与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。
掲載する内容は
①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)
②旅人の記録
③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)
④所在地
⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)
⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
⑧編集人のつぶやき
※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。
20160701初
20180418胡
■土佐の東の玄関口、光輝く自然の宝庫
ここ東洋町は土佐最東端の町。徳島県と接し、京阪神と高知を結ぶ土佐の東の玄関口。 室戸阿南海岸国定公園のちょうど真中に位置し、輝く海に面した東西10km、清流野根川沿いの南北14km の自然豊かな町です。
白砂青松の美しい砂浜が広がる白浜海岸は四国屈指の遠浅のビーチで四季を通じ、訪れる人々の心を穏やかにしてくれます。夏は海の家(露店)も設けられ、海水浴が存分に楽しめます。全国屈指のサーフポイントとして年間9万人もの若者たちで 賑わう生見海岸はあまりにも有名です。美しい海を育てる清流野根川では鮎をはじめとする生物が元気に泳ぎまわり、総延長35㎞の緑豊かな参勤交代の道、野根山街道は歴史ロマンを感じさせてくれます。まさに海あり、山あり、 川ありの自然の楽園で日本の四季を肌で感じられる東洋のまちです。
温かな潮風が育むポンカンや小夏、豊かな黒潮の流れがもたらしてくれる豊富な魚介類など、恵みの幸も ふんだんです。
自然や人、そしてたくさんの美味しい食べ物との出会いを、のんびりゆっくり楽しんでください。
■GUIDE
●人口/2,960人
●世帯数/1,594世帯(平成25年1月末現在)
●面積/74.10k㎡
●特産品/ポンカン、小夏、ポンカン加工品、塩干物など
■交通案内
●車/高知市から国道55号で110km。高速道路南国ICから国道55線で108km。徳島市から国道55号で92km。
●バス/土佐くろしお鉄道(ごめん・なはり線)終点奈半利駅より東部交通バスにて約1時間20分。
●高速バス/大阪なんばから東洋町役場(生見本庁)まで4時間55分。
●列車/徳島駅からJR牟岐線で約2時間、海部駅から阿佐東線に乗換え10分、甲浦駅下車。
■文化・観光地
●生見海岸のサーフィン
●白浜海水浴場・白浜キャンプ場
●海の駅 東洋町
●流鏑馬(野根八幡宮)
●ポンカン
●一家相伝の土佐啓作商会のマグロ釣針
●こけら寿司
●名物 野根まんじゅう
■東洋町章の由来
一、外輪は野根と甲浦を表現し
一、白の内輪は町と民の和を
一、縦の三角は二つの輪を結びつける楔《くさび》であり、末広がりの発展を表すもの
「野根《ノネ》」と「甲浦《カンノウラ。コウウラじゃないんです!》」は東洋町内の地区名。東洋町は昭和34年7月1日『新市町村建設促進法』に基づき旧野根町と旧甲浦町が合併し生まれました。旧両町とも“鯨が泳ぐ太平洋”を東に望んでいることから東洋町と名付けられたのです。
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼かんの浦
是より土佐領入口に番所有
▼白はま町
明神の社ゆきて川。標石かんのうら坂。いくみ坂ともいふ
▼生見村
▼相間
此おきの岩に法然上人の筆みだのみやうごうありて、汐干見ゆるといひつたふ。此間に坂有
▼のねうら
入口宮立有
▼ふしごえ番所
こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也
※次は室戸の入木村
1808年(文化5年4月19日~21日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▽甲浦峠
▼甲ノ浦
▼東股(東股番所)
▼西股
▼葛島
▼赤葉島
▼唐人岬 (唐人ヶ鼻)
▼白浜浦
▼河内村
▼生見村
▼船蔵ノ岬(松ヶ鼻?)
