20150608初
20160810胡
【沿革】
長宗我部地検帳では、床鍋村を本村とし、入谷村・床鍋下村・瓜生野村・大ヌタ谷村の四か村を枝村として計五か村で構成されている。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、高岡郡床鍋村、影野村、奥呉地村、魚川村、下呉地村、替坂本村、六反地村、仁井田村、小向村、中ノ越村、富岡村、平串村の12か村が合併し仁井田村が発足し、床鍋村は大字となった。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡仁井田村は、 窪川町・松葉川村・東又村・ 興津村と 合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
【地誌】
旧窪川町の北東端。北は中土佐町に接する。仁井田川上流の比較的開けた谷間地域・国道56号が通り、仁井田川沿いの山際に集落が点在する。中土佐町境の七子峠からの眺めは雄大である。三島神社がある。中土佐をつなぐ遍路道「添蚯蚓(そえみみず)」があり、今も昔も巡礼者に親しまれている。弘法大師ゆかりの海月庵は、七子峠の国道沿いに移され、豪商高田屋嘉兵衛の遍路石は岩本寺に移されている。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真左上部が床鍋地区)
【地名の由来】
庄崎一『霧の流れる里 窪川・床鍋』に詳しく述べているので二つの説を引用してみる。
①弘法大師伝説
弘法大師が真言宗の総本山を建てる霊験あらたかな地を求めて全国を行脚していた。添蚯蚓坂の頂上から、この地こそ霊地にふさわしいと思って、東の方向の空たかく独鈷を投げたのである。するとたちまち黄金の炎となり谷川を流れていった。霊地は八葉の峰、八流の谷がなくてはならない。ところが七峰七谷しかなく、この地に寺ができることはなかった。独鈷が炎となって流れた谷を、長竿谷(現在の中土佐町長沢谷)といい、この地を「独鈷なげ」ということから、「とこなげ」となり、さらに訛って「とこなべ」と呼ばれるようになり、いつしか「床鍋」という文字が当てられるようになった。(庄崎一著「霧の流れる里 窪川町・床鍋」p14)
②開拓者出身地説
延喜13年(935)に山内蔵人経高(後に津野と名乗る)が須崎に上陸し、津野村床鍋に居を定めて次第に勢力を拡大し、半山・津野山・大野見・久礼・仁井田郷の一部(松葉川地区の上流)を領有するようになった。その内に更に勢力が延びて、半山郷床鍋村から、未開地の多かったこの地に開拓のため移住した人々がおり、故郷の地名を付けたのではないか。
明治44年に三島神社に合祭されるまで熊野原に鎮座していた、三熊野神社の境内社であった蟻宮神社の棟札に「奉招祈禱蟻宮明社一宇氏子栄守安政三辰(1856)正月二五日半山郷床鍋村ヨリ勧請」とあるので、故郷の神社を、開拓者達が懐かしんで勧請したのではなかろうか。(庄崎一著「霧の流れる里 窪川町・床鍋」p14)
片岡雅文記者の高知新聞連載コラム『土佐地名往来No627』には、桂井和雄氏の「川床の平坦で滑らかなことのナベ、ナベラ、ナメなどの転訛」を引用している。
【字】(あいうえお順)
