20150608初
20161114胡
【沿革】
長宗我部地検帳に「コウノサイ」のホノギはあるが、蕨尾谷の一部となっている。
寛文8年(1668)に諏訪右衛門等四人が願出て開いたと伝えられる。
土佐州郡志には「神之西村」と、元禄郷帳(1700)には「神ノ西村新田」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村・峯ノ上村・金上野村・見付村・大奈路村・根元原村・神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村・西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、神ノ西村は大字となった。
大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。
昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。
昭和40年(1965)住居表示に関する条例を制定し、古市町、東町、茂串町、本町、新開町、琴平町、北琴平町、榊山町、香月が丘の9地区の街区の名称に区域変更した。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内の班・組編成は、1班から8班となっている。
【地誌】
旧窪川町の中央部。蛇行しながら南流する四万十川左岸、市街地の西にあり、比較的広い平地が開ける。主に農業地域。集落は山際に展開する。町役場上下水道課ポンプ室・滝山神社・グループホームがあり、集落南東部は分譲地が造成された。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央部、南流する四万十川左岸が神ノ西地区)
【地名の由来】
甲把瑞益は『仁井田之社鎮座傳記(1770年前後?)』で「〇神崎御瀧山 里人昔より五社御遊山所と云、今神の西(カウのサイ)瀧ト云。秦姓地検帳ニ神崎ト書けり。今按に、西の字を書るハサイハイキシチニの韻なれハ韻を借れるものなり。」と述べて「神ノ西」の由来を遠慮がちに述べている。
『窪川町 史蹟と文化財(p10)』でも甲把瑞益の説を引いて「神西は戦国時代には、五社の崎と言う意味から神崎(こうのさき)村と言ったが、「き」が「い」に転じて神西(こうのさい)と言うようになった」とある。
郷土史家の辻重憲さんも同じように高岡神社の先にある集落「神の先(崎)」と説明している(片岡雅文『土佐地名往来No591』)。
南路志(1813)の窪川村の項に「神崎村 枝村新開発地也」、「御瀧山 神崎今神西瀧ト云」とあることから、これを根拠に由来としたものだろう。それ以前の文献史料である長宗我部地検帳(1588)には蕨尾谷(現在の蕨谷。神ノ西から緑林公園に入る谷)のホノギとして「コウノサイ」、「コウノサイコエ」、「コウノ谷」があるのみで神崎村の記録はない。
仁井田郷は伊予と深い関係にある。伊予の越智姓河野氏の来往は仁井田大明神(五社)の建立から推定すれば6世紀末で、その後、戦国時代の仁井田五人衆の東氏は五社・一宮の祭事を、西氏は五社・二の宮の祭事を、志和氏は五社・森の宮の祭事をそれぞれ支配した(窪川氏は五社・中宮、西原氏は五社・今宮)。五人衆の内三人が河野一族であり、今でも五社さんの社守を勤めているのは五社門前の河野家という。
この五社の鎮座する川向であることから、「コウ・ノ(助詞)・先(転じて西)」と解釈する場合が多い。これを「コウノ・西(サイ/在でザイ)」の音韻の区切りで読めば、河野の西(在家)になる。編集子はあえてこの説にこだわりたい。
窪川の地名分布の特徴に「サイノウ」地名がある。サイノウの分布については川野茂信氏の「長宗我部地検帳のホノキについて(高知高専学術紀要第8号p11)」に詳しく書かれているが、窪川台地に集中分布する地名である。全国的にも珍しい才能の姓が家地川にある。徳弘勝氏は窪川で採取した「才能」の地名について「山寄りの畔を高知県では、サイノウテという。境をしめす塞(さい)縄手(なわて=のうて)と当字すれば実体に近いだろう、とみられる。」と述べる。(土佐の地名p260)
サイは①狭い谷間の地形②サヘ(障・塞)の意で障壁・障害物の意③サキ(先・崎)の転④サキ(割・裂)の転で割れ目、谷間⑤ザイ(在)で在郷・いなか などと解釈される。
窪川の七里には本在家集落があり、東又の土居地区は藩政時代には新在家村であったし弘見地区には今在家の字がある。「在家」は中世の農村集落を構成する単位でもある。在家がサイに転訛したと考えれば「河野の在家」→「コウノサイ」とも読める。梼原には千枚田で有名な「耕して天に至る」山間の農村集落「神在居(かんざいこ)」がある。