▼相間
▼野根浦
▽大谷の浜
▽飛石
▽跳石
▽ころころ石
1808年(文化5年4月20日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼淀の磯
▼ごろごろ石
▼のね村
▼穴石
▼伏越
▼生見
▼川内村
▼白浜
▼御殿山
▼桜津
▼赤葉島
▼楠島(葛島)
▼二子島
▼灯明堂
▼逢間の浜
▼甲の湊
▼甲のうら
▼かんのみなと
▼かぶとの浦
▼大谷
▼中村
▼小池
▼東股
▼相間
▼のぶの端
▼伏越
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼甲の浦
▼白濱町
▼すきて川
▼いくみ坂
▼いく見村
▼あいま坂
▼野根浦
▼大師堂
▼藤越御番所
▼ふしこえ坂
▼飛石
▼はね石
▼ごろごろ石
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼東洋町
▼甲浦
▼生見
▼大斗
▼左出ヶ坂
▼野根
▼伏越
▼ゴロゴロ石
町名の由来につい、て高知新聞連載の「土佐地名往来(507)」は「昭和県行政体験誌」をもとに紹介している。候補名は「甲の町」、「桜津町」、「港町」、「美浜町」、「三浜町」、「東灘町」と論議が延々14時間に及び時計が午前3時を回ったとき、いっそ「東洋町」にしようと一決したそうである。”地名往来”の片岡記者はコラムの末尾に「町名は決着したものの役場をどこに置くかは決まらず、その後26年間も甲浦と野根を行き来した」と結んでいる。
33.547171,134.300759
吹わたる風ものどけし白波の
花も霞める桜津の浦
古くから加布土乃宇良と言われ、甲布之字良、甲浦となり、港の後ろの甲山の名をとって甲浦と呼ばれた。一説には甲貝がとれたためともいう。
また浅間庄とか桜津の異称もある。桜津は仲哀天皇が諸国を巡幸してここに船泊まりしその時桜が満開であったためという。
土佐の最東端に位置し、江戸・大阪・京都・紀州へ最短距離にあり、波静かな天然の良港として歴史的にも有名である。
(校注土佐一覧記p26)
.547171,134.300759
■天然の良港
かぶとが浦は古くからの名称であるが、これには二説あると「甲浦物語p6」に書かれてある。一つは、熊野神社の森が沖から見ると「かぶと」に似ているというのと、他の一つは此の港の海底は手繰り網で曳くと、甲貝(かぶとがい)という特別の貝が昔は採れた。その形が「かぶと」によく似ているからである。」と説明し著者の寿美金三郎氏は貝説を採っている。
「カンノウラ」の現在の呼び名は、熊野神社が飛来したということから「神の浦」が「甲の浦(こうのうら)」となり、甲浦(かんのうら)」に転訛したものという。
徳島県境から国道を甲浦方面に入り、東股から甲浦大橋を渡ると右には旧湊の京口と土佐口がVサインをしているように見える天然の良港。左下には唐人ヶ鼻、葛島と徳島県の二子島、竹ヶ島に囲われた外洋港がみえる。
以前は大阪南港にむけたフェリーが運航されていたが、明石海峡大橋の開通(1998)と甲浦湾内でのフェリー座礁事故(1999)のダブルパンチで航路中止(2001)となった。
■高知のものさしでは陸の孤島 往時は玄関口
経済活動、文化活動は人とモノの往来で決まるといってよい。高知県から見れば車社会の今は陸の孤島のような東の端ではあるが、徳島市までは2時間。高知市までよりはるかに近い。高知県側が早く野根山高規格道路を整備実現させないと徳島県側が整備して徳島県に編入されるのでは。
海運の頃は土佐の玄関口。土佐の林産材の通商も盛んであったことだろう。甲は10段階評価で1番。せっかくの天然の良港である。うまく生かしたいものだ。
■江藤新平の悲劇の碑
佐賀の乱のあと新平は土佐に来て林有造、片岡健吉と面談。上京を決意し、奈半利川から北川を経て阿波の木頭村に越すべきところ夜道のため野根山から甲浦に迷い込んだもの。
征韓論の真意は別として、この顛末は「甲浦物語」にも詳しい。
■統計(甲浦村→甲浦・白浜)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 238 | 716 | ||
