小野

おの

20150630初

20170312胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の小野村と大井川村の簿冊に小野村地検帳として記録されている。検地では、小野一村分として地高がまとめられており、当時は本村としての位置づけと思える。小野村の枝村は窪川村(久保川)・細々村(河内)・大道村(大道)・井崎村(井﨑)がある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「小野村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡四手村、大井川村、野々川村、轟村、津賀村、茅吹手村、浦越村、黒川村、小野村、久保川村、大道村、細々村の上山郷下分12か村が合併し「西上山村」が発足し、小野村は大字となった。

 昭和3年(1928)11月10日、幡多郡西上山村は改称し「昭和村」となった。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内の班・組編成は、上組(かみぐみ)、庄屋組(しょうやぐみ)、中組(なかぐみ)、共栄組(きょうえいぐみ)、住宅組(じゅうたくぐみ)となっている。 

 

【地誌】

 旧十和村の中央部。東は久保川、南東は河内、北から西は十川に接する。四万十川が東境から湾曲して北寄りを西流し、北に櫓木山、南に城ノ森、東に曽我の森、細々瀬、西に小貝瀬がある。過去には多くの出稼者を関西方面に送り出したという。十川に近く比較的平地も多いことから転居し住宅を建てる人も多い。四万十川右岸を国道381号およびJR予土線が通る。左岸には町道が通り、中央部には久保川と結ぶ小野橋が架かる。地内の四万十川はアユ漁の好漁場で過去に全国アユ掛け大会が行われた。実習農園も整備されIターン者などの農業を学ぶ拠点施設となった。地内には生活改善センター・大型揚水施設・町営住宅などがある。また地内西に川鎮地蔵がある。社寺には曽我神社と曹洞宗願成寺がある。また縄文時代の小野遺跡、近世社寺建築上重要な資料を発掘した小野曽我ノ森遺跡がある。南部の琴平山には中世古城跡1か所が確認されている。主な年中行事には伊勢踊り・施餓鬼供養・地蔵祭・お茶屋上げ・お日待様・ヤクゼン祭などがあり、多くの小祭りが残っている。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上段、西流する四万十川の左岸が小野地区)

 

【地名の由来】

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 洗場口、幾屋敷、池ノ谷、石神、石橋ノ上ミ、井戸ノ上、岩ガラ、大久保山、大谷、大ツエ山、上川津、キノク山、栗ノ木谷、皿走山、地蔵ノ上、志ノ津池口、シノヅノ上、シム子山、下川津、シモダバ修正田白皇神田、スミノゴミ、瀬ノ上、曽我ノ上ミ、曽我ノ森、竹藪、太夫畑、寺中寺屋式、直平屋敷、ナガザコ、中瀬ノ上、中谷、ナカラシ山、西上川津、西ヤシキ、ヌタクボ、萩高、東上川津、彦三屋敷樋ノ口、ヘンロクヨヲ、松サコ、南駄場、柳ノ久保、薮ヶ谷、山麦田、横畠、與セケ谷、與セゲ谷、櫓木山、蕨川谷、ヲケゴデン【54】 

 

【ホノギ】小野村:枝村/細々村、窪川村、鍋谷、ホキ村、井崎村、柳瀬村、鮎古村

※「幡多郡上山郷小野村地検帳 合慶長弐年三月八日」は小野内細々村、窪川村から小野村へと検地は進む。小野村を終えると枝村となる鍋谷、ホキ村、井崎村、鮎古村、柳瀬村と四万十川左岸を進む。ここでは小野地区の分のみ記載する。

〇土佐国幡多郡上山郷地検帳・小野村地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年3月8日?)

 ▼小野村(p226~231)

 石ノ内、宮ノハキ、コマタノヤ■■、修正田、大タ谷田、土橋、ホリ明、キシノ下、曽我神田、イケノ上、柳ノクホ、竹ノソナ、ワラヒ川谷、谷川閑地、谷川南地、ヒノクチ、谷川西地、名本ヤシキ、エンノ中

(p231~235)

 左馬進ヤシキ、寺中(願成寺)西ヤシキ、ツルイノスソ、中谷、松ノ下、下ウ子、白王神田、東谷、彦三ヤシキ、新開、ケツカウタ、大明神田、松ノハサ、タハタ谷、下タハ、スケサハ、下ハサ、山麦タ

【久保川側】

 コウコ谷松サコ、■キ 

 

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【通称】

・沖のウネ:小野の村落の西の丘陵地に曹洞宗の寺院、願成寺がある。この願成寺に接して曾我神社の社殿がある。実はこの曾我神社は明治三十二年まで、小野の村落の東にある「沖ノウネ」にあった。沖ノウネは通称の呼称であるが、四万十川に接して出来た沖積地である。この沖積地の最高地に古い曾我神社は存在した。この沖積地は現在十和村小野字曾我の森(曽我ノ森)となっている。(十和村史p141)

 

【山名】

 

 

【河川・渓流】

四万十川(河川調書)

大谷川(ゼンリン社)

蕨川谷(ゼンリン社)

