20150422初
20170227胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「下道村」とあり、一部に「下大道村」とあるが隣村・大道村の枝村とは距離的に考えられないので単なる誤記載と思われる。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「下道村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、下道村は大字となった。
大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。
昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
【地誌】
旧大正町の北西部。南西は標高900mの山稜を境に十和地域、北は下津井、東は大正中津川および大奈路字古味野々、南は木屋ケ内に隣接する。ほとんどが山地。地内を南東へ流れる梼原川の東部下流に四国電力津賀ダム(高さ46m、延長145m、コンクリート重力式ダム)がある。湛水域へ南西山地から集落を通り、払川谷・センコオ谷の2つの谷川が流れている。谷川に沿い階段状に水田、集落が開け、町道が一周している、農林業が盛ん。梼原川左岸に国道439号が通り、バス運行1日4便。右岸には町道が、上流山地への坂島林道とつながっている。国有林428haがある。春日神社があり、祭神は武甕槌命、経津主命・天児屋根命・毘売大神で、奇祭の当屋祭(飯盛祭)が伝承されている。ほかに地内には茶堂がある。ヤイロチョウ保護に取り組む生態系トラスト協会のトラスト地とビジターセンターがある。幡多ゼミナールと韓国の高校生が津賀ダム建設に伴う慰霊と友好のモニュメントを制作し湖畔に建立した。
(写真は1975年11月3日撮影国土地理院の空中写真。写真右側中段ダム湖の右岸が下道地区)
【地名の由来】
大正町史に『地名の「ドー」は穹窿地形(弓状又は半球状をなす形)を意味する(資料編p128)』とある。
下道は、河川沿いの河岸段丘より一段高い所に形成された平坦地で、ちょっとしたマチュピチュみたいな思いをさせるところ。大正地域では珍しい地形であるが、隣の十和地域の大道地区の楠野、番所谷、向畑などにはよく見られる地形となる。この大道から方位的に見れば下道といえるのかと考える。
鏡味完二氏は「日本地名学・科学編」で『吉野郡十津川村に、ドウジョウ地、上ドウショウ切、藤城、藤城谷の地名が並んで、一つの地名族を形成している。Dosyoを方言辞典でしらべると、「背(富山、石川の方言)」とある。恐らくこのDozyoとかいう土地は、円みをもた丘か、山腹のなだらかな尾根の上か、とにかく背中のようにふくれ上がった地形をいうのであろう。』と方言による地形特性を説明し、地名の伝播の過程で「道成寺」とか「鰌谷」に転訛すると述べている。
大正町史も鏡味氏の「穹窿地形」説を引用して、下道の由来としたものだろうが、石川県の方言を奈良県の地名の解釈に利用するのか、Dozyoからどうやって下道に導くのか、いずれも判然としない。
地名用語語源辞典では、①川音の音響地名。擬音語ドウ②川の合流点(長野県)③川の深い淵(富山)➃堰(岩手県)⑤水門(新潟県・鳥取県)⑥溜め池(新潟県)⑦水のない谷(三重県)⑧穹窿地形[鏡味]堂に見立てたものか⑨「堂」で仏堂のあった所⑩「銅」で銅鉱山、銅製品にちなむ⑪ドの長音化⑫トウ(峠)の転訛⑬トの転訛⑭タヲの転訛⑮ドブに通じ「湿地」⑯ノウの転訛と16説をあげている。
下道(したみち)なら、往還道の脇道の意味があるが、「シモドウ」と読むことから、ドウの音に意味があるのだろう。単に四国地方の峠を意味するトウ・タオと理解する方が無難ではなかろうか。
「下道」を電子国土Webで検索すると
福島県田村市下道:阿武隈高地の標高600m位の峠越えの平坦地。付近に上道、横道とある。
GoogleEarthで見ていただければ、大体の地形イメージは理解できると思う。
【字】(アイウエオ順)
足川山、ウシノダバ、大久保、大サコ、大平山、沖分、オリオノハナ、カミツルイ、上ハ野地、カラスク、朽谷山、クボツルイ、古味原、清水、清水ノ久保、下朽谷山、下モトチ谷山、下モノヲ、センゴヲ谷、ダバ地、タルケ谷、寺野久保、堂ノ畝、栃谷山、中串、長田ノ畝、拂川、拂川山、ヒサラ川山、平野地、広田久保、フロノ谷、ホコ岩、松ノコシ山、道下山、宮ノクシ山、宮ノ久保、山クチ山【38】
(土地台帳・切絵図番順)
