かいと・がいち・がうち(垣内・〇ヶ市・〇ヶ内・〇ノ内)【栗木カイチ、中ヶ市、親ヶ内、木屋ヶ内、森ヶ内など多数】
語尾につくこの地名の語源は「カイト」地名で全国に分布する。将来、耕地化することを予定して囲った地域をいう。本来はカキウチ(垣内)で、カイト、カイチ、カクチ、コウチ、カイツケエト、カイドなど。ほとんどは語尾として使われ、語頭としては開発者、所有者の人名や所在地の方位や目標となる樹木の名を冠したものが多い。
かえでがわ(楓川)【平野】
平野の字名であり河川名(四万十1支川仁井田川2支川東又川3支川大井川4支川楓川)。付近に字名「カイテ川山」がある。長宗我部地検帳の平野村にはホノギ「カイテ川」があり中世以前の地名である。四国樹木名方言集には「和名カヘデ:方言カイデ(高岡郡下半山村)」とある。和名と方言名と両方が字名としてあることが面白い。津野町葉山地域だけでなくこのあたりにも流布された方言名であろう。同書には、カエデを方言でモミジという地域は高知県下各地にある。紅葉の総称をモミジとしたことによるのだろう。ただし、植物分類上はややこしく、モミジはカエデ科カエデ属となる。
モミジの語源は、木の葉が赤や黄に色づくことの古語「もみず」からきたもの。カエデの由来は、葉形がカエルの手ににているところから音韻が転訛したという。一般的には葉の切れ込みが深いものがモミジで、浅いものがカエデと区分される。
かげち(かげ地・カゲジ・影地・陰地・カゲチ山)【見付、野地、川ノ内、上秋丸、飯ノ川、志和峰、志和、下津井、久保川、大道ほか】
かげやま(影山)【七里地区の集落・行政区】
かしき(鹿敷)【】
地名用語語源辞典では①カシ(傾く)・キ(接尾語か)という地名②動詞カシグ(炊)の連用形「から、炊事に因むものかとある。
高知県方言辞典では①山小屋、または船の炊事係。かしぐ(炊)の名詞形で原義は米をふかして強飯をつくること。②春、山野にある草や新芽を刈って田に入れる緑肥。③田の畔などで草を刈ること。④刈っておいて乾いた枯草⑤田の中に入れる刈草とある。
田の緑肥とする「刈敷(かしき)」と「炊ぐ」の二つの意味がある。地名として付されるのは面的要素が必要な草刈り場としての「刈敷」となるか。
四万十町にはないがいの町の大字に「鹿敷」があり、小字名にコカシキ(大豊町桃原)鹿敷谷(土佐市北地)、カシキ山(四万十市田野川)、カシキヶ谷(宿毛市山奈町山田)などがある。カシキが樫木を意味することもあるから注意が必要だ。
かじやしき(鍛冶屋敷)【勝賀野】
長宗我部地検帳のホノギにには屋敷地名が多くあるがその一つ。鉄は武士や農民にとって大切な道具であり、鍛冶屋は重要な職業として位置づけられていた。〇〇ヤシキのホノギは、屋敷の格としての上・中・下や新屋、オモヤ、ウバを冠するヤシキ名や、居住者の名を冠して付されるものが多いが、鍛冶屋式や番匠屋敷、神主ヤシキ、名本ヤシキ、刀禰ヤシキのような職業名が付されたものもある。
高岡郡仁井田郷地検帳には「鍛冶屋ヤシキ(勝賀野)」「カチヤヤシキ(東川角・秋丸)」「カチヤシキ(榊山・見付・野地・弘見・与津地・奈路)」「カジヤヤシキ(親ヶ内)」がある。
かずけ(数家)【数神地区の集落・行政区】
四万十町東又地域の集落で行政区。明治9年(1876)7月、数家村と神野々村が合併し「数神村」となる。この13年後、明治22年の大合併で数神村も東又村に属することとなる。「数」と「神」の合成地名のためなじみも薄く、地元で数神と呼ぶ人は少なく、今でも行政区は明治9年以前のままである。
数家は、黒石川、与津地川、八千数川を集め堆積した東又台地の末端のくびれに位置するところ。その地形からスカ(洲処)説もすてがたいが、ここは春日(カズガ)や明日香(アスカ)の音韻に関心が寄ってしまう。神野々の地名や、奈路を越える遠山の景観など「霞立つ春日の里」にふさわしくカスカの転訛でないかと考えてしまう。
