此津貫之の日記に言ふ奈良師津なり。室津に並びたる浦なり
波枕浮津の沖に夢さめて
室戸の浦の明るをぞまつ
室津の西に位置し奈良師を含む。『後撰集』に奈良師を詠んだ歌がある。
捕鯨の浮津組の誕生で発展し、州郡志には浮津村(岩戸村)戸数13・浮津浦戸数200・船39とある。寛保郷帳は浦郷合計し戸数356・人数1,684と記載している。
(校注土佐一覧記p53)
このサイト右欄の
『平成の土佐一覧記』は
本年 5月中旬室戸市の
現地調査実施後に執筆予定
■統計(浮津村<浦・岩戸村を含む>→奈良師・岩戸)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 356 | 225 | ||
人数 | 1、684 | 1、060 | ||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
室戸市浮津
浮津城址
北村賢斎居㋹之。此城者西寺俗別当北村氏の子城なり
惟宗氏が出城として築いた浮津城である。惟宗氏が元親に降った後は、西寺の俗別当北村見斎に預けられたと伝えている。見斎の屋敷は元村の崎山下野にあった。
(校注土佐一覧記p54)
此社は元村にあり
仰ぐぞようき世にたちし宮柱
なほきを守る神のちかひを
岩戸神社という。近くの産土神で南路志は岩戸大明神と記載している。
(校注土佐一覧記p55)
すみどころ何もとむらん世の中を
すてし心は静なる身に
爰の地景は南に向ひはるかに浜松の木の間より海原を見すかし待る
浮津村の西北に位置し、州郡志に黒耳・新浦・脇之浜・西川・落地・岩戸・行道の人家計126とある。このうち黒耳村が65戸である。
(校注土佐一覧記p55)
※新浦は新村、脇之浜は脇地、落地(雄地)は上の内の行政区となっており、大字は元である。
■統計(元村→上の内・脇地・向江・西川・奥郷・崎山・行当・新村) ※黒耳は旧吉良川町分となる
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 106 | 467 | ||
人数 | 454 | 2,240 | ||
馬 | 20 | |||
牛 | 59 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
その名を隠して
姫小松うつし植なん末遠き
千年の春をちぎるためしに
州郡志には落地(上ノ内)戸数14とある。元川の東岸に位置し、岩戸明神社の西に当たる。西船戸の字があり、古くは船溜まりがあった。
(校注土佐一覧記p56)
朝日かげ匂ふ高根の白雲に
いずれを花とわきてもやみん
和岐雄地元村と言ふことを隠して
わきて見んをちの山もとむら村に
霧のひまもる秋のもみち葉
州郡志に脇之浜戸数28とあり、雄地とは元川をはさんで対していて西寺の東麓に当たる。
(校注土佐一覧記p56)
元村の海辺を言ふ
今よりはかきも集めんもしほ草
硯石取る土佐の海辺に
今は硯ケ浦と言う。空海が入唐求法の後帰国し、行当崎硯ケ浦に舟を着けて西寺に登り、金剛頂寺を創建している。その時石を取って石と石を磨き合わせて硯を作り日記を書いたのが初めで、以来天下の名硯と呼ばれ、南路志には大阪の硯屋で土佐黒石または衣滴石と呼ぶとある。名のとおり無双の硯を産出したので硯ケ浦となり、毎年三月三日に採石していた。
(校注土佐一覧記p56)
此山には金剛頂寺と言ふ伽藍あり。今竜頭山光明院西寺と言ふ。山城国醍醐山金剛主院之法流なりとぞ。開基者弘法大師大同元丙成年帰朝之時麓行道崎硯浦に着船、則此山に攀登り草創と言ふこと伝記に見えたり。又嵯峨淳和両帝之勅願所代々宝作延長を祈り奉り、庄田三千五百斛を給り夫役国役雑事等免ぜしめらる綸旨院宣国宣等今に明白なり
長き世のやみをぞ照す三角山
深きちかひの法のともし火
崎山台地の標高280メートルの台地上にあり、竜頭山光明院金剛頂寺がある。この寺は四国八十八か所二十六番札所で、大同2年(807)空海が草創の寺である。室戸岬にある最御崎寺を東寺というのに対し、西寺と呼んでいる。
(校注土佐一覧記p58)
此池中に弁才天を祀る
むすびては積れる罪も消てまし
濁らぬ法の蓮の池水
本堂の下にある池で、弘法大師の手形入り弁財(才)天灰仏を祀っている。南路志によると、8間四方の池の中の島に長さ3問、幅2尺の橋を架けていたことがわかる。また池の中には蛙がたくさん棲んでいたが、空海が修行の邪魔になるため、加持力で「鳴かずの蛙」にしたと伝えている。
(校注土佐一覧記p60)
此池は蓮池の上にあり
はづかしな昔にかはる姿見の
池の鏡にうつるとし波
蓮池の上にあり、空海が池の水に自分の姿を写して自作の像を作り、大師堂に安置したと言い伝える。
(校注土佐一覧記p60)
此池は姿見池の上にあり。三角山の三池と言ふは蓮池姿見の池あか池の三つなり。春の日此寺に詣て浄侶聞聞㋹鶯と言ふことを題して
あか結ぶつてにこそきけ朝まだき
古巣ながらの谷の鶯
この池は悶伽井ともいうが、空海が加持力をもって独鈷杵で掘ったといい、湧出する清水は炎天でも氷のように冷たく涸れることがない。正月の若水に重用されている。
(校注土佐一覧記p61)
室戸市
「西寺者往古」の記述は古城記にみえる。南路志によると往古院主のほか俗別当を置いており、崎山の下野に屋敷があった。
慶長のころ、駿河守は間夢斎と改名し、同9年甲辰(1604)9月7日に没している。州郡志では浮津浦に北村見斎の記述があり、初めは僧であったが還俗し、奈良師の土居に居住とある。
