『土佐一覧記』に見る土佐国の景観
ー与惣太が訪ね歩いた土佐557か所ー
辺界の地「四国」への旅人
『今昔物語』に「今は昔、仏の道を行ひける僧三人ともなひて、四国の辺地と云ふは伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり」とある。当時の辺地修行者は海や山を巡り各所の霊験所を参って厳しい修行の旅を重ね、「日暮れにければ、人の家に借り宿りむ」と寺院(旦過・布施屋)や善根宿等の一定の援助を期待していた。一方で仏教本来の教えとして「乞食の中にこそ、古も今も仏菩薩の化身は在す」と乞食修行をする高僧もいた。
この四国の旅人として西行、真稔、伊能忠敬、松浦武四郎などが旅の記録をとどめている。諸国をめぐる漂泊の旅とともに多くの和歌を残した西行(1118-1190)。中四国を旅したのは仁安3年(1168)で弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたといわれる。貞享4年(1687)に出版された『四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)』は最古の遍路ガイドブックといわれるベストセラー、その作者が真稔である。伊能忠敬(1745-1818)はセカンドライフとして日本を歩き尽くして日本地図を完成させた。17年間で3万5千キロ、4千万歩である。四国を調査したのが第六次測量(文化5年/1808)で、土佐藩はその年の4月19日(新暦5月14日/甲浦)から6月26日(新暦7月19日/宿毛・深浦)となっている。その愚直な旅人の生き方は松浦武四郎(1818-1888)に引き継がれているようだ。日本を歩いて記録した市井の巨人・松浦 は19歳(1836)のとき四国を巡礼している。その記録は『四国遍路道中雑誌』 としてまとめられているが、知りたい思いが旅となり全てを野帳にメモして膨大な著作となった。彼もまた『四国徧禮道指南』を携えて旅したことであろう。今年(2018)は伊能忠敬の没後200年、松浦武四郎の生誕200年となる。
聖地巡礼
旅は日常と非日常の境界にある。巡礼は「聖地」への一時回帰であり、時に日常から解き放された快楽性もともなうこととなる。この聖地巡礼は「定着」から自由となる免罪符でもあり、とりわけ大切な「修行」の一つにもなる。メッカ巡礼、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ、伊勢参り、チベットのラサへむかう五体投地など多様な巡礼が世界各地にある。世界の巡礼はそれを可能とする宿泊・道路・治安など周辺の社会資本の充実が図られ、巡礼者が文化や情報の伝道師の役割を担うことになる。高知県四万十町の香り米の品種に「遍路選り(ヘンドヨリ)」がある。遍路道でいい匂いの米をひとつかみ、それが九州各地、中国地方にも広まったという 。この四国遍路は今でこそ納経所へのスタンプラリー化したところもあるが、昔は歩く巡礼(ヘンロ)であった。
ヘンロとは
これら辺地巡礼行為である「ヘンロ」の意味をあらわす表記には辺地、辺路、徧禮があり高知県などではヘンド(辺土)とも呼ばれる。世界遺産「熊野参詣道」に小辺路(高野山~熊野三山)、中辺路(田辺~熊野三山)、大辺路(田辺~串本~熊野三山)がある。「辺」は物のはし、この世とあの世の境を意味し、「地・路」はその極楽浄土に見立てた苦難と悦楽の修行の場であり、「辺地・辺土」は巡礼の道に修験の重みをおいた言葉であろう。真稔はあえて「徧禮」の字をあてているが「徧禮」の意図について稲田道彦は『全訳注四國徧禮道指南』で「“徧”は広くゆきわたるとか、あまねくという意味で、遍と同じ意味である。“禮”は、たんなる道ではなく、人として生きる道という意味を含んでいる。路が人の通行する道を示すのに対して、禮の字を使ったということは“へんろ”という行為に人の道を求める修行者という意味を込めたかったのであろう」と述べている。『土佐一覧記』の文脈から与惣太の旅の姿を復原してみたい。
