十和川口

とおわかわぐち


20150630初

20170630胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の脇書に「十川内川口村」とある。十川村地検帳として一村分の地高がまとめられており、当時は十川村の枝村としての位置づけと思える。十川村は本村の大野村(十川)のほか、枝村にこの川口村(十和川口)のほか今成村(十和川口)・戸川村(戸川)・烏村(古城)・地吉村(地吉)・白川村(十川)がある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「川口村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡大野村、地吉村、烏村、川口村、戸川村、井崎村、広瀬村の7か村が合併し「十川村」が発足し、川口村は大字となった。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。合併時、町内に同名の大字があることから、調整され名称を川口から十和川口に改めた。 

 地区内の班・組編成は、下組(しもぐみ/今成)、住宅組(じゅうたくぐみ/今成)、中組(なかぐみ/今成)、川平組(かわひらぐみ/川平)、奥組(おくぐみ/吹藪)、教員住宅(きょういんじゅうたく/川平)の6組となっている。

  

【地誌】

 旧十和村の西部。北は古城、北東は戸川、東は十川、南東は広瀬、南西は井﨑、西は四万十市西土佐に接する。南流して東境の一部をなす四万十川は広瀬で向きを変え、地内南西境を北西流する。また、古城から南東流しほぼ北東境をなす長沢川は東境で四万十川に注ぐ。西に中の越・川口新四国八十八か所山がある。地内は、長沢川右岸下流域の梁瀬を中心に、戸川口、吹籔、今成、川平の集落からなる。およそ農業地域。十川橋付近から下流に飲食店・ガソリンスタンド・自動車整備場・建材店・理容院・精肉店・建材・温泉旅館・建築関係の店などが混在し、十川市街地の一部をなす。四万十川右岸を国道381号が通り、対岸の十川の鍋谷を結ぶ抜水橋の十川大橋が架かる。地内の四万十川沿いから中央部をJR予土線が通る。四万十川の流域はアユの好漁場で漁期になると釣人でにぎわいをみせる。地内には十川小学校・十川中学校・第1緑茶加工場、四万十川東部漁協十川鮎荷捌所・町営住宅・製材所・日露戦役植樹・里道改修記念碑などがある。平成20年に道の駅四万十とおわが完成し四万十ドラマが商品開発・観光開発をローカル・ローテク・ローインパクトで運営している。道の駅の隣では四万十かっぱ川舟下り(四万十かっぱ組合)も行われるようになった。白王神社・三島神社・八坂神社があり、秋の大祭には花取踊りが奉納される。四万十川のワロウブチには大蛇の伝説があり、その上方には六地蔵・馬頭観音が祀られている。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真下部を西流する四万十川の右岸流となる長沢川の合流域右岸が十和川口)

 

【地名の由来】

 辻重憲氏は『史談くぼかわ・第5号』で窪川の川口について「川口の地名は全国に多い・本流へ流れ込んだ所」と述べる。十和川口の場合は、地吉を源流点とする長沢川が四万十川に合流する河口右岸が”川口”である。文字どおり二つの川が合流するところが川口という地形地名である。

 

 ちなみに十和川口地区の下流域で道の駅とおわの所在するところが今成集落である。

川の屈曲部に形成された新しい開拓地の意味であろう。桂井和雄氏は『地名覚書』で越知町今成、旧十和村今成、旧中村市今成の三ヶ所を示し「川の大きな屈曲部にのもとにこの地名が展開している。今の文字を冠して”新”の意味に使用した例は多い」と今成の共通点をあげている。

 

 平成の合併で十和の川口は「十和川口」としたが、実現できなかった大字名の改称案に「平成」がある。十和の川口は大きく上流域の「川平」と下流域の「今成」とに分かれていることから、その一文字を合成したところによる。隣町の旧大正町、かつての旧昭和村、のこりすくない平成の年号。合成地名はあまり歓迎されないが、これくらいそろうとそれなりの価値がある。開き直ってつけてもよかったかもしれない。

 

 四万十町内では、十和川口のほか、南川口がある。

 微細地名の字となれば、次のとおり。押川口(金上野)、芦川口(仕出原)、タノ川口(七里・西影山)、下川口(七里・本在家)、西ノ川口(作屋)、川口瀬(窪川中津川)、カイデ川口(土居)、ヒトギノ川口(大正北ノ川)、コイジノ川口(烏手)、吉川口(江師)、足川口(下津井)、佐川口(下津井)、足川口(浦越)、北ノ川口(津賀)、北ノ川口(昭和)、戸川口(十和川口)で、まさに川と川との合流点である。