かたさか(片坂)【峰ノ上地区と黒潮町の境となる坂、郡境】
四万十町と幡多郡黒潮町の境となる急坂。藩政期以来高知城下と幡多を結ぶ中村街道で、商人、役人、旅人、遍路と往来は多い。土佐藩の刑罰の一つに追放刑があり『片坂限り西』がある。黒潮町側から片坂を上がると難儀な急坂ではあるが峰ノ上まで上りつめると窪川側にはこれというくだり坂がない窪川台地の平坦地、まさに片坂であることが由来だろう。
詳しくは片岡記者の高知新聞コラム「土佐地名往来(No244:2008年3月11日付)」を読んでいただきたい。
真稔著の最古遍路ガイド『四国徧禮道指南(1687)』には「峰ノ上村、片坂を下って、市野瀬村」。歩く記憶装置・松浦武四郎が17歳の四国遍路記『四国遍路道中雑記(1834)』には「峰のうへ村越而かた坂下りて一ノ瀬村」とある。
土佐の旅人・川村與惣太が峰ノ上で詠んだ歌が「越て行くをち方人の跡見へて 折敷のこす峰の椎柴」
片坂は、いろんな旅日記に書かれる程、記憶に残る難儀な坂、不思議な坂だ。
かつらだに(桂谷)【芳川】
かどた(カドタ・門田)【奈路、大正、打井川、市ノ又、大正中津川、木屋ヶ内】
中世土豪や豪農、旧家の屋敷地前面にある田畑。高知県に多く、地検帳では上田が多い。飢饉に対応するため早稲を多く植え、地区の惣田として利用されたという。免田の一種でモンデンともいう。村落における「門田」は、中世の村落の構成と機能を理解するうえで重要な地名の一つとなる。
地形地名のカドタ(角・隅・端の田)もあるので現地で確認する必要がある。
かみあり(神有)【仁井田地区の集落・行政区。江戸時代の郷村・神有村】
長宗我部地検帳にカメアリ村・カメアリ谷村、土佐州郡志に神有谷(村)・神有山とある。五社(仁井田神社、今の高岡神社)は三年に一度閏年に御神輿を船に乗せ縁故地である浦戸まで御神幸が行われた。「五社の神輿をここに止めて海上の平安を祈った。それで神集う、神在す-という意から起こった地名」と郷土史家の辻重憲氏は述べる(史談くぼかわ第5号)。神社明細帳の由緒にも同じように古老の云い伝えとして書かれている。地検帳では「カメアリ」とあるが検地役人の聞き取り間違いによる誤記載か不明である。
平成の合併で香美郡の名称はなくなったが、古来、延喜式では土佐國香美郡は「カカミ」と称していた。カミと短縮されたがもとは「カカミ(鏡)」の意である。信州・上高地も由来には「神降地」とあるように、カミの音韻は当てた漢字の神、上、香美だけでなくカメ(亀・甕)の転訛も考えられることから読みとくには難解である。
「亀有」と言えば漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が有名であるが、このカメアリ、中世は亀無・亀梨であったが無を嫌って亀有にしたという。もとは「カメナシ(瓶成)」で瓶の製造地をいったものであろう(日本地名語源辞典)。梨ノ木を「アリノ木」と命名するのと同じである。
現在の神有は、神有上と神有下の二つの集落からなる。四万十通信(2017.5月号)『ぶら~り散策』では「地検帳には、カメアリ村、カメアリ谷村、六反タ村、野田村、鉾ノ谷村の5村を併せて神有村」としているが、このうち六反タ村は六反地村の枝村と思われるが現在の字に該当する(比定される)地名はない。
かみず(上頭)【大正】
かみやしき(上屋敷)【】
長宗我部地検帳等の検地における宅地(屋敷地)の等級を上・中・下に区分した。
がやのき(榧の木)【与津地地区の集落・行政区】
からたにやま(唐谷山)【昭和△浦越/標高607.9m】
からす(烏)【古城地区の旧大字名】
長宗我部地検帳には十河内烏村(318筆)として検地されている中世以前からの地名。枝村として小城村(19筆)がある。
昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。合併調整に合わせて大字の名称を「烏」から「古城」に改めた(同じく昭和村の黒川を里川、四手を昭和、細々を河内、大野を十川に改めた)。
徳弘勝は十和村の地名を解説した『ふる里の地名』の誌上で”烏”について「山里の地形方言ーに土佐山村で岩がちな地形をガンマク。ユワガラ。広島でガラジ(石地〉といい、淡路島では、カラス(石原〉というらしい」と記述している(p79)。また、烏村の説明の段では、カラスの語源について「涸る・ス(栖)だったように考える」と述べ「香美郡野市町の烏川は雨があれば流れ、なければ水のない涸るス(栖)川だったと土地ではいっている」と野市の烏川の例を挙げている(p99)。
『地名用語語源辞典』でも「からす(烏。鴉、唐州、香良洲)①カラ(涸)・ス(州)②鳥類カラス科の鳥にちなむか」、「がらす①小石の土地。石原[方言]淡路島。ガラ・ス(接尾語)」とある。
「カラ」はガラ、ゴロ、カーラ、ゴーラは石のごろごろした形状の川・川原・平地をさし水の乏しい痩せ地や人の住めない土地を想起する。カラト、カロウトも類似した意味を持つと考える。「ス」は一般的には州で土砂が堆積して水面上に現れた所であろうが、巣や栖で住む所に通じることから場所を示す接尾語とも考える。
また、カラスは植物の接頭語として使い、人間が食べられないものとして区別する場合が多い。カラスイチゴ・カラスウリ。
長沢川の支流・烏川を流域とするこの地であるが、山深い狭隘な地に流れる小谷であり河原や涸れた川から命名される地形ではないようだ。
昭和32年(1957)の昭和の合併時に合わせて大字名称を烏(からす)から古城(こじょう)に変更をしたのだが『高知県市町村合併史』には変更の経緯を示す記録はない。この合併を機に、黒川が里川に、四手が昭和に、細々が河内に、大野が十川に変更されている。
旧村名を残そうとした意図の表れが四手を昭和に、大野を十川にとなったのだろうが、中世以来の地名である大野や四手の地名を消した過ちには変わりはない。烏や黒川は、その漢字が表す負のイメージを払しょくしたいという願いであったろうが、烏にはどのような意味があるのか検証する必要がある。
烏(からす)を英語ではクロウ(crow)とレイヴン(RAVEN)に分かれる。もちろん色名としては黒のこと。ところがもっと古く、1600年頃からレイヴンという黒の色名が知られていて、こちらは大型の渡り鳥のことをいう。漢字で鴉と書くのがレイヴンのことらしい。烏はありふれた鳥だが、黒い姿はどうしても不気味に思われるようで、色々な民族伝説で予兆を告げる鳥とされ、西洋では不幸の前兆とされているようだ(『色の名前』p266)
日本での烏は日本サッカー代表のエンブレムの「八咫烏」が有名である。神武天皇を熊野から橿原まで道案内した三本足の烏は熊野のシンボルでもある。熊野神社の御師が全国を廻って授ける牛王宝印にはカラスが描かれているが、水先案内としての烏のチカラを信仰したものだろう。三本の足は朝日と昼の光、夕日を表わし、行き先を照らし勝利へ導く象徴としてエンブレムに採用された。上山郷の郷社は熊野神社であるから烏は中世以前から関係があり、地名にもつけられたのだろうか。神がキジやハトでなくカラスが道案内役として指名されたのはカラスが賢い鳥として当時から評価されていたからだという。
韓国では「反哺鳥(ハンボチョ)」あるいわ「孝親道」と言って、カラスが大人になったら老いた親に食べ物を与える習性から、孝行心の深い鳥と称えられることもあった。新羅の神話「延鳥郎細鳥女(ヨノランセオニョ)」ではカラスを太陽の象徴としていた。中国でも太陽の精(吉鳥)として描かれている。
