33.126896,133.155413
鈴(鈴浦/校注土佐一覧記p306)
「御祓する川瀬の波の涼しさは はや水かみに秋や立つらん」
▽鈴
鈴村と鈴浦に分かれており、鈴村、鈴浦ともで寛保郷帳には戸数55・人数257・馬15・猟銃3・船11が記載され、鈴浦は州郡志に戸数およそ40・船9とある。『西郡廻見日記』には戸数47・人数197・船8・網14が記録されている。
(山本武雄著『校注土佐一覧記』p306)
御祓する川瀬の波の涼しさは
はや水かみに秋や立つらん
川村 与惣太
詞書もなく、「鈴」と書いてこの歌を寄せている。
訪ねた鈴は小さな港をまん中にすえて小鈴と鈴川にそった狭隘な田畑が山を突くように設えてある。休校となった鈴小学校を地区みんなで育んだしるしの河川プールがある。
丁度、大敷から引き揚げた大漁に港はにぎわっていた。ひなびた漁村のイメージはなく若い漁師もたくさんおり、黒い顔が光り輝き、大きな声がひびきわたる。数十年前に訪ねたときは荷稲から山を越えた記憶だが、今は天空の「おさかな街道」。
この歌は、片坂から伊与木、佐賀と吟遊されるなかに含まれた一首で、中村街道から離れ、山を越えはるか遠い鈴をどうして訪ねたのか。歌一首ではその脈絡を知ることはできない。
この歌には潮の匂いはない。御祓(みそぎ)する川水は涼しいがこの奥山は秋をむかえているのだろうといった歌だろうか。鈴には天満宮(浜ヤシキ)が産土神で崇敬神として熊野神社(本モ谷)、厳島神社(上灘山)、恵美須神社(ウタノハエ)が『高知県神社明細帳』に載せられている。当時の天満宮の例祭は六月二十五日と九月二五日。新暦をあたれば八月上旬くらいなので、六月の天満宮例祭かもしれない。天満宮は小鈴から港につくとすぐ北側の山に鎮座する。津波避難場所に最適な位置となる。この歌の「涼しさ」を鈴にかけて詠みこんだのかもしれない。
鈴は、「鈴村」として長宗我部地検帳にもある中世以前の地名で、海蔵寺、小鈴、コミ、ハマサキなどのホノギと同じ小字が残る。漢字一字の村名は少なく幡多では藤、越、橘、轟、錦、樺、烏の七村しかない。右山の岡村憲治氏は『西南の地名』で「すすがすずに転訛したもので、端や隅の土地(例)能登半島珠洲」とあるが、珠洲の語源は能登の山野に茂る篠の植生地名、岬を意味する地名、珠洲岬の南に鎮座する須須神社の祭神御穂須須美命に由来するという説などあるが「須須美」説が一番しっくりくるが、勝手に思い浮かべてみる。
鈴は、「邪気を払う鳴り物」として、神社の社頭に吊るすもの、神楽・能楽の楽器としてつかうもの、四国遍路などの金剛杖に付けたり手に持って熊などの獣除けにするなどいろいろであるが、音により清浄な空間を醸し出すことに共通点がある。一方で、律令時代の駅制において馬に乗る身分証として「駅鈴(えきれい)」が用いられたという。鈴は鐸の字も当てられるが、駅の旧字も驛で「馬」と「睪」である。「睪」が次々とつらなる様を表すことから、乗り換えの馬を置く中継所が「駅(驛)」となる。ただ、この地に固有の「鈴」にまつわる伝承があるわけでもない。
やはり、地名は漢字でなく読み「スス・スズ」で読み解かなければならない。『民俗地名語彙辞典』の「スズ」には①稲わらを乾燥させるために積み重ねて作る「稲積」をいうとある。大正ではスズとは言わずグロ・イナグロという。稲積の形に見立てた山名は多いという。山だけでなく岩礁や小島にも付されるという。鈴の地元の人だけが使う雀バエ、ススジマなどがあるかもしれない。四万十町の鈴ヶ森もその形状による山名だろうか。そういえば熊野修験の御師「鈴木」はこの稲積のスズに由来する名で、熊野詣の代参や熊野護符を配る修験者が全国に散らばり現地に定着して鈴木の姓を広めたという。熊野浦は熊野神社漂着に由来する地名で、大正の熊野神社も同じ縁起をもっている。②清水の湧き出るところをいう。伊勢神宮の禊川は五十鈴川である。『高知県方言辞典』(浜田数義・土居重俊)にも「スズ 徳利(おもに”おみきすず”という)」とある。また、幡多ではわらぶきの家「ススブケ」というそうで、イナグロ・イシグロのグロだけでなく、スズも使っていた痕跡のようだ。スス・スズにはイネ科のススキの意味もあるようだ。
