20150608初
20170626胡
【沿革】
(七里以前の沿革は下段の「出典・資史料」を参照)
明治9年(1876)7月、高知県下の村市分合、改称等により本在家村・柳瀬村・沖野々村・小野川村・西影山村・越行村・志和影山村の七か村が合併し「七里村」となる。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、高岡郡 七里村, 中村, 勝賀野村, 川ノ内村, 北ノ川村, 市生原村, 一斗俵村, 中津川村, 米奥村, 作屋村, 日野地村, 秋丸村の13か村が合併し「松葉川村」が発足し、七里村は大字となった。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡松葉川村は、 窪川町・仁井田村・東又村・ 興津村と 合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は、越行(えっきょう)・西影山(にしかげやま)・中影山(なかかげやま)・七里住宅・沖代(おきだい)・三滝(みたき)・下小野川・上小野川・本在家(ほんざいけ)・柳瀬(やなせ)・志和分(しわぶん)と11カ所の行政区にわかれている。いずれも班・組編成はしていない。
【地誌】
平成の合併前の窪川町の北部に位置し、旧松葉川村の中心地。四万十川とその左岸流・勝賀野川の合流点を中心とした地域(大字)で、字は甲・乙・丙に分かれ、地区は七里のとおり、勝賀野川下流の小野川・影山と四万十川左岸、影山の北西の越行、影山の東の沖野々・本在家・柳瀬と対岸の志和分をいう。主に農業地域。勝賀野川とその下流の本在家川の合流点付近は比較的広い平地が広がる。集落は勝賀野川右岸の山麓部および四万十川沿いの山麓部にある。七里小学校・松葉川保育所・松葉川郵便局・窪川警察署松葉川駐在所・町営七里住宅・池野神社・三熊野神社・八坂神社・島神社がある。四万十川左岸を主要地方道19号窪川船戸線、右岸を県道322号松原窪川線が通り、主要地方道から県323号道作屋影野停車場線と県道324号七里仁井田線がそれぞれ西に分岐する。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上半分が七里地区)
【地名の由来】
明治の大合併の前の明治9年7月、本在家村・柳瀬村・沖野々村・小野川村・西影山村・越行村・志和影山村の七か村が合併し、七つの村に因んで「七里村」とした。
【字】(あいうえお順)
上リ見、秋伐、秋谷、浅鍋山、東谷、東谷山、東屋式、穴ケ奈路、アハガサコ、アマダヤシキ、新井屋、荒谷、有利ノ木、家ノ奥、石神谷、石神谷山、石ノ木瀬、石本瀬、市川屋式、イヅガタニ、井ノ尻、井前、井マエ、岩之段、岩ノ本、後口山、後山、ウノハイ、ウハガソ子、馬尾田、ウルシガイチ、漆ノ窪、雲田、越前橋、越行ダバ、越行屋式、エノ木ノモト、榎屋式、エヒスノ前、大足、大池、大切レ、大切、大久保、大才能、大田、大西セイモト、大西ノ川松ノ本、大平山、岡崎、岡崎端、岡田屋敷、沖野々、沖野々上窪、沖ノ丸、格木、影平、影平山、梶株、梶株谷(梶株)、柏ギレ、柏原、加入道、上池、上窪、上長野、上ミ八合、上ミ越、上溝、上三越、亀田、亀割谷、川窪、カワヅ谷、川原田、神田丸、神主屋式、神主屋敷、観音堂、北裏、キヨヅカ、杭ノ本、楠ケ谷、楠木サコ、楠堀ケ谷、楠堀ガ谷口、庫床、栗ガサコ、栗ノ才能、黒才能、桑ノ木才能、郷ガ谷、郷ガ谷口、楮株、光連