シラヒゲ谷川(ゼンリン社・防災マップ425-72-235

 

瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

  

   

【屋号】

※小野地区は屋号が多いというので、現地踏査で明確にしたい。

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

曾我神社/120そがじんじゃ/鎮座地:寺屋式 ※村社

(旧:八幡宮)/124はちまんぐう/鎮座地:大ツヘ山

八坂神社/125やさかじんじゃ/鎮座地:寺屋敷

大山津見社/128おおやまづみしゃ/鎮座地:ヲケゴデン

琴平神社/129ことひらじんじゃ/鎮座地:與セゲ谷

天神宮/131てんじんぐう/鎮座地:白皇神田

白鬚神社/132しらひげじんじゃ/鎮座地:與セゲ谷

八幡宮/133はちまんぐう/鎮座地:大ツエ山 

 


現地踏査の記録

 

 

■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)

第2章 四万十の村々を歩く

4、小野(p37)  国重要文化的景観の集落

 国の重要文化的景観「四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来」の構成要素に指定されているのが、四万十町十和地域の小野集落である。対岸の国道381号、予土線から台地状に広がる四万十川沿いの美しい棚田と集落を見ることができる。古老への聞き取り調査を元に、戦国末期の村の景観を復元し、昭和期の生活誌を記す。

(一)『地検帳』に見る村落景観(図12)

(1)集落

 上山郷下分の一村である中世の小野村は、慶長2年(1597)の『地検帳』(上山郷地検帳)では江戸時代の小野村のほか細々・大道・窪川・ホキ・鮎古・柳瀬・井崎の諸村を含んでいた。現在の大字・小野にあたる小野村を見ると、屋敷地は「ワラヒ川谷」1軒、「ヒノクチ」2軒(名本ヤシキ)、「寺中」(4軒+願(がん)成(じょう)寺(じ))、「下ウ子」1軒、「彦三ヤシキ」3軒の計11軒である。ヤシキの間に畠が見られ、集落は散居的な景観をしていたと推測される。

(2)土地開発・水利

 『地検帳』に見える田地は西から「修正田」(16筆)「イケノ上」(3筆)「竹ノソナ」(4筆)「ワラヒ川谷」(7筆)「ヒノクチ」(4筆)「寺中」(2筆)「下ウネ」(7筆)「彦三ヤシキ」(3筆)「ケツカウタ」(5筆)「□々□ノ上」(1筆)「タハタ谷」(2筆)「下タハ」(1筆)「スケサハ」(1筆)「下ハサ」(1筆)「山麦タ」(1筆)「コウコ谷」(2筆)である。集落の西側の田は水量の多い蕨川谷からの利水である。「ワラヒ川谷」「ヒノクチ」など谷沿いの谷田のほか、池と谷の水を利用した「修正田」など谷の開口部にも水田が広がっている。中央や東側は、与セケ谷やシラヒゲ谷など小谷の水を利用したと考えられる。現在多くの棚田が広がる中央部の白皇神田は『地検帳』の「下ウネ」に比定され、1代~1反の小さな棚田があったと推定されるが、利水の問題で小規模な開発しか行われていなかった。山裾には切畑、田の間には畠が多数散在している。

(二)昭和期の村の暮らし

(1)地名

屋号 ほとんどの家に屋号がある。いわれのある屋号を上げると、「デミセ」(書店)、「瀬ノオカ」(船大工)、「チョンゴロ」(意味はよく分からないが、家から古い着物が出てきたという話がある)、「ヤブノハタ」(近くの川に藪があった)、「シラオ」(白皇神社の側)、「マツバ」(昔はマトバと言っていた。松の下から弓を引いていたという話がある)、「ヌタクボ」(もう1軒裏にも昔は家があった、猪がヌタ打ちよった)、「沖ノネ」(四万十川沿いの通称「島」(曽我ノ森)に家があったが水害で上がってきた)、「フルドイ」(名本の家)、「イバ」(射場があった)、「ナカマ」(みんなで集まった所だから仲間)、「シンヤ」(新家)、「アガリト」(船よけの意味か)がある。

カゴ谷 水がなくてザルだからカゴ谷。

与(よ)セガ(ケ)谷 谷奥でも田んぼをつくっていた。

山ノ奥谷 普段水はあまりないが、ウナギは住んでいた。

下山(したやま)ノ奥 補助整備で田はなくなった。谷の両側に田んぼがあった。昔は周辺には下山ノ奥あたりにしか田んぼはなかった。

大田 池の下にあった田んぼ。昔は深田で牛も入れんほど深かった。牛の腹が浸かるくらい。

龍がいた池 大田にある池。龍がいたと伝わる。水を取る池ではない。

ダバ 部落の共有地で草刈り場。カヤがあったが、焼いたりはしていない。黒牛をつないで飼って放牧地になっていた。戦後すぐには5~6匹を放牧していた。2町分あり今も出役で草刈りをする。時々水に浸かる。かつてはキャンプ場、ゲートボール場になっていた。