  


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アサシリダバ、井グチ、石ガサコ、板カサコ、一ノ瀬、井津ガ谷、ウヱヤシキ、ウバガ谷、馬ノ石、ウワヤナゼ、大畑、階ノ木、角堂、カラ岩、川平山、クメヤシキ、クリノキダ、黒カ子、桑原ヤシキ、ケンモツ、コケガ谷、ゴマジリ、サカトロ、ササカタヲ、シモツルイ、シロコエ、新階、シン田ノ向ヒ、セキノ上ミ、セコ谷、高畑、樽越、丁子ガ谷、ツウ子ヱ、ツウネエグチ、ツガノ川谷、津ガノ川山、津賀ノ川山、ツツミノドヲ、ト井ノモト、ト井バナ、戸川口、ドヲセン、中田、ヌタ、ヌタノモト、ヒラ畑、フキヤブ、フタヱ、フチクビフチノ上ヘ、舩ノ川、フル紅梅、ホリキホヲノキセ、マトヲバ、宮ノ谷、向イヤシキ、モンビヨヲヂ、ヤナ瀬、ヨケヂ、横畑、横山、ヲヲヒラ、ヲヲミナ口【65】

 ※「丁子ガ谷」は、高知県神社明細帳(十和47)美代木神社の段に「字イ子ガ谷鎮座地」とある。

 

【ホノギ】

〇土佐国幡多郡上山郷地検帳・上山郷十川村地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年3月11日)

 ▼今成村(p317~321)

 カシハカセ、シロハエ、宮ノ谷、トヲシ谷、フチクヒ道、ツツミノタウ

 川口村(p.321~327)

 ホリキ、庵ノハサ、妙見神田、ノ廻、上ノシロ、シンカイヤナセ、寺中谷、柳瀬谷、山神ノ谷、フ子ノカワフキヤフツカノカハ谷ホウノ木セイチノセ

 十河内古野(p327)

 ユノ ※地検帳原本「コノ」を刊本判読誤りかもしれない

 河口村(p328)

 トカハクチ

 十河内戸川口(p329)

 川向、下田、東地

 

土州幡多郡上山高山ハタ地検帳 

 ▼自是今成村

  ■バ井ノ分、渕ノ上

 

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

  

   

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

八坂神社/41やさかじんじゃ/鎮座地:フタエ ※今成集落。三島神社・白皇神社は合殿神社

常盤神社/44ときわじんじゃ/鎮座地:津賀ノ川山 ※吹藪集落

星神社/45ほしじんじゃ/鎮座地:ヲヲヒラ ※吹藪集落。ゼンリン社p14吹藪に神社記号有

琴平神社/46ことひらじんじゃ/鎮座地:笹ガタヲ ※梁瀬集落 

美代木神社/47みよきじんじゃ/鎮座地:イ子ガ谷 ※今成集落

星神社/48ほしじんじゃ 916/鎮座地:ドヲセン ※今成集落

 

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)戸川口、吹藪、梁瀬、今成、川平は地区の集落名称か?

 

2)字名の「階ノ木」は「楷」?

 今成集落に「階ノ木」という字があるが「楷ノ木」の誤記載ではないか。楷はウルシ科の落葉高木で紅葉が美く、学問の聖木とされ岡山の閑谷学校にも立派な楷の木がある。

 

3)地検帳にある「古野」とはどこか?

 古野は川口村の後に検地され、戸川口へと移っている。川口村には吹藪も含まれているから特定できない。ホノギも「ユノ」とだけある。


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(幡多郡上の1p317~329)

  十河内鍋谷を終えて対岸となる川口村から検地がはじまる。十和川口地区にあたる地検帳に記載のある村名は、地検帳の順でいうと「今成村」、「川口村」、「古野」、「河口村」、「戸川口」となる。比定されているホノギから読むと河口村は梁瀬集落、吹藪集落の範囲となるか。吹藪集落を流れる川は字名から見ると「ツガノ川谷」で地検当時のホノギとして「ツカノカハ谷」が残っている。

 川口村のホノギに「城ノ廻」、「上ノシロ」のホノギが残る。字名にも「シロコエ」があり、地名から山城があるのではと考えられるがこれまでの調査に記録はない。

 地検帳にみられる寺社は、戸川口に「真光寺作」とあるが寺中(真光寺)は大野村(十川)にある。関連するホノギは、「妙見神田」、「仏堂」、「山神主神田」がある。 

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p335)