平凡社の『石川県の地名』を調べていたら、珠洲郡の段に「ススミ(須須見とも)は「日本書紀」天智天皇三年(六六四)是歳条などにみえる烽(狼煙)の古訓「ススミ」に関係するといわれ、あるいは海辺の狼煙をあげる所の神という。この神社や珠洲岬の北西方には日本海に面して狼煙のろしの地名が残っていることも有力な証左といえよう。」とある。当地には「火立場」もあることから「烽(ススミ)」からきた地名かもしれない。
歌一首の鈴だから、「鈴」一字に、想像をめぐらした地名逍遥となってしまった。
(武内文治)
33.106300,133.096576
伊与喜(伊与木郷/校注一覧記p305)
此所より過ぎこし方をかえりみて
伊与木弥平次居之
「さらでだにへだたる物を旅衣 たちこし方の山の夕霧」
「此所に旅寝し侍る時 草枕かりの宿りの芦すかき」
▽伊与喜
一般的には現佐賀町のうち佐賀地区を除いた地域で、州郡志には戸数280余とあり、享和元年の『西郡廻見日記』には戸数243・人数1,146・馬231・猟銃57が記載されている (校注土佐一覧記p305)。
▽古城
伊与木城はフルシロにあり、文明11年(1479)に築城され藤原信隆が京都から招かれ、城主となり伊与木氏を名乗っていた。一条氏没落後、元親の四国平定に武功をたて、また五代の弥平次は強弓でならし、豊後戸次川、文禄の役に出陣し痘瘡で病死している(校注土佐一覧記p305) 。
伊与木での詞書には「此所より過ぎこし方をかえりみて」として、二首詠んでいる。
さらでだにへだたる物を旅衣
たちこし方の山の夕霧
草枕かりの宿りの芦すかき
ふしにしくとも何か恨みん
川村 与惣太
素人の勝手読みでは、前の歌は「そうでなくても歳を重ね病葉のようになってしまった。この夕霧と同じように明日は消えてしまうのだ」。後の歌は「今日も草枕となった。芦を拝借して寝床としたが何も恨まれることはない。芦も私も時が来れば消えてしまうものなんだ」といったとこか。
与惣太の墓は室戸市元から二十六番札所への山のへんろ道に入るところにあるが、この歌のように草となり消えていく寸前であった。
この歳になると「こし方」といった言葉が気になってしまう。たぶんに与惣太もそうであったことだろう。東寺(金剛頂寺)の別当職を五十二歳(一七七二)で辞し土佐一国の行脚をして、まとめた書物がこの『土佐一覧記』である。四国遍路が退職者の通過儀礼となっているが、与惣太も「隠居」という分岐点でこし方を見返り、趣味の詩歌を楽しむための旅となったのだろう。ただ、泊った場所や何を食したのかなど旅の詳しい内容は記録されておらず、旅の姿も歌の中から読み解くことしかできない。
この二首ともに「旅衣」と「草枕」と詠まれているが、「東海道五十三次」のイメージとは程遠く、土佐路はへんろ道筋であっても宿泊所は十分整備されていない時代である。僧籍の与惣太にとって頭陀袋と旅むしろを身に着けた旅姿であったことだろう。民俗学者の柳田国男は「タビという日本語は、或はタマワルと語源が一つで、人の給与をあてにして歩く点が、物乞いなどと一つであったのではないか。英語などのジャーニーは「その日暮らし」ということであり、トラベルはフランス語の労苦という字と本一つの言葉らしい。」と述べている。
「草枕」は草を結んで枕とする旅寝をあらわし、わびしい宿泊や仮の宿を暗示する。『土佐一覧記』には多くの「草枕」の歌が詠まれているが、伊与木でも野宿となった。
与惣太の記した「伊与木」は中世以前からの「伊与木郷」であるが、この地をぶらり歩けば地名の名づけが面白い。国道に架かる歩道橋には「JR伊与喜駅」「黒潮町伊与喜」の表示板がある。川は本流が「伊与木川」で小谷の「伊与喜川」がここで合流する。この「伊与木川」に架かる橋は「伊与喜橋」とあり、住む人は「伊与木」と複雑でどう読んでもイーヨキである。