石橋 広い石橋があった。今の本道は昭和25・26年(1945・46)頃に掘られた道路。今の道路の下にも畑のふちを通る道があった。今の道路より上に昔の往還はあった。

庄(しょう)屋(や)地(ぢ) 庄屋さんが管理していた土地。田んぼでワラビコ(蕨川谷)から取水していた。

瀬淵 四万十川には「上瀬」「中瀬」「下瀬」がある。上瀬と下瀬は漁業組合も別。石垣を積むのに石を割って無くなったが、「中ゾウ」「コカイ(瀬)」もあった。

松サコ ロギ谷山・松サコには松の木がいっぱいあった。谷下へ落として出した。

(2)集落・土地開発

 江戸時代は現在の大字・小野と同じ領域が小野村と呼ばれた。18世紀半ばの『寛保郷帳』では家数46、人数259、馬10、猟銃7、享和元年(1801)の『西郡廻見日記』では家数45、人数235、牛馬20、留山1、猟銃3となっており、11軒から急増している。19世紀初頭の新田高105石余(『西郡廻見日記』)に対し、戦国末期の本田高は122石(『元禄郷帳』)で水田は江戸時代を通して2倍に増えている。また、『西郡廻見日記』には「御用紙」「御用楮」「御蔵紙」が貢物として記されており、これら楮の採集と紙生産が盛んになったことも集落拡大の要因になったと推測される。近代に入っても戸数は増加し、戦前には66戸。昭和50年代後半には84戸まで増えているが、現在は70戸まで減少している。

 古老の話では、戦前田んぼは少なく、谷の水と「シラヒゲの池」「ヨヤガ谷の池」「ナカノ池」(昭和12年(1943)ごろについた大きな灌漑池)、「上ノ池」(大田から下の田んぼに給水)の4池から水を引いて米を作っていたという。徐々に石垣をついて棚田にしていった。

 集落は「上組」「中組」「共栄(きょうえい)」「庄屋組」。「共栄」は「下組」とも言う。部落会で提案されて付けられた名前。集落には鍛治屋はなかった。外から来た人が1軒製材をやっていた。店は小野大橋の近くに「芝の小店」「八木商店」「芝商店」の3軒あった。

(3)宗教

地蔵の祭り 地蔵ノ上にお地蔵さんがある。向かいの十川と一緒に8月24日に川鎮めの祭りをする。昔は十川の人も一緒に集まり酒を飲んだ。

曽我神社・八坂神社の祭り 曽我神社(元宗我大明神)の祭礼は7月20日と11月20日。同じ敷地にある八坂神社(元祇園社)とお祭りする日は同じ。集落の全員が両方の氏子でもある。2017年は別の日に祭りをした。八坂神社は元々11月21日が祭礼日。曽我神社の祭りでは花取り踊りを踊る。曽我神社は「宮地」(曽我ノ森か?)にあったが水害で流されて上がってきた。曽我神社の脇に牛鬼の骨組みがある。出場札が掛けられていて「昭和●年」に鏡川祭(高知市)と四万十川祭に出馬したことが墨書で記されている。

天日八幡の祭り 1815年の『南路志』には「天日神」とある。旧暦8月15日が祭礼日。子供相撲がある、昔は大人も相撲をやっていた。

願成寺 元は旧大正町田野々の五松寺末寺で『地検帳』にも願成寺が見える。明治4年(1871)に廃仏毀釈で廃寺となるが、明治13年に再興。鎌倉初期の武士・曽我兄弟の位牌(明治34年(1901))が残されているが、寺や曽我神社との関係は不明。寺の敷地に大日堂、住職のものとみられる宝塔群もある。宝塔の間に中世の五輪塔の水輪が1基転がっている。

他の神々 集落では他にも「山神」「シラヒゲ様」(シラヒゲ神社)「金比羅さん」「白皇さま」(白皇神社、敷地内にシイなど色々な木が生えていた)を祀っている。

(4)生業

キビが主食 昔は田んぼが少なく米がないのでキビが主食。米は店で買ってきていた。田の畦には青大豆を植えていた。圃場整備が行われたのは昭和60年代から。昭和63年、平成元年、同2年とやった。

 昔は多くがキビ畑。キビを食べて育った。畑にはサツマイモ、麦、大豆、小豆も植えた。

焼畑 切畑はほとんどやっていなかった。昭和初期の生まれの人は少しだけ火入れをして焼畑をした記憶がある。ミツマタやガンピは作っていない。

紙漉き 楮は野原に生えていた。集落には紙漉きが多かった。十川の南さんが楮を買い付けて(仲買)、20人くらい人を雇ってセンカ紙(がみ)(がみ)を作っていた。紙漉きと出稼ぎ、山仕事をする人がほとんどだった。

