よくある地名の語源 「た」

だいしょうごんげんやま(大小権現山)【奥呉地△川ノ内△中土佐町/標高693.0m】

 

たかのすやま(鷹の巣山)【広瀬・飛地△四万十市/標高654.6m】

 

たきもと(滝本)【一斗俵地区内の集落】

 

  

たけのたに(竹の谷)【大正大奈路地区内の集落】

 

たけのぢ(竹ノ路)【下津井】

 

たけひらやま(竹平山)【下津井△梼原町/標高682.4m】

 

だば(駄場)【大井川地区の集落・組。四国西南部各地。唐人駄馬(土佐清水市)】

 高知県中西部、愛媛県南予地方に多い地形地名で、山頂や山腹の平坦地、河岸段丘、河岸段丘に至るまでの緩やかな傾斜地となる小平地のこと。

 桂井和雄氏は「一般に山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」と述べ「土佐では馬屋(厩)をダヤというのも馬の方言のダ(馬)屋の意味であり、そのダの意味が忘れられて牛ダヤ、馬ダヤ言ったりもする」と、馬をダと呼ぶ童語の全国例をあげ、馬を制御するドー、ドーもここからきているという(桂井和雄著『土佐方言記』p32、高知市発行、1953年)。

 土佐方言辞典では駄場について①山の水たまり。野猪の遊浴場②岡の上の平地。山腹の平地〔県下全域〕③芝地〔高岡郡〕とある。

 

 

たきやま(滝山・瀧山・ダキ山)【神ノ西、折合、米奥、六反地、八千数、与津地、弘瀬、相去、江師、昭和、大井川、戸川】

  

たちめ(立目)【立目(若井)、立チ目(中神ノ川)、立目(大向)、立目新山(南川口)、立目(奈路)、立目口(大井川)、井ノ木立目(古城)、立目山(古城・地吉)、ホノギ・柳ノタチメ(作屋)】

 須崎・浦ノ内の「立目ポンカン」は有名である。各地に分布する地名であるのに、地名辞典にも説明のない不思議な地名が立目。

 若井・中神ノ川・大向・奈路・大井川など各地区にこの立目がある。立目より西を「立西地区(天ノ川など南川口を中心とした8行政区)」という基準となる地名でもあり、長宗我部地検帳にもタチメとあるように中世以前の古い地名でもある。

 弓道で弓を放つ回数を立目と呼ぶのは聞いたことがある。矢を引き、その目が先の目を射る、凛とした立身からイメージとして理解できるが、各地に弓道場があるとは思えない。

 綜合民俗語彙辞典のタツマの項に、「狩猟の撃ち手の配置をいう。熊の通路を見つけておいて出てくるのを狙撃する。「立待」の意から出た語ではないか。栃木県ではタツメ、伊豆半島ではタズマ」とある。立待がタチメに転訛し、狩猟を生業とするものにとって重要な場所であったからこそ地名として刻まれたもので、弓道の立目もそこからきたものと思われる。

 大井川の立目は、付近に「保登峠」「折付」など往来地名も多く、大井川から八木を経由して井﨑に向かう往還道でもある。獣の通路でもあり、狩猟の最適地であったことだろう。

 方向の「辰巳」地名も多いので、その転訛もありえるか。 

 

たてやま(立山)【立チ山(七里)、カン立山(窪川中津川)、立山(影野)】

  香南市に式社であった立山神社があり、四万十町富岡にも立山神社がある。その神社の名か立山信仰の山によるものと思ってたら、『高知方言辞典』に「たてやま ①けわしくて登りにくい山②木を伐らずに置いてある山」とある。立野が村落共有の山の意味もあるように、長崎県では集落共有の薪山の意味があるという。 山神信仰の影響があるのか、狩猟・伐採を禁ずる山を立山というところもあるらしい。『民俗地名語彙辞典』では「たてやま ①大分県国東半島で針葉樹の植林地②大分県の南部では私有の山をいい、共有の山をナカマ山という③城郭地名として、西日本に多い城山に対し、東日本では館山(タテヤマ)と呼ばれる」とある。

 高知県の小字に立山(たてやま・たちやま)が28か所見られる。四万十町には八千数に中間山、相去に奈賀間山があり、大分県にも近いことからことから、私有林とも読み取れるが、立山の県内分布地、立山の接頭語となる桧・余・新・小などから木を伐らずに置いておく山にも理解できる。いずれも現地で確認する必要がある。

桧立山(馬路村馬路)、立テ山(安芸市下山)、立山(香美市土佐山田町逆川・大豊町馬瀬・土佐市積善寺・津野町永野)、新立山(四万十市横瀬)、余立山(土佐清水市片粕)、小立山(大月町鉾立)など

 

たての(立野)【無立野(東大奈路)】

  地名用語語源辞典では村落などの共有している山林原野とあり、群馬県の方言として草地として仕立てておく野の用例も紹介している。 

 