私の所属する「奥四万十山の暮らし調査団」は二年にわたって上山郷(四万十町大正地域)と伊与木郷を結ぶ往還道について調査を行った。一次調査では楠瀬慶太が『佐賀越の民俗誌』で「佐賀越は伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“軍事の道”、“信仰の道”でもある」と述べ、「佐賀越の古道(峠道)を介して山村―農村―海村―都市がつながる“海山経済圏”とも言える経済流通圏が機能していたことが想定できる」と経済史的視点で交通網が整備されていない社会においての“峠道”の役割を検証した。二次調査では、私が『続・佐賀越の民俗誌』でその信仰の道として上山郷の郷社「熊野神社(鎮座地・四万十町大正字ウログチノ上ヱ)」の「潮汲みの祭事の道」について現地踏査した内容を報告している。(どちらもhp「四万十町地名辞典」で閲覧ができ、公立図書館には当報告書を納本している)。
伊与木郷の郷社「熊野神社(黒潮町熊井字法泉寺山鎮座)」の縁起と相関性が強く、熊野浦に向かう「潮汲みの祭事の道」もおそらく八百年の連綿とした祭事であったことだろう。
伊与木郷の熊野神社が鎮座す「熊井」について、片岡雅文は『土佐地名往来』で南路志や地元の伝承を紹介し「熊野の神の居ますところ」と呼ばれそれが転じて熊井となったと説明する。熊居は熊野別当湛増が居を構え熊野神社を勧請したと言いたいのだろうが名づけに無理がある。また、高知の民俗学者の桂井和雄は高知市の久万、春野町弘岡下の久万、中土佐町大野見の久万秋などを挙げ川沿いの平地の称としている。熊野のクマ(隈)は、奥まった所、辺鄙な所の意味の他、クマ(曲)の意味する河川の湾曲部分も考えられる。地形図で見れば一目瞭然、伊与木川が熊井で大きく屈曲していることがよくわかる。私は「神田」地名が各地にあるように「クマイ」は、中世神仏にお供えするための米を耕作する田「供米田(くまいでん)」ではないかと推論する。
伊与木郷の「イヨ」は全国に分布する。高知市から荒倉トンネルを抜け春野に入った集落が「伊予川」である。土佐清水市には「伊予駄場」もある。樹木が高いさま、そびえるさまを表す「イヨ」で一般的には深い谷に多い地名。深い谷を意味する地名に同類のイヤ(祖谷・伊谷・伊屋・弥谷)がある。ただ当地「伊与木」は海岸線からは近く深い谷のイメージはないので、国名伝播によるものかもしれない。
今回は地名逍遥で終わってしまって申し訳ない。
ともあれ、「前に進め」で一生懸命だった明治からの「近代」。多少の失敗も前に進むことで帳消しにしてきた流儀も、だんだんほころびがめだってきた。口でごまかす政治も実体のない経済もコロナワクチンの開発もできない科学も情けない。希望のない世界となったいま、「三歩進んで二歩さがる」では解決できない深刻な近代の末期症状だ。
(武内文治)
33.080557,133.103914
佐賀(佐賀村/校注土佐一覧記p306)
光富権之助居之
「忘れきや軒にふるまふ笹がにの いとかき絶てくるよしもなし」
▽佐賀
伊与喜川(伊与木川)の河口に開け、古くは鹿島ヶ浦と呼ばれ、沖合に鹿島がある。州郡志には戸数280余、うち浦分 130とある。 (校注土佐一覧記p)
33.021978,132.982163
畑野(不明/校注土佐一覧記p308)
古歌
「みぞれ降る板間吹く風寒き夜は 畑野に今宵我ひとり寝ん」
「菫咲く畑野の原の夕雲雀 なれもゆかりの草に臥すらし」
▽畑野(校注土佐一覧記p308)
現在、畑野の地名はない。御坊畑か。
万葉集の旗野
この古歌は万葉集(2338)『霰ふり いたく風吹き 寒き夜や 旗野に今夜(こよひ) わが独り寝む 』。勝手読みは「あられとともに強い風が吹いている今夜もひざっ小僧かかえて一人寝か」。旗野は奈良明日香村に波多神社がありここではないかという説がある。秦氏の関連地名はここ高知県の幡多郡とともに全国に分布する。
畑野庄
高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないか。「幡多荘」は建長2年(1250)、九条道家より四男の一条実経に伝領され、以後一条家領となったもの。幡多荘の領域は幡多郡のほぼ全域に加え高岡郡の仁井田庄も含まれていた。
与惣太がこの古歌を引用していることから、ここは「御坊畑」というより「幡多」「波多」と読みたい。
いつしかと入野の浜に今日は来て
うら珍しく拾う袖貝
朝日かげのどかに匂ふ花の香も
神の社は一入にして
