20150630初
20170621胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の小野村と大井川村の簿冊に小野村地検帳として「小の内ホキ村」「イサキ村」「小野内井崎村」「鮎古村」「小野内鮎古村」「柳瀬村」などの脇書が見られる。検地では、小野一村分として地高がまとめられており、当時は小野村の枝村としての位置づけと思える。井崎村のほか小野村の枝村は細々村(河内)・窪川村(久保川)・大道村がある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「井崎村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡大野村、地吉村、烏村、川口村、戸川村、井崎村、広瀬村の7か村が合併し「十川村」が発足し、井崎村は大字となった。
昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内には、「保喜(ほき/保木)」「井崎谷(いさきだに)」「中組(なかぐみ)」「実弘(さねひろ/実広)」「相後(あいご)」「柳瀬(やなぎせ)」の6組がある。
【地誌】
旧十和村の南西部。北は十川、東は小野・河内・大井川、南は四万十市西土佐、西は広瀬に接する。西方に四万十市西土佐と接する飛地をもつ。南西部および南東に国有林が広がる。四万十川と山に囲まれ、南に舟頭山、東に足高山がある。およそ農業地帯で、日雇労務に出る者もいる。四万十川が北西を蛇行して流れ、東部山地から西流する井崎川と相後川が四万十川に注ぐ。集落はこの谷間と四万十川流域に開け、上流から保喜、井崎谷、中組、実弘、相後集落と飛地となる柳瀬集落がある。対岸の広瀬と結ぶ抜水橋がある。対岸の十和川口、広瀬地内の四万十川右岸を旧国道381号が通り、地内の町道は十川と隣の四万十市西土佐半家とを結ぶ。地内には井﨑集会所・保喜集会所・高知はた農協十川支所製茶工場がある。神社には河内神社・八坂神社があり、秋の大祭には花取踊りが奉納される。大正15年の鳥居建設の記念碑がある。相後の由類江家には棒術の達人由類江勝蔵の古文書がある。井﨑・十川・小野の3集落境の山に中世古城跡、城の森がある。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真下部、穿入蛇行の四万十川左岸が井﨑)
【地名の由来】
十和村教育委員会が発行した『ふる里の地名(p62)』に井崎の地名伝承として「井崎谷の谷口附近には岩、石、砂利等が突出たように集積し、川竹等が繁茂している部分があり四万十川の川幅(流水幅)が狭ばまっている。此の所を指して、石崎と云い石崎が井崎になったのではないか。又、徳弘勝氏の土佐の地名にはアオイ科の一年草、イチビを方言でイサキと云うとあるが、どちらが正しいか慶長地検帳には小野の内井崎村とあり、宝暦六年土山郷下分御山控娠には伊崎村とある。」と説明している。イチビをイサキという方言は高知県方言辞典にもない。同書には「いさき」は「あおぎり」とある。
民俗地名語彙辞典にも「イサ:①砂地のこと。砂礫層の地は伊佐町、伊佐沢という地名がある。山麓の森林を混えた扇状地にはイサという語を用いる」とある。