坊、古庫、小坂ノ本、古城ノ上、ゴマジリ、小松ナロ、小松山、古道谷、古道山、米ノ川田、小山、コヲジンノ前、権太郎、今天神、才次屋式、才能、左京田、櫻ケ窪、桜木ノ窪、櫻木ノクボ、サツ摩畑、三郎屋式、サレデン、散田、サンデン、山皇田、三ノ谷、三本、三本杉、シウジタ、シウシン畑、地蔵ノ元、仕出原山、芝ノ窪、地引谷、嶋田、下神田、下川口、下モ切レ、下窪、シモコウダゾエ、下ジャウカウ、下長野、下ノ平、下モ本田、ジャウカウ、重七屋式、常助屋式、清忍寺、ショウブガ谷、四郎兵衛屋敷、城ケ谷、城ガタヲ、城ケ森、城ノ下、城ノタヲ、新開、神田、杉ノ本、砂場、ゼンジョウ、千日畑、高駄場、高野、高野セイモト、高野谷川付合、高野泊ノ下、高野道下、高森山(松木カサコ)、竹ケ谷、武吉屋式、竹添丸、竹ノ端、竹之端、竹ノ本、タチデコノクボ、立チ山、立目谷、谷之窪、谷ノ東、谷屋敷、タノ川口、田之谷、タレ石、田郎兵衛屋式、長福寺、楮ノ木ノモト、鎮守田、ツゞシケ堂、ツルイガ谷、ツル井ケ谷、ツルイガ谷口、鶴居ノ原、ツル井ノモト、鷂野、傅田之窪、土居、トイシノ本、土井屋式、堂尻、藤四郎山、堂ノ川、土器谷、徳才野、年男田、冨馬田、虎杖谷、トラマ、鳥居ノ原、トヲイチ、中岡、中瀬ハイノ前、長谷、中谷、長溝、中道、長満ケ谷、ナワテ、ニイトロ、西岡、西ノ前、ニノヘ、入道谷口、根笹野、野田、白皇ノ前、ハザコ、間、ハセデロ、花ノ木奈路、早川、ヒイマガリウ子サキ、ヒイラ木、樋掛、東平、引地山、ヒキチ、ヒキチ山、ヒヂマガリ畝サキ、ヒナタゼ、檜木ダバ、樋ノ口、樋ノ元、ヒ元、平谷、廣岡、廣岡山、藤内、伏者ケ谷、踏込谷、古荒神、古城東、古城山、風品之本、弁作屋式、防田、保喜、ホゲンダ、本毛谷、本田窪、本谷、孫助屋式、松木カサコ、松ノ本、丸山ノ下、溝下タ、溝添、三滝谷口、三滝山(後口山)、道ノ下、道ヨリ下モ、宮ケ谷、宮ケ谷口、宮窪、宮谷口、宮ノ窪、宮ノ谷口、宮ノ前、明覚田、三良屋敷、ムコセキデン、本ケ谷、本谷(伏者ケ谷)、本モ谷口、ヤケヤノ川、弥四郎田、柳木尾、ヤナギ谷、柚ノ木窪、弓木ガクボ、弓本ケ窪、吉岡屋敷、善定、リ下、ヲキ野ノ【300】
(字一覧整理NO.順 七里p147~160) ※七里は甲と乙に区分されている。
七里地区の上流部、市生原地区境から西影山集落境となる「護国神社」、「七里建設」までの四万十川左岸域。
西側の山域は、四万十川と勝賀野川の分水嶺を小野川集落・西影山集落との境とする。
1梶株、2井ノ尻、3梶株谷(梶株)、4平谷、5高駄場、6伏者ケ谷、7本谷口(本モ谷口)、8本谷(伏者ケ谷)、9越行屋敷(式)、10虎杖谷、11上窪、12樋ノ元、13中道、14竹ケ谷、15櫻ケ窪、16三本杉、17柚木ヶ窪(柚ノ木窪)、18古荒神、19石ノ木瀬、20大切レ(大切)、21下モ切レ※、22地蔵ノ元、23越行ダバ、24格木(ヒイラ木)※、25長溝、26溝下(タ)、27上溝、28馬尾田
※集成図に、「21下モ切レ」、「24格木」、「26溝下タ」は未掲載
※「24格木(カクギ)」は、柊木(ヒイラギ)の誤記載では
勝賀野川の流域となる小野川集落に接し、四万十川合流域となる。西側を越行集落に、東側は本在家川を境として、本在家集落、柳瀬集落に接する。
明治9年の合併による「七里村」は、沖野々村を含めた七か村が命名の由来であるが、「沖野々村」は西影山集落領域の沖代集会所の川寄りに字名を残すのみでその領域は不明である。村落共同体としての「沖代集落」が「沖野々村」にあたるのか?