それが時代を経るにしたがって、死肉に群がる鳥、留鳥であることから農業生産物を餌とする一番の害鳥になったり、電柱に巣を作り停電の元凶となったり、夕暮れには不気味な群がりとなり糞害や鳴き声の騒音を引き起こすなどなどマイナスのイメージから「不幸を呼ぶ鳥」とされるようになったと言われています(『カラス学のすすめ』p14)。
カラスは童謡『七つの子(作詞:野口雨情)』、『夕焼け小焼け(作詞:草川信)』に登場する。かわいい子は夕方になったらお家に帰るのよと促すこの二つの童謡は、八咫烏と同じ役割で、いつも人との暮らしに寄り添う鳥としていい部類の評価となっている。
一般的に言われるカラスは、スズメ目カラス科に25属の区分がありその一つがカラス属で46種のカラスがいるそうです。日本で見られるカラスは5種あり、身近なカラスは「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」の2種。
ハシブトガラス:クチバシが大きく頭が丸い特徴がある。大都市ではほとんどがハシブトガラス。「カーカー」と澄んだ鳴き声
ハシボゾガラス:ハシブトガラスに比べ一周り小さい。クチバシは細い。一般的に郊外の農村部に棲息。「ガーガー」と鳴く
烏(カラス)の字をあてる地名は四万十町内に次の字がある。金上野の字・烏田も長宗我部地検帳を見れば「カラステ道懸テ二ケ所」「カラステノ谷」とある。
烏田谷(金上野)、烏松(希ノ川)、烏田(大井川)、カラスデ(古城)、烏手(大字)
高知県内では
烏ガ森(安田町東島)、カラスカナロ(香美市香北町西川)、カラスガモリ(香美市香北町韮生野)、カラスノトマリ(香美市物部町黒代)、カラスドマリ(香美市物部町楮佐古)、カラスヲ(大豊町黒石)、烏田(いの町枝川)、烏出(仁淀川町別枝)、カラスイシ(仁淀川町橘谷)、カラスノトマリ(仁淀川町土居甲・北浦・岩丸・岩柄・池川大渡・大西)、カラス峠(越知町山室)、カラスガタヲ(越知町山室)、烏ヶ森(日高村下分)、鴉ガ泊り(土佐市永野)、鴉ガ芝(土佐市積善寺)、中烏森(津野町新土居)、烏出川(津野町の大字)、鴉巣越(梼原町飯母)、カラストマリ(四万十市小西ノ川)、カラスノト山(四万十市西土佐半家)、烏坂本(四万十市西土佐津野川)、虎杖カラス(宿毛市和田)、カラスデン(宿毛市橋上町橋上)、カラス谷(三原村広野)、カラス丸山(土佐清水市下ノ加江)
※カラスノトマリ:高知県高岡郡には茅屋根の棟に跨がせる藁の鞍をウマノリ、その上に渡す竹をカラストマリという。家の棟に烏のとまるのを忌み嫌ったもの。仕組みは地方により多様にある(綜合日本民俗語彙)。
全国的にも「烏」地名は多く、烏川、烏森、烏帽子などが多く分布する。
からすく(カラスク。転訛してカラスキ・カラスデ・カラスデン)【下道/烏田(金上野・大井川)、カラスデ(烏手・古城)】
カラスクの字名が旧下道分校跡の字「堂ノ畝」の上隣にある。長宗我部地検帳にも記される中世以前の地名である。カラ・スクの音節が自然であるが、カラス(烏)の地名も多いことからカラス・クとも読めるが1音のクの説明が不自然である。辞典にも記載されない不思議な地名であり、現地での確認が必要だ。
日本民俗文化体系⑭(p23・p96)に「わが国の牛馬耕の歴史研究にとって注目すべき資料の発見の一つが、香川県坂出市・下川津遺跡における7世紀代の犂の発見である。犂(すき)が7世紀代に四国の讃岐で既に使用されていたということは、今昔物語集巻26に現れる土佐の南西海岸における『辛鋤(からすき・犂)』の普及を裏付けるものであり、その後における西日本の犂の発達普及の源流の一端をうかがうことができる好資料である」と書かれてある。カラスキ(辛鋤・犂)のカ音の転訛も考えられる。
古城の改称前の「烏」や大正の「烏手」など熊野信仰の八咫烏かと思っていたが、『辛鋤(からすき・犂)』の転訛も考えられる。