青木ノ丸、小豆谷、有之木、有野木谷、池、池ノ谷山、石鉄山、泉、伊武田、入谷、入レ子口、岩倉、江ノ口、恵美酒舞、恵味酒ケ原、エンノシマ、大国畑、大久保、大島、大谷、大谷グチ、大谷山、大奈路、大汢山、大呑谷、大屋舗、岡、岡屋式、沖ノ丸、楓ノ本、垣添、カキ谷、カマド下タ、上新開、上ノ丸、上向、川上屋舗、川久保、キシノ下タ、熊野、熊野々原、呉地谷、桑原、源太、小島虎杖谷、琴平、小奈路、権現、桜、佐竹田、山林、下ノ丸、下モケ谷、下鎌ゲタ、下モ谷、下向、酒造田、城居山、城屋舗、新開、神宮山、高岡、忠太、土居屋敷、徳利山、轟、土俵ノ丸、中組山、中須賀、中ノ川、中畑、仲屋舗、鍋金、仁井屋、西ノ薮、汢ノ川、野々又、野々又山、白王ケ原、白王ノ前、東稲口、東屋舗、東山、福造田、福貴山、福山、船木野、分上、弁天山、堀越、堀田ノ丸、松ケ瀬、間野島、三島野丸、宮ノ前、野奈路、山ノ下タ、分上山、ヲモダ、ヲモダ山【100】
(字一覧整理NO.順 床鍋p88~90)
※床鍋川によって東西に分け、東側の影野地区との境を一番として、川の流れの逆方向に七子峠に行き、それから西側に廻って下流の方向に向かって付けていった。(庄崎氏の著書に曰く)
1下向、2土居屋敷、3松ケ瀬、4垣添、5中須賀、6上向、7下鎌ゲタ(しも)、7上鎌ゲタ(うわ)、8土俵ノ丸、9佐竹田、10下モ谷、11大屋舗、12岡屋式、13堀越、14池、15楓ノ本(かえで)、16仁井屋、17山ノ下、18権現、19熊野、20熊野々原、21ヲモダ、22伊武田(いたけだ)、23野々又(ののまた)、24川上屋舗、25大奈路、26堀田ノ丸(ほりた)、27小奈路、28川久保、29下ケ谷(しもがたに)、30船木野、31新開、32上新開、33福造田、34白王ノ前、35桜、36徳利山(とくりやま)、37中ノ川、38白王ケ原、39大呑谷(おおのみだに)、40恵味酒ケ原(えみざけがはら)、41大国畑(おおくにはた)、42江ノ口(え)、43中畑、44大島、45間野島、46分上、47小島(こ)、48エンノシマ、49琴平(ことひら)、50カマド下、51大久保、52高岡、53青木ノ丸、54岡、55恵美酒舞(えびす)、56鍋金(なべかね)、57轟、58大谷グチ、59桑原、60有野木谷(ありのきだに)、61キシノ下、62入レ子口、63小豆谷、64籾野奈路(もみのなろ)、65酒造田、66三島野丸、67宮ノ前、68東屋舗、69東稲口、70入谷(いりのたに)、71城屋舗、72沖ノ丸、73泉、74仲屋舗、75下ノ丸、76源太(げんた)、77汢ノ川(ぬた)、78山林(さんりん)、79忠太(ちゅうだ)、80東山、81福山、82池ノ谷山、85野々又山、86福貴山(ふくたかやま)、89大汢山、91虎杖谷(こつえだに)、93カキ谷、95分上山(ぶんじょうやま)、96神宮山、97中組山、98大谷山、99石鉄山(いしてつやま)、100有之木、呉地谷(くれちたに)、103弁天山(べんてんやま)、105岩倉、106城居山(しろいやま)、107西ノ薮(やぶ)、110大汢山(おおぬたやま)、111土居屋舗、112垣添エ(かきぞ)、113神宮山、114大谷、115籾野奈路、116上ノ丸、117ヲモダ山、118船木野、119櫻
※庄崎一著「霧の流れる里 窪川町・床鍋(p14)」の字の一覧から引用。「明治23年の土地台帳整備で、この地区では中城守辰さんが責任者として実施した」とある(同書)。
※字マスターに「上鎌ゲタ」の記載がない。
※字マスターは「熊野々原」とある。
