20150422初
20170301胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「下津井村」とあり、枝村として「竹ノ地」「下コヤ」「舟瀬村」の脇書がある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「下津井村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、下津井村は大字となった。
大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。
昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内の班・組編成は、上重(かみじゅう)・下重(しもじゅう)・払川(はらいがわ)・竹ノ路(たけのぢ)・尾越(おごし)となっている。宗海(そうかい)・下藤蔵(げとうぞう)は消滅した。
【地誌】
旧大正町の北西部。北端に標高1,096mの霧立山があり、愛媛県鬼北町・高岡郡梼原町に接し、西は十和地域、南東は下道・中津川に隣接する。地内は、上重、下重、払川、竹ノ路、尾越の集落で形成。かつては下藤蔵、宗海に集落があり、また旧大正営林署の佐川事業所・坂島事業所を核とした職住近接型集落も形成されていた。ほとんどが山地。地内を梼原川が湾曲して南流、下流の四国電力津賀ダム(下道)の湛水域である。西部山地から佐川・払川・坂島川の3つの谷川が合流している。国有林野事業の最盛期には下津井担当区に3事業所があった。旧営林署の森林軌道であった旧大正林道佐川橋(通称めがね橋)は国有形文化財(土木構造物)として登録され、国の重要文化的景観の重要構成要素にもなり、下津井の景観を代表する撮影スポットになっている。払川との合流点、梼原川流域に水田・集落が立地。農林業が盛んである、梼原川左岸に国道439号が通り、バス運行1日3便。右岸の集落へは下津井橋を渡り町道が一周しており、払川上流から、町道が十和地域に通じている。旧下津井小学校・下津井簡易郵便局・下津井へルスセンター(温泉)・旅館・商店がある。神社には仁井田神社・河内神社・住吉神社があり、伊勢踊り・花取踊り、牛鬼の行事がある。金比羅宮、西源寺の寺子屋跡、町有形文化財(建造物)の茶堂がある。JR予土線土佐大正駅へは約22kmの地。国有林1,714ha がある。ダム湖畔の蛍の群舞はつとに有名。下津井ほたる祭りや「下津井いきいきやる鹿な猪」の地域活動が盛ん。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央部)
【地名の由来】
下津井の地名で思い起こすのは「下津井タコ」で有名な岡山県倉敷市の下津井である。天然の良港は歴史も古く江戸時代には北前船が寄港する港として栄え「吉備の児島の下の津」が地名の由来といわれる。
下+津の、方向と地形を示す地名なら全国に分布する。同じように上+津も多く分布する。
・海岸:茨城県鹿嶋市下津、和歌山県下津町、和歌山市下津港、和歌山県海南市下津、和歌山県有田市下津港
・河岸:群馬県みなかみ町下津、愛知県稲沢市下津、山口県山陽小野田市下津
多くは海岸にある港としての地名であろうが、明らかに港・渡し場とは関係のなさそうなところもある。
「津」は、港、渡し場の意味のほかに、①泉など水のあるところ②人の集まった所③場所を示す接尾語ト(処)の同系➃ノにあたる古い助詞⑤ツエの略とある。楠原佑介氏は、港・渡し場で解釈できないものについては、所を示す接尾語・古い助詞のほか、山中や平野中央部などでは「水のある所」の解釈もあるとしている。
下津井の場合、上津井と下津井といった対となった地名ではない。また、下津ではなく下津井であることから、「下・場所を示すトの転訛したツ・谷川の水場を意味する井」の意味をもつ「下津井」になったのかと、編集子は考えてしまう。
【字】(あいうえお順)
足川口、足川山、アライバ、アラヒラ、石神、イノ野、イノノ山、岩ガラ畝、ウスギ、王神、大カゲ、大下モノ山、大平、大松山、大向山、カゲ、カゲヂ山、カゲノハタ、カセフチ、上ミ井テ、カンジキ、キノコ畑、キヨグミ、金兵衛、黒松尾、下藤蔵、下藤蔵山、越ノ下、小下モノ山、小ジヲ、七郎谷、清水川、下モ茶ハタ、シモヒラ、シモムカイ、下モ茶ハタ、城ケ森、シンカイ、新宅、新ドヲジ、杉ノクボ、杉山、スゲノサコ、住吉元、ソヲカイ、ソヲドウ、タカテ、タキバタ山、竹ノ路、竹ノヂ山、棚田、駄場谷、駄場ノ畝、太郎兵衛切り、土居屋シキ、土橋ノ本、仲ゾ、中屋敷、中山、ヌタノ駄場、ハシダイ、ハナノ山、鼻山、ヒキチガ谷、ヒシャケ谷、左川口、檜ノ畝、ヒノ谷、日ノ平山、フカセ、舟ノ瀬、フロノ谷、ホキノヒラ、ホドノサコ、マキ谷、槙ノ畝、宮ノ谷、向イ山、催合、催合ノ上、モクノ畝、柳ノクボ、横山、ヲクラトコ、ヲトナシ、ヲンチ【86】
(土地台帳・切絵図番順)