寺院と神社
ー僧侶の与惣太が神社を巡るのはー
寺院10カ寺・神社43社
川村与惣太は土佐の辺地紀行をどのような意味合いで行ったのか。西寺(金剛頂寺)の別当職を辞して土佐一国を旅したのが52歳。理由は記されていないが隠居の身として土佐一国を吟遊したいというのが本来の願いと考える。僧籍の身である与惣太が、土佐国の札所16のうち記録に残しているのは室戸崎(最御崎寺/24番)、三角山(金剛頂寺/26番)、惣社(国分寺/30番)、五台山(竹林寺/31番)、峰寺(禅師峰寺/32番)、天甫寺(雪渓寺/33番)、清滝寺(清瀧寺/35番)、竜御山(青竜寺/36番)、仁井田五社(岩本寺/37番)、蹉跎山(金剛福寺/38番)の10カ寺である。西寺の両隣の津照寺も神峯寺も詳しい記述はない。津照寺は『今昔物語』に「津寺(津照寺)」と語られる古刹であり、室戸三山でも興隆を誇ったと京都・東寺の百合文書の『土佐国室生戸金剛頂寺別当三綱等解案』に書かれている。金剛頂寺の別当としていわずもがなということか。
土佐10カ寺であるのに比べ、神社は43社も記述されている。神仏習合の時代背景はあるにしても当時の四国巡礼の信仰・習俗の背景はどうであったか。
巡礼の作法にみられる神仏習合
真稔が当時の巡礼の作法である紙札の奉納について「其札所本尊大師 太神宮 鎮守惣して日本大小神祇 天子 将軍 ・・」と『四國徧禮道指南』で示している。札所の本尊、弘法大師の次に伊勢神宮、その次に鎮守の神様や数々の神様との記載順である。また宿に納めるもの、接待を受けたものにお渡しする納め札も準備しなさいとある。また、真稔が定めた88カ所の札所に神仏習合の寺社や修験道の札所が、12カ所あると稲田道彦は『全訳注四國徧禮道指南』で示している。
『四国徧礼霊場記』では、与惣太が別当を務めた金剛頂寺について「本堂の右に建つ社は若一王子で当山の地主神、左は十八所宮でこれは王城の上社十八神を勧請したもの。山上には清泉があり、それに合わせて弁才天の祠がある(現代語訳)」と記され、堂宇の俯瞰図である「西寺図(右絵図。ゴシック字は筆者加筆)」にも鎮守十八所、若一、弁才天と記してある。一ノ宮百々山神宮寺について「この宮は高加茂大明神。神宮寺の本尊は阿弥陀如来」と述べ、その「一宮図(俯瞰図)」は本社を中央に記して境内外のはずれに神宮寺や長福寺が記されている。また仁井田五社について「当社は国の大守によって建立。前に大河があって仁井田川と呼ぶ。当社の別当は岩本寺という。社から十町余り離れた久保川の町にその寺がある」(現代語訳)」と記され、「五社図」には五つの鳥居と本殿が並びその前に仁井田川と書いてある。
『土佐一覧記』には『延喜式』神名帳の編さん当時(927年)の郡域によれば、安芸郡が式内3座 を含む6社、香美郡が式内4座 を含む10社、長岡郡が式内5座 を含む7社、土佐郡が式内5座 を含む9社、吾川郡が式内1座 を含む2社、高岡郡が6社、幡多郡が式内3座 の3社である。香美郡は土佐の奥山である物部・槙山の小松神社を含む式内社は全て記録している。
『四國徧禮道指南』の神社
与惣太の土佐行脚の約100年前を記録した『四國徧禮道指南』にある神社の記述は「かんの浦(略)町中にやしろ有(熊野神社)かた原町みなとよし」「白はま町 明神の社(五社神社)ゆきて川」「のねうら入口宮立入(野根八幡)」「入木村八まんの宮(佐喜浜八幡宮)」「東寺迄廾町餘の中に見所おほし(中略。“大あな”御厨人窟の説明中)大守石をうがち五社建立あり(五所神社) 東に太神宮御社有(神明宮)」「たの浦よき町なり 此間八幡宮(田野八幡宮)大師堂寺も有過安田川」「やわた村 此間小坂 山上に八まん宮(豊岡別宮八幡宮)」「一宮(土佐神社/30番札所善楽寺)」「あぞうの村国の守の氏神有(掛川神社)」「鳴無大明神(鳴無神社)とて国守造営の宮朱門彩瓦景もよし」「五社(37番札所) 別当岩本寺くぼ川町に居す」「くぼつ宮有(一王子宮)」の12社がある。幡多郡の式内社3座である賀茂神社・伊豆田神社・高知坐神社はヘンロ道沿いであるにもかかわらず真稔はその案内をしていない。
