかしがって、独りなやんだあげく我身の将来をはかなみ死を決意して、打井川谷の柳の木え自分の着物をしばりつけ死後の形見として残こしおき、ついに淵え身を投げて若い身空で死んで仕舞ったのである。
村の人達はその死をあわれに思い、お安の手織りの麻布で施餓織をつくり、年々旧七月十五日には青竹の棚をつくり、蕨のお笠や初物を供え香を焚き、鉦をたたいて南無阿弥陀を唱え施餓鬼を行ないその冥福を祈っておる。
・堀り口、戸樋口(上p286)
打井川村の一ノ又口現在宗崎義信氏宅のしも手に堀り切りの溝がある。クロー一体約二町歩を灌漑している。この掘り切りを「掘り口」とも「戸樋口」とも呼んでいる。
・トイノ畝(上p286)
此の堀り切りのあるところの対岸の山林のホノギを「トイノ畝」と名付けられている。この山から松を伐って戸樋をクッテ使用した。その行事に因んで明治の地租改正時に命名した。
・おう人の足跡(上p333)
打井川宮ノ谷の奥、家地川との境の野山の嶺にある、直径十米位の足跡のように窪んだところ
・地蔵峠(上p393)
打井川道文神社の祭典の当日に、古来からの習慣で海岸方面から、お参りにくる男達は腰に山刀などをぶちこんできた。そうして道文様へ参拝がすんで帰える山道、佐賀越えの地蔵峠や有井川越えの伴太郎坂、山中越えの鳥打場の坂道で山刀をつかって道ばたの立木を伐りかけにして倒し、或は杭を打ちこんで柵をつくり、大石を落して並べるなど人馬の通行できないようにした。道文が、京殿において追手のために切り殺され悲惨な最午を遂げたのをあわれんで、こうして追手を防いだなれば道文も早やく京え向うことができたのであろうと、有井川方面縁故の参拝人たちが、道文を弔いのために取り行なうことになったのであると、つたえられた。
・蛇ノ川谷(下p334)
蛇ノ川口の左の畝に地蔵峠という旧坂道あり市野々川、伊与喜に出て佐賀港に達する往還あり。昔から駄賃馬の通行はげしく、上山郷から猪、三シ又、松煙、木炭、根木、櫓木等を盛に搬出した主要往還であった。
蛇ノ川谷を奥に登って大方郷との山境伴太郎越に達する坂道がある。伴太郎を経て上川口港に、又有井川方面にも出る旧山道がある。
・奥泉庵(下p335)
禅宗(奥打井川字寺ノ越在)
・興善庵(下335)
禅宗(口打井川字門田在)
幸次郎谷、シトギノ川口、京殿、カイガヤシ谷、地蔵峠、伴太郎坂
▼打井川
現在は口打井川、奥打井川、中打井川の三つの部落に別れているが登記はされていない。昔は宇津井川村と称して一つの村であった。打井川谷は水の流れが三里もつづくと言われて、人家があまりに広域に散在して居るので口、奥の二つに分けて治められて来たものであろう。而し九郎権前神社に寛政六甲寅年(1794)の棟札によると口宇津井川村と記してあるところから察すると相当昔から奥、口とに分かれていたものと推察される(p330)。
東 佐賀村市野々川、窪川村家地川
元国有林重木山に続いた山嶺弘瀬及上宮とも、山続きの分水嶺を以て境となる。
南 入野村伴太郎、山中村三ッ又、常六、片魚の各部落に傍ヶ森山系の伴太郎坂より元国有林烏打場山から干丈オロシ山嶺、拘子山に連続して境を為しておる。
西 四手ノ川、上岡に接し
北 四万十川を跨いで上岡の一部と北ノ川ノー部に続いておる。
周囲八里何づれも峰から峰に続く山を以て囲まれ、部落の中央を打井川谷が南から北に向って貫流している(p330)。
佛ヶ森山系伴太郎越の麓、蛇ノ川の奥より水源を発して部落の中央を北流し西ケナロにて四万十川本流に合流して居る(p331)。
佐賀港へは三里にて達し、地蔵峠一つ越して佐賀村市野々川である。
中村町へは大平より烏打場山を越せば常六であるが六里にて中村町に達す。
入野村上川口港へは蛇ノ川より伴太郎坂を越して四里にて達す。
窪川町へは寺の越より坂を越して家地川、若井坂を経て三里にて達す。何れも旧坂越えの道であって徒歩による。窪川町を経て高知市方面及宇和島方面に行くには西ケナロまで出て県道、窪川l宇和島線により三里にて窪川に達し宇和島市へは二十里にて達す。
大正町役場所在地田野々へは三里にて達し、何れも終戦後は省営バスの便あり(p331)。
河内神社下から旧道が右に左に谷を跨ぎ坂を越して地蔵峠に通じていた。其間に戸田の下から打井川谷を渡って胴松の畝を登り「切れ入りのたお」から「ガンドー越」に坂道がある。
中打井川九郎の「一ノ又口」から「梨の木駄場」の畝を登て「干丈嵐の峠」に出る「ガンドー越」に至る旧道がある両方から登ると山道が合同して「水呑場のタオ」の休場がある。
口打井川下組の人達は胴松ノ畝から刈り上って、同中組の人達は一ノ又口梨ノ木駄場から刈り始めて道刈りをした。
九郎からは坂道を耳切れのたをに登って上宮並に弘瀬越しの近道があった。林浅次氏のシモからは「車越へ」と称する坂道あり、上宮方面より駄賃馬を通ずる唯一の道であった(p332)。
カイガヤシ谷には窪川から若井坂を越し来たり家地川「川表て」を経て弘瀬の重木山国有林の下を通つぐちて宮ノ谷坂を越してカイガャシの奥におりて谷を右、左に何回か渉り、ガイガャシロに出て打井川谷を少しのぼり大平から与次郎谷を這上り、鳥打場国有林を越して山中村の常六におりつく(p334)。
■大正のむかし話(1989平成元年)