人数 | 944 | 2、865 | ||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | 4 | |||
網 |
東洋町甲浦
33.547171,134.300759
何をかはけふは手向んわがおもふ
心のぬさを神はみそなへ
古城山にあった甲浦城で、城主は惟宗出羽守とも山崎出雲とも伝えており、野根郷の惟宗氏の支配下であった。
(校注土佐一覧記p28)
■甲浦古地図
この古地図は上が南で、中央に「熊野神社」とあり、その右側に「土居跡」とある。
元禄7年(1694)の「諸品差出」には「城址、一ヶ所、御殿山にあり。」と書かれている。右上部に「御殿」とある。南路志には「古城山。古城記に云」とあるが、所在は地元で聞き取りしなければはっきりしない。
①甲浦城(かんのうらじょう):甲浦字古城山
主郭、曲輪2、切岸がある
南麓の真乗寺から尾根上の墓地に登る石段が付いており、そこから入って行く。(熊野神社の後背・北麓)
②甲浦原城:河内字小池
甲浦内港西側の奥の山麓
③御殿山城:甲浦
古地図の上部「御殿跡」とあるところの裏山
■人は城、人は石垣、人は掘
武田信玄の名言「どれだけ城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができない。」というとおり、治めるとは民の暮らしのことだろう。
甲浦の海とともに生きる暮らしは町並みにも表れている。
甲浦の町並みに「店造り」という民家の構えがあるという。
甲浦を中心にして、となりの海部郡あたりまでひろがっている特殊な家づくり。通り側の部屋の板窓があり2枚の「上店(うわみせ)」と「下店(したみせ)」の板でつくられ、昼は上店を上に、下店を下ろし、その下店に腰かけて近所の休憩場所にしたという。夜は合せて戸のかわりとなる。「店づくり」とあるから品物を売る台かと思えばそうではないらしい。合理的な設えである。同じような仕組みは愛媛県の内子町にもあった。いいものは全国に広がるのだろう。
この日常的なコミュニケーション、開かれた空間こそ甲浦の人の好さを彷彿とさせることになる。
「此の店造りの原型を保存しているのは白浜地区の清水忠芳氏の宅だけ」と甲浦物語に書かれている。ただし50年前の記録であるので今はわからない。
33.547171,134.300759
何をかはけふは手向んわがおもふ
心のぬさを神はみそなへ
甲浦港背後の甲山に鎮座する熊野神社で、近世は三所権現と呼んでいた。南路志には三所権現と見え、参勤交代の発着港甲浦の鎮守であり、海上交通の祈願所でもあった。
(校注土佐一覧記p29)
33.547171,134.300759
■飛んできた熊野神社?
甲浦の港口にある双子島の一本松に光る金の鳥がとまっているので、手をさしのべると飛び移った。その金の鳥を御神体としてお祀りした。これが熊野神社で、紀州那智の熊野権現十二社のうち、その一社が飛来したものだと記録は伝えている。今の中央内港の突端、甲ヶ山に石垣を築いて勧請したという。熊野神社の棟札には元亀三年遷座(1572)とある。
この神仏飛来の伝説は、摂津、紀州との往来を物語るしるしである(甲浦物語)。
この神社には鳥居がない。伝説では、立派な鳥居も、立て直しても立て直しても翌朝は倒れているという。それ以来建てないことにしたという。境内には梵鐘もあり、石段の左側にある「熊野神社」の石碑がなければ、ここは寺院であると見間違うほどである。
東洋町甲浦
33.547171,134.300759
春は猶見るめありその浦波の
花も霞に匂ふ曙
有磯とは石の多い海岸の意味で、荒磯とも書く。富山県高岡市伏木から氷見市へかけての海岸を有磯の海と呼んでいるのと同じである。
(校注土佐一覧記p29)
■有磯 ありそでなさそ
「有磯」という地名。甲浦と白浜の字をみてもない。校注土佐一覧記の著者山本氏もどことも比定していない。
旅の道順で判断すれば「権現宮」と「白浜浦」との間の浦であるから、現在のフェリー岸壁の新港造成でなくなったのかも知れないが、ここは、唐人ヶ鼻、葛島、二子島、竹ヶ島に囲まれた天然の波静かな良港である。