牛馬 馬は見たことない。牛の売り買いをするばくろうは小野にもいたが、愛媛からも来ていた。

山は林 山にはクヌギ(ナバ(椎茸の原木))、ナラナバ(椎茸の原木)、シイの木、カシの木が生えていた。大きな松の木は切って売っていた。

山師 戦後すぐの頃、小野にも山師がいて、裏山を切って集材をしていた。木を切った後に松の木を植えたが、今は松食い虫でやられている。

養蚕 蚕は本格的にやった人が何人かいる。桑も作っていた。

炭焼き 集落で炭焼きをやっている人もいた。窯跡が今も山の中にある。

(5)交通・流通・娯楽

筏流し 戦前には小野にも筏師がたくさんいた。筏が着くのは久保川側で小野の人もそちらから乗る。5つくらい丸太の筏を連結させて流していた。

竹の浮橋 沈下橋がある場所に昔は孟宗竹を束にした浮橋があった。地元の芝さんの発案だった。橋は水で流れることがあった。何回か木橋になってそれから沈下橋ができた。

船渡し 沈下橋ができる前は、船渡しがあった。部落の出役で持ちまわりで各家1人、全戸で回した。外の人が乗る時は10円くらい払ってもらっていた。船は漕いで渡した。対岸の久保川小学校の児童は大水が出て川を渡れない時は、お寺の裏の公会堂で自習をしていた。

川魚 四万十川にいた魚はウナギ、ハヤンボ、イダ。カワエビは多少取ったが、ツガニはあまり取らない。鮎は川舟にのって鮎掛けをして販売していた。鮎を捕って仕事になった

四万十川 川は地形的に変わっていない。水量も変わっていない、むしろ多いくらい。

セキ番 昔はセキ(ヤナ)を川に掛けて魚を取った。2人でやる。組合に入っている人で捕る順番を決めた。「セキ番」という番人がいて取れた魚をみんなで分けた。大きなウナギも入っていた。販売するというより、皆で分けるだけのものだった。

青年団 地元の青年団で地芝居をやっていた。西畑人形芝居が来て公会堂で1日公演をしたこともあった。

災害 明治8年(1875)生まれのおばあさんが明治23年(1890)の水害の話をしていた。川を馬が流れゆうのを見た。お寺の下まで水が来たという話をしていた。

                                     (文責:楠瀬慶太)

聞き取り調査日:2018年5月22日

聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/楠瀬慶太・神田修・武内文治

話す人:松下忠因さん(昭和10年生まれ)

伊藤郁夫さん(昭和13年生まれ)

 

  →書籍は当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ

   

 

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■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2020令和2年)

第1章 四万十の地名を歩く

4、地名語彙からムラを読み解く 

 地名語彙のカテゴリー分類により、四万十川中上流の四万十町域で使われた地名の全体像が把握されたところで、各集落の小字分布からムラの景観や暮らしを読み解いてみよう。ここでは、四万十町窪川地域の大字・金上野と十和地域の大字・小野の小字分布を分析する。 

(2)小野(p13)

 次に四万十川中流沿いの小野集落の小字分布を見る。まず宅地に関する地名の分布を見てみると、河岸段丘状の低地部に横方向に分散して所在している(図11)。金上野と同様に人名を冠したものが見られる。一方、「田」に関する地名は、山下の河岸段丘の上部に多い(図12)。現在、棚田が展開する河岸段丘中央部には「白皇神田」のみである。「神田(じんでん)」は中世庄園でよく使用される用語で、白皇神社の祭礼の費用に充てた田と推測される。一方「修正田」は寺が正月3日ないし7日に国家安泰や五穀豊穣を願う仏事「修正会(しゅしょうえ)」の費用に充てた「寺田(じでん)」とみられる。「寺屋式」「寺中」と関連の深い地名である。「山麦田」は「栗ノ木谷」の開口部、「修正田」は「池ノ谷」の開口部にあるいずれも谷田である。ここでも谷部の田の開発が早かったことが推測できる。

 自然的要素の接尾辞を持つ地名を見てみると、半円状になった河岸段丘中央部の比較的広い平地を「クボ」(柳ノ久保、ヌタクボ)と呼び、半円端部の小さな平地は「ダバ」と呼び、平地の語彙でも呼び分けがあることが確認できる(図12)。

 小野集落では、居住空間に宅地の地名が多く密集し、その周辺に田や地形を表す地名が所在し、景観に対応した地名分布が確認できる。

(3)小結

 住民が長年使ってきた「地名」は、ムラの生業や開発、景観の痕跡が刻み込まれた歴史資料である。集落調査に地名を活用する際、まず広域に地名語彙を分析し、また大字単位で集落内の地名分布を読み解くことで、特徴的な生業や開発の過程、景観の特徴など集落の概要を知ることができる。こうした理解に加えて、集落に記した文献の調査も重要である。すでに明らかになっている集落の歴史文化の知識を収集することで、現地調査で古老へ聞き取りをする際に、何を聞けばよいかという調査の視点を得ることができるのである。                           

(楠瀬慶太)

 

 