56ツルイノモト(ツル井ノモト)、57トヲイチ※、58エノ木ノモト、59コヲジンノ前※、60楮ノ木ノモト(元)※、61中岡、62野田、63柏ギレ、64キヨヅカ※、65溝添※、66大久保、67ニノヘ、68古城東※、69弓木ガクボ、70今天神、71ヒナタゼ、72亀田、73西岡、74吉岡屋敷、75タノ川口、76重七屋式、77ヤナギ谷、78シウシン畑
178ゴマジリ、179下神田、180川久保(川窪)、181ムコセキデン※、182入道谷口、183桜木ノ窪、184ウハガソ子※、185米ノ川田※、186弥四郎田、187年男田、188タレ石、189イヅガタニ、190西ノ前、191ナワテ、192左京田※、193沖野々、194タチデコノクボ※、195シモコウダゾエ※、196沖野々上窪※、197蔵床(庫床)、198トラマ※、199大足※、200弁作屋式※、201ウノハイ※、202建山(立チ山)、203柏原、204樋掛※、205東平、206柳木尾、207古城山、208シウジタ
※集成図に、「57トヲイチ、59コヲジンノ前、60楮ノ木ノモト、62野田、64キヨヅカ、65溝添、68古城東、69弓木ガクボ、181ムコセキデン、184ウハガソ子、185米ノ川田、192左京田、194タチデコノクボ、195シモコウダゾエ、196沖野々上窪、198トラマ、199大足、200弁作屋式、201ウノハイ、204樋掛」は未掲載
本在家川の流域に位置し、勝賀野川と本在家川の分水嶺を小野川集落の境とする。
本在家川の下流域で右岸は西影山集落(沖代)、左岸を柳瀬集落に接する。
128市川屋式、129長福寺、130川原田、131防田、132竹ノ端(竹之端)、133大田、134仕出原山、135明覚田、136鎮守田、137亀割谷、138神主ヤシキ(神主屋敷)、139岡崎、140井マエ、141花ノ木奈路、142榎ヤシキ(屋式)、143ハセデロ、144竹添丸、145道ノ下、146谷之窪、147東屋式、148土居、149清忍寺、150岩之段、151三ノ谷、152東谷、153東谷山、154(欠番)、155ニイトロ、156小山、157長満ケ谷、158上ミ越(上三越※)、159ヒキチ、160キタウラ(北裏)、161新改、162菖蒲ヶ谷(ショウブガ谷)、163宮ケ谷、164影平、165常助屋式、166神田、167影平山、168才次屋式、169田之谷、170四郎兵衛屋敷、171大平山、172光連坊(防)、173石神谷、174穴ケ奈路、175踏込谷、176荒谷、177コヲレンボヲ(重複)
225ゼンジョウ(善定)、256ヒキチ山、
※城郭地名となる「144竹添丸、148土居、150岩之段、151三ノ谷(段)」がみられる。
※158上ミ越(上三越)の「上三越」は、「ミ」を「三」と誤転載したのではないか。
本在家川の左岸の平坦地。四万十川左岸下流で東川角地区に接する。
79観音堂、80下窪、81下川口※、82デンダノ窪(傅田之窪)※、83風品之本、84アリノ木(有利ノ木)、85サンデン(散田)、86三良屋敷(三郎屋式)、87野田、88上ミ八合、89樋ノ口、90堂尻、91宮ノ窪、92シンガイ(新開)、93加入道、94大池、95宮ケ谷口、96(小野川分)、97(不明)、98引地谷、99ツルイガ谷、100古庫、101孫助屋式、102竹吉屋敷(武吉屋式)
※集成図に、「81下川口、傅田之窪」は未掲載。下川口は「観音堂、下窪」と土地調査の流れから判断すると本在家川の合流点付近となるか、字名から「川口の下」と地形を想起させる。
※集成図には、「神主屋敷」とあるが字一覧「86三郎屋敷」はない。ただしホノギには「島ノ宮神主ヤシキ」がある。
※字マスターには「引地谷」が未登録
勝賀野川の上流部に位置し、上流端を勝賀野地区境とする。