日本人の宗教観の寛容さ
空海が42歳の厄年(815)に現在の四国霊場八十八カ所を開創したというのは史実ではない。空海入定後に弘法大師信仰が高まり、空海誕生地(讃岐)、四国で修行し悟りを開いた(室戸岬)といったことから信仰の中で「四国」が注目された。加えて「四国辺地」を修行する聖(ひじり)、修験の山伏など複層的な要素が数百年の歴史の中で四国遍路の祖型がつくられたという。「文明3年(1471)の高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘には、“村所八十八ケ所”と刻まれている。これが四国八十八カ所のミニチュアならば、八十八カ所という霊場群の起源は、15世紀にまでさかのぼることができる(『日経マスターズ』2005年4月号「江戸時代に大衆化した四国八十八カ所巡り」)とあることから、88という札所の数は一般化していったものの札所の位置が特定されていたわけではないようだ。今でも本家元祖の争いはある。
1000年以上続いた神仏習合の歴史が日本人の宗教観の寛容さを育むとともに、陰陽師や山伏修験道、物部槙山のいざなぎ流民間信仰など多彩な宗教観を生むことになった。『長宗我部地検帳』(『地検帳』)の野市町の立山神社、赤岡町須留田周辺にホノギ、職名、居住関係を探せば「算所やしき 算所神兵衛給 主ゐやしき」など算所の名前が5人ほど出てくるし「二ノミコ佾給」など佾 (巫女の別称)も2人の給地がある。「山崎やしき」は土佐国博士頭として土佐国中の算所の取り締まりをおこなった芦田主馬太夫の屋敷地である。文化12年(1815)物部・槙山郷にはその系統といえるいざなぎ流の陰陽師・神子が49軒あったと『柀山風土記』 は記している。
その1000年以上の神仏習合の歴史も明治新政府の布告(神仏分離令他)により大きく変化することとなった。
旅文化
ー与惣太はどこで泊ったかー
タビはタマワル(物乞い)
今風の旅は、宿と食が楽しみである。この『土佐一覧記』には食の記述がない。
「タビといふ日本語は或はタマワルと語源が一つで、人の給與をあてにしてあるく点が、物乞いなどと一つであったのではないか」と柳田国男 は述べている。真稔も「頭陀」と自称し修行としての物乞い巡礼を数十回行っている。お遍路さんが肩にかける布製の袋で同行二人の文字が刻まれているのが頭陀袋である。頭陀は捨てる・落とすを意味する梵語で、衣食住に関する欲望を払い、修行する意味を持つ。
旅の宿事情
『土佐一覧記』の和歌には多くの詞書があり作歌の書きとめているが、そのなかに宿の事情が多く記されている。遠城寺(芸西村和食/p104) では「和食郷遠城寺に冬の夜宿りける」、蚊居田(南国市里改田/p160)では「観音に宿りし時窓前雪と云う題を探りて」とあり、寺院の援助がうかがえる。窪川(四万十町窪川/p293)では「此所の市中にある人隠居し侍るを尋ねて」、芳奈(宿毛市山奈町芳奈/p327)では「此里なるある人のもとに宿り別れに望みて」とあるように知人縁者に宿を求めたようでもある。木塚(高知市春野町西分/p242)では「此里にて宿を乞ひける時夕雀の群ゐるを見て」とあるように民家の軒先を所望しつつ、多くは野宿であったようだ。和歌の中に「磯枕ねざめ寒けき」「露の契りのかり枕」「今宵なほ枕に霞む月も見ん」「うち山陰のあまの苫やに」とあるが苫屋や草枕で「よなよなの露の宿り」となったことだろう。
布施屋・善根宿