地名の疑問


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(幡多郡上の1p226~235/検地:慶長2年3月8日

 検地の簿冊は「土佐国幡多郡上山郷地検帳 小野村 大井川村」に「小野村地検帳」と記されている。 

 慶長2年3月8日(1597年 4月 24日)細々村の「カミホキ」から始まり、窪川村の「タシロ」から、小野村の「石ノ内」へ渡っている。

 地内の検地は四万十川左岸上流部から始まり、隣の鍋谷、ホキ村、井崎村、柳瀬村、鮎古村へ移る。

 細々は今の河内地区、細々村、窪川村、鍋谷、ホキ村、井崎村など、当時は小野村の枝村であった。

 現在の字に比定される順にしめすと「修正田」「曽我の森」「柳ノ久保」「蕨川谷」「樋ノ口」「寺中」「西ヤシキ」「彦三屋敷」「シノダバ」「山麦田」と久保川側の「松サコ」がある。

 検地高は枝村を含め括られているため、後日集計して示す。

 寺社は、願成寺、曽我神社がある。 

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p337)

 小野村の四至は、「東限窪川境西限鍋谷南限大杖北限登宇之巣東西四十町南北二十町戸凡五十其土赤黒」

 山に、呂岐谷山(※ろしだにやま:在村北禁伐)

 寺社に、願成寺(号常楽山)、蘇我大明神 ※曾我神社については「十和村史p141~」に詳しい

 古蹟に、城跡(不知何人居)とある。

 

■寛保郷帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高122.315石、戸数46戸、人口259人、男127人、女132人、馬10頭、牛0頭、猟銃7挺

 

■南路志(1813文化10年)

222小野村 地百二十一石九斗九升三合

宗我大明神 ヲキノウネ 祭礼十一月廿一日

 籠物靏一ツ 銅之巻付也 鉾五十本 ○川内大明神・若宮明神 両社境内ニ有

天日神 チワキ淵 祭礼十二月廿二日 籠物鉾七十六本

祇園社 フロノ谷 同 八月十五日

風天王 祇園境内 同 九月十五日

常楽山願成寺 禅宗洞家五松寺末

 本尊阿弥陀仏 ○天神社 鎮守境内ニ有

 

■ふる里の地名(1982昭和57年)  ※要約としたので詳細は本書を

 ・大字小野(p19)

 吉田茂樹書『日本地名語源事典』には「「神武期(※紀)」に小野がみえるほか、上代から全国的に分布する地名。これを「ヲノ(小野)」で、小さい原野とのみ解釈してはならない。「ヲ(小)」は単に接頭語で用いている場合が多く、広い原野でも、美称として「小野」を用いる。」ととある。室町時代中期の永正9年(1512)の蘇我大明神(現曽我神社)の棟札に、又慶長地検地にも、小野の性の人物が出ているが、小野の性は、小野の地名からつけられたのではないか。

※地名と姓名とは大いに関連するものであり、苗字の90%は地名からきていると丹羽基二氏は30万の苗字の研究から割り出している。対岸の大野と小野との関連で解釈するのも一一法かと。

 ・横畠(p20)

 字「修正田」上ミの横に長い畠で、南向きの暖かい日受けの良い土地である。上下の幅がなく横に長くその名がある。横に広がった畠の意。

 ・池ノ谷(p20)

 明治19年及、同23年両度の大洪水により埋没した「志野津の池」という池あり、その池に流れ込む小谷を「池ノ谷」と云いう。福蛇にまつわる伝説もある。

 修正田(p19)

 蛇行した四万十川の突出部に位置し、四万十川の増水時には、何時も田畑が水害により流出し、その度毎に当時の百姓が苦労して田畑を改修した事により「修正田」と呼ぶようになった。慶長地検帳にも「修正田」とある。

※田畠の改修から修正田となったと由来を述べているが、地検帳にあるホノギなので当時の「修正」の読みと意味合いを考慮しなければならない。 

 地検帳には「田」の前にその田の内容を説明する用語が加えられる。例えば、方向を示す「南田」「下田」、開拓者や耕作者示す「与一田」「藤次タ」、状態を示す「ひとせまち田」「ヲンジ田」、性格をしめす「門田」「なり田」などとともに、寺社の運営や儀式の費用に充てるための「神田」「仏供田」「彼岸田」などがあるが、「修正田」はこの寺社の儀式運営にあてるためのホノギ(地名)ではないか。このホノギ「修正田」の耕作関係は「願成寺扣」とある。

 東大寺の法会に修正会がある。「しゅしょうえ」と読むがこの正月行事の費用に充てるための田ではないかと考えるが、他の地検帳でのホノギ例、仏供田の例、願成寺の歴史などから判断しなければならない

 十和村史には修正田について「願成寺が近くにあることから寺院主導による中世の開拓」と推理している。 

 曾我ノ上ミ(p19)

 曽我神社の元鎮座所であった森の川上の地。そのために「曽我ノ上」という。南路志には「沖のウネ」とあり、明治23年の古今未曽有の大洪水で流失する。三戸の住家及田畠があり、慶長地検帳に「宮ノワキ」※とある。

※刊本慶長地検帳には「宮ノハキ」とある。写本時の誤記載かもしれないので原本を読む必要がある。ただ、検地の流れから判断すると「宮ノハキ」はもっと上流部であり、比定地とするホノギは「曽我神田」若しくはそのあたりではないか。