29鳥居ノ原(鶴居ノ原)、30砂場、31三滝谷口、32三滝山(三瀧山)、33神主屋敷、34芝ノ窪、35竹ノ本、36山皇田、37鶴居ノ原、38エヒスノ前、39神田丸、40アムダヤシキ(アマダヤシキ)、41才能、42岡田屋敷、43新井屋、44後山、45家ノ奥、46杉ノ本、47中谷、48大才能、49早川、50岡崎端、51保喜、52杭ノ本、53土器谷、54ハザコ、55越前橋
103堂ノ川、104漆ノ窪、105鶴野(鷂野)、106冨馬田、107根笹野、108カワヅ谷、109長谷、110立目谷、111松木カサコ、112上長野、113ヤケヤノ川、114高森山(松木カサコ)、115古城ノ上、116楮株、117下長野、118嶋田、119雲田、120城ケ谷、121権太郎※、122薩广畑(サツ摩畑)、123城ノ下、124松ノ本、125城ケ森、126岩ノ本、127後口山
※字一覧表では「121樟太郎」
四万十川右岸に位置する集落。上流境が作屋地区、下流境が西川角地区となる。
209楠ケ谷、210高野、211郷ガ谷、212(欠番)、213城ノタヲ、214楠木サコ、215楠堀ケ谷、216下ノ平、217~218(欠番)、219(不明)、220本毛谷(本ケ谷)、221~222(重複:越行)、223千日畑、224大西ノ川松ノ本、225(本在家)、226大西ノ川セイモト(大西セイモト)、227ツルイガ谷口、228大西ノ川松ノ本、229ヒヂマガリ畝サキ、230高野セイモト、231(重複)、232郷ガ谷口、233高野道下、234高野谷川付合、235大切レ、236ツル井ケ谷、237土居屋敷(土井屋式)、238宮ノ谷口、239丸山ノ下、240ホゲンダ、241中瀬ハイノ前、242宮ノ前、243桑ノ木才能、244上池※、245白皇ノ前、246楠堀ガ谷口、247道ヨリ下モ※、248栗ノ才能、249クロサイノウ(黒才能)、250~252(不明)、253大サイノウ、254本田窪、255~257(不明)、258(重複)
※集成図に、「244上池、247道ヨリ下モ」は未掲載
97ツゞシケ堂、250上リ見、251ジャウカウ、252下ジャウカウ、255下モ本田、257浅鍋山
※字マスターで不明な分「秋伐、秋谷、アハガサコ、石神谷山、石本瀬、ウルシガイチ、沖ノ丸、栗ガサコ、小坂ノ本、小松ナロ、小松山、古道谷、古道山、サレデン、三本、地引谷、城ガタヲ、高野泊ノ下、谷ノ東、谷屋敷、田郎兵衛屋式、トイシノ本、藤四郎山、徳才野、鳥居ノ原、間、ヒイマガリウ子サキ、檜木ダバ、廣岡、廣岡山、藤内、本毛谷、本谷、宮窪、宮谷口、弓本ケ窪、リ下、ヲキ野ノ」
【ホノギ】
ミコクテン、丸山ノモト、ホンケタ、宮ノクチ、カミ中瀬、ヤナクホ、ウハタ、菖蒲ノクホ、ヒラタ、法師ノソ子、カミイケ、桑木サイノヲ、五斗マキタ、白王ノ前、クスホリカ谷、入道田、ウサキテン、小平田、ツハイモノクホ、栗ノ木サイノヲ、柿ノ木ノクホ、アワシリ、シモシヤウカウ、松ノモト、栗木サイノヲ、大サイノヲ
(是ヨリ蔭山之村川ヨリ西地/地検帳仁p56/検地:廿六日、■九日)
ヒナタセノ上、ヱイセンヤシキ、シユシン、西岡畠、孫介ヤシキ、ヲカ道、西ヲカ、洞雲寺寺中、タノ川、シハ畠、ノタ、フマテン、ツルイノ本、ホタイ、弓場ノモト、大ミソ、土居、大クホ、新介ヤシキ、城ノモト、茶屋ノ原城、■古土ゐ城、上ノタンノ野、芝ヒラキ
サイノヲ、ユミ木ノクホ、ホウキヤウ畠、西ノクホ、ヒナタセ、■クロノモト、大夫大良タ、タクミタ、クヱノコリ、川クホ、ツヰクチ、ヲトワカタミソ、クロハサ、イマ大神テン、中ソリ、桧ノモト、シモコウタ、シシタノクホ、弥四良タ、タチテコノクホ、フタセマチタ、スケヤシキ、ヲキノ野、カシワ原、左京タ、堂ノ野ノ窪、孫五良地、ナワテ、イソノ谷、ホンヤシキ、谷ノソリ、谷ノクホ、クホタ、ソリノクホ、東ヤシキ、阿弥陀寺ヤシキ、谷本ヤシキ、古土居、坪ノ内、セウシノソリ、竹岡ヤシキ、清恩寺寺中、タケソヘヤシキ、セウチクホ、モミノ木ノサコ、東谷、水トリハ、東谷、セイモト、ヌケアト、ハセテクチ、神主ヤシキ、シハ畠、メウヱイ畠、ツシ堂、樋ノクチ、庵ノ谷、マトテンヒノクチ、ヱノキヤシキ、ハントウヤシキ、花ノ木ノナロ、田中ヤシキ、舞射田ミソ、ユマエ、ハンタウチ、岡サキ、北ウラアリノ木、クロハサ、岡ハナ谷、ユマヱ谷、ツメヲシ
