20150608初
20161207胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「東川角村」という記録はない。
州郡志(1704-1711)にはじめて「東川角村」「小松村」の村名がでてくる。南路志(1813)には「東川津村 今書、東川角村」と書かれる。
明治9年(1876)7月、高知県下の村市分合、改称等により東川角村と小松村が合併し「東川角村」となる。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村・峯ノ上村・金上野村・見付村・大奈路村・根元原村・神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村・西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、東川角村は大字となった。
大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。
昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は、辷道・東川角・小久保川の3つの行政区にわかれており、辷道は1班から3班、東川角は1班から8班で構成されている。
【地誌】
旧窪川町の中央部北寄り。四万十川と仁井田川の合流点付近。蛇行しながら南流する四万十川の左岸と、北西流する仁井田川右岸にかけて広がる平地で、主に農業地域。地内は平地東部の山麓に展開する東川角集落、辷道(すべりみち)集落と対岸の小久保川集落とでなる。近年新興住宅が建設されるようになった。平成23年に休校となった丸山小学校・日吉神社・厳島神社・六十余社がある。主要地方道19号窪川船戸線が通る。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央が東川角地区)
【地名の由来】
「川の船着き場」 ー五社に渡る大川の東西の渡しー
辻重憲氏が窪川の地名と変遷と村名・地名の由来と題して『史談くぼかわ第4号・第5号』に書かれているが東川角・西川角について「南路志には、西川津野村、東川津野村と記してある。津は船着き場のこと。五社参拝の時には、この両村の渡船場があった。それで西川津の村、東川津の村、それが転じて西川角、東川津のとなった。」と述べてる。
辻氏は、カワヅノを「カワ・ツ・ノ」の三音節に分けて「川の船着き場の」として、「野」は裾野の野でなく助詞の「の」であると説明している。
川津・河津は全国に分布する地名であるが、伊豆の河津桜はとくに有名である。
四万十町内でも、カワツサコ(字/折合)、カワヅ谷(字/七里・小野川)、川津口(字/向川)、カワヅ(字/希ノ川)、下河津(小野)にある。
折合の「カワツサコ」、七里・小野川の「カワヅ谷」などは、河川上流域であり、船着き場とは思えず、蛙(かえる・かわず)の「カワツ」かもしれない。
【字】(あいうえお順)
池ノ谷、池淵、井ノ上、井ノ本、射場、岩土谷、岩ノ本、牛田、梅ノ木ノ本、枝折、扇田、大木場、大切、大田、大提、大又、近江畑、大休場、岡本、沖屋式、小倉地、花王、柿ノ木田、柿木駄場、筧、笠田、鍛治屋瀬、叶田、上大田、川ノ上、川畠、北才能、北野、木ノ下、京田、京田ゾリ、行仏、供米田、楠木谷、久保田、黒岩、黒駄場、黒場、桑原谷、五反切、小又、小松堤ノ南、小松ノ久保、小休場、コヲダ、権現谷、権田口、権田山、材木ゾリ、坂カ谷、札場、里ノ前、サヌキ田、山王、山王ノ前、地極瀬、清水、清水谷、清水ノ本、下モボキ、城ガ森、城ノ下、スカサキ、スギ窪、スゲカ谷、上道、辷道、関ノ木、草摺田、ソウヅノ窪、ソヲヅノ窪、高岡、高岡ノハナ、瀧バタ、田代、玉カサコ、千鳥田、伝正、斗岩、道尻、兎崎、轟口、渡上リ、鳥帽子バイ、中瀬、長田、中提、流田、鳴岩、仁井屋屋式、錦戸、西才能、西ノ久保、猫岩、ノウデン、幟建、間、橋ケ谷、長谷、長谷口、八反地、早瀬野、治子、坂東山、東才能、東高岡、東野、彼岸田、一人越、日ノ裏、日ノ谷、平ソ、平バイ、深池、深田、深谷、藤原、棒田、ホラノカイ、丸山、ミコ神、ミゾノ上江、南京田、南才能、南野、ミヤタダ、宮ノ奥、宮ノ西、森木畑、八頭、柳カサコ、柳ノ久保、薮ノ口、ユツリハ谷、弓田、除添、横田、余財田、吉田、鎧田、渡場、ヲゴ谷【147】
(字一覧整理NO.順 東川角p168~175)