各地にある有馬、有間の多くは立地条件の悪い狭小な河谷といったところという。有山、有磯、有田、有瀬、有海と接頭語のアリ地名は多い。接頭語の「有」は荒(アラ)という形容詞が変化したもの。またアラには「新」の意味もあり、「荒れた、人気のない」と「新しい、開拓したばかり」ということだろう(民俗地名語彙)。
富山湾に広く有磯の地名が分布しているが、外洋に面したまさに磯である。
有磯の位置は、青葉島、若しくは唐人ヶ鼻の南側の外洋に面した磯であろう。
33.542199,134.294086
浦の名は問はでもそれと白浜の
波の色なる雪の真砂路
甲浦の西南にある白砂青松の入り海に臨み、近世初期に明神忠左衛門が開発した浦で漁業が盛んであった。
(校注土佐一覧記p30)
33.547171,134.300759
■白砂青松
白砂青松は海岸の美しさを象徴させる言葉であるが、今では「ホワイトビーチホテル」に「パームヤシ」。遠浅の白浜海岸は関西圏からも多くの観光客が来るという。
白浜荘と赤松ではリゾートにはならないのか、どの観光地もパームヤシを植えている。ホワイトビーチホテルもシーズンオフは閑散としたものだった。
㈱東洋リ・ボルト社長騒動、海の駅落花生偽装事件など話題の多いホテルの受付にいたのは当事者である沢村保太郎さんだった。2007年(平成19)高レベル放射性廃棄物最終処分場の文献調査地として手を挙げた田嶋裕起町長に対し、出直し町長選挙がおこなわれ、反対派として当選したのが沢山保太郎氏である。町長を退いた後も、丸山長寿園無償譲渡裁判や野根漁協不正融資裁判などオンブズマン活動に携わっているようである。「裁判」は常識ではなく正当な手続きが問題となる。議会や理事会など平時はシャンシャンで進行する意思決定機関でも、なれあいは手続きがないがしろになり脇があまくなる。岡目でみればボロボロ。桑原クワバラ。内情はいろいろである。
■津波避難タワー
岡目のいいホテルと周囲の景観。ここにも、立派な津波避難タワーがある。避難タワーと云うより海の家といった方がいいかもしれない。南海トラフ大地震の津波予測で高知県は「34.4ショック」を受けた。黒潮町の最大予想津波高である。山に暮らすものにとって「津波が来るぞー」といわれて「高台(山側)と反対方向で津波が襲ってくる海側の避難タワーに逃げ込む気がするのか」と疑問に感じてしまう。ましてや、いったんそこに避難すれば退路を断たれることになる。
津波避難タワーは立派な広告塔になっていることも事実だ。避難をあきらめていた人にとって目標にもなるし、防災訓練をしようという意識啓発になることだろう。地域に大きな「安心」が生まれたと地元の人はいう。ただ、日常には利用されない施設でもある。今後は日常にも利用ができて高機能な施設へと進化することだろう。ただし、津波避難タワーも万能ではない。想定以上の津波が来た場合、相当の犠牲者を生む危険もあることはそれこそ想定内である。
フクシマにしても、熊本にしても、大惨事になる要因は、想定内であるのに想定外として組織の意思で操作しない、なにもしないことにある。そいった意味では一歩前進で、高知県内には115基の津波避難タワーが整備されることになった。
県内の津波避難タワー事情を地元の人に聞きながらレポートしていきたい。
■統計(白浜村新田→甲浦・白浜 ※甲浦へ記載)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 106 | |||
人数 | 414 | |||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
33.525959,134.282885
誰しめし籬に桃を植そへて
いくみちとせの花を待つらん
天正の地検帳に地高18町1反2代7歩がみえ、州郡志には戸数51とあり、寛保郷帳では戸数32・人数120・馬1・牛22が記載されている。
(校注土佐一覧記p30)
33.547171,134.300759
■ジプシー庁舎の歩みより