センケヤシキ、フロノモト、コヤマ、石神谷田、野口、ヤケヤノ川、ヒシリ田、ヤケノ川、ミノコシ、城ノ谷、サルツホ田、チヤウマンノ谷、中新かい、宮ノ奥谷、大坊明神ノ西、菖蒲ノ谷、宮ノ後谷、山カフ坂本、ツヽミノトウ、ヌタノヲ、桑木ノ谷、■シラロ、田ノ谷、影ヒラ、シラヲ谷、松ノ本、かめわり谷、カロウト、柳ノセヲチ、ナカ谷、山ノ下、牛王田、鎮守田、サワ、ウツホ田、ホウカク田、ヒノ口、センチヤウ田、大田ヤシキ、クリノ木、石田、シテワラ、門ノハナ、影ヒラ、宮モト田、長谷ヤシキ、ヱノ木ノモト、川原田、坊田、橋詰ヤシキ、ヤシキノスソ、堂ノ野、クツレキシ、宮内三良ヤシキ、長福寺寺中、シヨウイケン、竹吉ヤシキ、ソカ、弓場、クホタヤシキ、フロノ谷、
五良三良ヤシキ、地引ノ谷、ソヽケシリ、下谷寺寺中、島ノ宮、川原田、サイノウノスソヤシキ、石クロ西東の丁、池田西東の丁、サイノヲ北南ノ丁、岩ノセマチ、桑原シラヲウ宮、カ入道、サカリ山、荒谷セイモト、新カイ、■宮カ谷、下クホ、スカ、樋ノ下、ヤナセノ瀬、カウ田、コミ石神、カミ八合、侍従田川、野田、中スカヤシキ、藤二良ヤシキ、クホヤシキ、ヱノ木ノモト、島ノ宮神主ヤシキ、馬場スヱ、チンタノクホ
キヤウツカイ、タハヤシキ、アニノセ、西松ヤシキ、中ヲカ、タノ川、ツルイノモト、宮ノ内タ、ヲトタ、野ソヘ、ヱツキヤウノ大ミソ、仏道、右馬允田、ミスミ田、帰前坊田、山ノ根ホリアケ、サンヲウテン、柳ノ谷
ヱツキヤウヤシキ、ヲモテミソ、イタツリ谷
■ノ谷、二升マキ田、小松タ、年男田、カクロ、野田、シヤトウタ、ヘルハシリ、ナカタ、ウチイシ、米ノ川、クセンツクリ、ミヤウセンツクリ、ウハカソ子、ヒノクチ、ヲトユノモト、柳ノモト、シンハク、三月田、シヽンタ、キソリ、カタノカシラ、梅ノ木ノクホ、クレイシ、神ノ前、ム子セキテン、シウシタ、入道ヵ谷、五月田、コマシリ、石神檜ノモト、下コウタ井ノモト、ホリアケ、中スカ
鳥イノ原、シタケタ、シタケテン、フケ谷、大年田、ミタケテン丸田、ミスミタ、地蔵院寺中、ムロヤシキ、竹ノモト、九日サイノヲ、下カイチ、梅ノ木ノモト、ヨセマチタ、カキノ木ノクホ、シハ、スソ川、シハノクホ川、サンヲウテン、大井ノモト、ウツケソヱ、サンワウテン、下カワチ、ツルイノハラ、ヤカシロヤシキ、ヱビスダニ、桜ヵ内、ヨコサイノヲ、アマタヤシキ、仏ノクホ、ミソコシ、シリナシサイノヲ、栗ノ木サイノヲ、ユリヤウ、若兵衛サイノヲ、サイノヲ、サカサウノヲ、カシナラシ、ヤカシロサイノヲ、サイノヲ、アサリサイノヲ、モヽ木サイノヲ、中マチ、井領田、小西良ハタケ、ヱビスノ前、下西、土ゐノソト、新井屋、中谷道、杉ノ木ノモト、セイモト
(是ヨリ又小野河土居之前ヘ返而付/地検帳仁p72/検地:五日)
弓場、コタ、アワシリ、ヲウサイノヲ、下ヲチクホ、下ソリ、ヲチクホ、中谷、茶屋ノハシ、コスケタ、刑部谷、岡サキハナ、ツユクチ、ミソヽヱ、鳥居ノモト、ハヤコ川、キタノコウタ、梅ノ木ノモト、ハヤカウ、城ノ下、テハコフチ、コモイケ、シマタ、石神ノモト、クロハサ、クモテン、クスタラウタ、ケンチヨマタ、コマシリ、ワリタシ、ハタノ谷、ヤケヤノカワハタ谷、ワカイタ、タチタノ谷、松木ハサコ、梶カフ谷、石神コヱ、ハイケカミヤ、フマテン、ミノコシタ、小野河ホキ
【地検帳の寺社】
洞雲寺
神地大明神、天神、白王、
宝福寺、清音(恩)寺、長福寺、洞雲寺
イマ大神、大坊大明神
聖神、牛王、シラヲ宮、大坊大明神、コヲウノ宮、鎮守ノ宮
島ノ宮大明神、シラヲウ宮
洞雲寺
牛頭天王、山王ノ宮
地蔵院