2王神、3大カゲ、4ヲンチ、5土居屋敷、6ウスギ、7棚田、8カンジキ、9タカテ、10ソヲドウ、11越ノ下、12住吉元、13土橋ノ本、14杉ノクボ、15ハシダイ、16フロノ谷、17柳ノクボ、18シモヒラ、19中屋敷、20シモムカイ、21清水川、22城ケ森、23ホキノヒラ、24日ノ平山、(25北平山、26坂島山)、27大松山、28大下モノ山、29小下モノ山、30タキバタ山、36竹ノ路、37ヒノ谷、39下モ茶ハタ、40ヲトナシ、42スゲノサコ、43カセフチ、44舟ノ瀬、45七郎谷、46杉山、47足川口、48黒松尾、49上ミ井テ、50ヌタノ駄場、51ソヲカイ、53岩ガラ畝、54モクノ畝、(55宗海山、56左川山・56小笠木山)、59左川口、60イノ野、61フカセ、63ヲクラトコ、64キヨグミ、66小ジヲ、67ヒシャケ谷、68シンカイ、69新宅、70大平、72駄場谷、71駄場ノ畝、74マキ谷、75仲ゾ、76下藤蔵、80催合ノ上、84金兵衛、85アライバ、86カゲノハタ、87宮ノ谷、88カゲ、89石神、1カゲヂ山、31向イ山、32ヒキチガ山、34横山、35アラヒラ、38竹ノヂ山、41鼻山、52太郎兵衛切り、57大向山、58キノコ畑、62イノノ山、65新ドヲジ、73槙ノ畝、77ホドノサコ、78下藤蔵山、79檜ノ畝、81催合、(82拂川山、83鳥井山)、90中山、33足川山
※現在の土地台帳の調査は、農地と宅地をまず先に行い、同じ周回で山林を実施している。
調査の開始は下津井地区の産土神である仁井田神社や字名の土居屋敷の近くとなる村落の中心地「王神」からふられている。
まず農地・宅地を仁井田神社の鎮座地の丘側となる「王神」から始まり、時計の反対周りに「大カゲ、ヲンチ、土居屋敷・・・」と下津井集落を進めている。下津井温泉の「中屋敷」までくると一旦東の山側「清水川、城ケ森」にひきかえし、その後、梼原川を渡り「竹ノ路」周辺を終え七郎谷越えで尾越集落におり「スゲノサコ、カセフチ、舟ノ瀬、杉山、足川口」と梼原川左岸を上流に向って梼原境まで行う。そこから梼原川右岸に渡り梼原と境界争いとなった「黒松尾」のあと、「上ミ井デ、ヌタノ駄場、ソヲカイ、岩ガラ畝」と宗海集落へ向う。そこから佐川の合流点「左川口」から「イノ野、フカセ、ヲクラトコ」と梼原川右岸を下って払川の合流点までくると、「キヨグミ、小ジヲ、ヒシャケ谷、シンカイ、新宅」と中山の北側となる払川左岸を遡上し下藤蔵集落まで進む。ここからは、払川の右岸を「催合ノ上、金兵衛、アライバ」と降り仁井田神社の鎮座地「カゲノハタ」から「宮ノ谷、カゲ、石神」と同じく払川右岸を梼原川合流点まで進み農地・宅地を終え山林の部に入る。
山林は、仁井田神社の南西側の山地となる「カゲヂ山」から農地と同じように集落の里山を下り、再び「清水川、城ノ森」から「ホキノヒラ、日ノ平山」と進み終えている。日ノ平山(標高614.4m)は、三等三角点であり頂は緩やかな平坦がつづき、国有林(御留山)・鳥井山となり、南面には広大な国有林・坂島山、大松山となる。
井も同集落の南側、梼原川右岸を終えると、梼原川右岸の下道境となる「大下モノ山」に渡り、ここから川沿いに上り「タキバタ山、向イ山、ヒキチガ谷」と進み、矢立往還の下津井分岐の稜線を右に左に「横山、アラヒラ、竹ノヂ山、鼻山」と下り、対岸の宗海集落の「太郎兵衛切り」から「大向山、キノコ畑、イノノ山」と続き、払川合流点の「新ドヲジ」から再び下藤蔵山にむけて山地を遡上しそこからは払川の右岸・南面を下り、穿入曲流の残存半島となる「中山」となる。
この後の山林の地番は、坂島川合流点の下流「大松山」、対岸に渡り「小下モノ山」「足川山」と全て国有林となる。
【ホノギ】下津井村/枝村:竹ノ地、下コヤ、舟瀬村
▼是ヨリ下津井村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳:幡多郡上の1p115~136/検地:慶長2年3月22日)
ケトウソウ新開、下ノ谷、西地、大の、東カマノクホ、ヲンチ、南カンシキ、下カンシキ、御堂ノモト、長サイナウ、コサイナウ、タカテ、大サイナウ、住吉テン神田、南下井領、タナタ、タイトウシリ、東ツチハシ、南上サウトウ、ニイヤ、ツチハシ、ヲチツキテン、スケノモト、若宮神田、ウシノサキ、池田本壱反四十代地、ハハキテン、松ノ木ノ田、寺中、キシ、下クカやしき、城ノ下、クイノ窪、柳ノクホ、下道かけて、川内神田、シヤウノホリタ、経田、上クロハサ、仏経田、十進た、コシイヲノ下、ヒシヤウカ谷、クツレキシ、上向シンカイ、仁井田神田、宮ノクヒ谷、上ウスキ、竹ノチ、リウカイ(ソウカイ)、イノノ、舟ノセ
【通称地名】
【山名】
【河川・渓流】
佐川谷(州郡志)
拂川谷(州郡志)
坂島谷(州郡志)
足川谷(州郡志)
【瀬・渕】
オオゴミ、フネノセ、チョウジャガセ、キクブチ、カセブチ、フカセ、フナト、オイチバイ、ツガノブチ、シミズ、シンベエ、リュウジンブチ、サカシマグチ、コトドロ、オオトドロ、ヒダリジコ
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
エブカワ(岡脇)
シンヤ
タニ(西村)
カジヤ
ショウヤ
ウチヤ(蕨粉の水車)
【寺社】(大正町史)
仁井田神社(村社/カケノハタ)
天神宮(境内社/下宮)
河内神社(境内社/下宮)
若宮神社(境内社/下宮)
住吉神社(無格社/カンジキ)
海津見神社(無格社/七郎谷)
船ノ瀬神社(無格社/七郎当村開拓の祖・船ノ瀬)