愛媛県越智郡高井神島では、波と波とが逆らって海面が騒ぐことををサエという(民俗地名語彙辞典)。急流が島にあたって波逆巻く現象をサエと呼ぶ方言が、伊予から仁井田郷にもちこまれ、御瀧山の「山下に岩原トて奇異の岩組有。(仁井田之社鎮座傳記)」に四万十川が突き当りドウドウと音たてたころだろう。そのさまを神のサエと呼んだのかもしれない。
長宗我部地検帳の当時の神ノ西はまだ村のかたちを整えていない未開の地であったようだ。
地名は無限の語り部である。
【字】(あいうえお順)
嵐田、上沖ゾリ、上久保、上五反地上山窪、五反地、下山窪、下山久保、下沖ゾリ、瀧ノ本、瀧山、バサマダ、ハトウチ瀬、樋ノ上、樋ノ下モ、福田、宮ノ下、六反地、六反地山方【19】
(字一覧整理NO.順 神ノ西p3)
土地台帳の調査は、四万十川左岸上流部の農地「瀧ノ本」から始まる。オキから上下をくりかえし飛地の「ハトウチ瀬」から、「瀧山」で終える。
1瀧ノ本、2上久保、3福田、4上沖ゾリ、5下沖ゾリ、6六反地、7五反地、8上五反地、9バサマダ、10宮ノ下、11上山窪、12下山窪、13六反地山方、14樋ノ上、15嵐田、16樋ノ下モ、17ハトウチ瀬、18瀧山、19上山久保(再掲)、20下山久保
【ホノギ】 (窪川を参照) →窪川
蕨尾谷、ヲリヨフ、ニイタヤ、中谷、ヨフサカ、ウナキ谷、ワチノヲ、アンレンタ、小屋ノマエ、中山、ヒソハラ、シシハノモト、フカタ、堂ノ後、ツクリ道、鳥ヲチ、ハチアト、イチイ谷、夏ヤケノ谷、小夏場、クロイハ、宮コエ、ヒロウタ、桜ノトウ、シラツチ、榊山コウチノ宮、ヒノキノ谷、シラツチ、コウノ谷、ヒラクシ、道歓タ、ツエノモト、川サキ、キノコシリ、コクシ、小クシ谷、経田ノスソ、コウノサイコエ、イツリハノ谷、コウノサイ、道通タ、大クホ、ヒラウエ、スミトコ、大ニラ、鳥クヒ、南原フチ、トヒ石ノモト、フカセノ渡、アカリミチ、カトノウエ、マタヲカ、瑞光庵、ウツシリ、クモンテン、コウタ、スケ沢、モミノ木谷、イ子ホシハ、ハキハラ、石原田、萩原、新開、トウノウシロ、深タ、ヒサウラ、スサキタ、大マタ、宮ノ谷、神主ヤシキ、五良九良畠
【通称地名】
【山名】
特になし
【峠】
コウノサイコエ(神ノ西△香月が丘) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
瀧山神社/43たきやまじんじゃ/鎮座地:御滝山 ※村社。字名は「瀧山」
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
この部落は、窪川村の項でも触れたように当時の窪川村の枝村ではなく、完全に蕨尾谷の一部であった。そして長宗我部地検帳の記録では、大井野部落とともに部落内に屋敷のない部落であったことを示している。(同p93)
・神社
瀧山神社(村社/字御瀧山鎮座)/合祀:竈戸神社、水神社、山祇神社、快神社
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p264)
神之西村の四至として、東南限窪川山北限宮之向縦七町横三町其土黒
寺社は、大明神社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高125.257石、戸数15戸、人口44人、男27人、女17人、馬8頭、牛1頭、猟銃0挺
■南路志(1813文化10年:③p)
168窪川村 古名本郷、仁井田郷本堂之内 (中略。神ノ西の部分のみ記載)
神崎村 枝村新開発地也
御瀧山 神崎今神西瀧ト云 此下に岩有、奇異の岩組也。昔は此御瀧山に天狗倒有、其時ハ山崩れ大木切倒し天地も覆か如し。又或時ハ曈と笑ひ下岩原へ墜る響、国中へも聞えけるとそ。今ハ鳴動する事なし。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p64:神ノ西、四万十川、瀧山神社
p67:神ノ西、四万十川
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
神ノ西、四万十川
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
なし
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
神ノ西橋(神ノ西谷川/窪川字蕨谷1187-2)
■四万十町広報誌(平成27年9月号)