川村 与惣太
土佐一覧記には原本がなく、地名や与惣太の歌、古歌も写本する者の嗜好によるものか幾分違ってくる。
この「入野」の二つの歌の前段に「畑野」をもうけ
菫さく畑野の原の夕雲雀
なれにゆかりの草に臥すらし
と詠っている。『校注土佐一覧記』の著者である山本武雄氏は「畑野」を「御坊畑」ではないかと仮定している。前回、大形319号では流謫の地となる有井川を遷ろう尊良親王をホトトギスに例えて紹介したが、高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時幡多全域を「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないかと推論する。
(武内文治)
33.023561,133.008428
入野(入野村/校注土佐一覧記p308)
古歌
「小男鹿の入野の薄初尾花 いつしか妹が手枕にせん」
人丸(ほか多数)
此入野に一宮尊良親王の旧跡あり(略)
「今も猶此里ばかり忍び音も 鳴かで有井の山郭公」
▽入野
古代の大方郷入野。土佐湾西岸の最大の砂浜で入野の松原として有名である。この松原は元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりといわれ、宝永4年(1707)の地震津波で大被害を受けたが、村の各戸が黒松6本あて毎年植えて復旧した。
入野は元弘の乱によって後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が流され、元弘3年帰京するまで大方に住まわれた(校注土佐一覧記p308)。
令和の『土佐一覧記』を歩く
入野とは
「入野」は入りこんでいる野、まわりを山などに囲まれて人目につかない野のこと。西日本に分布する地形地名。「入」のみの地名もあり「エリ」に転訛する場合もある。
入野の枕詞「小男鹿」
『さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ』万葉集(秋相聞2277/作者不詳)を勝手読みすると「入野のすすきの初尾花のような愛しい人よ、いつになったら腕を枕に共寝することができようか」。「小男鹿」は野を分け入る鹿のことで入野の枕詞。ここの入野は京都市西京区大原野の入野神社あたりか
「有井川」には尊良親王の配流中、忠節を尽くした南朝忠臣有井三郎左衛門豊高の墓(高知県史跡)がある。
黒潮町教育委員会の説明文によると『元弘2年(1332)3月下旬お船は遠流の地土佐畑の庄にお着きになり王無の浜で大平弾正らに迎えられ、初め「奥湊川大平の館」次に「佛が森中腹の行在所」へ、三度目の行在所として「有井庄米原の里」にお遷しした』とある。
いつしかと入野の浜に今日は来て
うら珍しく拾う袖貝
朝日かげのどかに匂ふ花の香も
神の社は一入にして
川村 与惣太
土佐一覧記には原本がなく、地名や与惣太の歌、古歌も写本する者の嗜好によるものか幾分違ってくる。
この「入野」の二つの歌の前段に「畑野」をもうけ
菫さく畑野の原の夕雲雀
なれにゆかりの草に臥すらし
と詠っている。『校注土佐一覧記』の著者である山本武雄氏は「畑野」を「御坊畑」ではないかと仮定している。前回、大形319号では流謫の地となる有井川を遷ろう尊良親王をホトトギスに例えて紹介したが、高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時幡多全域を「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないかと推論する。
与惣太は次の古歌を引用している。
小男鹿の入野の薄初尾花
いつしか妹が手枕にせん
写本では「人丸」としているが柿本人麻呂のことであろう。新古今和歌集に「さをしかのいる野のすすき初尾花 いつしかいもが手枕にせむ<柿本人麻呂>」とある。京都市西京区の西、大原野上羽町付近を古くは入野の里といわれススキの歌枕となっている。同じ入野地名であることから古歌を引いて観光案内することはよくあること。「入野」は全国に分布する地名で入山、入野といった山地や原野の奥の方を意味する場合が多い。この地の入野は「入野ねぎ沢一反」「幡多郡入野蜷川之内」「入野庄」「入野郷」といった古文書の記載から中世以前からの地名であることは読み取れるが由来などは分からない(ねぎ沢は旧役場の東側)。
