止止路岐(上山郷轟村/校注土佐一覧記p367)
「そよふけに夢も結ばず嵐吹く 夕とどろきの里の旅寝は」
※その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていった。轟の里で今宵も一人、草枕(編集子勝手読)
※図書館本系統本では上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。
▽止止路岐(校注土佐一覧記p367)
大正町の西、愛媛県境の村で、江戸時代は上山郷下分と呼ばれており、寛保郷帳には戸数5・人数22・馬1と記録されている。
トドロ
トドロは川の水が落ち込む落差で大きい音がする、その水音に由来する地名。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなどの地名が各地にある。四万十町にも、トドロガ谷(寺野)、轟頭(野地)、コトドロ(家地川)、トドロ上(家地川)、轟川(見付)、轟﨑(東川角)、轟口(東川角)、西轟山(宮内)、轟ヶ市(窪川中津川)、轟(床鍋)、轟ヶ谷(与津地)、轟山(与津地)、轟(志和)、轟﨑(大正)、轟山(瀬里)、轟ノサコ(相去)、轟瀬ノ岡(浦越)、トドロホキ(昭和)がある。
昭和に轟集落があり、校注土佐一覧記ではここを比定地としているが、浦越にも「轟の上」という地名(地理院地形図)があり大正にも轟崎があり、その上流には通称「瀬里轟」という。浦越の瀬は「二艘の瀬」と呼ばれる四万十川中流域で一、二番を争う瀬で、カヤックをする者にとって「行くか、陸を曳くか」思案する場所でもある。瀬里轟も二艘の瀬と争う激流。川音の激しさは二艘の瀬ではあるが、三島神社が鎮座するこの地であり、昭和の轟を比定している校注土佐一覧記は正当といえる。
そよふけに夢も結ばず嵐吹く
夕とどろきの里の旅寝は
川村 与惣太
その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていってしまった。轟の里で今宵も一人、水音の語らいを友として草枕としよう (勝手読)
安芸の歌人、川村与惣太は上山郷の奥深い地まで訪ねている。土佐一覧記の写本の一つである図書館本(高知オーテピア図書館所蔵)の歌の掲載順は上山(四万十町大正)、矢立森(四万十町下津井)、長生(西土佐長生)、止止路岐、胡井志(四万十町小石)とあり、また広谷本では、長生、止止路、胡井志、上山、矢立森となっている。歌の流れから与惣太の足取りは、四万十川左岸となる長生から鷹の巣山を越えて井崎にいったん降り付き、井崎谷から大井川、野々川、戸口へと四万十川左岸をたどり、轟集落を訪ねたのだろう。
この轟集落には四万十川最大の川中島の三島があり、二つに分かれた川は急流となり波音を立てて下流側で合流する。「轟」とはこの川音に由来する。「三島」は沈下橋二つと抜水橋と鉄道橋梁で結ばれ、圃場整備された農地では稲作とナバナの栽培がおこなわれる。春、一面の菜の花で覆いつくされる景観はイッピンだ。
与惣太が歩いたのは明和・安永年間だから二百五十年前のことで、この地の郷社・三島神社を参詣し、川音のにぎやかさに足を止め旅寝となったのだろう。
この「轟」地名は全国に分布し、高知県下にも百八十か所の地名がある。同類の「ドウメキ(百笑)」も中村市街地の赤鉄橋たもとの百笑、高知市春野町弘岡の百笑集落など八か所ある。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなども水音からきた地形地名で、ヒトは大地から湧き出る水とこの世の叫びに畏敬の念を抱いたことだろう。大地の叫び「ドド」のオノマトペ(自然界の音や物事の状態などを音で象徴的に表した語)こそコトバの祖型であり、地名に刻まれた音韻とその分布から言語の変化(縄文語、日本祖語、アイヌ語、琉球語、日本各地の方言など)を推論することができるのではと考える。
また、「三島」は、たぶん尊称の御が三に交代したものではないか。秀麗な山・三嶺を徳島県側はミウネ、高知県側はサンレイと呼ぶのと同じだろう。島は他から隔離された所の意で、海の島だけでなく一定の管理用域を島と呼ぶのは、ヤクザ用語のシマ(縄張り)、江戸吉原の遊郭もシマと呼ばれる例がある。島地名は全国に見られ、海のない岐阜県の村でも路傍の石に「島内安全」と刻まれている。徳島では、吉野川下流域に広がる沖積土の田園をシマといい、七つあるシマの一つが徳島であり、県名になったという。ここの三島には郷社・三島神社が永正十年(1513)に勧請(明治の大洪水で遷宮)されているが、社名が地名となったのか、御島と呼ばれた地に同音の神社を勧請したかは不明である。
この三島神社が面白い。五来重著『四国遍路の寺』に「大三島のもとは、仁井田の五社だという伝承がいつからか伝わっていて(中略)もとは仁井田(旧窪川町)のほうにあって、それが転々と移って大三島にまつられたのではないか」と大三島(大山祇神社・今治市大三島町宮原)と五社(高岡神社・四万十町仕出原・宮内)の関係を述べられている。五社の創建は六世紀ごろ、伊予の豪族・物部姓越智玉澄(越智守興の子・河野一族の祖)が跡目争いから当地に逃れた時期の勧請で、仁井田神社と呼ばれていた。大三島神社の本地仏は大通智勝仏で、四国側の宿坊・南光坊(五十五番札所)の本尊も大通智勝仏。かたや岩本寺(三十七番札所)は五社の本地仏を本尊として不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来(大通智勝仏)・薬師如来・地蔵菩薩を併記している。大通智勝仏を本尊とする四国霊場はこの二寺だけである。越智玉澄は伊予に復帰し河野一族の祖となった。その後も窪川台地の開拓(窪川五人衆)や津野山開拓など河野家の子孫が土佐に流れ、その地を開拓するとともに多くの三島神社を勧請している。また五来重は「伊予の名族(河野)のいちばんの祖先が岩本寺の奥の院である所の五社にまつられて、しかもそのもとは陵(みささぎ)です。ここは伊予を支配した越智」氏の先祖の陵ということで非常に重んじられた」とも述べる。越智玉澄の父・越智守興は天智天皇二年(663)の白村江の戦いに出兵して大敗戦となった。この白村江の戦いは歴史の分水嶺で、東アジアにおける新秩序の到来となり、その後の五十年の政治変動と大移動は「日本」という新しい国家秩序の建設と創作、ヤマト王朝への歴史の一元化の始まりとなったといえる。この混乱の中で越智玉澄は河野玉澄に羽化していったのではないか。そんな歴史を思い巡らす。
四万十川は地質学的にも面白く、三十万年前の古四万十川は逆流(今のほうが平地から山間に逆流しているよう)し伊与木川から土佐湾に流れていたという。そんな四万十川の特徴的な景観の一つに穿入蛇行と蛇行切断による環流丘陵(大井川・戸口・大正・江師・西ノ川・下津井など)の形成がある。轟集落の隣の戸口集落がその一つ。それも含め、春にはこの地を歩いてもらいたいものだ。
(武内 文治)