小松村(四万十町東川角/p291)で詠まれた和歌に「ふせ屋」とある。古代からの官道には駅家を付設し官用交通を支えたものの辺地の庶民の行旅への宿の成立には至っていない。調・庸の運搬夫や旅行者の一時救護所的に仏教寺院を中心に設けられた簡易宿泊所が「布施屋」である。布施屋の設置記録はないが善根宿として提供してくれた感謝をこめて与惣太が「ふせ屋」と詠んだのではないか。中世の鎌倉中期ごろから、禅宗寺院を中心に各地に接待所が現れ、土佐・五台山の接待庵など7カ所におよぶとある 。江戸期に入り定着政策の下で唯一往来が許されたのが富士講や伊勢講など信仰を目的とした行旅である。江戸後期の文政のおかげ参りの頃、日本の人口が3千万人といわれた当時に、1年間で500万人のお伊勢参りがあったという。松浦武四郎の『四国遍路道中雑誌』にも「門前に茶店並びに商戸有。止宿するに、よろし」とあることから江戸期後半ともなると門前の商家が形成され有料の宿も設けられたといえる。
『土佐一覧記』には草枕、旅寝、磯枕など野宿の歌が14首ある。与惣太にとって「頭陀の行脚」として野宿を主としたものだろう。四国遍路が大衆化された江戸初期に一番問題となったのが宿泊の問題で、有料宿の形成は未発達で寺院や個人の家(善根宿)に期待するしかなかった。特に「土佐は鬼国宿がない」と俚謡にあるように深刻だったようだ。真稔の『四國徧禮道指南』にも善根宿の紹介がされているのも宿事情がうかがえる。いまでこそ「お接待の四国遍路」とキャッチコピーされているものの善意で宿を施行するのは敷居が高いと思える。
旦過
服部英雄氏は『地名のたのしみ』 で四国遍路道沿いに多い「旦過(たんが)」地名について述べている。旦過は仏教用語で修行僧が一夜の宿泊をすること、またその宿泊所を意味する。氏は旦過の共通性として「①港・渡し場など交通の要衝にある。②著名な禅僧と結びつく。③温泉又は温泉の跡がある」を指摘している。大豊町川口に「ヘンロユハヤ」の字がある。現地確認したわけではないが漢字を当てれば遍路湯場屋である。また高知県内で「タンガ」関連の字を調べたら、タンガン(香美市土佐山田町植)、丹官(南国市廿枝)、壇願(梼原町梼原)、タンクワン(宿毛市小筑紫町田ノ浦)があり、古文書では『手結浦日抄』に「往古旦過寺有シ号ナリ」と香美郡夜須郷に旦過寺があったと書いてある。風呂地名については中世の山城と風呂地名の関連を述べた筒井功氏の『風呂と日本人』 を服部氏の『地名のたのしみ』とともに読んでいただければ風呂が宗教的な作法のように思える。沐浴、潮垢離など清めの儀式は産湯(俗界)から湯灌(法界)まで人生の所作であることがわかる。旦過寺は宿泊と温泉とおくりびとの三点セットかもしれない。「風呂の谷」は高知県下各地に分布するので旦過地名の関連を含め今後の調査を待ちたい。
与惣太の歌碑は県内に5カ所 あるが、その一つが四万十町江師にある。この地の対岸が小石であるが、ふるさとへの“恋し”思いをかけて旅寝の寂しさを詠んだのだろう。
胡井志(四万十町小石/校注土佐一覧記p368)
「今宵しも夢にも見つる故郷を こひしの里に草枕して」
土佐の山々
ー与惣太は土佐で最初の登山家かー
山の意味
日本の歴史は山と太陽から始まるといわれる。縄文以前から人々が畏敬して大きな力を感じる存在として山があり、多くの実りをもたらしてきた。ときに信仰の対象として神々の森となり、ときに狩猟など往来にはラウンドマークともなり、山の名前を付してきた。
山の名称について松尾俊郎は「山の名称は、地名のうちでも、いろいろな地名学分野においてたいへん重要な意義をもっている。山に因むさまざまな名称は、人間生活の広い領域にわたってかかわりあいをもつからである。山谷からきた名や祀られた神仏の名からきたもの、そこの地域名との関連、水源地としての役割、境界的性格を示すもの、また山そのものをさす名称の多様性、山名の分布から見た地域的差異、交通路に関するもの、動植物の関係、気象現象とのかかわり、あるいは語源的に外来語との関係を考える上にも、山名は特異の対象ともなり、その地名的性格は複雑である」と述べる(『地名の探求』 )。
土佐一覧記の山々