川村与惣太が入野を旅したのは安永元年頃(1722-1774)である。その少し前、宝永年間(1704-1711)に編纂された土佐の地誌『土佐州郡志』にも尊良親王が姫に贈った小袖が入野に流れついたという「小袖貝伝説」が書かれていることから入野では一級の「名所図会」であるといえる。名所図会といえば、王無の浜、王迎といった尊良親王を物語る地名がある。与惣太も詞書に「玉なしの浜といふもあり」と書き
秋風のみぎわの芦を吹き敷きて
葉に置く露の玉なしの浜
と玉なしの浜で草枕をしているようすがうかがわれる。
土佐州郡志にも「大奈志濱」と記録されていることから、往古よりの地名ではある。伝承では尊良親王がすでに大平弾正の館に移ったあとであったことから「王無し浜」と里人が称えるようになったといわれる。
この浜の上の段丘に大迎団地があり「大ナシ谷」の小字がみえる。長宗我部地検帳にも同じホノギがあることから中世以前の地名であるが、ナシはならし(平)の転訛で大きな平坦地の意味をもつ地形地名ではないかと考える。近世の世相の安定が尊良親王物語を醸成させていったのではないか。ナシノキをアリノキとするなど「ナシ」を嫌い改称された地名は多いが、ここではあえてナシ(無)の意味を持たせている。いずれにしても、王無し浜、、待王坂、王森山、弾正の館、王野山(大野山)、国王サコ、大野宮跡、仏が森、米原、中尾山などの尊良の故地を訪ねる山歩きを復原すれば「令和の名所絵図」にもなると思うがどうだろう。
昨秋、四国を歩いて廻ったとき、あかつき館の西の四ツ辻に武田徳右衛門のへんろ道石を見つけた。遍路道しるべの作善行に生涯をささげた有名な行者の一人だが、道とともに遍路にとっての難題が宿である。当時は旅籠も未整備で善根宿にたよることができなければ野宿となる。土佐には東に佐喜浜入木の仏海庵、西に下ノ加江市野瀬の真稔庵がある。仏海上人も真稔も宿の大切さを重々承知していたことから自ら遍路宿を整備したものだろう。与惣太は安芸の西寺(金剛頂寺)の別当であった人。その出自ならどの寺も厚遇したであろうに、歌には「草枕」「草に伏す」「露の宿」「磯枕」など旅寝の歌が多く詠まれている。与惣太の旅のスタイルはこの二首によくあらわれている。
世はかりのためしを見せて御仏の
日毎にかはる宿りなるらん(日高村日下)
宿かれどいぬもやられぬ麻衣
うち山陰のあまの苫やに(須崎市土崎)
この世は仮の世。隠居の身として、もとの僧籍を利用することなく自律する「旅人の矜持」には感服するしだい。GoTo頼りの人にはさぞかし驚きだろう。私も中村高校時代、友の江戸アケミ(ロックグループじゃがたらリーダー)と歩き旅(放浪)をよくしたが、早咲のバス停や大方球場のベンチはいつもの「苫や」だった。時代は過ぎて、今回の四国歩きは民宿みやこ。夕食は居酒屋ぽこぺんで中高文芸部先輩の山〇幸〇氏にお接待していただいた(誌上で感謝)。
先の歌にある「神の社」が加茂神社。古地図をみると吹上川が神社の脇を流れているが、その境内に「嘉永七甲寅の歳(1854年12月24日)十一月四日(中略)申剋(午後4時)に至て忽大震動西蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海嘯也・・」と安政津浪の碑があった。天変地異や黒船来襲を期に「嘉永」は「安政」と改元されたことから安政の大地震となったもの。「34・4mショック」からもう十年近い。早く備えてみんなが笑って過ごせるまちづくりを進めた黒潮町。覚悟を感じる取り組みは高知で一番だとエールを送りたい。
(武内文治)
33.040876,133.071578
有井川(有井川村/校注土佐一覧記p313)
又有井川とて川あり
「古言は今に流れて有井川 音にこそたてね山郭公」
又浜辺に小袖貝とていろいろの文彩ありて見る人鐘愛にたえたり
「いつしかと入野の浜に今日は来て うら珍しく拾ふ袖貝」
