『日本残酷物語』刊行のことばに「これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人々の物語である。自然の奇跡に見離され、体制の幸福にあずかることを知らぬ民衆の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現在の狂熱のさ中では、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である。・・」
この「生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である」と書いたのが谷川健一であったことを初めて知った。この書が発刊されて半世紀。その第二弾ともいえる「亡所考」が月刊『世界』に連載されている。北條勝貴は「自然災害や権力の抑圧などによって失われた場所、人びと。これを「亡所」として捉え、現代社会に回復させることを試みる。」としている。このシリーズを「亡所考」としたのはこれによるもので、編集子は地名版の「亡所考」を試みる。
田野々は、合併前の旧大正町の大字地名で、合併時に旧大正町の名称を、役場所在地であるこの地に残したいという思いから、田野々を大正に改めた。中世以前の歴史的地名「田野々村」が大正時代に年号を村名として思いつき改名した「大正村」に負けた。その経緯を「消えた地名」の墓標とする。 →詳しくは Vol.14 消えた地名(2)大正編
昭和40年に窪川の市街地で導入された「住居表示」。街区をまとめ家ごとに住居番号をふるというもの。殿町、元倉町、戎町、横町、元町などが消えた。川北・川南も使われなくなった。窪川街分の市街地が川南から川北へ「遷都」するさまを古地図で紹介 →詳しくは Vol.13 消えた地名(1)窪川編