Vol.13 消えた地名 (1)窪川編

窪川土居図1675年頃【安芸市立歴史民俗資料館所蔵・許諾】
窪川土居図1675年頃【安芸市立歴史民俗資料館所蔵・許諾】

20160612胡

 

■川南と川北 

  窪川の市街地を二つに区分する広域名称が「川南」と「川北」。

 街の中を流れる吉見川を挟んで区分する。昭和50年7月発行の「高知県集落台帳」に集落地名として川北・川南が掲載されている。昭和35年(1960・過疎法の基準となる年)の人口/世帯は川北が2,163/588、川南が2,488/686。また平成12年(2000)、40年後は川北が2,460/1,056、川南が1,778/740。人口の増減率は川北が13.7%増、川南が28.6%減。土讃線が1951年に窪川駅まで全通。窪川農業学校が窪川高等学校となり周辺の宅地造成が進められ、人の往来が川南から川北へと変わっていった。平成27年には役場庁舎も川北へ移転された。市街地形成の変化が人口動態や町の賑わいに影響があることが理解できる。

 

 その「川北」や「川南」。四万十町HPの内部サイトを検索しても議会議事録に議員の発言にでてくるだけで、何の資料もない。使われないことから消える地名となろう。

 

→詳しくは 参考:高知県HP「過去の集落調査について」

平成13年度 「高知県の集落」:集落データ 高岡郡

  

 

窪川土居図の町筋名をゼンリン社地図へ
窪川土居図の町筋名をゼンリン社地図へ

■消えた地名 窪川土居図の町名   

  うえの写真は1675年頃とされる「窪川土居図」である。先ず、絵図の全体を説明すると、城郭となる土居は、図の左側に位置し、現在の新開町付近である。左(西側)には「大河 此河津野山ヨリ流ルレ中村江出ル」とある。大河とは四万十川で右岸には「大井野村」がある。吉見川合流点の下に「舟渡」とある。土居の裏山には曲輪が4か所、「八幡場」とする建物があり、「堀切」が設えてある。その北側に「神之才」(現在の神ノ西)、「宮内村」とある。仕出原や五社の記載がないのが不思議である。中央上部に「鉄炮場」とあるが、現在あるヘンロ石の位置から判断すれば、四国電力窪川お客さまセンターの角ではないか。そこから五社への道を辿り「ツキ池」を過ぎると「桜ガ峠」とありひと山越して「山番」を通り「イチイ谷」の田んぼ道から「宮越」を越えて五社への渡しとなる。

 岩本寺の参道を北に呼坂に向う途中に「丸山」、「鹿場」とあり、「中呼坂」の分れがある。

 絵図の西側には「榊山」があり、その西方ふもとに「宮之谷」、「惣郷市宮」、「ツガ藪谷」とあり、吉見川の「瀬」を渡れば「古市」となる。「才能」で書込みは終わり「幡多江之大路」とある。

 

 さて、町名の本題に入る。「土居屋敷」から川名は記していないが吉見川にかかる唯一の「板橋」がある。藩政時代のメインストリートは、現在の国道381号の一本南の通り(吉見川の歩道橋から喫茶純・居酒屋なるほどまでの道)である。「士町 百三十間(257m)」、「片町 五十二間(103m)」ときて岩本寺の参道に出合う。この二つの道筋は窪川卸売市場裏のあたりで道幅分をずらして設えている。城下町によくある土居への防御施設としての工夫であろう。

 ここから岩本寺への参道が「櫻町 四十六間(91m)、反対側へいく参道が「風呂屋町 五十九間(117m)」となっている。

 土居から西へ延びる参道までのメインストリートの途中に2本の街路がある。最初の街路は北側へ「横町 九十三間(184m)」、二本目の北側への街路は「中町 七十八間(154m)とあり、いずれも突き当たるのが「竪町 百三十八間(273m)」の通りで、現在の本町筋にあたる。この「竪町」の中ほどに「夷堂」とある。また、「横町」と「中町」の間に、二つを結ぶ通りがあり「新町 四十二間(83m)」とある。「横町」は、高橋金物店、NOSAI四万十の通りで、「中町」は、社会福祉センターの東側のとおりである。「新町」はNOSAIや社会福祉センターの駐車場となっており、街路は消失した。夷堂(戎堂)の位置は変わっているように思えるがここらあたりが戎町である。

 一方、このメインストリート(士町・片町)の南側にも道筋がある。絵図では、岩本寺門前から西側が「裏町」で「岩本寺前ヨリ大河迄二百三十八間」とある。反対に門前から東側にのびる筋を「寺町」と呼び、岩本寺のほかに「浄照寺」と「東光寺」がある。

 吉見川の北側のいまでいう川北には町筋は形成されておらず、田んぼの中をヘンロ道が通るだけである。また参道の東側も田んぼだけである。

 