下御滝大明神、下畠御滝大明神、権現、山王、過美酒、天神、御滝大明神、シラヲウ宮、中ハイタカ大明神
(小野河土居之前)
六十余尊、中御滝大明神、中ハイタカ
【通称地名】
【山名】
【谷川】
【瀬・渕】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
三熊野神社/1みくまのじんじゃ /鎮座地:(本在家)仕出原山 ※村社
川口神社/2かわぐちじんじゃ/鎮座地:(本在家)下川口 ※村社
島神社/3しまじんじゃ/鎮座地:(柳瀬)ツルイガ谷 ※村社
(旧:白皇神社)/4しらおうじんじゃ/鎮座地:(柳瀬)荒谷
氷室天神/5ひむろてんじん/鎮座地:(志和分)楠ノ木ザコ
竈戸神社/6かまどじんじゃ/鎮座地:(志和分)楠堀谷
大山祗神社/7おおやまづみじんじゃ/鎮座地:(志和分)高野谷川付合
八坂神社/8やさかじんじゃ/鎮座地:(西影山)古城山 ※村社
三滝神社/9みたきじんじゃ/鎮座地:(小野川)エビスノ前 ※村社
池野神社/10いけのじんじゃ/鎮座地:(越行)本谷 ※村社
八坂神社/11やさかじんじゃ/鎮座地:(越行)柳木尾
※神社明細帳では川口神社を本在家集落の産土神とあるが、鎮座地である「下川口」は土地調査の流れから本在家川下流左岸の柳瀬集落区域の字名と思われるが、集成図には記載がない。
※神社明細帳では柳木尾に鎮座する八坂神社は「越行部落の崇敬神」とあるが、柳木尾は西影山集落区域の字名である。
1)沖野々
明治9年の合併新設「七里村」の構成村に沖野々村とあるが、藩政後期の西郷浦山分廻見日記には沖野々村の記録がない。沖野々村の区域は、勝賀野川が四万十川に合流する付近で西影山域の字名に沖野々とあることから、沖代集落周辺と思われるが、窪川町史にも詳細な記録がみあたらない。
土佐州郡志には「沖之野村 東南限柳瀬村西限大川北限本在家村縦五町横三町其土黒」とある
国土地理院地図にも七里の「越行・影山・本在家・柳瀬・小野川・志和分」の記載はあるが「沖野々」の記載がない。
窪川町史(平成17年版)に、寛政十一年の「仁井田窪川十二組」の記録として、「西川角七か村 西川角 柳瀬 本在家 沖野々 志和影山 小松 根々崎」とある。また「西影山十か村 西影山 越行 市生原 北ノ川 中村 作屋 中津川 勝賀野 小野川」とある(p241)。 ※ここにある「中村」は、正確には「中」である。
窪川町史(昭和45年刊行)にある、明治4年の郡区制、明治8年の大区制、明治11年の高岡郡役所を須崎に設置し村制を施行した記録にも村名は「与津村(戸長の官選)」「志和村(戸長の公選。以下同じ)」「窪川村上番(四万十川左岸の各村)」「窪川村下番(宮内、仕出原以西、四万十川右岸の各村)」「仁井田村(旧仁井田郷各村、久礼郷床鍋、窪川郷の内中ノ越村)」「七置村(仁井田郷九か村、一斗俵村、中津川村、米奥村)」
明治9年の町村合併で沖野々村は七里村となる。
また、明治22年(1889)の町村合併で新設された松葉川村は「高岡郡 七里村, 中村, 勝賀野村, 川ノ内村, 北ノ川村, 市生原村, 一斗俵村, 中津川村, 米奥村, 作屋村, 日野地村, 秋丸村」の12ヶ村。
明治23年の大災害の記録「年代記」には「沖野々柳瀬両村ノ村中ヲ人家数戸流失シタリ本在家観音堂新築ノ場合成シガ家道具ノ如キハ岡崎達吾ノ納屋エツナギタリ」とあり、合併まじかであり沖野々の地名も使われている。沖代集会所の前にはこの明治23年大災害の水準標の石碑が設えてある。ここからも「沖野々村」は沖代周辺と比定される。
▼沖代:香川県引田地の沖代(おきだい)の地名について、沖はホキ(生え茂る→田)、代はマレー語でダイ(平ら)だという(尾崎博著「今昔ひらけた文化Ⅰ)
2)大字七里が甲と乙と丙に区分されているのはなぜか?
勝賀野川の右岸が甲、左岸が乙、四万十川対岸の志和分が丙か?