 川口村の四至に、東抵小谷西抵布岐籔南抵今成北抵戸川口東西十五町南北二十五町戸凡四十六其土赤雑砂

 山川は、津賀之川山(在村西禁採伐)、大川(自高岡出過村南)、川口谷(自北流南入大川)

 寺社は、白皇社、大明神社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高90.83石、戸数44戸、人口181人、男81人、女100人、馬5頭、牛3頭、猟銃7挺

 

■南路志(1813文化10年)

225川口村 地九十石八斗三升

白王 石神山

三嶋大明神 同 祭礼十一月十日

 

■ふる里の地名(1982昭和57年)

▽川口の地名の伝承(p39)

【今成】

ヌタ:其の土地がヌタになっていて、いのししがヌタうちをしたところ。

横山:中野越中心として上むいて横に当るため横山になった。

角堂:明治時代初期において大師堂があったため角堂と字名がつけられた。

楷ノ木:山神を祀ってていたところに大きな楷の木があった。また、入らず山となっていたところから楷の木と字名をつけられた。「カイノキ」は、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。中国の孔子廟に植栽されていることから学問の聖木として儒学に関心深い所に頒ち植えられた。日本に渡来したのは大正4年で、湯島聖堂、閑谷学校、足利学校が有名。牧野富太郎はこれに孔子木と命名された。

※字名は「階ノ木」となっている。由来の地名なら字名を「楷ノ木」に修正を。

ヨケヂ:昔し、シモヅルイが山津波がして避難したところでヨケヂと字名がつけられた。

ウエヤシキ:今成地区において一番うえの端の屋敷。(林稔の屋敷)

宮ノ谷:八坂神社のお宮あり、宮をさして宮の谷と言う。

樽越:宮の谷の奥に渓谷があり雨の時は滝となっているところ。

ヌタノモト:湿気が多い湿田あるためヌタノモトなったものである。(ここに現在、八坂神社の神田がある)

中田:今成部落の中央に当る田であるため中田と言う。

桑原屋敷:雷鳴が落ちたところで桑原屋敷と字名がつけられた。現在桑原の性が二軒あり、其の屋敷を言う。

クリノキダ:昔、クリノ木の大木があったところで、クリノキダ(田〉になったものである。

フチノ上:ワロウ渕の上に当るのでフチノ上と字名をつけたものと思われる。ワロウ渕についての伝説。ここに悪竜がおって、み女の子供をとられ六月の土用に氷を張らせて竜石をけり、うつぶけて退治した。岩石に竜の角跡が2本残って見える。現在鉛谷組において竜王神社として祀っている。

林栄さん宅の下平(字ヌタノモト)にみ女の屋敷が約四十坪位あり残存している。現在其のみ女様は、八坂神社境内に合祀され氏子が20位いて毎年11月1日にお祭りをしている。

ドヲセン:明治23年に大水で住家(芝茂広の先祖)流されて其の人が、銅銭もって屋敷を建て直したことから銅銭と言う字名になったものである。

※土地台帳規則が制定されたのが明治22年なので字が確定されるのはそれから一定の期間を要したということか。明治23年大水害は多くの記録に残っている。

※古くから呼び伝えられた地名なら音表記(カタカナ)のドヲセンは理解できるが、明治23年大水害を契機とした地名なら「銅銭」と漢字表記にしたはずである。ただ明治5年に円が誕生し紙幣の時代になった。明治23年に「銅銭で屋敷をたてなおした」というのは埋蔵された古銭であろうが真実だろうか。ドヲセンが別の意味を持つのかも含め調査が必要。

高畑:道の上の高い所に畑があったため、高畑となった。

フチクビ:渕の頭になるところから、フチクビとなったものである。 

 

【梁瀬】

ホリキ:谷間になっていることから、ホリキと言う。

笹ガタヲ:笹が多くあってタヲになっていることから笹ガタヲを字名がついた。昔は笹が多くはえていた。

マトヲバ:弓のけいこ場であったところ。 ※本書は「マトラバ」とあったが修正した。

馬ノ石:昔、馬を川につないでいたら、カッパが馬を川へひこずり込み、馬はたまげて鳥小屋に帰って来たので主人が見ると、カッパが馬の背中に乗っていた。主人がおこってカッパをたたきころそうとしたら、助けてくれと言ったので主人が助けてやった。其の翌日から毎夜、魚を外のかごに入れてあった。余り重く鍵が折れそうになったので、主人がしかの角の鍵をつるしたら翌日からカッパはこなくなったと言う。現在も川へ行く時は、しかの角をもっていけと言うことわざがある。

