根々崎

ねねざき


20150608初

20161127胡

【沿革】

 長宗我部地検帳に「宮ノムカイノ内」としてある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)には「根々崎村」とあり南路志(1813)には宮内村の枝村として「子々崎村 新開発地也」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村峯ノ上村金上野村見付村大奈路村根元原村神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、根々崎村は大字となった。

 大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。

 昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。

 昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内は、世帯数も少なく一つの行政区となっている。

 

【地誌】

 旧窪川町の中央部北寄り。四万十川と仁井田川の合流点付近。大きな蛇行を繰り返しながら流下する仁井田川が、南流する四万十川と並行しながら北流し、流れを西に変え四万十川に合流する。仁井田川と四万十川に挟まれた砂州状の平地で、主に農業地域。集落は仁井田川沿いにある。礫石神社がある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真左側、南流する四万十川の左岸流として仁井田川が蛇行し合流付近が根々崎地区)  

 

【地名の由来】

  片岡雅文『土佐地名往来No275』には郷土史家・林一将さんの話として「十二支の子(ね=ネズミ)に由来する地名ではないか」と述べている。子は北方を意味するが、ではいったいどこから見たとき、根々崎が北になるのだろうか?それは五社(高岡神社)からではないかと続けて林一将さんは推測する。

 

 根々崎遺跡から銅矛が出土するなど弥生時代からの古い暮らしのある土地である。古くからの地名を記録する長宗我部地検帳にもホノギ「子子サキノウ子」とある。当時の畝は「ウ子」と子の字が当てられる。仁井田神社からの位置関係を地名の由来とするが、昔から太陽や月の信仰とともに農耕に必要な方位の知識は誰もがもっていただろうと考えると「根々崎」は五社の北東(丑寅/鬼門)であり、北方とするには無理があるし、子が「子々」と繰り返される説明もない。

 

 根々崎の地形は、東又から流れてきた仁井田川がいったん逆川となって北流し、南流する四万十川に合流する、この逆川と大川に挟まれたまさに「﨑」である。窪川市街地の北稜となる山並みの裾野が、仁井田川の左岸を北に向けて連なる。

 「根」は嶺、尾根、付根の根ではないかと思わせる。「々」は助詞のノの転訛したもので、「尾根のすらりと伸び尖がった先(﨑)」と理解するのはどうだろうか。

 

 ちなみに、根々崎の地名を検索したらこの地以外には見あたらないが、類似地名では、「上根々子(千葉県富里市)」「根々井(長野県佐久市)」「根々見(愛媛県四国中央市)」「子々川郷(長崎県時津町)」がある。

 また、根崎地名は、北海道函館市、岩手県塩釜市、宮城県岩沼市、福島県二本松市、福島県南相馬市、茨城県つくば市、茨城県潮来市、茨城県守谷市、千葉県富津市、千葉県芝山町、愛知県安城市、山口県下関市がある。電子国土Webで検索してみると、宮城県岩沼市・千葉県つくば市の「根崎」が山の稜線が平坦地にくだり降りた麓の先といった類似地形である。海岸沿いの「根」地名は、暗礁を指していると思える。

 

 『民俗地名語彙辞典』には「ネ(根)はもともと山の頂上のことだったが、後に山全体を指すようになった。敬語のミをつけてミネといったのは、天から神がこの地へ降臨するのに山の頂上へまず降りてこられるので、神のよる場所だから尊んで”御頂(ミネ)”といったのが”峰”というようになった」とある。高知県では垚(ギョウ)の字をウネと読ませているという。垚は土地が高いさまを意味する、土を三つもった形である。

 四万十町の字名や長曾我部地検帳のホノギにみられる「ネ(根・子)」は、「畝」、「ウ子」が多い。

 

 田野々」地名の説明で、神様仏様を幼稚語で「ノーノー(野々)さん」といったと述べた。高知県方言辞典にも「【幼】神様・仏様。梼原・中土佐・窪川」とある。野々も根々もナ行の音韻変化であることから、「子々崎(根々崎)」は、礫石神社の由来や仁井田神社(五社、後の高岡神社)の隣村からみて神降地にもみえる。

 根々崎の産土神は礫石神社(つぶていしじんじゃ)である。神社明細帳には礫石神社の由緒として「古老傳云高岡神社ノ神宮地ヲ知ラセントテ当国吾川郡御坐瀬ヨリ投玉ウ石今ノ宮内村ニ止リ其后当村ニ斎祭リテ氏神トス」とある。仁井田郷の祖である伊予の小千(後の越智)玉澄公が浦戸の御畳瀬に来て、「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進んだと高岡神社の由緒書きにもある。この礫石の謂れは土佐一宮神社にもある不思議な話である。

 「崎」は、海岸であればミサキ、内陸では丘や山のはしが平地に終わる突端を指すことが多いが、突起地形とは関係なく、たんに「〇〇の前」「〇〇のそば」という意味にも使われる(民俗語彙辞典)。

 ことから読みとけば「神様のそば」「五社の前」とも理解できる。

 

  