此わたりの鶉には庭鳥のごとくなる冠りありて世の常のうづらにことなり、里人都鳥といふ
「聞て猶あと忍べとや都鳥 いまも有井の里に鳴らん」
又玉なしの浜といふもあり
「秋風のみぎわの芦を吹き敷きて 葉に置く露の玉なしの浜」
此郷中に尊良親王の御殿の跡とてそのかたわづかに残り侍る。
「訪ひみるも昔の跡はかすかにて それとばかりの谷の岩ばし」
▽有井川(校注土佐一覧記p313)
大方町伊田と上川口の間に流れる川で、有井川村は州郡志には戸数30とある。保元の乱では藤原師長の配所とも伝えられ、先に述べた尊良親王を迎えた有井庄司三郎左衛門豊高の墓がある。
また「小袖貝」の伝説があるが、俗名「ふじはまぐり」のことで、アサリに似た大型の二枚貝である。貝殻の模様に富士山、月、雲、松原を連想させるものがあり、尊良親王にまつわる哀話に結びついて伝説化された。
親王の船を待ち望んで有井庄司が立った上川口との境の坂を待王坂といい、親王にまつわる伝説が多い。
令和の『土佐一覧記』を歩く
郭公と尊良親王
この有井川の二つの歌は、次に書かれた「入野の袖貝」の歌の序詞としてくまれたものと思われる。このレトリックとなる「山郭公(やまほととぎす)」は、現在刊行されている『校注土佐一覧記(山本武雄著)』では山郭公であるが、別の写本では「山時鳥」となっている。平安初期の古文書から「ホトトギス」に「郭公」の字があてられており、近代に入ってからは「カッコウ」を「郭公」と表記するようになった。土佐一覧記に詠まれる動物は郭公が一番多く二十一首あるが、どうしてホトトギスが多く詠まれるのか。
カッコウはその姿をたまに見かけることができるが、ホトトギスは鳴き声のみである。姿を見せずに鳴くことからよけいに印象が強く、上代人以来多くの和歌に詠まれたものに違いない。
有井川の地を訪ねた与惣太は、自分の巣も定めないで身を隠し渡り歩くホトトギスに、流謫の地を遷ろう尊良親王(たかよし)の心象を重ねて詠んだものだろう。
一般的にホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」といわれるが大正では「ゴッチョウタベタカ」。遠野では「包丁欠けたか」、佐渡では「本尊欠けたか」と鳴くという。「死出の田長(しでのたおさ)」の伝えもある。姿が見えない渡り鳥は各地で多様な鳴き声の物語を托卵のように育んできた。
有井川の地内に宮地山がある。『南路志』では保元の乱で土佐に配流となった藤原師長の配所が宮地山だという。別の古文書には「宮地山 有井川村田丁に有」とあることから、先述の「死出の田長(ホトトギスの別名)」の田長が転訛して田丁になったものと考えてしまう。また、西谷集落の小谷に「テンシヨモリ谷・天上森谷」の小字があるがこれもテンチョウに読める。いずれにしても、地名は歴史を刻んだ隠し文字でもある。流れついた都人(ホトトギス)を揺籃(托卵)するように温かく迎えたのが有井川の人々であった。
名を伏した「玉なしの浜」も今は堂々と「王迎」
小袖貝の模様といい、鶉を都鳥と呼ぶことといい、玉無の浜といい、僅か数か月の親王の在所であったが里人は多くの物語を伝えていたことだろう。与惣太も大切に聴き取り記録している。
「玉なしの浜」と与惣太は記録しているが、王と書くのをはばかって玉としたものだろうか、それとも北条方の監視重圧から逃れるため名を伏して玉無(たまなし?)としたのだろうか。将棋では上位の者が王将、下位の者が玉将を使うが、ともに「ぎょく」と呼ぶ。土佐くろしお鉄道中村線の駅に「海の王迎え駅」がある。国土地理院地形図にも「王迎」「王無」とある。「王無」は「王待」の転訛か。今の世では隠すことなく王を迎えたところと宣言している。
王迎の団地の字名は「大ナシ谷(大梨子谷)」。ナシ(梨)は無を連想することから、無を有に変えて「アリノ木」とする地名が多い。ここは団地造成のおりに佳字としてもっと積極的に「王迎」と変更したものだろう。新しい地名ではあるが歴史を踏まえた命名ともいえる。
今も猶此里ばかり忍び音も
鳴かで有井の山郭公
古言は今にながれて有井川
音にこそたてね山郭公
川村 与惣太