1道尻、2長田、3権現地、4八頭、5ヲゴ谷、6南野、7幟建、8川ノ上、9早瀬野、10ホラノカイ、11扇田、12薮ノ口、13供米田、14辷道、15弓田、16草摺田、17深池、18鎧田、19除添、20柳カサコ、21斗岩、22日ノ裏、23八反地、24サヌキ田、25柳ノ久保、26玉カサコ、27兎崎、28清水ノ本、29スカサキ、30笠田、31梅ノ木ノ本、32牛田、33山王ノ前、34小又、35鳥帽子バイ、36岩土谷、37大又、38花王、39彼岸田、40棒田、41高岡ノハナ、42深田、43横田、44流田、45城ガ森、46西才能、47地極瀬、48材木ゾリ、49柿ノ木田、50鍛治屋瀬、51錦戸、52北才能、53東才能、54札場、55西ノ久保、56東野、57小倉地、58高岡、59中提、60沖屋式、61大提、62里ノ前、63渡場、64森木畑、65間、66北野、67吉田、68五反切、69宮ノ西、70岩ノ本、71伝正、72平バイ、73小松堤ノ南、74南京田、75小松ノ久保、76権田口、77小松、78京田ゾリ、79京田、80下モボキ、81猫岩、82黒駄場、83藤原、84井ノ本、85日ノ谷、86井ノ上、87大田、88ユツリハ谷、89柿木駄場、90コヲダ、91坂カ谷、92上大田、93叶田、94城ノ下、95ミヤタダ、96丸山、97筧、98大休場、99池ノ谷、100平ソ、101ノウデン、102渡上リ、103小休場、104轟崎、105轟口、106千鳥田、107長谷口、108余財田、109岡本、110枝折、111鳴岩、112田代、113川畠、114大木場、115木ノ下、116久保田、117関ノ木、118ミゾノ上江、119中瀬、120射場、121スギ窪、122仁井屋屋式、123宮ノ奥、124大切、125池淵、126行仏、127近江畑、128治子、129ソヲヅノ窪、130ミコ神、131大柳ノ窪、132黒場、133平ソ(再掲)、134一人越、135清水谷、136権現谷、137(欠番)、138一人リ越(再掲)、139スゲカ谷、140坂東山、141権田山、142楠木谷、143黒岩、144(欠番)、145大休ミ場、146長谷、147橋ケ谷、148瀧バタ、149桑原谷、150深谷、151山王、152ソウヅノ窪、153一人越(再掲)、154東高岡、155清水、156南才能
※「3権現地」は字マスターにない。
※「35鳥帽子バイ」の読みが「トリボウシバイ」となっているが、ホノギに「エホシハイ」があるので「エボシバイ」では
※「63渡場」の読みは、字一覧では「トバ」、字マスターは「ワタシバ」
※「104轟崎」は字マスターにない。
※「120射場」の読みは、字一覧では「シャバ」、字マスターは「イバ」
※「131大柳ノ窪」は、字マスターにない。
【ホノギ】
〇高岡郡仁井田郷地検帳 二(高岡郡下の2/検地日:天正16年2月20日)
▼是ヨリ川ヲ東路へ渡テ付(p192~195)
城ノ下、小松ノ川、スケノ谷、カミ大田、中キレ、獅子テン、イツリハ谷、エヒス神ノ前、大タ、ハナコ、マワリフチ、シンカイ、エヒスハサコ、ヒノ谷、井ノモト、五良ヤシキ、大年タ杉ノモト、シモホキ、ヤナセノシモ、子コ岩
▽是ヨリ南ノ井ノ木谷セイモトヨリ付(p195~199)
井ノキ谷、松尾ノハナ、ミソマタクチ、イケノフチ、カウタ、川原タ、三斗マキタ、クモンタ、井ノ上、ハンタニ、シンヘイ、フチワラノクホ、ウツホ、ホキノムカイ、キヤウテン、祖母神ノ西、小松ヤシキ、ヨホラリチ、田正庵寺中、コミ
(2月23日)
正覚坊ヤシキ、モウトハタケ、阿弥陀堂ヤシキ、栗木畠、カチヤシキ、イラエチ、ヲキヤシキ
▽是ヨリ原ヲ隔テシモヲ付(p199~201)
杉ノ木ノクホ、地獄ノ瀬、フナイタノクホ、窪タフル城、高ヲカノハナ、フカタ、ヨロイテン、ヲウタ、ヨコタ、キソリ、ホウタ、大永クチ、ウシタ、五ハイマキタ、前ノ谷
▽是ヨリ又跡ヘ返テ南ノ山下ヲ付(p202~203)
山王ノ前、トウソウタ、エホシハイ、大マタ、岩土谷、式部ツクリ、ニシノクホ、モウト地、井ノ上
・是ヨリ又山王宮ヨリ下ヲ付(p203~204)
溝穴、彼岸田、イヲリ、比ノウラ、梅ノ木ノ本、シシンタ、ホソヲサ、中ソリ、三月田、ヨコタ、野ツチ、カチヤ大タ、シチヤウラ犬タ、アセナシ、中ノコエタ、ホンテン、サスキタ、八斗蒔田、樋ノウラ、妙法タ
・是ヨリハカリ岩ノセイモトヨリ付(p204~205)
ハカリ岩、柳ノハサコ
・是ヨリ原ヲ隔テ西ヲ付(p205~206)
クホタ、下窪タ、ヤフノクチ、コタイケ、スケ原、キワイツリ、フマテン、ヌヘリ、山中、コンケンチ、
【地検帳の寺社】
宝福寺
五社内今天神、ヱヒス、島宮、五社内大宮、天神、白王宮、龍王、六十余尊、五社内聖宮、山王、ハイタツノ宮、神子神
【通称地名】
【山名】
山名(よみ/標高:)
【峠】
一人峠(東川角(辷道)△根元原) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
六十余社/48ろくじゅうよしゃ/鎮座地:岩ノ木 ※村社(新田)。鎮座地の字名は岩ノ本
富瓊比干神社/51/鎮座地:花王
厳島神社/64いつくしまじんじゃ/鎮座地:轟
1)モウトチ、モウトハタとは
2)
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