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
仁井田神社/50にいだじんじゃ/鎮座地:カケノハタ ※村社
住吉神社/51すみよしじんじゃ/鎮座地:カンジキ
海津見神社/52わだつみじんじゃ/鎮座地:城ヶ森
海津見神社/53わだつみじんじゃ/鎮座地:七郎谷 ※オゴシ集落
舩ノ瀬神社/54ふなのせじんじゃ/鎮座地:船ノ瀬 ※オゴシ集落
※神社明細帳に記録されていない金比羅神社が2社ある
金刀比羅神社/ことひらじんじゃ/鎮座地:中山
金刀比羅神社/ことひらじんじゃ/鎮座地:竹ノジ山
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)
第2章 四万十の村々を歩く
5、下津井(p42) 材木搬出の一大拠点
四万十川の支流・梼原川流域に位置し、梼原町、愛媛県鬼北町に隣接し境界の村。良材に恵まれ、近世・近代と材木搬出の一大拠点となった。古老への聞き取り調査から、戦国末期の『地検帳』や江戸時代の藩有林管理を記録した『下津井御留山文書』(以下『留山文書』)に登場する山や田の小地名を現地比定しながら、村の歴史的景観と生活誌を読み解く。
(一)『地検帳』に見る村落景観(図13・14・15)
(1)集落
慶長2年(1597)の『地検帳』(上山郷地検帳)に見える下津井村の検地面積は10町9反余。土地は全て「上山分」となっており、上山氏の支配下にあった。屋敷地を見てみると、検地順に「ケトウソウ」1軒、「大のの上」7軒、「ヲンチ」3軒、「サウトウ」1軒、「寺中」(西源寺)1軒、「キシノ下クカやしき」1軒、「キシ」2軒、「クイノ窪ノ上」1軒、「柳ノクホ」2軒、「仁井田神田」1軒、「竹ノチ」3軒、「ソウカイ」1軒、「舟ノセ」1軒の計25軒である。「大のの上」の屋敷には下津井集落の「中山」西南部に現在も屋号として残る「カマノクボ」の地名が見られるが、屋号は移動するケースがあることから、検地順から小字「土居屋敷」などがある「中山」の東部に比定したい。「キシ」は小字「フロノ谷」がある周辺、「仁井田神田」は小字「シモムカイ」にある「神田」に比定する。このように見ていくと下津井中心部では、「中山」の山裾とその向かい(「ソヲドウ」「神田」)に屋敷地があり、家数は少ないが戦国末期の段階で現在と似た集落景観を有していたことが分かる。「ゲトウゾウ」「竹ノヂ」「ソウカイ」「舟ノセ」にも屋敷地が開かれている。
(2)土地開発・水利
『地検帳』を見ると、下津井集落中心部では「中山」を囲むように水田が多く分布している。水量の豊富なゲトウゾウ谷から近い東部の「大のの」「ヲンチ」などには上田、中田が多い。小字「棚田」に比定できる「住吉デンノ上タナタ」の表記が見られ、これらは棚田の形状をしていたことが推測される。多くは小谷沿いの谷田と推測されるが、田地が多く復元は難しい。田の上や間には、切畑、畠地も見られる。
(二)昭和期の村の暮らし
(1)地名
払川山 東「釣場之大畝」南「大谷川」西「駄場ノ谷」北「佐川御留山境大畝」(『留山文書』寛政五年十二月廿五日「覚」)を四至とする山。藩有の御留山でなく村管理の山のようだが、伐採等の許可は藩に提出している。現地比定からおおよその境界が推測できる(図13・15)。
坂島御留山 東「本モ谷」南「下道村御留山境峯」西「四手村御留山」北「カヂ木屋畝」(『留山文書』文政六年九月廿三日「覚」)を四至とする御留山。「本モ谷」は「坂島谷」、「四手村」は旧大正村の「四手村」、「カヂ木屋」は聞き取りで分かった「木地小屋」に比定できる(図15)。他にも佐川御留山、足川御留山、大松ケ畝御留山、大下野御留山など下津井村管理の藩有林が『留山文書』に見える。
土橋ノ元 湿田、昔は橋があった。通称ユダケとも呼ばれていた。
神田 しんでん。集落に下津井前(1反くらい)、住吉神社の近く(3反)、下津井小学校の近く(3畝)の3カ所。娘たちはお田植えにもいった。
竹ノヂ オキに竹ヤブがあって段々の田んぼがあった。昭和19年ダムの建設で沈んだ。
天神 おはつさんというおばあさんがいてお菓子なんかを売っていた。歯が痛い時に封じてもらった(祈祷)。
五葉のハナ(ウネ) 畝が途中できれている。尻無ノウネ、クイノクボは聞いたことがあるが、場所が分からない。船堀はワラビを堀りにいったりする谷で、カヤを取りにいく途中の場所の地名。ヌタノネの近くをコモトともいった。
大田尾 オオタオは山の一番高い所を言う。
町境 昔、下津井に区長をやる人がいなくて梼原町の松原から区長を雇ったら、そのまま町境を松原に取られた。火を焚いて炭を堺に置いて、境の証拠にした。
庄屋の墓 お茶堂の上にある。城ケ森の上にも墓石、四角い墓がある
タキバタ山 竜神峠の近くにある。
シガキノハイ(エ) シシガキ、猪がここから上がってくる。下にも田んぼがあった。
ドテ 下津井ヘルスセンターの横の川をドテと呼んでいた。
連絡所(坂島口) 職員が一人いて、森林軌道のトロッコを切り替える役をしていた。トロッコは一番後ろに客車があった。
ヒサラ川 下道の堺、営林署のヤジ(建物)があった。
若宮神社 那須さんの家が、家の中で祀っている。