安芸の歌人、川村与惣太が有井川を訪ね詠んだ『土佐一覧記』所収の二首である。西寺(金剛頂寺)の別当を辞して土佐一国の辺地紀行の旅にでたのが明和九年(一七七二)のこと。五十二歳の隠居の身として東の甲浦から宿毛の松尾坂まで歌で綴った旅日記であり江戸末期の風土記でもある。この『土佐一覧記』の原本はいまだ発見されておらず、多少の違いをみせる数冊の写本がある。黒潮町では、東から「鈴」、「伊与木」、「佐賀」、「有井川」、「入野」、「畑野(御坊畑か)」、「橘川(大方橘川)」の七地区、十三首が詠まれている。
この有井川の二つの歌は、次に書かれた「入野の袖貝」の歌の序詞としてくまれたものと思われる。このレトリックとなる「山郭公(やまほととぎす)」は、現在刊行されている『校注土佐一覧記(山本武雄著)』では山郭公であるが、別の写本では「山時鳥」となっている。平安初期の古文書から「ホトトギス」に「郭公」の字があてられており、近代に入ってからは「カッコウ」を「郭公」と表記するようになった。土佐一覧記に詠まれる動物は郭公が一番多く二十一首あるが、どうしてホトトギスが多く詠まれるのか。
カッコウはその姿をたまに見かけることができるが、ホトトギスは鳴き声のみである。姿を見せずに鳴くことからよけいに印象が強く、上代人以来多くの和歌に詠まれたものに違いない。
有井川の地を訪ねた与惣太は、自分の巣も定めないで身を隠し渡り歩くホトトギスに、流謫の地を遷ろう尊良親王(たかよし)の心象を重ねて詠んだものだろう。
一般的にホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」といわれるが大正では「ゴッチョウタベタカ」。遠野では「包丁欠けたか」、佐渡では「本尊欠けたか」と鳴くという。「死出の田長(しでのたおさ)」の伝えもある。姿が見えない渡り鳥は各地で多様な鳴き声の物語を托卵のように育んできた。
有井川の地内に宮地山がある。『南路志』では保元の乱で土佐に配流となった藤原師長の配所が宮地山だという。別の古文書には「宮地山 有井川村田丁に有」とあることから、先述の「死出の田長(ホトトギスの別名)」の田長が転訛して田丁になったものと考えてしまう。また、西谷集落の小谷に「テンシヨモリ谷・天上森谷」の小字があるがこれもテンチョウに読める。いずれにしても、地名は歴史を刻んだ隠し文字でもある。流れついた都人(ホトトギス)を揺籃(托卵)するように温かく迎えたのが有井川の人々であった。
(武内文治)
33.022815,133.014522
加茂神社(校注土佐一覧記p315)
此社は入野松原にあり。八幡と同宇に祀る。南は賀茂北は八幡なり。二十一座之一社也
「朝日かげのどかに匂ふ花の香も 神の社は一入りして」
▽加茂神社(校注土佐一覧記p315)
入野松原のあり『延喜式神名帳』にある幡多三座の一つで、本村の加茂神社と早咲にあった八幡宮を一つにして現社地に祀っている 入野松原のあり『延喜式神名帳』にある幡多三座の一つで、本村の加茂神社と早咲にあった八幡宮を一つにして現社地に祀っている。
所在地を「入野東浜」としている。入野松原は東浜と西浜に区分しており神社は東浜にある。神社明細帳の鎮座地は入野字東浜松原で、公称地名となる小字名は「加茂八幡」とある。
川村与惣太は賀茂神社の段で「此社入野松原にあり。八幡と堂宇に祀る。南は賀茂北は八幡なり。二十一座の一社也」と土佐国の式内社二十一社の一つとして詞書を記す。
朝日かげのどかに匂ふ花の香も
神の社は一入にして
川村 与惣太
東浜松原に鎮座する加茂神社の祭神は、明治に編纂された『高知県神社明細帳』によると別雷命(わきいかづちのかみ)。式内社・賀茂神社に比定される古社とあるが縁起沿革等未詳であり定かではない。祭神からよみとれば京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の系統となるが、『続日本紀巻廿五』天平宝字八年(七六四)十一月庚子の段には、高鴨神が大和の葛城山で大泊瀬天皇(雄略天皇)の怒りに触れて土佐に流罪とある。別の記録には初めに幡多郡の賀茂社、次いで土佐神社に移祀されたという。後に大和の葛城に戻され祀られたのが奈良県御所市鴨神に鎮座する高鴨神社で祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)となっている。土佐神社というより高知ではシナネさまで有名だが、ここも祭神は味鋤高彦根神である。