『土佐一覧記』には40座を超える山の名が記されている。寺院の山号である場合や奥山の郷全体を総称して〇〇山と呼ぶ例もあるが峠を含め与惣太の行脚の軌跡として注目することができる。詞書には結構詳しく山の記述もがあり、土佐と伊予との国境の奥山にも訪れている。
野根山街道(右の写真)の記述も詳しい。奈良時代に整備された官道の一つで、東洋町野根から北川村と室戸市の境となる稜線を尾根伝いに奈半利町まで結ぶ延長30kmをこえる山街道である。参勤交代の道としての記録をとどめる地名や遺構とともに松の美林、杉の大木など山の暮らしもうかがえる。与惣太も野根山街道を歩き押野川(東洋町野根)・野根山・千本杉・岩佐の関・岩佐水・一里深山・装束が峰・米が岡・奈半泊と書きとめ土御門院の遷幸談も載せている。
当時の旅行は四国巡礼が主で海岸沿いの道である。与惣太はこの野根山街道を歩くことで土佐の奥山を行脚する決意となったのではないか。馬路や物部の奥山、物部の槙山・上韮生、嶺北の深山峰々、四万十川の源流域から河口まで、土佐山間の頭陀の修行でもある。
嶺北地域では、下川峰が登岐山(ときやま/別称天狗山/1446m)か大己屋山(おーごややま/1262m)か比定できないが「此山には弥生過卯月の頃まで雪消ずありける。本山下川村の奥なり。此山里には氷室の跡などあり」と記述されている。『土佐一覧記』には下川峰付近の汗見・売生野・桑川(本山町)も掲載されていることから汗見川の上流域の桑ノ川から望んだものであろう。
下川峰(土佐町下川/校注土佐一覧記p178)
「春きても霞ながらへ消えのこる 雪こそ見ゆれ下川の峰」
土佐一覧記は登山ガイドブック
大川村の鬼城山と稲村山にも登っている。鬼城山(西門山/1496m/p216)の詞書は詳しく「山中芍薬多し。鷹を取所なり。山の形四方切立ちたるごとくにて、実も巌もて築たる城なり。峻しき事いふ斗りなし。人馬とも通ふべき山にしもあらず。されど葛をかけて滝をつたい梯をもふけて谷を渡り(中略)西北の隅に追手の門とおぼしき切通しあり。里人鬼すみたりと言ひ伝へしもさこそと思ひやられ侍る」とある。稲村山(稲叢山/1506m/p217)には「此山鬼城山の峰つづきなり。頂に池あり(中略)南戸中の方より登る入口ありて門のごとし」とあり書き方は登山ガイドブックのようである。
鬼城山(大川村上小南川/p216)
「岩たたむ山の奥さへ浮世ぞと 住鬼すらもわびて出でけん」
また、土佐の名峰「手箱山(1806m/p218)」「矢筈山(筒上山/1860m/p218)」や「野根山(983m/p32)」「烏帽子森(1320m/p99)」「白髪山(本山町/1469m/p221)」「別府山(横倉山/774m/p268)」「鳥形山(1459m/p288)」「矢立森(西峰山/719m/p366」「笹山(篠山/1065m/p368)」も紹介している。筒上山については「此峰は安居の山の頂なり(中略)路もなき笹原をよぢ登り夜の明わたるころ、四方を眺れば言の葉にたえたり。備前路九州なども見へわたり侍る。されども日出にいたれば山上雲おふいていづちとも見へわかたず」と深田久弥の日本百名山に似た筆致である。
与惣太が白髪山から下川峰、鬼城山、稲村山、手箱山、筒上山は土佐の山間を往来する往還沿いである。今でこそ登山ブームではあるが、当時、奥山は御留山で入山禁止でもあり、神々の住む森として畏敬の念から近寄らなかったであろう。それでは、与惣太は何故筒上山に登ったのか。詞書にはないが「山に伏す」修行(右の写真は吉野・大峰山の入峰修行)と考えたい。
山名の由来は山容から読み取れ、名づけには一定のルールがあるようだ。「鬼が城山」のオニは奇岩突兀の地形で鬼面の近寄りがたいイメージをもち、稲村山は稲や萱を積み上げたイナムラの丸みの形をイメージする。「鷹を取るところ」と与惣太は書いているが鷹ノ巣山・高取山・鷹取山、日航機墜落事故の御巣鷹山も同系で各地に分布する。鷹狩りの狩場にあてられた山々と『民俗地名語彙辞典』は書いているが、それ以前の太古の時代には矢羽根にする鷹の羽が重要な交易品であったというから縄文人も使った山名かもしれない。