 志野津ノ池口(p19)

 「池の谷」の項参照。その池の出口に位置し、「志野津ノ池口」と云う。別名を「大田郷」という。昔の頃では、一番広い水田であった所。慶長地検帳に「大タ谷田」とある。

 シノヅノ上(p19)

 「志野津ノ池」の上方に位置する土地から「シノヅノ上」という。昔は人家の並んだ所で「野中マイ」ともいった。慶長地検帳には「イケノ上」とあり、シノヅの池の上に当り「シノヅの上」又は「イケノ上」と呼ぶようになった。

 ヲケゴデン(p19)

 吉田茂樹著『日本地名語源事典』によれば「樋桶を置いた狭い丘陵地の、谷間を「桶狭間」と称する」とある。ヲケゴデンは、狭い丘陵地の谷間にある田を意味していて、現状と一致する。又、通称「竹のハザ」ともいうが、慶長地検帳には「竹のソナ」とある。「竹のソナ」が転化し「竹ノハザ」と呼ぶようになったもの。

※現在では桶狭間のヲケについて、古くは「洞(クキ)」と呼ばれた場所のクキがやがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じ、これに谷間の地形を指す「ハサマ」と結合し「ホケハザマ」「オケハザマ」となったというが、これも推論ではある。

※この「ヲケゴデン」、狭い丘陵地の谷間にある田であることは間違いないが、「ヲケ」を桶狭間の桶と理解して「ゴデン」は「御田」という意味になるのか。

※「竹のソナ」「竹ノハザ」の位置が判然としない。

 蕨川谷(p20)

 昔人家の少い時蕨川家の者が、飲料水や、物を洗うため使用し、その名が出たか、判明し難い。通称「ワラビゴ」と云う。慶長地検帳には「ワラヒ川谷」とある。

 洗場口(p20)

 小野城跡の南側の谷、「蕨川谷」の上流に位置し、古来より村人が生活用水として、飲料水や、物を洗う場所として利用した所。アライは(新居、新井、荒井、洗井)とも書き広く分布している地名と云う新しく開拓して居住した場所、新しく掘った井戸、井泉との意もある。此洗場は物を洗ったりした場所とした方が適切である。昔城の住人達が飲料水や物を洗う場所として使用していたと云う。

 ヌタクボ(p20)

 小野が未開の頃、此の所に、猪やケモノのヌタがあり、窪になっていて湿地帯であった。ヌタが多くあった所で此の地名が出た。

※タイムマシンで見てきたような解説である。このあたり、未開でもないのにヌタはあちこちにあり猪には悩まされる。

 寺屋敷(p20)

 中世の天文年間、此の地に常楽山願成寺を建立し、以来今日に至る。寺院屋敷の在る所故「寺座敷」の名あり、慶長地検帳には寺中とあるも、寺中と云はれる所が広く、「寺屋敷」「寺中」の二ツの小字に分けてある。地検帳によれば、常楽山願成寺の耕地、扣(控)地、ヤシキ、寺中を合せて、一町四反三十一代三分の所有地があった事が記されている。

 樋ノ口(p20)

 水回に蕨川谷の水を、樋にて引込み稲作の栽培をした、その樋の引込口が、多数ありたる所で「樋ノ口」と云う、現在は水路(井出)に改修している。慶長地検帳に「ヒノクチ」とある。

 南ノ駄場(p20)

 吉田茂樹書、日本地名語源集によると(駄場、駄馬)は愛媛、高知の四国西南部にみられる、方言的地名、崖地や山地の小高い所をダバと称する、とある。小野の中心部より南の位置にありて、小丘陵地の小高い岡の上の平坦地でその名がついた。

 石橋ノ土(p21)

 蕨川谷の谷口に近い旧道(現村道小野線)に、幅2メートル、長さ3メートル、厚さ3センチ程の大きな石橋があり、その石橋の上ミに位置する地域を「石橋ノ上ミ」と呼称する。その石橋は戦後20年代、村道小野線建設の際破壊し石垣(コンクリート橋の橋台用)に使用した。慶長地検帳に「土橋」とある。

 曾我ノ森(p21)

 曽我の森は、元沖のウネと呼称した。室町時代の文明3年(1471)、この地に蘇我大明神を祭記する。明治32年、現在地に移転勧請するまで428年間、小野の鎮守としてこの地に鎮座した。四万十川畔に広大な社地を有し、大木生い繁り鬱蒼とした森をなしていた。南路志に「沖ノウネ」とある。

 柳ノ久保(p21)

 蕨川谷の谷口近くの窪地。この谷川の岸に柳の木が多く繁茂していてその名がある。江戸時代小野村庄屋が所有していた土地が多く、「庄ヤ地」ともいう。慶長地検帳に「柳ノクホ」とある。

 西ヤシキ(p21)

 現在の蕨川岩太氏宅を古来より西と呼ぶ。慶長地検帳にも「西ヤシキ」と出ている。別に本家が東か南にあり、分家が西側に家を建て、別家したのを「西ヤシキ」と呼ぶようになったのではないかと思われる。