昭和34年(1959)に甲浦町と野根町が合併して東洋町が発足したものの町役場の位置で紛糾。「野根と甲浦を2年交代で4年後に決定」の合併協定もそのまま4半世紀のジプシー庁舎となった。
結局、落ち着いたのは双方歩み寄りの「真ん中」生見の地で、役場庁舎が立ったのが昭和60年(1985)のことである。
■生命溢れる海・生見
「生見」といえば、日本有数のサーフスポットである生見海岸。波のコンディションの良さに定評があり県内外特に京阪神からのサーファーで賑わう。年間30以上のサーフ大会が開催されるというサーフィンパラダイスは、これまでの景色が一変する若者の世界である。
国語学者の大野晋氏は「生(いく)」という言葉は古来、生命力の盛んなことをたたえる接頭語であったという。
生命力あふれる海。「生海」。 「イク」は①動詞イク(生)の連体形で「生々とした様子」、つまり「水気のある所」を示す②動詞ウク(浮)の連体形ウクの転で「しっかり固定しない様子」とある(地名用語語源辞典)。
みずみずしい波間を浮遊し、立波の斜面を滑走するサーフィンにはうってつけの地名である。
■統計(生見村→生見)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 32 | 55 | ||
人数 | 120 | 243 | ||
馬 |
1 |
|||
牛 | 22 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
33.515118,134.279065
吹風に千種の花の乱れあひ
まなくも散るか野路の夕露
甲浦と野根の境にあり、州郡志には戸数七が記載されているが、古くは地勢的にあまり耕作には適していなかった。
(校注土佐一覧記p30)
33.547171,134.300759
■甲浦と野根の境
生見から野根方面へ国道55号線を南下すると、小高い丘になり、そこから旧道を上ると東洋町メガソーラー発電所(JAIC/約230万kWh)が建設されている。この峠を越して下ると野根分の「相間(あいま)」となる。
昭和の合併で紛糾したこの町に「相間」という地名のあるのも縁である。
33.502916,134.269023
野根山越えの東口に当たり、古くは宿場町として栄えた。藩政期の野根山越えの参勤交代は享保3年(1718)まで続いている。近世に入って、薪と用材の積み出しで廻船を多く保有したが、盛衰を繰り返している。
(校注土佐一覧記p30)
※上の写真の左側に川村貞治の奉納石がみえる。甌穴があることから海岸から引き揚げたのだろう。川村貞治は、川村与惣太のおいの子にあたる者で野根郷大庄屋である。野根八幡宮でのおもわぬ出合いに、編集子は「考現学 平成の土佐一覧記」を記録することを誓ったことでした。
■野と根
「野と根の合意でなる地形語」と徳弘勝氏は述べる(土佐の地名)。
「ネ」は、「嶺」で山頂の意、「根」で麓の意。その間が尾根となる。野根山から押野に続く山の連なり、その麓に開けた土地が野根となる。
高知に「ネキ」という傍・側を表す方言がある。漢字の根際(ねきわ)の省略形であろう。高知県方言辞典にはこのネキについて「峰に対して山の鞍部」とある。
野と原の相違を民俗地名語彙辞典は「野という語は山、野、河、村落を含めたある自然地域を指す。(中略)ハラはおそらくヒロ、ヒラという地形的要素というより、ハル(開墾)、ハレ(晴れ)という語に関係が深い」とある。
野根山街道の東口であるとともに、奥深い野根川流域から流材された杉、ヒノキや薪の積み出しで賑わったことだろう。
ここには野根八幡宮がある。
祭りの呼び物である「流鏑馬」は、鎌倉時代から続く伝統行事。馬上から矢を射る姿は勇壮そのものです。
大祭は土曜日の宵宮(よみや)と日曜日の大祭(本祭)となっており、10月第一日曜日におこなわれるとのこと。大祭は早朝の宮巡り、社理子、御輿渡し、市の舞、三番叟がおこなわれたという。ただし、「市の舞」は現在ではおこなわれていないとのこと。「市の舞」は佐喜浜八幡宮でも行われていたという巫女の神歌と舞。 →詳しくは当サイト「地名のお話」
安芸にはもう一つ「羽根」という根の付く地名がある。
■統計(野根村→野根 ) ※池・相間の世帯数264?