※庄崎氏の小字の一覧には「岡」「分上」「間野島」の記載がない。
【ホノギ】(床鍋村/枝村:入谷村、床鍋下村、瓜生野村、曾津川村、大ヌタ谷ノ村)
※近世には床鍋村の枝村として曾津川村が入っていたが、「影野」で記載する。
▼床鍋村(p673~677)
下ムカイ新開、ノダ、クイノ本、池ノモト、カキソヘ、下向ノ窪、シミツノ本、下ヤシキ、下キレ、梅木サイノウ、永ダ、中マヤシキ、九内衛門ヤシキ、ナカ、ナカマ
▼入谷村(p677~680)
ヲンチ、ヨコダ、アンノ谷、下道谷、入谷ヤシキ、西谷フチ、寺中、サウジテン、マトハソ子、西ノ窪、ツエシリ、カイノキノ窪、石ソリ、窪ヤシキ、岡ヤシキタ、高岡、ヤコロヤシキ、永タ、ヲンチ、ミノタ、杉ノ木ノ本、大窪ヤシキ
▼床鍋下村(p680~681)
宮ノ本、カミ永タ、クシナ宮ノ瀬、カマキ谷
▼瓜生野村(p681~683)
下谷、寺前、ヤウシタ、川フチ、畠タ、大ヤシキ、ヲキヤシキ、コウチンヤシキ、岡ヤシキ、ホリコシ、ツフリキ、サカバノキレ、コウノクホ、キヤウ屋ヤシキ、土ゐヤシキ、堂ノ口、梅ノ木ノ本、権現行谷、山ノ子
▼床鍋村(p684~688)
杉ノ木ノ本、石神ノ本、堂ノ前、堂ノ谷、カウカ、野タ、宮ノ谷、小島、フンシヤウ谷、ヒノ口、桑ノキノ本、クロソエ、大島、ヨコマクラ、サイノウカキタ、沢ノキレ、ヒハクヒ、楠ノ木ノ本、丸タ、舟木野、川クホ、沢ノキレ、道雲ヤシキ、ホリタ、惣兵衛ヤシキ、大ナル、小ヤシキ、松ノ本、野ノマタ、ヲモタ、川原タ、ホウノ木ノ本、西ノ舞、エノ口、カキ谷、大ノヒバタ、カケ、■サカハ、キレ下、梅木カケチ、桑原、カメヨリサカ
▼大ヌタ谷ノ村(p.688)
エノ口、カキ谷、大ノヒバタ、カケ、口サカハ、キレ下、梅木カケチ、桑原、カメヨリサカ
【通称地名】
【山名】
【谷川】
仁井田川(河川調書)
小豆谷川(橋梁台帳)
オモダ川(橋梁台帳)
【瀬・渕】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
三島神社/1みしまじんじゃ/鎮座地:神宮山 ※村社
(旧:三熊野神社)/2みくまのじんじゃ/鎮座地:熊野々原
白王神社/3しらおうじんじゃ/鎮座地:白王ヶ原
(旧:琴平神社)/4ことひらじんじゃ/鎮座地:神宮山
1)ホノギの「ヒハクヒ」
2)床鍋は軍事上の要衝地か? 〇〇丸の地名が多い床鍋
青木ノ丸、沖ノ丸、上ノ丸、下ノ丸、土俵ノ丸、堀田ノ丸、三島野丸
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
地検帳によると、この部落は床鍋村を本村とし、入谷村・床鍋下村・瓜生野村・大ヌタ谷村の四か村を枝村として計五か村で構成されている。
検地を行ったのは天正16年3月1日から同月4日までであり、これが仁井田郷における久礼分検地帳の最後になっている。(同p338)
・神社
三島神社(村社/字三島ノ丸鎮座)/脇宮:八坂神社
境内社:二宮天神/合祀:水神社
三熊野神社(無格社/字熊野々鎮座)境内社:蟻宮神社
白王神社(無格社/字白王ヶ原鎮座)
琴平神社(無格社/字神宮山鎮座)/合祀:杉本神社
境内社:竈戸神社
・寺院
永林寺、光道寺、地蔵堂
■州郡志(1704-1711宝永年間):下p255
床鍋村の四至は、東限山西限影野村松之瀬川南限入谷北限久礼界縦三十七町横四町其土黒
山川は、大泥山、井之上山、立加恵山