 中谷(p21)

 小野の中間位の位置に小谷があり、その谷を中谷という。その谷にちなんでその周辺を「中谷」という。。慶長地検帳にも「中谷」と記載されている。

 幾ヤシキ(p21)

 昔この所に幾次という者の家屋(敷〉があって、その名が小字名となったものである。

 中瀬ノ上(p22)

 小野地域内に三ヶ所の四万十川の瀬がある。上流に位置する瀬を「上ミ瀬(細々瀬)」という。下流の瀬を「下モ瀬(小貝瀬)」と云い、中聞に位置する小さな瀬を「中瀬」といい、その「中瀬」の上方からの地名

 白皇神田(p22)

 白皇神社があり、その神社の名に由来する。慶長地検帳に「自皇神田」とあり、白皇神社の神田があったことが記されている。

 彦左屋式(p22)

 上山郷を領した田那部の末裔が彦助で小野村に居住する。小野村には本家、分家の両田辺家がある。その両田辺家の住んでいた家屋敷があったことから「彦左ヤシキ」と呼ばれた。別名「田辺地」ともいう。田辺彦助の墓が小野彦左屋式にある。慶長地検帳には「彦三ヤシキ」とある。

 シムネ山(p22)

 曽我神社、元宮司蕨川家に正八幡勧請の時(明治3年8月10日)の古文書があり、その中に「志牟根山」に勧請とある。しかし、志牟根山とは何を以って志牟根山としたか、その真相を知る人はいない。

 井戸ノ上(p22)

 耕地の中に、清水湧き出る共向井戸があり、その井戸の上附近を「井戸ノ上」という(現在は形のみ残る)。一説には、明治7年2月江藤新平,九州佐賀の乱を起し、戦いやぶれ土佐に逃れ田辺家を頼り上山郷小野を訪ね、この井戸水で、のどをうるおしたという説あるが定かではない。

※江藤新平は鹿児島から宇和島に上陸。中村に越え、下田浦から海路桂浜に渡り高知に潜入とある。西土佐からどのルートを選ぶか。逃亡者にしかわからない。

 ヨセケ谷(p22)

 古くは、植物のヨセが繁茂していた湿地帯であった。日本地名語源事典の「与瀬、余瀬は各地に散見され八瀬の転化で、多く川瀬、多くの早瀬のある所。」とあるが、植物のヨセの方が正しいと思う。又この地名の中に「ケッコウタ」(慶長地検帳のホノギ)がある。天明の大飢饉のとき呼ぶようになったと云う。

 スミノゴミ(p23)

 古くから、スミ(木炭)を焼いたところで、炭屑等が多く出土した。スミクヅをスミノ芥といい、芥捨て場にちなみ「スミノゴミ」という。

 皿走山(p23)

 口伝によると、昔(年暦不詳)この山が、山津波(大ツエ) により大崩壊したという。人家もろとも四万十川へ立木も押し出したという。まれにみる大ツエであったというが、なぜ皿走山と呼ぶようになったかは不明。

※「皿」は山から木を出す装置の「スラ」からきているのでは。

 地蔵ノ上(p23)

 寛政2年庚戌7月24日、十川向いの小野地内に、川鎮メの地蔵は多くあるが、「川鎮メ」とあるはこの地蔵ただ一基である。小野、十川両地区において、八月二十四日、念仏供養を行う。その地蔵の上にある地域で、地蔵に由来した地名。

 栗ノ木谷(p23)

 古来よりこの山は、栗の木が多く自生した所で、特に植林(人工造林)の少ない時代は非常に多く密生していたという。そのため、村人はこの地を栗ノ木谷と呼ぶようになった。

※植物地名、特に「栗」は刳る、「桜」は裂く、「梅」は埋め、「桐」は切るなど災害地名との関連もあるので注意

 下河津(p23)

 「下河津」、東・西の「両上河津」の地名となる河津の由来はさだかでない。ちがった考えかも知れないが、四万十川に流れでる河津谷の奥まった所で谷川の奥の津と云う事から、河の津、か「河津」になったのではないかとも思はれる。

 ナガサコ(p24)

 追は山の尾根と尾根の間の狭くなったところをいい、「蕨川谷」の源であるこの地は両側の山の尾根が長く突き出た間の谷の奥の部分に位置する。長く狭くなった谷間を意味する。

 キノク山(p24)

 大道で発掘した宝暦六年の手鏡帳の中に、小野村に古城跡ありとある。その「城ノ奥」山が転化して、キノク山となったものであろう。中世以前の城は柵囲いのものであったと思われるので柵ノ奥(キノサキ、キノオク)もあてはまる。此の山の頂上に地蔵尊あり、寛政3年(1791)の建立で、奉山鎮の文字が刻まれている。

 岩ガラ(p24)

 此の所は非常に岩石が多く、風雨にさらされ、亀裂した岩は、音をたてて落下し、危険な場所で、昔はよく山崩れがあったと云う。そのため「岩ガラ」と呼ぶ様になったと古老はい云う。

 大夫畑(p24)