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川」)
・影山(地検帳仁p36)
地検帳の記録による影山は、今の沖代部落と中影山部落を併せた地域を蔭山之村と呼び、西影山を西松ノ村、また西影山と志和分を併せて志和蔭山と称していたよう
検地を行ったのは天正16年1月11日からである。これは窪川町における検地実施日の初日にあたる。(同p548)
※「土佐之国高岡之郡仁井田之庄地検帳之事
合天正拾六年戊子正月十一日
本在家之内蔭山之村」 と検地の記録がはじまる。
・神社
氷室天神社(無格社/字楠ノ木サユ鎮座)
合殿神社:須賀神社(村社)/合祀:金峯神社、河内神社、大山祇神社
若宮神社、大本神社、劒神社
※氷室天神社の鎮座する字は楠ノ木サユは楠ノ木サコの誤植か
竈門神社(無格社/字楠堀谷鎮座)
大山祇神社(無格社/字高野谷川付合鎮座)/合祀:竈門神社
・本在家(地検帳仁p44)
地検帳の記録によると、天正のころには今の七里部落を本在家郷と汎称していたようである。そして今の本在家部落を”野口ノ村”と表現しており、枝村をもたない単独の村であった。(同p540)
検地を行ったのは天正16年2月1日から3日にかけての3日間である。
・神社
三熊野神社(村社/字仕出原山鎮座)/合祀:岡崎神社、竈戸神社大山祇神社
川口神社(村社/字下川口鎮座)
・柳瀬(地検帳仁p50)
地検帳では”ヤナセノ村”と表現し、枝村をもたない単独の村であったようである。
検地を行ったのは天正16年2月4日のことである。(同p535)
・神社
島神社(村社/字ツル井カ谷鎮座)/合祀:竈戸神社
白皇神社(無格社/字荒谷鎮座)
・志和分(地検帳仁p56)
地検帳の記録ではこの部落の冒頭に”是ヨリ蔭山大河ヨリ西路を付(※是ヨリ蔭山之村川ヨリ西地)”と記してはじまっているが、村名などの記録はない。これは当時の西松ノ村の一部であったかも知れぬが確認できない。(同p565)
※佐々木氏は検地日の記録を記載していないが地検帳には「■九日」とある。
※仁井田之郷地検帳p58から「西松ノ村」とある。
・西影山(地検帳仁p58)
地検帳では、”西松ノ村”と表現しており、いまの志和分部落は西松ノ村の一部であったのではないかと推定されるが、地検帳の記録では明確でない。
その後西松ノ村と志和分を併せて志和蔭山と呼び、さらに明治14年以降松葉川村が成立した時期には沖代中影山・西影山・志和分の各部落を併せて志和影山部落と呼んでいた。(同p559) ※検地を行った期日の記録はない。
・神社
八坂神社(村社/字古城山鎮座)/相殿社:竈門神社
境内社:神明宮
合祀:山神社、日吉神社、竈門神社、白皇神社
・越行(地検帳仁p61)
地検帳では”エツキヤウノ村”と仮名書にされている。エツキヤウについては甲把瑞益は仁井田郷談(1770)のなかで”越鏡(カネ)村”と表現し、南路志(1813)には”越鏡村”と記している。しかし同じ南路志のなかで池権現の所在地を”越行谷口”とも書いており、変遷のあとが偲ばれる。(同p600)
・神社
池野神社(村社/字本モ谷鎮座)/相殿社:竈門神社、山ノ神社
八坂神社(無格社/字柳木尾鎮座)
※検地を行った期日の記録はない。
・小野川(地検帳仁p66)
地検帳には小野川ノ村と記録されており、枝村をもたない単独の村であった。
検地を行った時期の確定はできないが、天正16年2月4日・5日のころではないかと推定される。
・神社
三滝神社(村社/字ヱビスノ前鎮座)/合祀:三熊神社、天満宮、鸇神社
六十四社、白皇神社、西宮神社
山ノ神社、竈戸神社
※仁井田之郷地検帳p72に「5日是ヨリ又小野河土居之前ヘ返而付」とある。
■州郡志(1704-1711宝永年間)
・本在家地区(同p261)
本在家村の四至は、東限川原越坂西限比奈多瀬川南限柳瀬小川北限山頭山縦十五町横六町其土黒
寺社は、虚空蔵堂、権現社
古蹟は、城址として「相傳古東三河守所城也或曰父倉助兵衛」とある。
・志和分地区(同p262)
志和影山村の四至は、東限大川西限山南限西川角村北限作屋谷縦十六町横六町其地砂土
寺社は、天王社とある。
・上小野川地区、下小野川地区(同p263)
小野川村の四至は、東限本在家山西限影山村南限本在家村界北限中山界縦二十町横五町其土白
山は、御蔵山
寺社は、太子堂、大明神社、熊野権現社とある。
・越行地区(同p263)
越行村の四至は、東限山西限大川南限西影山本田北限村山縦二十町横十町其土黒
・沖代地区(同p263)
沖之野村の四至は、東南限柳瀬村西限大川北限本在家村縦五町横三町其土黒
・西影山地区・三滝地区(同p264)
西影山村の四至は、東限本在家比奈多瀬西限田野川南限大川北限田野川山縦十三町横七町
山は、田野川山
寺社は、地蔵堂、牛頭天王社
古跡は、古城跡として「相傳西和泉守所居」とある。
・柳瀬地区(同p261)
柳瀬村の四至は、東限野山西限川南限柳瀬村本田北限本在家村縦六町横三町其土黒
寺社は、嶋大明神社とある。 ※「南限柳瀬村本田北限本在家村」とあるから柳瀬村の新田か?