たにもと(谷本)【十川地区の集落】

 

たのの田野々)【旧大正町の役場所在地。各地に所在する地名】

  高知新聞連載の「土佐地名往来221号」で片岡雅文記者は「大正町史 資料編」を引用し「田野々村は、中央に丘陵(森駄場)を残し、旧河道跡に平地が開けた地形であり、地名の『たのの』は『たなの』がなまり変わった言葉で、段丘のある開き地に由来」と紹介するにとどめている。

 編集子は、「田・野々」と考え推考したい。「野々」は、幼児用語の神仏を意味する「のーのー」。実は周辺に「野々」地名が、神野々、宮野々、市野々、姫野々と多く所在する。「田野々」地名は、梼原町、南国市、徳島県三好市、香川県観音寺市、三重県熊野市と多く分布する。

詳しくは→「田野々」

 

たび(タビ・タヒ)【北川村野友、安田町正弘、香南市夜須川、香美市土佐山田町大法寺、同東川ほか多数】 

 タビ、タビノ上、タビノモト、タビガサコ、タビ谷といった「タビ」を語幹とする小字が、高知県東部に広く分布する。

 日本国語大辞典には①谷川の水が淵へ落ちる所②滝③滝壺④淵⑤両側に河原石を積んで水を落とすように造った場所⑥樋の出口とある。

 動詞「たぎつ」は、水が激しくわき立ち流れるさまでをいい、これが名詞化して水が湧きたつ場所を「滝」と呼ぶことになったか。上代は「垂水(たるみ/垂れ落ちる水)」で、神戸市に垂水区がある。この他、滝の別称として「樽(だる)」、「瀑布(ばくふ)」、「飛泉(ひせん)」がある。

 

 

たまやどこ(玉屋床・玉屋)【玉屋床(大正、昭和、安芸市穴内】 

 玉屋の語彙は、①一般的には「玉屋~、鍵屋~」と花火が上がるときに褒める掛け声として有名。もとは江戸花火製造元の屋号で、店は絶えたもののその名(掛け声)は全国に流布されていった。別の意味では②玉をつくったり売ったりする家。安芸市の市街地に玉造の集落がある。③シャボン玉を売る人の意もある。いっぽうで山国・土佐にぴったりの方言に「玉屋」がある(明治大正時代国府村民俗語彙/高村晴義/1961)。「玉屋」と使われていた時代は分からないが、今でも伐採木を適当な長さに「玉に切る」という言葉は使われる。一定の長さに切った材木が「玉」で、それを生業とした人が玉屋であり、その作業をした跡を「床」と名付けたものだろう。

 江戸時代の上山郷の運材の主流は川流しであったが、大正中津川などでは伐採された材は杣(そま)や小挽(こびき)の手によってハツラレ、挽き割って小仕成りの製品にして、人の手で運材したという。中津川の成川やアザメや小松尾の奥山(御留山)からの山道は、一等三角点である城戸木森(908m)から、米奥の枝折山を越し、笹越えから魚ノ川に入り、床鍋から大坂谷へと下り、久礼浦までと辿ったことだろう。大正の郷土資料館には材を肩に担ぐ「ボテ」の用具が展示されている。

 この接尾語の「床」は、宮床、古宮床、寺床、灰床、炭床、釜床、橋床などの用例がある。理容店を「床屋」といったりもする。子どものころ朝餉を「床に祀ってきて」と言われたが、仏壇を指す意味もある。仏壇もそうだが、苗床とか、床を敷くか、一段高くなった所を意味する場合もある。宮、古宮、寺、灰・釜(荒神)とか神聖な場所若しくはその跡を「床」と名付けたと思われる。

 樹木は、超自然的な力の象徴とされることが多い。神を数える単位は「柱」である。神を迎える場所には木が建てられる。祭りの幟もそうである。玉屋床もそういった意味での聖域であり、地名として名付ける必要があったものと思える。

 

たや(タヤ・タヤ作り・タヤガウネ・タヤノモト)【県中北部に多い】

 日本語大辞典では①田の番をするために建てた小屋②山間地などで、遠くにある田畑に出向いて耕作する期間、一時居住するために建てた小屋。

 高知県方言辞典では、山畑にかける作り小屋〔いの町寺川〕とあり、高知県内の小字の例としては県中北部にあり、濁音の「ダヤ」は見あたらない(清音書きで濁音読みする場合もあるが)。

 県中北部の例は、タヤ(土佐町境)、タヤガウ子(高知市鏡今井、同鏡横矢)、タヤトコ(大豊町馬瀬、高知市土佐山中切)、タヤノ久保(土佐町東石原)、タヤノモト(土佐町瀬戸、仁淀川町明戸岩)がある。

 

だや(ダヤ・駄屋)【】

 