 元、曽我神社宮司で、蕨川家が山畑(切り畑)を作っていた所で、神宮を大夫と呼ぶことから「大夫畑」と云う様になり、その名がついた。

 大ツエ山(p24)

 四万十川に面した北西向きの山で、切り立った崖地、音より大潰へが度々あり、「大ツエ山」と云う、その山に3ケ所程の呼び名の所あり。(竹ナジロ、天日、ゲンザイコ)

 萩高(p25)

 昔ハゲ山のため、ハゲ高山が転訛して、ハゲ高山と呼び、明治初年の地租改正の時萩高と書いたのか、知る人ぞなし。

 松ザコ(p25)

 山の尾根と尾根の狭くなった部を迫と云い、その尾根と迫に松が生い立ち多く密生していた。ヤセ地のため松の自生した迫、松のある迫、そのため「松ザコ」と云う。慶長地検帳に「松サコ」とあり。

 櫓木山(p25)

 藩政時代、此の山より、船の櫓櫂となる木を大量に搬出してその名がある。そのためか元禄7年お留山となり、藩の所有山となる。明治初年小野村に於て、小野村の入合林として払下げ方を届出で官評を得て、小野入合林となる。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

 p18:小野、四万十川、大谷川、蕨川谷、シラヒゲ谷川、小野大橋、常楽山願成寺、曽我神社、八坂神社

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 小野、小野大橋

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

皿走山(四等三角点:標高301.27m/点名:さらばしりやま)小野字皿走山30番地

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

小野大橋(久保川/小野)192.00 ※橋梁台帳では「河川名が久保川」

河内界橋(/小野)5.70

堀田橋(/小野)2.50

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 52小野集落

 小野集落は四万十川左岸に位置し、四万十川の河岸段丘上に中流域では稀な規模の耕地があり、その小高い丘上に民家や社寺が展開した、農業を生業とする集落である。

 この農地は、第二次大戦前後に行われた灌漑工事によるもので、それまでは、丘上の地形で水利が悪く水田が少ないため、農業を主体としながらも副業に生業を求めなければならず、それに筏師と紙漉きがあった。

 四万十川では河川流通が発達し、流域で伐採された木材は筏流しや管流しによって、河口の下田港まで運ばれた。対岸の久保川口には木材の集積地があり、そこから、小野周辺では最盛期には60人~70人を数える筏師が現れた。

 また、小野周辺では古くから周辺山地で採れる楮を原料に、晒の工程で四万十川を利用した紙漉きが行われていた。仙花紙と呼ばれるこの紙は、藩政期から昭和期にかけて高瀬舟で江川崎を経由して下田へ輸送され京阪神へ移出された地域の特産物であった。農閑期や筏による搬送が少ない渇水期になると、紙漉きは多忙を極めた。小野集落の景観は、四万十川奥山の山間で生産される農林産物の流通・往来と大きく関わりを持ちながら形成されている。四万十川中流域の農村集落の成立と流通往来の歴史を理解するうえで、欠くことのできない重要な文化的景観である。

 ・53小野の水田

  小野集落は、太平洋戦争前後の水田灌漑工事によって米作が大いに前進した。対岸の国道から集落を望むと、豊かな水田が四万十川左岸の丘状地に段状に開拓され、旧十和村の中でも特にまとまって整備された広い農地が展開する。

 小野のホノギ(字名)には、灌漑設備を示すと思われる「ヒノクチ」「ツルイノスソ」などがある。稲作は農業の中心であり、灌漑施設の整備は時代を通じて重要であった。小野の水田は、付近で採取された山石、川石を積み上げた石垣によって段状に開拓され、近年に整備された痕跡も見られる。

 現在は揚水施設が整備され、四万十川の豊富な水によって棚田が潤され、十和錦という良質米が生産されている。 小野集落の水田は、四万十川中流域における土地利用を理解するうえで欠くことのできない景観である。

 ・54曽我神社

 ・55八坂神社

 ・56願成寺

 曾我神社と八坂神社は、四万十川左岸小野集落の河岸段丘上の小高い場所の鎮守の森に並んで鎮座している。曽我神社は室町時代の文明三年(1471)に勧請されたと伝わっている。

 願成寺は、旧大正町田野々の五松寺を本寺と小野集落の寺屋敷に所在する曹洞宗の寺である。開山の年歴は不詳で、明治4年の廃仏毀釈により廃寺となったが同13年に復興し、現在に至っている。

 十和村史によると、小野集落はかつて十和地域の中心的存在であった四手城の城主で蘇我氏の末裔である中平氏の領地で、曾我神社はその祖神を祭ったものとある。また、小野村は小野、久保川(窪川)、大道、井崎地区で構成され、小野に庄屋が置かれていた時期もあった。さらに、一つの集落に3つの社寺が存在することから、小野集落はこの地域の中心的な場所としてその役割を担ってきたことが伺える。曾我神社と八坂神社及び願成寺は、四万十川流域において小野集落の形成とその役割を理解するうえで、重要な建造物である。 

 

■四万十町広報誌(平成19年10月号) 

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