1カラスク、2堂ノ畝、3長田ノ畝、4ホコ岩、5清水、6ダバ地、7宮ノ久保、8平野地、9センゴヲ谷、10中串、11古味原、13クボツルイ、14広田久保、15カミツルイ、16沖分、17上ハ野地、18寺野久保、19オリオノハナ、20清水ノ久保、21大久保、22フロノ谷、23ウシノダバ、拂川、24拂川山、25宮ノクシ山、26山クチ山、27道下山、28タルケ谷、29大平山、30松ノコシ山、31下モトチ谷山、33栃谷山(朽谷山)、34ヒサラ川山、足川山、35下モノヲ、36大サコ、37足川
※切絵図「12ダバ地」は、字マスターにはあるが、土地台帳には未登載
※切絵図「28タルノ谷山」は、土地台帳では「タルケ谷」
※切絵図「37足川」は、土地台帳では「足川山」
【ホノギ】下道村/枝村:下大道村とあるが誤記載か
▼是ヨリ下道村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳:幡多郡上の1p132~136/検地:慶長2年3月24日)
カリスク、長田、ホコ岩、中田、神田、中ヤシキ、柚木サイナウ、ヲキフン、カミツルイ、上のち、モリヤシキ、上庵免、寺中、大クホ、竹ノ内、後田本壱反地、竹内、ひろ田、はやし屋敷
(下大道村と記載のある分)
カイヤシキ、タハヤシキ、名本ヤシキ、ハライ川、西地
【通称地名】
【山名】
大平山
【河川・渓流】
久良川(ひさらがわ)
下足川(しもあしかわ)
払川(はらいがわ)
【瀬・渕】
ヒサラガワグチ、アカユワ、テンジンブチ
※ダム湖に沈む前の地名です。
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
春日神社/59かすがじんじゃ/鎮座地:宮ノクシ山 ※村社
王本神社/60おうもとじんじゃ/鎮座地:風呂ノ谷
1)「津賀ダム」 ダムの命名の意図は
四国電力は、津賀発電所の貯水池の正式名称を「津賀ダム」と命名している。会社所有の構造物であるので命名権は四国電力にあり、関知するところではないものの、「津賀ダム」という、地名や施設の固有名詞は、広く知らしめることを意図するところから不思議である。
地名の「津賀」は、発電所が設置されている地区の名称です。落差を利用し発電するために長い減水区間を生じさせながら発電の利得をもとめた発電所のある地区を冠に付けたダム名称です。ダムで大きな不利益となる、「沈む村」や「水量の減水、アユの遡上を阻む壁」となる地域の配慮に欠ける命名です。
多分、今頃のダムの命名には
①歴史的配慮②地域の特性や産業③風景や景色④地名や地理上の観点⑤未来志向の希望や期待
から、公募されて、丁寧な手順を踏むことにより愛される名称を求めることだろう。
大雨等によるダムの放流時にけたたましい音量のサイレンとともに「津賀ダムでは・・・」と放送される。その都度、怒りとともに「津賀ダム」の地名の変更を四国電力に求めたい。
四国電力は、地域貢献としてダム湖に沈んだ下津井や下道の地区に配慮した支援をしていることは理解している。ダムの管理運営について毎年、流域の各区長(地域の代表)に説明会と懇談会を実施していることは、十分承知のうえでの、「津賀ダム・・・」の命名の不思議を理解できないのです。
大正では別称として「古味野々ダム」と云っているが、これも不思議である。ダム堰堤の左岸の位置は古味野々集落であり、右岸は下道地区である。ダムの管理棟のあるのが右岸の下道側で、ダム直下の集落が古味野々である。どちらに軍配かは地元住民に任せるとして、今一度「津賀ダム」の命名の経緯をしっかり記録にとどめたい。
2)「カラスク」 古代農耕道具の辛鋤(犂・カラスキ)
カラスクの字名が旧下道分校跡の字「堂ノ畝」の上隣にある。長宗我部地検帳にも記される中世以前の地名である。カラ・スクの音節が自然であるが、カラス(烏)の地名も多いことからカラス・クとも読めるが1音のクの説明が不自然である。辞典にも記載されない不思議な地名であり、現地での確認が必要だ。
日本民俗文化体系⑭(p23・p96)に「わが国の牛馬耕の歴史研究にとって注目すべき資料の発見の一つが、香川県坂出市・下川津遺跡における7世紀代の犂の発見である。犂(すき)が7世紀代に四国の讃岐で既に使用されていたということは、今昔物語集巻26に現れる土佐の南西海岸における『辛鋤(からすき・犂)』の普及を裏付けるものであり、その後における西日本の犂の発達普及の源流の一端をうかがうことができる好資料である」と書かれてある。カラスキ(辛鋤・犂)のカ音の転訛も考えられる。
四万十町内に「カラスデン(烏田/金上野)」、「カラスダ(烏田/大井川)」「カラスデ(古城)」とカラスとタ(デン)の音節による地名がある。辛鋤(カラスキ)+田(タ・デン)が転訛して「カラスダ(カラスデン・カラスデ)となったように感じるがどうだろうか。
