33.080557,133.103914
佐賀(佐賀村/校注土佐一覧記p306)
光富権之助居之
「忘れきや軒にふるまふ笹がにの いとかき絶てくるよしもなし」
▽佐賀
伊与喜川(伊与木川)の河口に開け、古くは鹿島ヶ浦と呼ばれ、沖合に鹿島がある。州郡志には戸数280余、うち浦分 130とある。
(山本武雄著『校注土佐一覧記』校注土佐一覧記p)
忘れきや軒にふるまふ笹がにの
いとかき絶てくるよしもなし
川村 与惣太
「笹がに」について山本武雄は『校注土佐一覧記』で「クモの古称である」と説明する。下の句の初語が「いと」であることからクモと理解すべきなのだろう。土佐方言では騒々しい子どものことを「ささがに」という。
軒の連なる賑わいのあった旧街筋も車社会により大通りへ、郊外商業施設へと移り、どこも今は子どもの遊び声すら聞こえない静かな佇まいだ。「忘れきや軒に」はそんな情景を想起する。
その佐賀の旧道筋の一角に『熊乃屋』がある。軒先には竹筒がいつも吊るされている。
『熊乃屋』旅館はその屋号が示すように上山郷の熊野神社(四万十町大正字ウログチ鎮座)の潮汲み祭事に立ち寄るところだ。熊野神社の清浄人は毎年、十一月十日に熊野浦で潮垢離して、新しい竹筒十四本に潮水を入れ海藻で栓をする。その一つを一宿の御礼として『熊乃屋』に設えるのである。
『佐賀町農民史』(一九八三年)に慶長二年(一五九七)と昭和五十七年(一九八二)の地図が掲載されているが地検帳によると仲野々村のカチワラというホノギに弘瀬源左衛門が住んでいたが、今の地図に合わせてみると熊乃屋がそこにあたるようだ。熊乃屋はその昔『錦屋』と称して庄屋や逓送の仕事をしていたと『佐賀町農民史』には記してある。以前、熊乃屋旅館を営んでいたのが山本友明さんで、その祖先が田辺湛増にお供して紀州熊野からきたという。昨年、竹筒交換の際に、丁度松山から帰省していた奥方と出会うことができた。「毎年秋の熊野さん大祭には田野々まで出向いたものだった」と懐かしく話していただいた。
上山郷の熊野神社と熊野浦の熊野神社、伊与木郷の熊野神社の三社はあたかも熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)のようで、それらの縁起や棟札からもうかがい知ることができる。この鎌倉時代から連綿と続く佐賀越えの潮汲み祭事の道は、伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“塩の道”であり“軍事の道”であり“信仰の道”でもある。また、上山郷の山中分(旧幡多郡山中村・現在の大用地域)の木材搬出が伊才原から山越えで交通の結節点である馬荷に送られ蛎瀬川を経由して田野浦から積み出されたという。尊良親王にまつわる小袖伝説と侍臣秦道文を祀る道文神社(四万十町打井川字京殿鎮座)の由来など、山と海の往来は今以上に盛んであったことだろう。
(連載「黒潮町編」おしまい。武内文治)