 この土居図の町筋と現在の町筋は概ね一致するが、当時の町筋名称と現在の町内会の名称とは全て一致しないのはどうしてなのか不思議である。町内会名称で横町はあるが、この土居図にある「横町」とは位置が全然違ってくる。町道に櫻線があるが、この町道が居酒屋さくらの南側の道とすれば「櫻町」の近くに地名の痕跡を残すことになる。

 となると、現在の町筋名称は、明治以降の命名かもしれない。文献史料にあたり、正確に記録しなければならない。

 

 

■消えた窪川の町名 住居表示が破壊した地名 

 昭和40年に窪川の市街地で導入された「住居表示」。市街地が進むと住所を頼りに訪問先を探し当てたり郵便物を配達したりするのが難しくなるということで、街区をまとめ家ごとに住居番号をふるというもの。

 昭和37年にこの住居表示法が施行され、従来の町名と縁もゆかりもない新町名の採用や従来の町区域の全面的改編が住民の反発を招いた事例が全国各地でおこった。宅地造成地の際には従前の地名を廃し、希望が丘や緑ヶ丘など佳名が採用された。

 窪川の市街地も、「古市町」、「東町」、「茂串町」、「本町」、「新開町」、「琴平町」、「北琴平町」、「榊山町」、「香月が丘」、「窪川」となった。

 旧窪川町が廃止した旧町名は、公称地名としては町道の路線名としてひっそりと息づいている。また、いわゆる町内会の名称でも残っている。地元の人しか記憶にない旧町名を紹介する。

 窪川町史にも旧町名とその区域を示した資料はない。四万十町のHPに投票所一覧があるが、この資料には投票所名別にいわゆる町内会の名称が記載されているだけである。これをもとに旧町名を拾い上げてみる。  ※後日、旧町名エリア図を添付する

 

 

▽第1投票区・四万十町役場東庁舎(古市、東町と郷分の金上野、見付など))

古市(現在の古市町)

上東町(現在の東町4,5,6,7番。鉄道の東側、古市側)

上本町(現在の東町8番、古市町1番。国道381号線の北側で鉄道の東側)

榊山町(現在の榊山町。JR窪川駅の東側)

昭和町の一部(現在の榊山町8番の一部)

 

▽第2投票区・四万十町社会福祉センター(川南と郷分の神ノ西、西原、大井野)

東町(現在の東町2,3番と茂串町2番あたり。鉄道の西側)

上町(現在の茂串町3,4,7番)

元倉町(現在の茂串町8,9,10,14,15番)

殿町(現在の茂串町6,7,9,10,11,12,13番)

横町(現在の茂串町4,7,9番の一部。岩本寺参道沿い)

元町(現在の本町3,4番の一部と茂串町5,6番の一部。岩本寺参道沿い)

上本町(現在の本町の1,2,3番。国道381号線の北側の鉄道の西側)

本町(現在の本町4,5番。本町商店街の中心)

戎町(現在の本町6,7,8,9番。本町商店街の西側)

新元町(現在の本町4番と茂串町6番の一部。国道381号沿い)

新開町(現在の新開町。新開町1~3番は新開町上、4~10番が新開町下)

 

▽第3投票区・窪川小学校(川北)

吉見町(現在の琴平町4,5,6,12,13番の一部。岩本寺参道沿い川北)

東吉見町(現在の琴平町2,3番)

南琴平町(現在の琴平町9,10,11,12,13番の一部)

東琴平町(現在の北琴平町4番の一部。段丘造成地)

北琴平町(現在の北琴平町3,4,10,11番。バイパスと学園通りの交差)

琴平町(現在の琴平町。琴平神社周辺の岩本寺参道沿い)

駅前町(現在の北琴平町1,13番。JR窪川駅西側)

駅前通り(現在の琴平町1,3番。JR窪川駅西側吉見川詰)

学園通り(現在の北琴平町2,3番。駅前から高校へ向かう通り沿い)

昭和町(現在の北琴平町12,13,14,15番)

栄町(現在の北琴平町3,4,5,8,9,10番。窪川高校の南東側)

南琴平町(現在の琴平町9,10,11,12,13番)

香月が丘(現在の香月が丘。新興住宅地で現在も進化中)

旭が丘(現在の北琴平町17番。天理教窪川分教会の上段の新興住宅地)

鳥が丘(現在の北琴平町7,8番。窪川高校北側の新興住宅地)

 

 この住居表示で消えた地名も、町道台帳に路線名としてしっかり残っている。うえの町内会の名称として残っていない路線名のみを探すと次のとおりである。

 

 ▽四万十町認定路線台帳

  • 櫻町線(本町349-ハ番地先~茂串町325-2番地先)
  • 萩原線(榊山町568-4番地先~琴平町1438-7番地先)
  • 寿線(琴平町560-10番地先~琴平町559-7番地先)
  • 旭町線(琴平町555-4番地先~琴平町557-15番地先)

※「櫻町」、「寿」とも、窪川町史にも記載はない。

※「萩原」は大字窪川の字名である。

※窪川町史p658には、旭町は現在の琴平町とある。

 

 


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