地検帳の記録にはこの部落を示す地名は全く記されていない。西川角部落を示す”是ヨリ川津野之村”から一続きに記録されており、”是ヨリ川ヲ東路へ渡テ付”の言葉が西川角部落と東川角部落の境を示す程度である。しかしそれでも小字名は”小松ノ川谷”から始まり”是ヨリ山王宮ヨリ下ヲ付”、”是ヨリハカリ岩谷ノセイモト”など中間の区切りを経て”コンケチ谷”で終わっているのは、今の東川角部落の区域をだいたい示しているものであろう。(同p211)
・神社
六十余社(村社/字岩ノ木鎮座)/境内社:竈戸神社
日吉神社(村社/字山王鎮座)
富瓊比于神社(無格社/字花王鎮座)
厳島神社(無格社/字裏鎮座)
・寺院
田正庵(伝正庵)
■州郡志(1704-1711宝永年間)
・東川角村(p260)
東川角村の四至として、東限山王山西大川南権現原村立山北小松村谷川縦二十七町横四町其土黒
山川は、山王山
寺社は、山王権現社とある。
・小松村(p285)
小松村の四至として、南限東川角村北限柳瀬村東西一町南十六町其土赤剅有川流
寺社は、白皇社、六十余尊社
古跡は、城址として「不詳何人所居」とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
・東川角村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高212.457石、戸数68戸、人口257人、男144人、女113人、馬34頭、牛0頭、猟銃1挺
・小松村
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高96.304石、戸数7戸、人口33人、男16人、女17人、馬6頭、牛0頭、猟銃0挺
■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:p291)
安芸の歌人・川村与惣太が小松村(東川角)で草枕して読んだ歌
此里に松を植へける人のもとにて
姫小松うつし植てや今日よりは ふせ屋のつまに千代を契らん
※仁井田郷談に「相生の松」が書かれている(南路志③p273)。西行も貫之も爰に来て詠んだという古松は仁井田・浜ノ川のあったという。その松を移植した深読みしてしまう。
※「ふせ屋(布施屋)」とは日本各地に作られた旅行者の一時救護所であるが、この小松村にあったとは思えない(伏屋(ふせや)は屋根の低いみすぼらしい家のことでもある)。旅人の与惣太を温かく一夜をもてなしてくれた奥方に「ふせ屋のつま」とかけて感謝を詠んだのであろう。
■南路志(1813文化10年:③p305)
174東川津村 仁井田郷本堂之内、又云本在家郷十二村之一也。今書、東川角村。 地二百十四石四斗
三王権現 山王谷 正体幣 祭礼十一月十五日
権現 ハイタツ 正体鏡 祭礼九月十日
山神 小窪川
六十余尊 キウツカノ上 脇宮天神山王 祭礼九月廿五日
弁財天 小窪川
荒神 本田
拝達権現 東川角氏神 西川角下ニ有
阿弥陀
古城 大木玄蕃頭居ㇾ之
■ゼンリン社(2013平成25年)
p48:東川角、主要地方道窪川船戸線、仁井田川、日吉神社、Юスベリ道
p47:東川角、四万十川、仁井田川
p41:東川角、小久保川、四万十川、主要地方道窪川船戸線、県道松原窪川線、鍛冶屋瀬橋、丸山橋、青木番城跡、Ю東川角渡
p42:東川角、四万十川、主要地方道窪川船戸線、六十余社、四万十堆肥センター
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
東川角、小久保川、四万十川(渡川)
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
なし
■高知県河川調書(平成13年3月/p)
なし
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
小松谷1号橋(小松谷川/東川角字井ノ上516-2)
小松谷2号橋(小松谷川/東川角字井ノ上518-1)
高岡鼻橋(不明/東川角字高岡鼻626-2)
無名橋(小久保川/東川角字轟口乙709-1)
扇田橋(不明/東川角字扇田1522-35)
丸山上橋(大井野用水/東川角字鍛治屋瀬)
柳橋(用水路/東川角字柳カサコ353)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 66県道窪川船戸線
県道窪川船戸線は、窪川から中土佐町舟戸に至る道で、窪川地域と中土佐町大野見地域とを結んでいる。高南台地と呼ばれる流域では珍しくまとまった平野の中を、四万十川に沿って延びている。
この一帯は、県内でも有数の穀倉地帯で、仁井田郷と呼ばれた時代から米作りの盛んな地域である。四万十川に築かれた堰や水路によって開拓された広大な田園の景観が道沿いに広がっており、ここで生産される良質米は仁井田米というブランドで知られる。
県道窪川船戸線は、元は、窪川から旧大野見村吉野に至る郡道として大正2年から整備が進められ、昭和3年に野老橋、翌4年に大野見奈路橋が架橋され、自動車の通行が可能となった。この道は、仁井田米という良質米の産地を支える重要な道である。
■四万十町広報誌(平成26年5月号)