まさに、令和の巡礼記
(帯書)
人々が使い続けてきた地名を通して、江戸時代と現代の時間と空間を結びつけ、コロナ禍の四国遍路の風景を記録する「考現学」の手法。松浦武四郎の書を道標に、スマホやカメラも使いながら「歩き・見・聞く」ことで記された本書はまさに「令和の巡礼記」と呼べる。
楠瀬慶太(高知工科大学客員研究員)
発行/リーブル出版(高知市神田2126-1)
装丁/本文426ページ、表紙特色1色刷り、カバー帯
カラーppf加工、見返しあり、別丁トビラあり
発行部数/300冊(おもな高知県下公立図書館に納本)
探検家・松浦武四郎の名を有名にしたのは「北海道の名付け親」である。
北海道に改称されて百五十年の節目。NHKドラマ「永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎(大石静作・松本潤主演)」が放映された。明治新政府の役人でもない武四郎が、未開の蝦夷地を六度にわたり踏査して見聞と野帳をもとにまとめた膨大な著書と地図。アイヌ語を習得しアイヌの人との交流の中でその土地の名前や暮らしや文化を日常の細部にわたって描写した本が『石狩日誌』など。地域ごとに絵師による図を入れ読みやすい工夫を加え刊行した。圧政に苦しむアイヌの実情を『近世蝦夷人物誌』で世間を喚起し、蝦夷地がどこにあるか子どもにもわかるよう『絵双六』を発刊するなど「伝える技術」も卓越している。
武四郎は、文化一五年(一八一八)二月六日、伊勢詣の街道筋である伊勢国一志郡須川村(現在の松坂市小野江町)で生まれた。江戸末期の当時、「お蔭参り」の伊勢詣には五百万人もの旅人が全国から訪れるといわれる。多くの旅人の姿やお国言葉を見聞きして育った武四郎は、遠い世界に夢馳せたことだろう。
そんな武四郎が初めて旅したのは十六歳。それも江戸への家出だった。親に連れ戻されるのだが、帰りは中仙道をとおり戸隠山も登山している。つぎの年、親の許しを得て一両の路銀を渡され旅に出たのが十七歳。遊歴のはじまりである。近畿・中部・関東・東北・四国・本州と駆け巡り富士山にも登頂している。四国の札所を巡ったのは十九歳のときだった。「一小冊を懐にして日々の順路、村名、里程をしるし」て四国遍路を通し打ちし、《歩く・見る・聞く・記録する・本にする》という旅のスタイルを確立するに至った。
武四郎の生き方に共感し、彼の初期の本『四国遍路道中雑誌』の地名を訪ねる旅を決意し、四国遍路の歩く旅をはじめたのが2020年10月1日。39日間の記録は、登山アプリ『YAMAP』の活動日記「四国遍路/松浦武四郎の軌跡を辿る」で毎日アップした<https://yamap.com/users/279155>。
その活動日記をもとに、明治の神仏分離令で変容した四国札所や幾多の町村合併で地名が変わり、明治の近代化が日本の暮らしを大きく変わった200年後の四国遍路を「考現」しようと試みて出版したもの。
こんな四国遍路の楽しみ方もあるのかと思っていただけたら幸いです。
Amazonでも購入できますが冊数が限られているので、PDFかオーテピア高知図書館、関係公共図書館に納本していますのでご利用ください。
出版にあたっては、高知新聞厚生文化事業団から助成をいただきました。また、松浦武四郎記念館(三重県松阪市)から扉等の写真の掲載を許諾していただきました。かさねて感謝申し上げます。
また、リーブル出版から許しを得て書籍のPDFの公開を許諾していただきました。「公開」は奥四万十山の暮らし調査団のミッションです。下記のPDFファイルをご利用ください。
序
髙山嘉明(高知県立坂本龍馬記念館学芸員)
松浦武四郎という人物を一面的に捉えることはできない。近世後期の蝦夷地事情に精通し、蝦夷地を改称するにあたって「北加伊道」の道名を提唱した〝北海道の名付け親〟としての一面がとりわけ有名であるが、それ以外にも、時に体制批判をも含むルポルタージュや紀行文を執筆し、それらの多くを上梓した記者・作家および出版人としての側面、また、古物の蒐集にいそしんだ当代有数の好古家としての側面も指摘される。そして、十代の頃から七十一歳で生涯を閉じるその直前まで、全国各地、いやその域外までもひたすらに歩き続けた〝旅の巨人〟としての側面を見過ごすことはできない。むしろ、多様な事績が指摘されるなかで、旅こそがそれらの根底にあったことは間違いない。武四郎の旅は、その時々で目的も立場も様々である。ある時は家出のため、ある時は志士としての使命感から、またある時は幕吏としての役目を負って。ただし、目的はともあれ、何より旅という動機がなければ、蝦夷地・北海道との接点も生まれなかったし、それを題材にした出版事業を手がけることもなかったし、全国の古物を得る機会に恵まれることもなかっただろう。まさに、松浦武四郎という〝巨人〟の中核をなすのが、旅だったのである。
〝旅の巨人〟松浦武四郎が四国遍路の旅に出たのは、天保七(一八三六)年、十九歳の時。彼の旅人生全体からみれば、かなり早い段階である。おそらく明確な目的のない、諸国放浪の旅の一環であったと思われる。この遍路旅の詳細は、数年後に武四郎自身が『四国遍路道中雑誌』(生前は未刊)としてまとめることで、後世の我々の知るところとなった。数年を経ての執筆を可能にしたのが、旅先で書き留めた精細な記録である。卓越した洞察力に加え、見聞した事柄を即座に文章や絵に表現する能力があったればこその業績である。十代の旅において早くも見られる、矢立(携帯用筆記具)と野帳(小型帳簿)を携えて道中の事象を鋭く洞察する武四郎の旅のスタイルは、後に蝦夷地探査において真価を発揮することになるルポルタージュ作家としての原点といえるだろう。
本書は、『四国遍路道中雑誌』からルポルタージュ作家松浦武四郎のメッセージを受け取った著者が、フォロワーとして同じ道を歩き、それに現代的解釈を加えた意欲作である。武四郎のルポルタージュを追った、時代を超えた第二のルポルタージュとでも言うべきか。武四郎の精神は、旅先であるここ四国でも受け継がれている。
歴史は現在を問えるか、歴史は未来を向けるか。この普遍的な問いに答えることは容易ではない。歴史を学ぶということは、ある種の追体験を伴う。武四郎の時代から、四国霊場はほとんど当時のままに残され、歴史に根付いた四国遍路の文化も遍路道とともに今に伝わり、そして人々の遍路旅への思いも形を変えつつ連綿と続いている。先人の軌跡を辿って旅することは、机上で歴史を学ぶにとどまらない、真の追体験である。これこそ、先人の営為を通じて、現在を問い、その先にある未来を見通すという、歴史が有する大きな可能性だろう。本書が、その試金石として、読まれ、評価され、受け継がれることを望む。
令和三年七月