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
(地検帳幡多郡上の1p132~136/検地:慶長2年3月24日)
慶長時代からこの地区は”下道村”と呼ばれていた。”下道村”の最終段階に”下大道村”とあるが、”大道村”の枝村とは距離的に考えられないので単なる誤記載と思われる。
検地は慶長2年3月24日(1597年5月10日)、”中津川村”を終え、下道村のホノギ「カリスク」から始まっている。このカリスクは下道地区の下の段の集落で旧下道分校附近である。
慶長の検地の流れが、明治の土地調査と同じで、比定される地名も比較的多い。
下道村の検地で、ホノギ「ひろ田」が本田3反、出田44代の中田で下道一番の美田である。現在の広田久保と比定する。
ホノギに「名本ヤシキ」とあるが、大正町史(資料編p128)には「当時は、江師四ヶ村庄屋の支配下にあり(中略)名本の役宅は字ダバ地」とあるが、文献史料の明示がない。墓碑から「下道村名本小野川某」と数基あることから春日神社前の小野川宅と比定する。
検地高は、本田と出田で4町4反とある。
地検帳にみられる寺社は、蔵正庵がある。
■州郡志(1704-1711宝永年間):下p346
下道村の四至は、東限小屋之内山西限駒之谷南限小屋之内界北限八之野口東西二十町南北二十町戸凡十四其土黒
山川に、久良川山、下野山、大左古山、足川山、影平山、平之地山(皆在村南西松生)
寺社には、蔵正庵、春日大明神社、大元大明神社とある。
■寛保郷帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高44.937石、戸数19戸、人口80人、男46人、女34人、馬8頭、牛0頭、猟銃6挺
■南路志(1813文化10年):p624
234下道村 地四十四石八斗二升三合
春日大明神 ウシロ森 祭礼十一月ノ内 正体 石四・鏡三
蔵正庵 退轉、本尊のミ残
本尊 地蔵
■掻き暑めの記(1984昭和59年)
ダバ地(上p140)
明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。下道村の元標は字ダバ地に設置されていた。
蛇淵(上p257)
下道村の鍛冶屋敷に住む田辺友義さん。平家の落人といわれ天正地検帳にも番匠と記された代々の鍛冶屋。今から九代前の先祖の娘さんがこの蛇淵に住む蛇にさらわれた。その蛇を退治した話
■ゼンリン社(2013平成25年)
p5:下道、志もあしかわ、下足川橋、下道集会所
p7:下道、梼原川、春日神社、津賀ダム、津賀ダム管理棟
※ゼンリン社地図p5に、四万十川左岸の下足川の所在が「大正中津川」となっているが、「下道」の誤り。この地には字名で「下モノヲ、大サコ、足川」がある。
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
下道、津賀ダム
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
大正(四等三角点:標高618.77m/点名:たいしょう)字大平山532-8
下道(三等三角点:標高817.75m/点名:しもどう)十和・下道引地山
椎尾山(四等三角点:標高650.32m/点名:しいおやま)字大平山532-8
タルゲ谷(四等三角点:標高430.54m/点名:ひらがな)字タルゲ谷5116
※点の記では、「大正」も「椎尾山」も所在地が「下道字大平山532-8」で重複している。
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
久良川山(4070林班、4071林班)
上良引地山(4071林班)
栃谷山(4072林班)
下栃谷山(4072林班)
川平山(4073林班)
松ノコシ山(4073林班)
下野山(4030林班)
大佐古山(4030林班)
淵ヶ谷山(4029林班)
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
姫島橋(不明/下道字)
払川橋(不明/下道字)
大平山橋(不明/下道字)
清水川橋(不明/下道字)
■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)
名元(フロノ谷474・払川)
清水(清水ノクボ405・清水川)
大平山(大平山532・上払川)
■四万十町広報誌(平成20年10月号)