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 368 | 455 | ||
人数 | 1、581 | 2、593 | ||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
惟宗右衛門助国長居ν之。室津別府盛忠之裔也
草枕夢も結ばず虫の音の
うら悲しくもすだく秋の夜
名にしおふ月の光に見渡せば
波にも花のさくら津の浦
行船の数さへ見えて大島の
沖の浪路に澄める月かげ
古城山に築城されていた野根城跡をいう。城主は惟宗氏で、安芸郡の有力土豪であった。元親軍の攻撃に遭い阿波へ逃れていく。
(校注土佐一覧記p32)
※山本武雄氏は、古城の所在を野根池とあるが、他の文献では所在は中村土居(野根小学校附近)で、形態は居館説と山城説があると書かれている。
■野根川
野根川は徳島県境の貧田丸(標高1018m/馬路村▲徳島県海陽町)の南東斜面を源流域とす河川延長14,250mの二級河川。
■「フシ」は柴の古語
この地は、野根川の河口で山からすぐに海となる、鼻」である。海岸沿いを避けて山越となったことだろう。番所もあった「伏越」。漢字で理解すれば、伏しながら息急き切って難所を越える様子である。
高知新聞連載の「土佐地名往来(31)」でも地名の由来を「伏して越えなければならない難所-ということだろう」と片岡氏は述べている。
ただ、旅の難所はまだまだ「ゴロゴロ」と次の集落の入木まで3里もつづく。「フシ」は別の意味ではないか。
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。
ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。
「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい。
伏越の鼻漁港の国道わきに左の歌碑がある。
書籍によると、万葉集1387番の和歌で、万葉仮名では「伏超従 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數為而」と書かれてある。平仮名に直すと「伏越ゆ 行かましものを まもらふに うち濡らさえぬ 波数まずして」となる。
この歌は、詠み人も「伏越」の所在も不詳で、富士山の「冨士越」説もあるが、ここであってほしいとの願いが歌碑となり千年後にはここに比定されるかもしれない。
33.453984,134.241257
吹おろす山風たえて川淀の
いそぐとすれどなづむ筏師
伏越から佐喜浜へかけての海岸は、山地が海岸に迫り、道路の下はすぐ海で、ゴロゴロした磯が続き淀ケ磯と呼んだ。北陸の親不知に比肩する交通の難所として古くから知られていた。
(校注土佐一覧記p37)
■断崖と荒海
伏越を過ぎると山が海岸に迫り、猫の額の狭小地にやっとのことで国道が設えられ、単調に南へと続く。遍路にとっても苦難の道である。
字名にも「ゴロゴロ」、「ゴウロウ」とあり、まさに地形の厳しさ、波打つ音を当てた地名である。丸い石を敷き詰めたゴロゴロの浜は「土佐の音100選」の一つである。ちなみに「残したい日本の音風景100選」には高知でただ一つ「室戸岬御厨人窟の波音」が選ばれている。弘法大師の悟りへ導く大地の響きである。
伊能測量隊旅中日記の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る。 中食 野根浦大谷の浜持出也。」とある。「ころころ石」を跳び渡りながら測量した難儀さがうかがえる。松浦武四郎も17歳で四国遍路を行い記録した「四国遍路道中雑記」にこのごろごろ石について「岸ニよするなミ大石の間打込、其引時小石をころころところばし行ゆえに名づくなり。実ニ海内無双の難所なるべし。」と書いてある。
■節(ヨ)という処(ド)
竹の節と節との間を「ヨ」という。「ド」は所を意味することから、野根と佐喜浜を隔てる難所から「淀野」と呼ばれるようになったのではないか。
難読地名
相間(あいま)、梶尾杉(かんじょーすぎ)、衣川(きぬかわ)、別役(べっちゃく)、真砂瀬(まなごせ)、松下ヶ鼻(まつがはな)