水汲み場、水車 那須家の前に飲み水の汲み場があった。谷の水は冬には凍るので近くの7、8軒がここの水をくんでかろうていった。水汲み場の近くには水車もあった。
カラ谷 よく崩壊する谷。上には松茸が生えている。
(2)集落・宗教
18世紀半ばの『寛保郷帳』では下津井村の家数40、人数147、馬4、牛5、猟銃4、享和元年(1801)の『西郡廻見日記』では家数33、人数224、馬26、牛6、猟銃25、井関4、留山7となっており、家数は減っているが人口が増えている。『地検帳』段階の本田高は109石余(『元禄郷帳』)、『地検帳』以後に開発された新田高は33石(『西郡廻見日記』)で土地開発は江戸時代を通してほとんど進んでいない。
現在の集落は、上組(上重、払川、ゲトウゾウ)と下組(下重、竹ノ地、宗海、尾越(おごし))に分かれる。昭和32年(1957)には75戸で、昭和30年代がピーク。現在は34戸約60人まで減っている。昔ゲトウゾウには5軒の家があり、「カラ谷」「カジヤノサコ」「センゲンタビ」(千間滝)の地名がある。「お大師さんの祠」「地蔵さま」(旧3月21日に祭りをする)もあった。道が広くなり、集落には誰もいなくなった。
屋号 屋号のある家が多い。「エブカワ」「シンヤ」「カンジャ」(昔鍛治屋だった)「谷」「庄屋」「ショウヤヤジ」「関所」(番所とも。江戸時代に下津井口番所が置かれていた)などがある。記号を使った家印屋号も森家や浜渦家にはある。
西村旅館 竹ノヂ。鮎かけさんが泊まりにくる。宿屋だけでなく、鮎をとって取引をしていた。ウナギをカンでとって商売もしていた。
担当区 「庄屋」の隣に営林署の担当区事務所があって、その下が営林署の材木置き場だった。個人経営の製材所もあった。荷物を運ぶリアカー引きの人もいた。
ワラビ粉のウチヤ ワラビを漬けるための「ウチヤ」(打屋小屋)が集落にあった。上重の6・7軒が使っていた。ウチヤでの作業は、ワラビの根を取ってきて洗い、大きな石の上を置いてたたく。汁をこして、大きな桶に入れて、灰を入れて沈殿させる。ワラビコ(粉)にする。朝4時くらいから起きて作業をしていた。番笠に入れて十川へ持っていき、伊万里さんという大阪の商人に売っていた。
社寺 神社や寺は、『地検帳』に記された「西源寺」のほか、文化12年(1815)の『南路志』に仁井田大明神(現仁井田神社)・住吉大明神・河内大明神・若宮・天神が記されている。また『西郡廻見日記』には、伊予境の地蔵森に大道村の者が建てた地蔵堂があり、祭日には伊予からも参拝者があると書かれている。
西源寺 曹洞宗の寺院。フロノクボという。喉のことを風呂という。それを切る、悪いことをしてフロを飛ばすとかいう。谷はフロノ谷。すぐ下に町指定文化財の茶堂もある。
金比羅 元は宗海に金比羅さんがあったが、現在は竹ノ地に移してきている。
(3)生業
カヤ場 屋根葺き用のカヤを採るカヤ山(場)にはゼンマイ、ワラビなど山菜が生えていた。2月終わりから3月に皆で焼きにいって、上のふちから火を付けて火道をぐるりとして焼く。おおかた一日かけて作業して男も女も参加する。稲刈りが終わって11月くらいに来年はどこの家を葺くか決める。その頃に皆で家を葺きにいく。カヤはカヤ場で刈ってからハチワにして下ろして、家を葺く所へ持って行く。上組のカヤ場は金兵衛と大向山の2カ所。村の共有地になって組合を作って作業した。下組のカヤ場は「ヒキチガ谷」「大向山」にあった。
用水 井の神橋の上から井手(セキ)を引いている。田役の時は、赤土を担って土手をぺったんぺったん叩きつけて補強していた。
田畑 戦前は米麦の二毛作。田は1軒によくあって4、5反 食用がようよう。戦後は畑にも麦を植えた。畑にはキビ、カライモ、いずれも自給用だった。焼畑は下津井ではあまりやっていなかった。
山の仕事 国有林を借り上げて植林をした。女の人も植え付けにいった。椎茸で生計を立てた。年間椎茸で500万くらいの収入があった時期もあった。炭焼きは自分の山でやるほか、戦前は国有林の伐採した後木を焼きに外から人が来ていた。終戦後も炭焼きがたくさん営林署にも入った。
牛馬 田の耕作には、牛を使う人と馬を使う人がいたが、牛が多かった。えさの草は、各所(例えば「城ガ森」)に自分とこの草場があった。集落に那須林之助という獣医がいて、牛馬の具合が悪いといったら大道など地域外にも行っていた。薬を調合しては持って行っていた。ばくろうもしていた。チアイダバには牛・馬の蹄鉄を打つところがあった。
(4)交通・流通・娯楽
板橋 梼原川には蛇かごをくんで竹で橋台にした板橋がかかっていた。
仁井田越 奥大道を経て十川の町へ買物にいく。ゲトウゾウから山越え(仁井田越)でワラビ粉を持って行き、十川の町で生活雑貨を仕入れた。仁井田神社が宇和島-十川と越えてきて勧請されたから仁井田越という。田野々へ行くよりかこの道を使うことが多かった。行商人も仁井田越で来ていた。お祭りにも十川からこの道を使って人が来ていた。昔はリアカーも通らないくらいの道だったが、村会議員の北村磯次さんが主導して道を付けた。
行商 人形回し、偽物の反物売り、ひじきうり(おばあさんが愛媛から)が来ていた。
芝のブレーキ お祭りの時、太夫さんは久保川口から自転車で来ていた。帰る時は自転車の後に切った芝を付けてひっぱってブレーキ(おもり)代わりにしていた。
