20170614胡
▼「一身にして二生を経る」 伊能忠敬の生き方
伊能忠敬は、60歳を越して退職したものにとって「越し方行く末」のバイブルである。
サラリーマン60歳退職から、欲張ってあと30年生きるとすれば、そりゃ、もう一つの仕事ができる。面白おかしく生きるのもいいが、二人の肩におんぶしてもらう年金生活者にとってはそれこそ肩身が狭い。ボランティアもいいが、何か存在証明みたいなものを、「小さくてもきらりと光るもの」をと願うものである。
伊能忠敬は、偉人でも天才でもなく普通の人といわれる。ただ普通でないのは、好奇心が強いこと、凝り性で続けること、そういった面では三日坊主の編集子にとっては変人かもしれない。
井上ひさし『四千万歩の男』は、お読みいただく前にとしてこう書かれてある。
「50歳で隠居するまで下総佐原村の名家の檀那、隠居と同時に本格的に星学暦学の勉強をはじめ、56歳から72歳までの16年間、「二歩で一間」の歩幅で日本の海岸線を歩き回り歩き尽くして、実測による日本地図を完成。この間に彼の歩いた距離はざっと35,000キロ、歩数にして約4,000万歩。”愚直な”という形容詞のつく大事業ではないか。」
「退職金や年金の相場も4,5年の余命に合わせて決められたそうだが、長寿大国ニッポン、「たいていの人が退職後も20年、30年と生きなければならなくなってしまった。人生の山が一つから二つにふえた。われわれの大半が”一身にして二生を経る”という生き方を余儀なくされているのである。
長生きしたいと願って、毎日一万歩を目標にしているあなた。
『四千万歩の男』を読んだら、ちょっとは化けますよ。それこそ普通の人であれば。
井上ひさしが、この本をより面白くしている秘密は「忠敬と同時代に生きる人」をちりばめていること。全国を歩けばいろんな人に会うのだろうが、これはフィクションの世界、それでも二宮尊徳や高田屋嘉兵衛、十返舎一九などなど出会いを軽妙に綴っているところは引き込まれる。
▼第六次測量 四国の旅
文化5年(1808)1月25日、江戸を出発し、伊勢、大和、淡路島と測量し、高知の甲浦に入ったのが4月19日(1908年5月14日)、ここからの記録は、山本文雄著『伊能測量隊土佐をゆく』に詳しく書かれている。随行した土佐藩士の”奥宮日記”もありぜひ読んでいただきたい。山本氏の労作を引用して、当ホームページ「地名データブック」サイトに『伊能忠敬土佐測量日誌』をエクセル形式で載せていますのでご利用ください。
伊能忠敬が、四万十町を歩いたのは文化5年5月21日から23日(1808年6月14日~16日)かけてである。
「伊能忠敬測量日記」には次のように記録されている。※印は「伊能測量隊旅中日記」
四万十町内の掲載地名は、志和本浦(志和本村)、志和浦(志和浦分)、薬師寺、小弦津(小鶴津)、大弦津(大鶴津)、冠崎(冠崎)、与津村の坂越(磯佐古江見山の鞍部となる所?)、助合山(向山?山崎山?銭神山?)、与津浦(興津浦分)、岬ノ山(三崎山)、小室浜(小室の浜)、小島戸・大島戸(島戸)、水谷(?)がある。旅中日記には前述にない地名として「与津浦杓子浜」「清水谷」がある。与津浦は4つの浦があり「島戸、小室、杓子、荒平の四津の村」と興津村史に書かれ、「杓子濱、荒平濱は近年殆んど其の影さえ想像するだに困難なる状態にまで沈降して付近一帯リヤス式海岸の形態をつくりつつあります。」とある。現在は島戸、小室、浦分の三港。興津村史に杓子濱・荒平濱は沈降し影さえみえないとしているが、この旅中日誌には「冠崎より測量始与津浦杓子浜至る」とあり、浦分漁港が杓子浜となるのか。興津村史の四津の説明は合理性に欠けるのではないか。
伊能測量隊は、与津浦・杓子浜・小室浜・島戸の記載がある。杓子浜はどこか、荒平浜は当時はなかったのか?
5月21日 朝晴。六ツ半頃上加江浦出立し手分す。先手坂部、柴山、文助、善八上加江浦字加江崎より初め、志和浦枝郷小矢井賀、同大矢井賀を歴て志和本浦迠測る。後手我等、下河辺、青木、佐助上加江浦下より逆測し、昨日測終の同村字七浦の本山に至りて合測。立帰り上加江浦下より順測し、同村枝郷押岡村〔家十五軒あり〕を歴て加江崎にて先手の残抗へ合す。後手は九ツ半頃、先手は八ッ頃に志和浦へ着。止宿本陣臨済宗瑠璃山薬師寺〔上下十六人一宿〕。志和浦庄屋古谷七助案内。此日同国幡多郡の郡方下役秋尾九郎内、普請方下役生原弥五右衛門、郷方横目今橋恵助、窪田門八、山改役池田利作、坂本芳平、幡多郡測量御用中付添候趣見習に出る。
※一、今六時過上の加江浦出立。先手者(志)和浦枝郷小矢井賀大矢井賀中食。
泊り志和浦 禅宗薬師寺
夕八半時過着 不残一所
5月22日 朝晴曇。手分し我等、下河辺、青木、稲生、佐助志和浦より初め、同村の内小弦津大弦津を歴て冠崎前迠測る。坂部、柴山、文助冠崎前より初め、与津村の坂越迠測り後手測量済。乗船して与津浦へ行んとす。先手尺取らざるによって坂越より助合山通り与津浦湊口迠測る。又与津浦止宿迠測る。後手は八ツ後、・先手はセツ後与津浦着。止宿庄屋渡辺俊蔵〔上下十六人一宿〕。幡多郡普請方下役森本喜之助初て出る。同郡大庄屋森佐十郎、同断伊与木郷の大庄屋間崎源左衛門出る。
※一、今六時志和浦出立。冠崎より測量始与津浦杓子浜至る。此所中食。
泊り与津浦 庄や渡辺俊蔵宅
夕七時過着 本陣一所。
一、郡下役秋尾九郎内 普請方下役生原孫右衛門
山改役坂本芳平 山改役 池田利作
郷方横目窪田門八 今橋専助
右之者共廿一日志和浦泊り江罷出る。
但幡多郡役筋之者共也。
普請方下役森下(本)喜之助
5月23日 朝曇晴。六ツ半前与津浦出立。手分し後手我等、下河辺、青木、稲生、佐助同所止宿前より初め、同浦岬ノ山より同所小室浜入口迠測。初は小雨なりしが段々風雨強なり。海辺休小屋にて中食難成く昨夜の止宿へ立帰て中食し、雨中又止宿前より初め、小室浜の先手残し杭へ合測し〔此浜の上に与津村あり〕、それより乗船し鈴浦へ越す。先手朝六ツ頃坂部、柴山、文助、善八与津浦小室浦より初め、同浦の字小島戸、大島戸を過て同浦水谷迠測り中食。大雨にて測留め鈴浦へ八ッ頃に着、後手はセツ前に着。止宿幡多郡鈴浦庄屋林左衛門、別宿鈴村庄屋清助。
※一、今六時与津浦出立。小室浜を過て本脇より測量始。清水谷に終る。大雨に付半にて仕廻帰る。
泊り幡多郡鈴浦 百姓義助
本陣林左衛門