 ①「五社の北(子の方向)に位置するから」

 ②「尾根のすらりと伸び尖がった先(﨑)」

 ③「のーのー(神様)の前」

 

 余談ではあるが、繰り返し記号である「々」を使った地名を四万十町内で探してみた。

 大字では、「根々崎」「野々川」「田野々(今の大正)」「細々(今の河内)」

 字では、「津々ラ(金上野)」「萩野々(見付)」「津々良口(中神ノ川)」「嶌野々(南川口)」「沖野々(明治9年新設七里村の旧沖野々村)」「管野々(上秋丸)」「管野々山(一斗俵)」「堂野々(一斗俵)」「熊野々原(床鍋)」「野々又(床鍋)」「朱々谷(魚ノ川)」「興野々(与津地)」「堂々谷(藤ノ川)」「神野々(明治9年新設数神村の旧神野々村)」「猩々(上岡)」「コイ野々(大正北ノ川・烏手)」「野々木サコ(烏手)」「古味野々山(大正大奈路)」「細々向ヲ山(大井川)」「野々串(大井川)」

 

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 後口山、家の前、後山、王カサコ、大切、谷口、大平、影平、金右エ門屋敷、上渡瀬、上八代、源太谷、呼坂、五反地、笹山、下八代、城ケ谷、スカサキ、杉ノダン、助八屋敷、惣次屋敷、玉ガサコ、寺ケ谷、中スカ、ハイ原、光り岩、飛渡、日ノヒラ、古屋敷、美野里、宮ノ下タ、宮ノ前、八木屋敷、柳瀬田、八幡岡、用水【36】

 

(字一覧整理NO.順 根々崎p19)

 1後山、2八幡岡、3大平、4日ノヒラ、5笹山、6宮ノ前、7スカサキ、8杉ノダン、9大切、10八木屋敷、11惣次屋敷、12金右エ門屋敷、13助八屋敷、14五反地、15玉ガサコ、16上渡瀬、17飛渡、18光り岩、19影平、20中スカ、21呼坂、22城ケ谷、23用水、24古屋敷、25宮ノ下タ、26下八代、27上八代、28寺ケ谷、29源太谷、30柳瀬田、31ハイ原、32後口山、33谷口、34古屋敷(再掲)、35玉カサコ、36美野里、37家の前

 

【ホノギ】根々崎

〇高岡郡仁井田郷地検帳 五(高岡郡下の2/検地日:天正17年3月12日)

 ▼平串蔵谷之出口(p504)

 ▽宮ノムカイノ内(p505)

 谷クチ、宮ノムカイ、新屋タ、スサキタ、コウ谷、ウツシリ

※「爰ヨリ仕出原之村大川ヲ渡付」として対岸に移る。

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

山名(よみ/標高:)

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

礫石神社/40つぶていしじんじゃ/鎮座地:(光石)後口山

八幡宮/42はちまんぐう/鎮座地:(光石ノ上八幡岡)後山

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)宮内飛地と窪川飛地

 

2)「美野里」「家の前」は土地改良で生まれた字?


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)

 地検帳の記録では、この部落の検地の書きはじめの箇所に”宮ノムカイノ内”としてはじめており、終わりの箇所には”コレヨリ仕出原之村・大川ヲ渡付”と記して仕出原部落の検地に移っている。したがって、根々崎(子々崎)という村名あるいは枝村名としても全々記されていない。(同p222)

 この部落が検地役人の検地を受けたのは天正17年3月12日のことである。

・神社

 礫石神社(村社/字後口山鎮座)/合祀:厳島神社、須賀神社、竈戸神社

 八幡宮(無格社/字光石ノ上八幡岡鎮座)

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p285)

 根々崎村の四至は、東限久保川村東西三町南北十五町其土黒

 山川は、拂谷とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高106.797石、戸数6戸、人口27人、男17人、女10人、馬5頭、牛1頭、猟銃0挺

 

■南路志(1813文化10年:③p)

176宮内村 仁井田郷本堂之内、又云蹉跎分神願番二村之一 地四百五十七石四斗六舛七合

 〇根々崎村 新開発枝村也

〇礫神 根々崎村に斎き祭る。五社悪魔を払給ふ礫神也と云、根々崎の崇敬神也。今に至りて石の宝殿に収斂れり。社領寄附ハ宮内村礫打神の本へ付けると言へる所有。此根々崎村は中古まで荒原の地にして、人家有事を聞さりしに、去ル寛文の頃、御当代窪川三世牧主山内丹波勝政より新開の地にして、是より農家層層と軒を並へり。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p47:根々崎、四万十川、仁井田川

p48:根々崎、仁井田川、根々崎橋

p59:根々崎、四万十川、礫石神社

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

根々崎、四万十川(渡川)

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

なし

 

■高知県河川調書(平成13年3月/p)

仁井田川(にいだ/四万十川1次支川仁井田川)

左岸:床鍋字船木野402-4

右岸:床鍋字大島584-2

河川平均延長:17,560m / 64.15Ak㎡ / 17.1 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

 根々崎橋(仁井田川/根々崎字王カサコ131-3) 

 

■四万十町広報誌(平成26年7月号)

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