城越城があって越えたとこと。

 

【戸川口】

一ノ瀬:四万十川の支流の長沢川の第一目の瀬で一ノ瀬となった。

ヤナ瀬:四万十川の支流の長沢川の第二目の瀬で魚瀬を作っていて魚を取った。

※国土地理院集成図に「梁瀬」とある。

石ガサコ:大きな岩があり、谷間がせまいところから石ガサコと字名がついたもの。

ト井のモト:水田に水を引くためト井をかけた水のもと、ト井のもと。

ヒラ畑:日当りが良くて平ら畑になっている。

ホヲノキセ:ホヲノ木の大きな木があった。其の下に渕がありホヲハやとなった。

戸川口:戸川部の出口に当るところ。

井グチ:水田に引く井セキがあることから井グチと言う。

セキノ上ミ:井セキのうえにあたるところ。

ヲヲヒラ:平たい山。

 

【川平】

アサジリダバ:野菜を作っていたダパイ畑のため、アサジリダパとなった。

ゴマジリ:コマの形をしているところからゴマジリと言う字名になったものである。

サカトロ:川の流れがさかしに流れていて、流れがとろいことからサカトロと言う字名になった。

フル紅梅:古い紅梅の木があったところ。

クメヤシキ:クメと言う人が住んでいた屋敷。

カラ岩:今にもこけそうな大岩が多くあるにもかかわらず、おちてこないことからカラ岩と言うことになったものと思われる。

シン田ノ向イ:新しい田の向いをさしている。

コケガ谷:こけそうな、けわしい谷のこと。

※こけそうな谷が由来とする「コケガ谷」。南面の山容なので「苔ノ谷」は疑わしい。コウゲガ谷では?

 

▽「徳弘勝氏の特別寄稿」 

 ・今成(p80)

  「イマパリ(今治)、イマムラ(今村)、イマザト(今里)、イマザイケ(今在家)、イマドイ(今土居)などと同類。新治(ニイパリ)、新開(シンガイ)、新村(シムラ)などと同意で、新しく開けたむらを意味した。越知町の今成も新しくできたむら。ゴボウの産地としてデユーした。

 十和の「今成村」は地検帳に「カシハカセ、今成村、小十良作、下畠」。地名の盛衰を感じさせる。

 

 ・フキヤブ(吹 藪:p81)

 1597年(慶長2年)の川口村に「フキヤフ浦向かけて」13筆178アールが記されている。吹薮ウラだったと思われるが、浦は、ウチ(内)ラの意だろうか。山風によるか、それともホキ(川辺のけわしい道)の転化でしょうか。よくできている『十和の民俗』から感じえません。

 ・梁瀬(p81)

 「柳瀬谷、十河内川口村、源五良作。同しノ上、物吉良上地、藤三良おる」と記されている。源五郎の作っている柳瀬谷の上には藤一二郎が住んでいた。そこは惣吉郎の上地(あげち=取りあげられた土地)であった。

 柳瀬は梁瀬とあて字したい。梁。魚を取るため、川の瀬に作った設備。杭を打ちならべて水をせきとめ、一カ所だけ流すようにし、そこに簀(す)を敷いて流れ落ちてくる魚をうけ止め捕えた。

 「梁、此をば椰奈(やな)といふ」(紀、神武即位前)。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

 p16:十和川口、梁瀬、四万十川、長沢川、県道十和吉野線、一の瀬大橋、十川小学校、十川中学校

p14:十和川口、吹藪、今成、四万十川、長沢川、吹藪川、舟の川、林田川、JR予土線

p22:十和川口、川平、ウガ谷川、川平橋、JR予土線今成トンネル

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 十和川口、戸川口、吹藪、梁瀬、今成、川平、今成トンネル、川平トンネル、川平橋、道の駅

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

川口(四等三角点:標高328.86m/点名:かわぐち)川口字樽越894-32番地

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p53

長沢川(四万十川1次支川長沢川)

起点:四万十川合流点(右岸十和川口・左岸十川)

左岸:四万十町地吉字長畑733番地先

右岸:四万十町地吉字ニタ又口626番の1地先 

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

吹藪橋(/川口)4.10

一の瀬橋(長沢川/川口)23.00

長沢川橋(戸川/川口)24.50

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

 梶ヶ谷山:(2062林班)

 

■四万十町広報誌(平成20年12月号)

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ぶら〜り散策0916【十和川口】20081201.pdf
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