寺社は、永林寺、嶋大明神社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高243.637石、戸数31戸、人口159人、男87人、女72人、馬38頭、牛7頭、猟銃2挺
■南路志(1813文化10年)
144床鍋村 仁井田郷本堂之内、又云久礼郷十村之一也 地二百四十七石六斗七升
白皇権現 竹谷 祭礼九月十四日 棟札延久四年
島大明神 マトテン 脇宮 牛頭天王 祭礼九月十五日
棟札応永九寅年
天王 祭礼九月十五日
二宮権現
圓福山永林寺 禅宗久礼村常賢寺末
本尊釈迦 〇什物 大般若経弐百巻 上加江領主佐竹太郎兵衛、従与洲取来ル
■霧の流れる里 窪川町・床鍋(1998平成10年/庄崎一著)
1)七子峠の由来(p205)
・仁井田七郷説
その昔、仁井田郷(又は庄)といわれ、九条氏そして一条氏の荘園で公卿の直轄地であった。長宗我部地検帳によると「六郷七郷八番」と区分されている。そんな事で七郷へ入る峠ということで、この美しい峠を「七子峠」と呼ぶようになったと考えられる。
・七人の子悲恋物語説
この峠の北山に「白皇千助兵衛」が城を築き威を張っていたが遂に落城。落城とともに城主の七人の子が母親とともに自害した。その翌年から早春の頃になると、一羽の鶴が悲しげに泣きながら峠の上空を七日間、七年にわたって舞い続けたという。里人達は、この鶴こそ七人の子を失った母親の化身ではないかと子等を憐れんで、この峠に「七子峠」と名付け冥福を祈ったのである。
2)井堰と名称(p37)
・仁井田川本流
大呑谷、大怒田、新田、大奈路、新改、上ゆ井、大島、堀田、高架、長田、新ゆ、上鎌ゲタ、下鎌ゲタ、藤内地、下向、上ゆ、中ゆ
・谷川:熊ノ原、権現、善造分、堀越、山ノ下
・谷川:岸ノ下、栗ノ木、窪ゆ、入レ子口、的場、西ノ窪
・谷川:東ゆ、後ゆ
3)橋と名称(p38)
大呑谷橋、仁井田川橋、床鍋橋、間ノ島橋、緑ノ島橋、鎌ゲタ橋、上向橋、源太橋、江ノ川橋
大奈路橋、宮川橋、三神橋
■ゼンリン社(2013平成25年)
p7:床鍋、仁井田川、大呑谷川、堂ヶ谷川、主要地方道窪川中土佐線、緑の島橋、圓福山永林寺、三嶋神社
p8:床鍋、大呑谷川、主要地方道窪川中土佐線、大呑谷橋、新開橋、床鍋橋、海月庵
p12:床鍋、仁井田川、上向橋、折目
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
床鍋、七子峠、大野見トンネル
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
登り京(三等三角点:標高556.43m/点名:のぼりきょう)大野見吉野1707番地
七子峠(四等三角点:標高352.10m/点名:ななことうげ)久礼字瀧平山7855-6番地
上指川山(四等三角点:標高449.61m/点名:かみさしかわやま)久礼字上指川山7861-1番地
床鍋(四等三角点:標高424.77m/点名:とこなべ)床鍋字福山1182-2番地
有野木谷(四等三角点:標高600.95m/点名:ありのきだに)床鍋字有野木谷1339-5番地
■四万十町橋梁台帳
紀ノ下橋(小豆谷川/床鍋字キイノ下506) ※字マスターでは「キシノ下タ」
縁の島橋(仁井田川/床鍋字エンノシマ651-1)
上向橋(仁井田川/床鍋字宮ノ前973)
■四万十町広報誌(平成21年6月号)