アイスクリーム売り 田野々から自転車でアイスクリーム屋さんが来ていた。1本5円で買えて、黄色・ピンクなどがあった。かき氷みたいなもので、「カランカラン アイスクリーム アイスクリーム」と売りに来ていた。
(文責:楠瀬慶太)
聞き取り調査日:2016年2月2日
聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/楠瀬慶太・武内文治
話す人:森勝さん(昭和12年生まれ)
森洋子さん(昭和16年生まれ)
那須富美子さん(昭和2年生まれ)
→書籍は当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)
第3章 地域資源地図で見る四万十
奥四万十山の暮らし調査団では、地域調査の成果を視覚的で分かりやすく一般の方に知ってもらうため、報告書や論文などの学術的出版物に加えて地図の形で公表している。地図には、調査で判明した地域の歴史や文化の情報を記し、町歩きや地域づくりに活用してもらうことを念頭に置いて「地域資源地図」という形でまとめている。高知県内の地域資源地図は、林野庁職員で洋画家として活躍している森下嘉晴氏がまとめた絵地図を「奥四万十山の暮らし調査団」のHP「四万十町地名辞典」でPDF公開しているほか、奥四万十山の暮らし調査団の報告書でも紹介している1)。第3章では、第2章で紹介した集落と関連した地域資源地図6枚を作成された経緯や地図の解説とともに掲載する。
4、水と緑と平家の里・下津井散策マップ(p74)
梼原川のダム湖には浮島のような下津井の里がある。酷道439号のくねくね道を大正からさかのぼること20キロ。龍神峠から広がる湖面に突如姿を現す下津井の光景はまるでおとぎの国。天候によっては異界にきたのかと見紛うこともある。梼原町に住んでいた当時、まだふるさと林道が開通していない時はいつもこの道を通っていた。
特に雨の夜には霧がかかりとても寂しかったことも今となっては懐かしい。橋を渡るとまず下津井のシンボルめがね橋。佐川山から切り出した営林署の材木を満載した森林鉄道が行き交っていた近代の林業文化的遺産(高知県の近代化遺産)。石で組まれたその技術の高さもさることながら、山によりそって生きていた人々の暮らしを想像してみたい。
下津井の林業の歴史は、藩政時代からすでに深く刻まれ、土佐藩の御留山として厳重に管理されてきた。盗伐はもちろんのこと、熊に木の皮を裂かれたことで庄屋の職を召し上げられた事件もあったという。県境に位置することから関番所も置かれ、大変重要な働きをしていた地である。森林軌道の跡は、民家の軒先を通り、トンネルを抜けるウオーキングトレイルのルートとして下道へと続いている。
めがね橋から反時計回りに進むと仁井田橋を渡って下藤蔵の峠を越えると十和の大道へと続く。下津井の総鎮守である仁井田神社の大祭は、牛鬼が集落の中を練り歩き、田んぼを疾走し、御神酒に酔い、晩秋の風物詩となっている。
自然界においては、初夏にはヤイロチョウやブッポウソウが飛来して美しい鳴き声や姿を見せてくれることもある。また、湖面に乱舞する蛍はこの世のものとは思えないファンタスティックな光景を見せてくれる。目を見張るのは厳冬。この里を覆う雪景色は、めがね橋が黒く映えて絶品の水墨画のようなコントラストを演出する。四季彩々、自然豊かな四万十町でも、下津井は自然の厚さのレベルが違うことを実感する。
この取材でわずかな時間を歩いたが、強く印象に残ったのは道ばたや畑仕事の合間にお会いした何人ものおばあちゃんたちからお聞きしたいろいろな言葉だった。「なんちゃあないところやけんど、来た人はみんな「(下津井は)えいところじゃねえ」ゆうてくれる」。「下野の山に雲がかかったら雨になる」などここでの暮らしや賑やかだった時代のこと等々。彼女たちに共通することはかわいらしさや強さや、そして下津井に対する愛情の深さだ。別れ際に「えいところと言うてもらうのは嬉しいけんど、若い人がおらんなってひもうた(しまった)」というつぶやきが切なかった。市町村合併で周辺部になるほど人口流出が加速する。町中へ、都市へと人が流れる。周辺の集落から人が減り、文化が途絶えていくと、いつしか人が集まっているはずの都市もまた限界集落となる。平家の落人以来、栄枯盛衰を紡いできた下津井の里。どうかこの先も、この里を愛し、いつまでも柔らかな光が照らし続けていくことを願ってやまない。
(森下嘉晴)
1)サイナウ(地検帳にある長サイナウ・コサイナウ・大サイナウ)の意味
『サイノウ』について徳弘勝氏は「山寄りの畔を高知県では、サイノウテという。境をしめす塞(さい)縄手(なわて=のうて)と当字すれば実体に近いだろう」と述べている。
桂井和雄氏は『おらんく記』で「サイノウ 畑の一区画をよぶのに使う単位(山村の地形方言)」と述べている。
また、服部英雄氏(九州大学)は『山のくらしと地名(別冊歴史読本81p214)』でハレ地名の焼畑に関連する地名について「各地での焼畑の名称は、草をなぎ倒すことから「薙畑(なぎはた)」、切ることから「切畑」「切野(さいの)」、刈ることから「カンノ」(刈野)などという。」と述べ、焼き畑の別称として地方により「切野」と呼ばれるとしている。