・柳瀬地区(同p285) ※2か所に柳瀬村の記載がある。
柳瀬村の四至は、南限小松村北限本在家村東西二町南北三町其土赤
山川は、荒谷
寺社は、嶋大明神社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
・柳瀬村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高91.875石、戸数22戸、人口80人、男45人、女35人、馬17頭、牛1頭、猟銃0挺
・沖野々村新田
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高54.52石、戸数4戸、人口13人、男7人、女6人、馬1頭、牛1頭、猟銃0挺
・小野川村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高148.363石、戸数24戸、人口100人、男52人、女48人、馬15頭、牛2頭、猟銃1挺
・本在家村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高311.879石、戸数16戸、人口60人、男35人、女25人、馬11頭、牛8頭、猟銃1挺
・景山村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高228.896石、戸数37戸、人口153人、男77人、女76人、馬32頭、牛2頭、猟銃0挺
・越行村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高20.915石、戸数19戸、人口82人、男49人、女33人、馬12頭、牛8頭、猟銃1挺
■南路志(1813文化10年:③p)
178柳瀬村 仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也 地九十五石二斗一舛七合
嶋大明神 宮谷口 正体木像 祭礼九月九日
白王 荒谷口 祭礼九月九日
179小野川村 仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也 地百六十五石八斗九舛
熊野三所権現 三瀧御留山 正体鏡・鉾二本
鷣大明神 ハイタカノ 正体木形 祭礼九月八日
三瀧大明神 ミタキ御留山 正体木形・鉾一
天神 ミタケヤシキ 正体幣 祭礼八月廿五日
六十余尊
小川山 一云林岳山 地蔵院地蔵寺 禅宗常賢寺末
本尊地蔵 徃昔東庄司殿ゟ地三反拾弐代寄付
〇権現社 鎮守境内ニ有
茶臼山古城 西庄司勒レ之。
180影山村 古云西松村、仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也 地二百二十九石三斗六舛三合
牛頭天王 氏神ノ原 正体幣
白王 白王宮林 祭礼九月九日
牛頭天王 トウ谷口 正体木形 脇宮 宗郷地大明神 祭礼九月廿九日
天神 楠木サコ 祭礼八月廿六日
洞雲寺 退転、寺跡斗残、徃昔寺領四石壱斗
古城 西庄司和泉守越智宗勝居之。
采地五百三拾七石四斗弐升六合、土居屋敷壱反拾代、詳に巻ノ廿六・十六葉(本書p273)に見えたれは、爰にしるさす。
相生松 市川加右衛門宅前田中ニ有り
延宝九年谷口関慶といふ人のよめる
高砂の浦に仁井田の濱の松相生なれや一もとの松
183越鐘村 仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也 地二十一石七斗三合
池権現 越行谷口 正体石 祭礼九月廿九日 籠物鉾一本
■ゼンリン社(2013平成25年)
p21:七里、小野川、勝賀野川、県道作屋影野停車場線、灰高橋、早川橋、Юハイタカ、Ю上小野川
p22:七里、小野川、勝賀野川、越前橋
p28:七里、志和分、四万十川、県道松原窪川線、西の川橋、大元神社
p29:七里、越行、影山、小野川、四万十川、勝賀野川、主要地方道窪川船戸線、県道作屋影野停車場線、県道窪川松原線、松葉川橋、小野川橋、小野川橋、池野神社、護国神社、八坂神社、三瀧神社、七里小学校、松葉川保育園、Ю沖代
p30:七里、本在家、本在家川、主要地方道窪川船戸線、県道七里仁井田線、花の木橋、三熊野神社、三嶋神社、Ю上柳瀬
p34:七里、志和分、四万十川、勝賀野川、県道松原窪川線、志和分大橋、五社一の鳥居
p35:七里、柳瀬、四万十川、主要県道窪川船戸線、県道七里仁井田線、川原越隧道
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
七里、影山、越行、小野川、本在家、柳瀬、志和分、四万十川、松葉川橋、志和分大橋、河原越隧道
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
影山(四等三角点:標高320.37m/点名:かげやま)七里字城ガ森1504-2番地
三宝森(三等三角点:標高486.14m/点名:さんぽうもり)七里字後ロ山乙1580-3番地
西川角(四等三角点:標高368.64m/点名:にしかわかど)七里字楠堀ガ谷乙1733-イ番地 ※「にしかわづの」の誤記載
柳瀬(四等三角点:標高315.29m/点名:やなせ)七里字宮ヶ谷乙1362-1番地 ※正式には「やなぜ」では
■高知県河川調書(平成13年3月/p)
勝賀野川(しょうがの/四万十川1次支川勝賀野川)
左岸・左岸:川ノ内字川原田5
河川平均延長:5,835m / 8.03Ak㎡ / 6.8 Lkm
本在家川(ほんざいけ/四万十川1次支川本在家川)
左岸・右岸:七里字コウレンボウ1357
河川平均延長:2,540m / 2.59Ak㎡ / 2.6 Lkm
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
志和分大橋(四万十川/七里字大久保842-2)
柳瀬橋(柳瀬用水路/七里字川原田906-1)
七里橋(本在家川/七里字ショウブガ谷1281)
無名橋(不明/七里字砂場982-1)
■四万十町広報誌(平成25年12月号)