四万十町内に「カラスデン(烏田/金上野)」「カラスダ(烏田/大井川)」「カラスデ(古城)」とカラスとタ(デン)の音節による地名がある。辛鋤(カラスキ)+田(タ・デン)が転訛して「カラスダ(カラスデン・カラスデ)となったように感じるがどうだろうか。
かろおと(カラヲト・唐音・家籠戸)【金上野・七里(本在家)】
全国に分布するカロウト地名。編集子が思うに、中世、村界の峠での葬制の名残りではないか。桂井和雄氏は「峠のように見えながら、勾配のきわめてゆるやかな切り通しの道であることが共通していた。大きな墓地穴の底を連想させた。」という。 続きは→「クリック」
かわおく(川奥)【米奥地区の集落・行政区】
かわおくだに(川奥谷)【芳川地区の国有林野内】
かわのうち(川ノ内)【江師地区の集落・行政区】
かわひら(川平)【十和川口地区の集落・組】
かわらけ(カワラケ)【ホノギ:カワラケヤ(中村)、カワラケテン(数神)】
地検帳では「カワラケ」の付くホノギが2か所に見られる。一つは仁井田郷地検帳(刊本高岡郡下の2p75)に中村勝賀野之村の段に是ヨリ坂本谷として「カワラケヤ」とある。
カワラヤケ 源大夫居
一所 十六代 中ヤシキ 小野川分
勝賀野の検地が終わって中村に入り「ホンテンミソ」「カワラケヤ」「ココミ」「ヒロオカ」「カウタ」「ヤスハノモトノハサ」「ク井ノモト」「トイシノモト」「アサキリ」小松ナロ」の順でホノギが続く。「コウタ」の脇書きに小野川ミョウタイ権現九月九日神田、加茂大明神九月廿ニ日神田とある。また「トイシノモト」「藤二良やしき」「アキキリ」のホノギから野鍛冶や炭焼きを想起させるし「ヤスハノモト(休場の本)」とあることから市生原や北ノ川へ向かう山越えの往来も盛んであったと思われる。ホノギから比定できる現在の字名に廣岡、トイシノ本、秋伐、小松ナロとあることから県道側から山手に向けて谷筋を上り下りして検地を進めたようだ。
二つ目は神之野村の段に「カワラケテン」とある(刊本高岡郡下の2p244)。
カワラケテン 天神カワラケテン 大良衛門作
一所 拾六代 下 西原分
天神とは神之野村の産土神である遠山天神宮のことである。ホノギの脇書きを読めば「カワラケ」の祭事にあてる田ということだろう。
南路志(刊本③p295)にもその鎮座地として「カハケランノ上」とかかれてある。古文書の写本や解読にあたって「ウ⇔ラ」「ケ⇔チ」と変化することはあることだ。神之野村は明治9年に数家村と合併し明治22年の合併前に数神村となっている。この数神の字一覧では「カワウケデン」、全図では「カワウチデン」となっている。位置的には現在も遠山天神社の下になる。
それでは二つの「カワラケ」が意味するものは何か。
カワラケは素焼きの土器が一般的だが、長崎県では粘土質の畠を長崎県では「カワラケ」と呼ぶという(民俗地名語彙辞典)。高知県方言辞典では「かわらけぼぼ」女性性器の無毛症(香美市)とある。ボボは性器だからカワラケは無毛を意味することになる。無毛を意味するとするならばカワラケはカワラ+ケと音節を分けると河原+処・草木となる。歴史的に見れば河原は耕不能地として無主の荒れ地であり、その地に田畑の苦役から逃れた漂泊の民が定住するところとなり、多くの職人集団や芸能集団が集まりやがて市(イチ)に発展したところである。全国の河原町や瓦町がその様子を今も伝えている。
日本の年中行事に「川原飯」がある。東海地方では盆行事として、子どもたちが川原に集まり小屋を掛けその中で川流しの供え物などを材料にして煮炊きして食べる習俗があり「川原おじや」「カワラケ・メシ」と呼ばれたという。
このことから、二つを読み解くと、中村のホノギ「カワラケヤ」は野窯を営む者の屋敷地で、神之野村のホノギ「カラケテン」は盆行事の「カワラケ」を行うための費用にあてた田・「カワラケテン」である。と今の段階でもって勝手読みとなった。
(20190927現在)