サイノウ地名は、高知県下でも松葉川流域、東又地区に多く、旧窪川町外では、下津井と下道にだけみえる地名である。それも「サイナウ」と音の一部が変化している。
川野茂信氏は『長宗我部地検帳のホノギについて(高知高専学術紀要1968年3号~1974年9号)』でサイノウの県下の分布図を示し「サイノウは窪川台地に集中」と述べその他梼原・十和・佐賀に印を付し、「サイノウ 山田の水引きの時の山寄りの畔(桂井和雄 土佐民俗誌)」と引用している。
下津井の検地の流れにおける「サイナウ」の位置は、「ヲンチ、カンシキ、御堂ノモト」の次であり、「住吉テン、タナタ」の前である。これらの地名は字名と合致している。サイノウ名は数筆あり上田と中田で4反、下津井全体の上田は壱町三十五代、中田が壱町五反であることから、耕作の最適地にあることがうかがえる。
「サイノウ」のホノギは、現在の字名にはなく特定はできないものの、検地の流れ、耕作の最適地であることから、旧下津井小学校の東南、住吉神社跡の森周辺であると比定する。
下津井のサイノウ地名を踏査すると、徳弘氏、桂井氏、川野氏の云う山寄りの畔「サイノウ」ではなく、「斎の野」が転訛したかたちではないかと考えさせられる。
『日本民俗文化大系1風土と文化ー日本列島の位相ー(p385)』に長野県更埴市の武水別神社のオネリ行事の一行が「斎の森」へ立ち寄る神事について「斎の森の名称は”前の森”つまり現社地の旧地だったという説もあるが、”境の森”の意味があったかもしれない。」と書かれている。
下津井仁井田神社の練の途中で住吉神社の跡地に立ち寄る神事があるがあるがこのプロセスに似ており、神聖な地「斎」ではないかと推論するものである。
2)下重・上重の由来(下津井地区の小区分は)
下津井地区を区分する地名に「上重(かみじゅう)」、「下重(しもじゅう)」、「払川(はらいがわ)」、「竹の路(たけのじ)」、「宗海(そうかい)」、「遅越(おごし)」があり、古くは入会山林の管理のため「上組」と「下組」の二つに分かれていた。
上組は、下藤蔵、上重、払川で構成され、共有林として大向山814-10、金兵衛855-3の2カ所を所有し、茅場として屋根の吹き替えや牛馬の草場として利用した。
下組は、下重、竹ノ路、尾越、宗海で構成され、共有林としてヒキチガ谷778-7、大向山815-1の2カ所を所有管理した。
この二つの組は、下津井地区に2カ所ある金刀比羅神社の管理区分にもなっているようだ。
下津井地区は、穿入蛇行による景観も有名である。この還流丘陵を中心として、払川と上重と下重と三分割されたのであろう。
3)中山城とフロノ谷の関連(清水川城・山の神城)
4)龍神峠の由来
5)払川の最下流に「下藤蔵橋」と橋名があるのはなぜ
6)木地師の地名(坂島山の木地木屋はどこ)
7)金比羅神社が二カ所あるのはなぜ
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
(刊本地検帳幡多郡上の1/土佐国幡多郡上山郷地検帳p115~p123))
慶長時代のこの部落の村名は、”下津井村”と表現され、枝村として”竹ノ地”、”下コヤ”、”舟瀬”が記録されている。
検地を行ったのは慶長2年3月22日(1597年5月8日)のことである。
検地は、下藤蔵集落から始まり、払川を下り下津井集落に入ると左回りに上田である「ヲンジ(おんち)」、「カンシキ(かんじき)」から「タカテ(たかて)」、「タナタ(棚田)」、「サウトウ(そうどう)」、「ツチハシ(土橋の本)」、「柳ノクホ(柳のくぼ)」へと行われ、本川に付くと払川を上り、「コシイヲ(小じお)」、「ヒシャウカ谷(ひしゃが谷)」、「ウスキ」と続き、ここで休息したのか、その後大川を渡り「竹ノチ(竹の地)」を調査し、一旦上流の「リウカイ(※そうかいの誤記)」、「イノノ(いの野)」を経て「舟瀬村(舟の瀬・オゴシ)」を検地し下津井村を終了している。次の検地先である「森河内村(大正中津川の森が内集落)へは足川越への松原往還から至ったことだろう。
検地高は、本田と出田で10町9反とある。
検地役人は、正木右兵衛、国沢右近、松田与左衛門、横山二右衛門、黒岩治部
地検帳にみられる寺社は
・寺院
西源寺
・神社
仁井田神社、住吉神社、若宮神社
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p324)
下津井村の四至は、東限矢立坂峠西限豫洲界地蔵森南限下道村北限津野山東西三里南北一里十町戸凡二十九其土赤交石
山は、大下野・小下野・足川山(皆在村東禁私採伐)、大松之畝・鳥井之駄場・坂島山(在村南禁伐)
川は、佐川谷(過村北入大川)、拂川谷(過村西入大川)、坂島谷(過村南入大川)、足川谷(過村東入大川)
寺社は、西源寺、住吉大明神、仁井田大明神、川内大明神、若宮、天神とある。
関として、「在村東豫洲界」
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高109.665石、戸数40戸、人口147人、男85人、女62人、馬4頭、牛5頭、猟銃4挺とある。