竹屋敷、地蔵峠、鳥打場、寺の越、奥泉庵、春蕨、野重峠、日の谷口、地蔵峠、まし川、蛇の川谷、蛇渕、のまず水、おそん渕、カイガシ谷、野重峠、地蔵峠、大が渕、サマン駄場、大平、東イノマタ山
■鎮守の森(2009平成21年)
河内神社、馬の助神社、道文神社
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
口打井川、打井川橋、四万十川、予土線、打井川(河川)、中打井川、奥打井川
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
岩殻(三等三角点:標高464.27m/点名:いわから)タカノス638
※点の記では、中打井川の林利重宅南30mから山の背沿いに約700m登るとある。
一の又(四等三角点:標高496.36/点名:いちのまた)一の又1610
※点の記では、中打井川の馬之助神社へ林道終点から南麓を登る。
宮ケ谷(四等三角点:標高497.70m/点名:みやがたに)宮が谷1697-1
※点の記では、奥打井川の河内神社から谷を北側に入る。
口打井川(四等三角点:標高384.65m/点名:くちうついがわ)コウチダバ1604-ロ
※点の記では、馬之助分岐から500m進み宗崎悟宅から北方の小径を200m登る。
打井川(四等三角点:標高/点名:)札松1636-18、ヨジク谷1625-15
※点の記では、奥打井川の大平橋を渡り鳥打場に向けて250m進みコンクリート橋たもとを北西へ登り詰める。
奥打井川(四等三角点:標高404.63m/点名:おくうついがわ)ヘイザン畑1673-10
※点の記では、奥打井川の小畑俊雄宅東側の小路を南方へ150m登る。
大正(四等三角点:標高539.12m/点名:たいしょう)東谷1639-6
※点の記では、海洋堂ホビー館から東進約1500mの大カーブの電柱打井分線141から南方の山を登る。
■高知県河川調書(2001平成13年3月/p57)
打井川(うつい/四万十川1支川打井川)
左岸:豆カ谷955番地先
右岸:堂ガ谷1886番地先
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
カドタ橋(不明/打井川字)
柿ノ木橋(不明/打井川字)
馬の助橋(不明/打井川字)
トコロバエ橋(不明/打井川字)
スダノダバ橋(不明/打井川字)
クスノサコ橋(不明/打井川字)
中谷橋(不明/打井川字)
こさて橋(不明/打井川字)
マシガ谷新橋(不明/打井川字)
マシガ谷橋(不明/打井川字)
馬畑橋(不明/打井川字)
成川1号橋(不明/打井川字)
成川2号橋(不明/打井川字)
赤瀬橋(不明/打井川字)
■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)
・口打井川
ハヤシ(寺谷158-18・寺谷川)
行司田(井ノ谷1574-4・ 井ノ谷川)
ショジョ谷(ショウショウロ1560・ショジョ谷川)
・中打井川
大谷(幸次郎14・大谷川)
喜蔵屋敷(キゾウヤシキ645・市の又川)
楠ノ木谷(楠ノ木谷1523・楠ノ木谷川
ウエマツ(植松165-1・植松谷川)
・奥打井川
マシガ(マシガ谷113・マシガ谷川)
馬ハタ(佐賀道1671-14・ウツボ谷川)
奥切(引カクシ1189・引川)
灰床(灰床谷1263・イヅガ谷川)
東日の谷(東日の谷918・日の谷川)
宮ヶナロ(宮ケ谷1324・宮ケ谷川)
上谷(上谷1645・足川)
鳥打場(東井ノ又1637・井ノ又川)
影平山(影平山1448・カイガイシ川)
ナル川(ナル川724・ナル川)
小ナル川(小ナル川1618・小ナル川)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 39県道大方大正線
県道大方大正線は、JR打井川駅前の国道381号線から四万十川を渡り、打井川から四万十市境の鳥打場を経て黒潮町上川口(旧大方町)に至る道である。また、途中から黒潮町佐賀(旧佐賀町)へ向かう県道住次郎佐賀線に分岐している。鰹漁の町として知られる佐賀は、藩政期には御蔵米を保存する蔵があり、中世から幡多地域の重要な港であった。
古来より打井川と佐賀との間には「佐賀道」と呼ばれる往還があり、四万十川中流域と太平洋沿岸を結んでいた。この道を通り、大正地域で生産された林産物が佐賀港から廻船で高知や京阪神に、また、佐賀港に陸揚げされた日用雑貨・呉服類・海産物が大正地域に運ばれた。
打井川と太平洋沿岸とのつながりを示すものに、県道住次郎佐賀線に鎮座する「道文神社」がある。道文神社は、元弘の変(1331年)で土佐に流された孝良親王の臣下で、親王の命を受けて上京の途中この地で病死した「秦道文」を祀っている。腰から下の病にご利益があると言われ、佐賀や大方からこれらの道を通り多くの参拝者が訪れた。県道大方大正線が四万十川を渡る場所は、かつて渡し舟で往来していたが、沈下橋の時代を経て抜水橋が架けられた。地域住民の生活道であるとともに「道文神社」の参拝道として利用される重要な道である。
■高知県防災マップ
中ゴヤ谷川(422-81-202)
一本松谷川(422-74-208)
大向谷川(422-74-207)
■四万十町広報誌(平成19年12月号・令和3年6月号)