この土居は、天正の地検帳にナラシ東浜田一反中ヤシキ・土居屋敷とみえ、浜田のホノギがあり、現在の室戸の忠霊塔の西付近である。
(校注土佐一覧記p62)
此滝は三角山三池の余流にてはす池の下にあり
結べなほ蓮の池水ながれ行く
末も二見の滝の白糸
閥伽池・姿見池・蓮池の水を集めた滝で、山内にある。
(校注土佐一覧記p66)
金剛頂寺に言ふ奥院とて一里あまりの山路をのぼる。頂に大なる池あり。其池中に島あり。善女竜王を祀る。里人あがめ仰ぎぬ。早すれば此神に祈りて雨を願ふに速にしるしあり。池の汀は菅のみ生しげりて物すごし。島へ土橋をかけて行かふ。雨ふり水たたへし時は神垣の中半しづみて橋もとだえ侍る。
五月雨に水もますげの末こえて
さざ波よする池の神垣
元村の北方6キロ、標高537。8メートルの山頂近くに池がある。池の中の島に池山神社を祀り、西寺の奥の院と伝えている。祭神は山王権現・弘法大師・善女竜王を合祀している。
(校注土佐一覧記p66)
西寺山の尾崎硯が浦のうちなり
ふみならぬ法やかくらん仏崎
すずりが浦の蜜のすさみに
「硯が浦の内なり」とある。尾崎は山から下がって来た突端の地をいい、今の行当崎のことになる。この崎の先端には不動尊や船霊観音を安置した岩窟がある。
(校注土佐一覧記p67)
硯が浦の内なり
藻塩焼く煙の末もかき絶えぬ
硯が浦の五月雨のころ
州郡志にみえ、塩をとっていたことがうかがえる。硯ケ浦の国道沿いに塩屋の字が残っている。
(校注土佐一覧記p68)
黒耳の川なり
年波はいづれか高き思ふどち
あひ見かはさん水の鏡に
黒耳には現在その呼び名はない。一番大きな舞戸谷(もうどだに)であろう。
(校注土佐一覧記p68)
此社には隣里の人びと目を祈りて敬拝し侍るを
一筋になほきを守れ神垣
結ふしにめ縄の数はひくとも
州郡志には元村分に妙見としてみえ、南路志には妙見大権現とし「黒耳村妙見山に有り眼疾に霊験があり」と記載している。今は星神社とよび崇敬されている。
(校注土佐一覧記p68)
五月闇くろみの洋の郭公
おぼつか波にをち帰り鳴く
吉良川町傍士から新村にかけての海である。黒耳は州郡志では元村に入り戸数65とある。
(校注土佐一覧記p68)
※山本氏は寛保郷帳の黒耳として、戸数78・人数376・馬2・牛22と引用している。
■統計(黒耳)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 78 | 70 | ||
人数 | 376 | 375 | ||
馬 |
2 |
|||
牛 | 22 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
春の日此浦に出て漁の業を見て
あびきする蜑の行き来に騒がれて
波のかもめの跡も定めず
吉良川は郷と浦とに分かれており、州郡志にも吉良川村と吉良川浦とあり、戸数は西谷40・東谷30とあるのみである。
(校注土佐一覧記p69)
■統計(吉良川浦<郷を含む>→吉良川町)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 396 | 1、161 | ||
人数 | 1、609 | 5、016 | ||
馬 | 41 | |||
牛 | 196 | |||
猟銃 | 27 | |||
船 | 24 | |||
塩浜 |
1 |
安岡弾正居㋹之
土豪安岡氏代々の居城であった。長宗我部元親の東郡進攻を羽根中山越えに要撃したが、戦い利なく安岡弾正重義(十六代)は元親に降った。
東の川の河口東南に当たる傍士山中腹にあったと伝えており、北村にも古城の字が残っている。
(校注土佐一覧記p70)
此山吉良川にあり
木下の露いかならん狩人の
笠着の山はさして行くとも
現在は笠木山と称し、標高597.9メートル。北は釣坂を限り、西の川と東の川の中間に位置する独立山で、名のとおり笠を着たような美しい山容を誇る名峰である。
(校注土佐一覧記p70)
古歌
まことにて名に聞くととろ羽根ならば
飛ぶがごとくに都へもがな
此歌貫之の日記にき言ふ息女典侍の歌なりとぞ
タすずみ立出てみれば白波に
かもめ飛びかふ羽根の浦風
吉良川村の北西に位置し羽根川沿いに聞けており、土佐日記の承平5年(935)1月12日の条に「まことにて」の歌を詠んでおり、羽根岬には歌碑が建てられている。
中世末には、羽根村と羽根浦に分かれ、郷、浦とも言っていた。羽根浦は天和の頃は奥地の豊富な森林資源を用材・薪として積み出して栄えた。
船場は名のとおり船着場であり造船場であった。口碑には、津呂・室津に船が着けなくても船場には船を着けれたという。
(校注土佐一覧記p71)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | ||||
人数 | ||||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
塩浜 |
本城一円但馬守居ν之。本村在。
子城一円民部少輔但馬守弟也。
尾僧在
天正の地検帳には二つの城がみえるが、尾僧城は元親東征後取り壊されたものか記載はない。州郡志には塁跡三処とある。
本城は西ノ浜愛宕山(60メートル)に、子城は尾僧城を指し岡山(20メートル)にあった。また船場の愛宕山(50メートル)付近に「古城の北」の字を地検帳には記
載しである。
(校注土佐一覧記p73)