『高知県神社明細帳』には県下に賀茂・加茂・鴨を冠する神社(土佐神社を除く)が十六社あり多くの祭神は別雷命で味鋤高彦根神は一社もない。「幡多郡の賀茂社」を「入野・加茂神社」と比定するなら脈絡からみれば祭神は味鋤高彦根神であるはずなのに別雷命となっているのは不思議である。ただし『大方町史』には「祭神 加茂神社は味鉏高彦根命で、土佐一宮の土佐神社と同神である。」と書かれている。また、南国市植田に鎮座する式内社・殖田神社も土佐神社と同じく祭神は味鋤高彦根神であり社殿には「高賀茂大明神」とある。
宗教学者の山折哲雄は「カミは空間を遊幸し森や山のような幽暗な場所に鎮座する機能を持ち、ホトケはその華麗な肉身を現わして人々の眼前でまつられる」と目に見えないカミと目に見えるホトケを対比的に説明する。氏子にとって神社の御神体や祭神は根本的な意味はなく、山と里、祭壇と御輿、新宮と旅所といった「神幸」と「憑依」を厳粛な形式美で織りなす神秘性が信仰の基層となっているのではないかと思える。
33.047261,132.986948
橘川(橘川村/校注土佐一覧記p315)
「橘の名をなつかしみ郭公 川瀬の波におちかえりなく」
▽橘川(校注土佐一覧記p315)
御坊畑の北方で、入野郷の一村である。州郡志には戸数8とある。佐賀町にも市野瀬と拳ノ川の間に橘川という小村がある。
ふたつの「橘川」
「土佐一覧記」の広谷本系には黒潮町の掲載地名は「鈴」「佐賀」「伊予岐」の佐賀分だけの3地区のみ。図書館本系の地名は8地区で、掲載順は伊与木→鈴→佐賀→畑野→入野→有井川→加茂神社→橘川となっている。掲載順からみると橘川は大方のものと推定される。
平成の合併で黒潮町に橘川の大字が二つとなることから、大方橘川・佐賀橘川に大字名称を変更した。
橘の名をなつかしみ郭公
川瀬の波におちかえりなく
川村 与惣太
『万葉集』には百六十種以上の植物が歌われているが、なかでも萩が一番多く百四十二首、次に梅の百十九首となっている。「橘」の歌は六十九首(第五位)とそれなりに頑張っている。万葉当時の花見といえば春は梅、秋は萩で、桜の花見という表現はなかったとのことである。
与惣太は五百五十七首のうち橘を二首詠んでいる。うえの歌のように橘と郭公(ホトトギス)は万葉集でも同時性をもって詠まれている。土佐一覧記に所収する花木を読んだ歌で一番多いのが松二十八首、次に桜七首、竹六首、萩六首、藤五首とつづく。梅は意外に少なく橘と同じ二首である。時代とともに詠まれる花も変容していくということである。歌の意味は素養がなくよく理解できない。
与惣太は賀茂神社の次に「橘川」の段を設けている。橘川の所在について、山本武雄は『校注 土佐一覧記』に「御坊畑の北方で、入野郷の一村」と記し現在の黒潮町大方橘川を比定している。その根拠は写本の一つである図書館本(高知オーテピア図書館所蔵)にある「賀茂神社」、「橘川」、「蕨岡」と東から西にむけた地名のならびによるものと思われる。加茂神社から八丁山をまいて橘川に入り馬荷を越えて蕨岡に向かったと見える。
『土佐州郡志』の馬荷村の段には「比和之谷坂 入野浮津往還路橘川村界也」、「岩神上坂 中村往還蕨岡村界」、「黒尊坂 井才原村来往路」とあることから馬荷村を核とした交通の要衝であったことがうかがえ、橘川はその通過点であったのだろう。
目良裕昭は『地域資料叢書⑲四万十の地名を歩く』に「中世土佐北幡地域における木材搬出と流通の一断面」と題してしてこの往来路を使用した上山郷の山中分(旧幡多郡山中村)の木材搬出について地検帳の給地、『土佐国蠧簡集』560 号「堀内文書」により論考を進めている。
車社会の今となっては理解できないような奥山の往来ではあるが、与惣太もこの奥山を踏み入って蕨岡に向かったことだろう。
(武内文治)
難読地名
荷稲(かいな)、坂折(さこり)、蜷川(みながわ)、浮鞭(うきぶち)