■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:校注土佐一覧記p366)
安芸の歌人・川村与惣太が矢立森(下津井)で読んだ歌
矢立森
かり人の矢立の森を分け行けば 妻こもるとや鹿ぞ鳴なる
※深山・矢立の森に狩りにでかけた。鹿はオスを鳴き続けるのに、残された私は家に籠って静かに待つのみである(勝手読)
※校注土佐一覧記では「矢立森」を西峰山(718m)とし、所在を下津井と比定しているが、矢立森は矢立往還にある奥山といった意味合いではないか。矢立往還は、大正大奈路から中津川と梼原川の間の稜線を松原に向かう旧往還である。それなりに整備されて往還の名残りを味わいながら登山することができる。
※「かり人の」の歌は、下津井のヘルスセンターに歌碑が建てられている。
■南路志(1813文化10年:p624)
233下津井村 地百九石六斗六升
仁井田大明神 大野 祭礼十一月十五日
住吉大明神 スミヨシ 同上
河内大明神 シモミヤ 同上
若宮 クツレキシ 同上
天神 同上
関所 与洲永古味村江出、二里 番人中屋丹蔵
■下津井お留山記上下(1974昭和49年)
▲佐川山
不動ノ畝、エサス谷、本も谷清、八間木屋の畝、引上げ峯、コヲシヲノ畝、カヂゴヤ小方切、カドガ谷、出も谷、唐谷
▲拂川山
釣場ノ大畝、大谷川、駄場ノ谷
▲坂島山
高鼻の畝、両潰ノ多尾、五葉の畝、本モ谷、カヂ木屋ノ畝、五葉の畝、仕の大田尾北平、鍛冶木屋、障子巻の小畝、鳥居駄場、半兵衛木屋の畝、普當の谷東平、木地木屋、笛場ノ畝、サブ木屋ノ谷、古木馬道、船堀通り、ゴマサコ、高森ノ下畝、嘉十郎谷、梶畑ノ谷、木屋床南ノ畝、銀次木屋床、鳥越ノ田尾、フタヲノ谷頭、黒仕ノ畝
▲大松ノ畝山
船堀り佐古、汢の森、江ぶり己屋、半兵衛己家、応地明
▲足川山
窪野、尻無ノ畝、ヤシロノ畝、小サス尾ノ畝
▲小下野山、
藤蕨の畝
▲大下野山
赤岩谷、半兵衛木屋ノ畝、池ノ上、サジコノ谷、トヲラズハエ、フエ場ノ畝
▲竹の地
ヒノ谷
▲不明
越の峯新田下北ノサコ、ヨジビワノ木屋場、瀧畑、子ゴシ松、古鹿垣場、小松平ノ畝
■掻き暑めの記(1984昭和59年)
・矢立森(上p3)
「土佐一覧記」と云う徳川時代につくられた歌集で、作者の川村與惣八貞佳は、安芸郡の人で、土佐全域を歩いて歌を詠んでいる。田野々と小石(胡井志)部落に旅寝して大奈路から尾根伝いに、矢立の森を越えて檮原への旅を続けたものと思われる。上山郷(旧大正町)で詠まれた上山・胡井志・矢立森の3首の一つ
矢立森(矢立坂越道)
狩人の矢立の森をわけゆけば
妻こもるとや鹿ぞ鳴くなる
下津井温泉の敷地に石碑がある。
・黒松(上p124)
下津井部落黒松山に続いた村界。昭和二十三年、幡多支庁が大正村周囲村境を測量し「下津井部落の村境は参謀本部作成の五万分の一の図面によっても、現状は違って居る。実状は梼原川左岸足川谷を下津井村境となって居る。同川右岸はアシ川谷口対岸を逆登ること約五町位にして黒松山境上山郷分であった」という。
梼原村史には「大正3年に大正村と村境を確定した」とあるが、大正村には何にもない(中略)藩政の終りから明治中期にかけて、下津井村に戸長を必要とした際に下津井人では戸長に成り手が無いので津野山の某という人を一雇入れて戸長をやって貰ったことがあるしことの起りは此の辺にあると下津井の古老達は語る。
・アシ川(上p142・上299)
下津井村境。1次支川檮原川の左岸の2次支川アシ川(足川、芦川)が村境となっているが檮原川の右岸境(黒松山)が不確実となっている。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p1:下津井、竹平山、佐川
p3:下津井、開通記念碑、松川、井の神橋、仁井田橋、仁井田神社、中山金毘羅宮
p4:下津井、梼原川、芦川川、下藤蔵橋、めがね橋、下津井橋、金刀比羅宮
※「松川」とあるが「払川」の誤記載
※「芦川川」とあるが国土地理院地形図では「足川川」
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
下津井、佐川、下藤蔵、梼原川、払川、坂島川、足川川、下津井橋、笹平山、竹平山、霧立山
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
霧立山(三等三角点:標高1096.58m/点名:きりたてやま)梼原町 ※下津井の北端。愛媛県鬼北町、梼原町境
杭の畝(四等三角点:標高821.94m/点名:くいのせ)梼原町
五郎神(四等三角点:標高778.84m/点名:ごろうかみ)梼原町
竹平山(四等三角点:標高682.42m/点名:たけひらやま)梼原町
宗改(四等三角点:標高485.76m/点名:そうかい)クロ松尾803-1
竹ノ地(四等三角点:標高382.13m/点名:たけのぢ)字スゲノサコ790-3
長老帰り(四等三角点:標高528.26m/点名:ちょうろうがえり)字ヒキチガ谷788-13
日平山(三等三角点:標高614.40m/点名:ひひらやま)日ノ平山770-35
金兵衛(四等三角点:標高618.53m/点名:きんべえ)金兵衛855-3