土佐の道筋
-与惣太はどの道を歩いたか-
『南路志』にみえる香美郡界隈の道筋
『南路志』 には道程の「大道筋」について「岸本より高智(高知)迄五里(20km) 此内川六」として「赤岡川(香宗川)、物部川(野市町深渕)、金丸川(舟入川)、布師田橋(国分川)、比嶋橋(久万川)」の6河川(橋)を示している。金丸川は現在の『高知県河川調書』には見当たらないが南国市大埇の字に「古金丸」があり、『土佐州郡志』には大埇郷の山川として「古金丸川 出山田、至片山村」とある。野中兼山の開拓以前が古金丸川(下田川)で舟入川開削後は“新”金丸川(舟入川)となったものと推定した。
また、「山道・小道」として「小籠(こごめ)より槙山之内別府拾四里 此内川六」として「山田渡(土佐山田町神母ノ木)、韮生川(西川川)、大土地(大栃の葛橋)、一宇渡(市宇・宮ノ瀬)、枝川渡(別府・ハヤバシリ)、別府渡(別府・落合)」、「小籠より中谷川迄牛馬通ル、中谷川より別府迄牛馬不通、難所也」とある。山田から物部川左岸(神母ノ木)に渡り、明戸峠を越えて韮生野の西川川を渡り大栃の葛橋を渡って大栃から根木屋、岡ノ内、別役と物部川右岸の中腹を歩き、いったん市宇の宮ノ瀬へ左岸に渡り、別府字ハヤバシリ付近で右岸に渡り柿ノホテの中腹を抜け、再び左岸の落合に渡り別府の中心となる奈路・土居へと至る、こう推理してみた。
また、赤岡から槙山に向けての「山道」について「赤岡より槙山之内中谷川迄五里」とある。香北と物部の境となる物部町中谷川とすれば丁度20km(5里)となる。また上韮生については「小籠より韮生之内窪村迄拾壱里山道」とあり「小籠より窪村まで牛馬通ル、夫より不通」とある。小籠より窪村(物部町久保堂ノ岡)の道は山田から新改川を遡上し大平へ越して物部川右岸を遡上し猪野々から物部の楮佐古へ越え神池、黒代、笹へと中腹の山道を進みいったん上韮生川左岸の五王堂へ渡り、再び右岸の久保高井へ渡って上久保・堂ノ岡へと至る、と物部川右岸ルートを推理する。
「従高智東西大道筋人馬賃銀定」の項では「従江ノ口布師田迄一里 従布師田中嶋迄一里 従中嶋物部迄二里 従物部岸本迄一里但物部川有之ニ付弐割増 従岸本和食迄二里但手結山有之ニ付四割増・・」とある。「一里塚」の設置場所について「野市村馬袋中須取合にあり」「岸本村松原にあり 但野市村一里塚より此所迄長千七百八十弐間半(3.2km)有」「手結山郡境にあり」とある。また明治の元標が郷村の中心地に設えてあると記録に残る。概ね与惣太の歩いた街道の道筋と同じと言えよう。大正昭和にかけて石製に改められたものが各地に残る。
香美郡の物部への道は赤岡から香宗川を上り稜線に沿って大忍庄槙山へ向かう「塩の道」 ルート、野市から佐古を通り明戸峠から韮生郷へ向かう「物部川左岸」ルート、山田郷から新改川を上り佐岡に越え韮生郷に向かう「物部川右岸」ルートの三本ルートにより探訪地を組み合わせたと考える。京から土佐の国府に向かう道を「南海道」 といい、当初、阿波、讃岐、伊予を経て土佐に通ずる道が開設(幡多廻り海路)され、その後、阿波から直接土佐に入る道(養老2年/718)が開かれ、その後伊予から土佐に入る新道(延暦15年/796)が開かれた。
それでは、阿波から土佐に入る道はどこか。武内亮氏の『はぐれ馬借』 を読んで感じるのだが、馬借や木地師や山伏らは、官道と違う別のルート(民が必要な道)を開いていったのではないか。個人的には地形(阿賀野川と物部川ライン。いわゆる地球の皺)の容易さ、沿道の建造物(小松神社・大日寺・神通寺・大川上美良布神社・天忍穂別神社・深渕神社)の歴史的位置づけなど香美を歩いて実感するのがこの生業の道である。
与惣太は、赴くままに吟遊していたのだろうか。行脚の事前準備として『土州名勝記』 を読み、訪問地の傾向、記録の手法など参考にしたのではないかと思われる。