 日本語大辞典では、中世の大和で、塩の運送・仲介業者と解説する。また方言として①牛馬を飼っておく場所。馬小屋。牛小屋〔西日本〕。橋詰延寿『土佐方言集』、桂井和雄『土佐山民俗誌』②肥料小屋〔中国・九州地方〕③物置小屋〔中国地方〕とある。

 高知県方言辞典では①牛舎、馬小屋〔県下全域〕と解説し、清音の「タヤ」と区分している。

 桂井和雄氏は駄場の解説で「一般に山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」と述べ「土佐では馬屋(厩)をダヤというのも馬の方言のダ(馬)屋の意味であり、そのダの意味が忘れられて牛ダヤ、馬ダヤ言ったりもする」と、馬をダと呼ぶ童語の全国例をあげ、馬を制御するドー、ドーもここからきているという(桂井和雄著『土佐方言記』p32、高知市発行、1953年)。幼稚語で、馬がダーなら、牛はベーだろうか。牛や牛の子を「ベコ」というのは、東北だけでなく日本全国に「べっこ」「べぶ」「べ」「べんた」「べち」「べよ」「びい」と少し変化しながらみられる。「べるこ」は長岡郡に見られる(土居重俊『土佐言葉』)。大正では牛を田の代掻きに使うとき左廻りのときに「へいしょー」という。「へー」では力が入らないからヨイショを加えて「へいしょー」となったのか。

 

たんが(旦過・タングァ・タンクワヤシキ)【榊山のホノギ】

 服部英雄氏は『地名の歴史学p122』で旦過地名について詳しく述べている。旦過は「夕に来て翌朝行き過ぎる」の意の仏語で、修行僧が一夜宿泊することまたはその宿泊所をさす。四国遍路の善根宿としての施設もあり四国各地にこの地名が刻まれているという。単なる宿泊所の意味から世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所=アジール、聖と俗の境界域ととらえることもある。また氏は、旦過には共通性があり①港・渡し場など交通の要衝②著名な禅僧と結びつく③温泉・風呂に結びつく、と愛媛県のタンガ地名を例示して述べている。

 四国の事例では札所付近や街道の要衝にあることから、信仰地名とともに交通地名ともいえ、地名の所在から消えてしまった街道を復元することにもつながる。

 四国58番札所仙遊寺の麓に玉川町別所の大字があり、その小字に風呂の谷がある。服部もタンガと風呂の関係を指摘している。「別所」とは寺の本院とは別に修行僧が住むところを意味し、「別院」、「風呂地」とも呼ばれる。「風呂」は修行僧、聖や修験者の作善として施行する「蒸し風呂」である。「旦過」・「別所」・「風呂の谷」は相関する地名である。

 筒井功は『風呂と日本人』で熊野信仰と石風呂について東かがわ市の事例をもとに述べている。四国、瀬戸内には「蒸し風呂」が多い。

 高知県内の古文書では『手結浦日抄』に「往古旦過寺有シ号ナリ」と香美郡夜須郷に旦過寺があったと書いてある。

 長宗我部地検帳では

仁井田之郷地検帳・榊山村(刊本長宗我部地検帳高岡郡下の2p367)「タンクワヤシキ」

 ※五社神領分とあることから「旦過宿」か

高岡郡波介郷・坪内村(刊本長宗我部地検帳高岡郡上の1p435)「タンクハンヤシキ」

幡多郡竹島村地検帳(刊本長宗我部地検帳幡多郡中p248)「タンクワヤシキ」

 

 高知県内のタンガ地名と思われる字名に、丹波屋敷(東洋町河内)、タンゴウ(安田町別所)、タンバウチ(芸西村久重甲)、タンガン(香美市土佐山田町植)、丹官(タンガン/南国市甘枝)、タンバ(四万十市片魚・四万十市竹屋敷)、タンバナロ(宿毛市橋上町出井)、タンクワン(宿毛市小筑紫町田ノ浦)がある。四万十市片魚、宿毛市橋上のタンバ地名は木材の木流しの用語と地形的にも考えられる。いずれにしても服部氏の旦過地名の共通性により現地調査する必要がある。

  

たんばぎ(タンバ木)【大正】

 つづら川が四万十川に合流する右岸の山手が「タンバ木」という字名である。タンバは「東美濃では流材作業中の必要から、一時流木を集中させることをタンバといっている。タンマは遊戯中に一時休戦することをいう」と分類山村語彙で述べている。この葛籠川の奥山は御留山であり、現在でも市ノ又国有林野として有名である。この奥山からの流材をこの地で一時とめたことから名づけられたとすれば十分納得がいく。四国樹木名方言集には、タンバ木という方言名称はない。

 上山郷から中村一条領地にむかい杓子越えの起点となるところから、善根宿の「タンガ」も思い浮かべる。「タンガ」に「キ(処を意味する接尾語)」を加えたタンガキの転訛かもしれない。

 

(20170923現在)


ちめい

■語源


■四万十町の採取地


■四万十町外のサイノウの採取地