思案場(三等三角点:標高859.53m/点名:しあんば)十和・大道
若宮(四等三角点:標高773.85m/点名:わかみや)十和・大道
仁井田越(四等三角点:標高639.41m/点名:にいだごえ)催合851-4
笹平山(二等三角点:標高1034.78m/点名:ささひらやま)十和・大道 ※大道に向う仁井田越えから北
釣井((四等三角点:標高799.87m/点名:つるい)駄場の畝840-1
新宅(四等三角点:標高477.55m/点名:しんたく)新宅836-7
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
佐川山(4054~4057林班、4059林班、4060林班)
小笠木山(4058林班)
宗改山(4053林班)
払川山(4061林班)
鳥井駄場山(4063林班)
坂島山(4064~4067林班)
坂島北平山(4068林班)
大松ノ畝山(4069林班)
足川山(4032林班)
小下野山(4031林班)
大下野山(4031林班)
■高知県河川調書(2001平成13年3月:p)
なし
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
井の神橋(不明/下津井字)
下津井橋(不明/下津井字)
下津井線1号橋(不明/下津井字)
東畑橋(不明/下津井字)
下藤蔵橋(不明/下津井字)
下津井5号線1号橋(不明/下津井字)
下津井5号線2号橋(不明/下津井字)
仁井田橋(不明/下津井字)
宗海橋(梼原川/下津井字)
下道下津井1号橋(不明/下津井字)
下道下津井2号橋(不明/下津井字)
下道下津井3号橋(不明/下津井字)
下道下津井4号橋(不明/下津井字)
坂島橋(不明/下津井字)
佐川橋(不明/下津井字)
■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)
ダバノ谷(ダバの畝839-1・ダバノ谷川)
ヒシャゲ谷(ヒシャゲ谷454・ヒシャゲ谷川)
ゴジオ(ゴジオ830・ゴジオ川)
ハシダイ(ハシダイ207・住吉川)
足川(足川802・足川)
七郎谷(七郎谷386・七郎谷)
カセブチ(カセブチ261-2・スゲノ川)
黒松尾(黒松尾416・太郎川)
ソウカイ(太郎切807・ソウカイ谷川)
モクノ畝(モクノ畝810・モクノ谷川)
■高知県防災マップ
小シヲ谷川(422-65-205)
スゲノサコ谷川(422-65-206)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 1梼原川
梼原川は、隣接の檮原町から下津井で四万十町に入り、穿入蛇行をくり返しながら大正地域の山間部を南流し、四万十町大正で本流の四万十川に合流する。合流部では四万十川と同じ規模の川幅、水量であるが、四万十川に比べて川幅が非常に狭く流れも急なのが特徴である。上流域で産出される木材は筏流しや管流し、木炭・梶・楮等の農林産物は高瀬舟による水運が発達した。梼原川は、下津井や松原等の中・上流域と河口の下田とを結ぶ重要な役割を担っていた。梼原川に沿って、森林軌道(旧大正林道)や道路(国道439号線)が整備されると、梼原川を使った水運から森林軌道やトラック輸送へと移り代わっていった。梼原川は、自然環境保全法第4条に基づく「自然環境保護調査」による特定植物群落の「トサシモツケ」の生育地であり、流域住民の生業を支えてきた存在であるとともに、豊かな自然を有する河川である。
・ 5旧大正林道佐川橋(通称メガネ橋)
佐川橋(通称メガネ橋)は、佐川山の国有林と旧大正町田野々(四万十町大正)を結ぶため、払川が梼原川に合流する地点に架橋された旧大正林道の鉄道橋である。梼原川流域は、明治期から昭和期にかけて官材の伐木が盛んで、佐川橋のある下津井周辺も、藩政期の御留山を基盤に国有林事業を展開してきた地域である。明治44年に須崎市の三浦木材によって四万十川水系での最初の森林軌道が中津川・大奈路間に敷設され、材木の近代的な搬出が開始された。営林署は、国有林事業の本格化に伴い大正14年に三浦木材の軌道を買い上げると、大奈路・田野々間に軌道を敷設し田野々に貯木場と簡易製板を設置するとともに奥地へ軌道を延長した。これによって、梼原川流域の森林軌道は、梼原川に沿って下津井坂島山に至る大正林道と中津川に沿って大筋山に至る中津川林道の2本となった。さらに、大正林道は坂島から下津井佐川山へ延長され、それに伴って建設されたのが佐川橋である。現在の橋は、ダム建設に伴い旧軌道が水没することとなったため、昭和19年に架け替えられたものであるが、藩政期の林業政策によって保護され現代に引き継がれてきた、四万十川流域における国有林事業の歴史を伝え、それを象徴する建造物である。下津井は、津賀ダム湖畔の風光明媚な場所で下津井温泉の保養地としても知られる。四万十町は、下道・下津井間をウォーキングトレイルとして整備し、町内外の人々に親しまれるハイキングコースとなっており、この終点が佐川橋である。地元では「メガネ橋」の愛称で親しまれている。
架橋年度:昭和19年 / 構造:鉄筋コンクリート造三連アーチ 高20m・幅員2m・橋長82m
■四万十町広報誌(平成19年12月号)