土百姓・伊与木定
伊与木定氏(大正町弘瀬)は、土佐民俗学会の会報『土佐民俗』に25題を投稿している。初稿「北幡大正町の民俗二題-木地師のこと・飯食い祭り-(第2号/昭和36年)」は63歳、最後の寄稿は「遍路接待に芋煮しみのお花-幡多郡大正町-(第52号/平成元年3月)」で91歳のとき。
山間を足で綴った偉大な記録である。
還暦を過ぎてから民俗学を学び、地域を歩き記録した
「一身ニシテ二生ヲ経ル」の生き方である。
伊与木氏が『土佐民俗』へ投稿した内容をまとめ、『上山郷のいろいろかいろ掻き暑めの記』などの氏の出版した書籍も紹介し、「伊与木定」を書きとどめたい。
実は編集子の祖父が市川幾治である。烏手の畑は、ヌキナひとつ、病葉ひとつないきれいに整えられた菜園で、家の裏にある墓所は花木を植栽し、剪定され姿は今でいう墓地公園であった。仕事に応じた身づくろいや、道具の前準備や、あったところに磨いてもどす後片付けが、すべてにわたる仕事の流儀であった。それは市川家の伝統となり寛、久氏と受け継がれている。なんにつけても研究熱心で自分で工夫を凝らし物事を仕上げた。向上心が強く、凝り性であった。認知になった祖母・種の介護も「恍惚の人」を読んで愚直に世話をした。そんな幾治の生き方が大好きである。編集子の名に「治」の一字を、長女には「いく」の字をいただき命名したと父・景明は後に語ってくれた。
香り米「幾治ヨリ」
明治39年の夏、住居の前でプーンとよい香りが「ヘンドボーズ」という品種の晩稲の中からただよってくる。これを発見したのが烏手の市川幾治、当時18歳の若者である。その一穂を抜き取って翌年試作してみると米にいい香りがある。「ヘンドボーズ」はイモチ病に強い特徴があり、いまひとつ「朝鮮返り」は茎の丈夫な香りのある米。この二品種の各長所をとった品種を三年続け、品種に変化の起らない、固定品種の籾に仕上げた。幾治氏はこれを「ヘンドヨリ」と命名し栽培した。市川氏の熱意に感謝し「幾治ヨリ」と呼ばれた。イモチ病に強く倒伏しない特徴の「幾治ヨリ」は人気が高く、大正村一円から、津大村、窪川の高南台地にまで栽培者が増加した。後年、高南台地の「香り米」が土佐十名産の一つとなったが、それはとりもなおさず「幾治ヨリ」の流布によったものである。伊与木氏は「幾治ヨリ」を書きとどめ、市川幾治氏を顕彰している。
木地師と飯食い祭
「木地師」はケヤキなどの木で茶碗や皿を轆轤でつくる漂泊の職人。自由に深山の奥、官林で伐り取ることを許され、諸国の関所も通行自由な往来手形を交付されていた。四万十町大正地域の深山にのこる木地師の刻んだ地名を掘り起こす。『大正町誌』には、大正の小椋(木地師の代表的な姓)について小椋頼母の烏帽子着用の免許状や木地師通行手形などの古文書をもとに詳しく述べている。
二題目は、下道にのこる奇祭「飯食い祭」。旧暦11月12日、春日神社の「もうし」の祭礼行事のあとの当屋祭のしきたり、手順、構成が詳しい。
左与右門の鍬法記
皆山集に田掻きの鍬法が記してあるが、それ以上の四十八手の古い鍬法記が大正町弘瀬にある。この田の代掻きの秘伝を心得ているのが弘瀬の左与右門(左右衛門)の「オモジ」掻きで、「ヘイショー」廻りでも「左い」廻りでも二十一匹の馬を田の中で自由自在に差配する。鍬法には「鶴の舞いあがり」「挽き柄折り」とかがある。左与右門は世にも非凡な田掻きの腕達者であった。(伊与木定著『上山郷のいろいろかいろ掻き暑めの記』上巻p19「弘瀬村の左与右門の田掻き」に所収)
木屋ヶ内の施餓鬼
木屋ヶ内のおセガケ供養は、音頭が「オーミドー ナーム オーミドー」と唱え、つづいて脇音頭が「エー ナーム オーミドー」と唱える。同時に鉦と太鼓を四拍子でたたく。一同これに唱和して、これを「ひとにわ(一庭)」という。大せがけ様(53庭)、皆念仏様(35庭)御大師様(21庭)など供養仏の順序により、計133庭を繰り返し唱和する。この施餓鬼供養は、赤岩・古宿のほか、下津井、下道、中津川本村、森ヶ内、四手ノ川でも行われている。
北幡の習俗
「カ播きとチ播き」と「妊娠と川漁」と「厄払い」の三題の北幡習俗を採集。
作物を播く日によって作りのできが左右されるというもので、旧暦の日の呼び方の語尾にカの音のつく日(フツカ、ミッカ、ヨッカ、イツカなど12日)が「カ播き」で生育が悪く虫がつく、「チ播き」の日(ツイタチ、十一ニチ、十二ニチなど18日)はよく作物もできるという。
「妊娠と川漁」は北幡一帯にあ、女房が妊娠しているときに川漁にいくと大漁だという。