地形的には、井崎谷が曲流する四万十川に合流し、その扇状地が下流域左岸にふくらみ平坦地が形成(実弘集落)されていることから、石﨑が転訛して井﨑になったという説も考えられるが、ここでは「イ」に重みを置きたい。
〇〇崎と崎のつく地名は、海岸であればミザキ、内陸であれば丘や山のはしが平坦地で終る突端を指すことが多いが、何ら地形的には関係なく、単に「〇〇の前」「〇〇のそば」という意味にも使われる。前をサキと訓ませる例は多いと松永美吉氏は述べている。そうなればイは泉・用水・水路・井堰などとなる。本村の小野村は水利の乏しいところであり、此の地は、井崎谷と相後川に挟まれた水利の好い土地柄である。「井のそば」という当時の命名動機もうなずける。
【字】(あいうえお順)
赤ツエ、アキカイ、アミ一重、アンノ谷、石ガ子、石神越、イシカミノム子、一ノ又、一ノ又口、一中原、居納屋、イラガサコ、ウシオトシ、ウシノダバ、ウシヲトシ、馬道、ウワウチノ、ヱノキ谷、大平、柿ノ木ビラ、カケヂ、笠マツ、笠松口、カシワ谷、カタギ山、カミイシガミ、カミ上、上ミ田、上ダキ、カモヲダ、カンダ、桑ガサコ、クワサコ、ケジロ、源五郎渕、ケンニウ、コブケ谷、ゴミダ、コヤ、コヤノツ、コヲカギレ、ゴヲソ、ゴヲロ、サ子ヒロ、三ノ又、三ノ又口、シイダバ、椎ノ木谷、シウロク、シダヲ口、島川原、シマダ、清水、下居納屋、シモカワ、シモコミ、下ダキ、シユウコヲ谷、シユコヲ谷、シヨガシバ、書間場山、白王ノコヱ、スミトコ、ソリ田、高畑、タキタロ、タキノ上ヱ、タキノハナ、タナダ、谷ヤシキ、ダバ、タマヤ谷、ヅウヅ、ツヱノハタ、ツジドヲ、ツ子カ谷、坪尾山、ツル井ノヒタ、ドウザキ、トウノクボ、トヲノヒタ、ドヲメン、トン切、中居納屋、中ゴヤ、ナカダ、ナカヂ、二ノ又、二ノ又口、ニロヲ谷、ヌタクボグチ、ヌタノヲ、ノボリヲ、ハギノヒラ、ハチガモリ、ハナサキ、日表山、ヒキヂ、ヒタヤシキ、ヒメトコ、ヒラノ、平畠、ヒレシ谷、弘瀬ガマ、ブウジゴウ、フタゴ、フタマタ、フヂノ石、普當山、フルアン、フル田、マキケ谷、又クボグチ、松ゲサコ、松ノ岡、マツバノクリ、ミイダバ、南松ヲウ、宮田、宮地、宮ノ上、ミヤノクボ、宮ノ谷、宮ノ向イ、宮ノモト、ムクノキダバ、モモクボ、モリノヒタ、モヲダ、ヤゴ子、山下タ、ヤマヒタ、ヨム子ガサコ、ワダ、ワタセガ谷グチ、ワダヒラ、ワテ、ワラビウビラ、ワラヤ、ヲサキ、ヲスギ、ヲチ山、ヲトガ谷、ヲトナシ、ヲモヤバタ、ヲヲサコ、ヲヲツヱ、ヲヲバ井、ヲヲヒラ谷、ヲヲヤ、ヲンヂ、ヲンチダバ【152】
【ホノギ】ホキ村・井崎村・鮎古村・柳瀬村
(地検帳幡多郡上の1p235~246/検地:慶長2年3月8日)
〇土佐国幡多郡上山郷地検帳(幡多郡上の1p235~246/検地:慶長2年3月8日?)
▼小の村ホキ・ホキ村(p235~237)
山はな、川端、ホリ明
▼イサキ村・小野内井﨑村(p237~240)
コヤノツ、永返り、南地、シラワウノナロ、タハ、カモンチ、長タ、堂崎
▼小野内鮎古村
東地、南地、ニノマタ、石神ノウ子、かち田、タハ、ヤケヲ谷、ヲンチウ子、タウノモト、ヒナロノ下、西谷川西地、松尾、アキカイ
▼小野内柳瀬村
藤石下山界、ヲトカ谷、ヲチノ谷、東谷東地、シモタ、イチイ原、和田
〇土州幡多郡上山高山ハタ地検帳
■マタ■(アイコノ村)、■ヤシキ(アイコノ村)、ヲキ山(ホキ村)、大ヒラ(ホキ村)、北バナ(ホキ村)
【通称地名】
柳瀬(やなぎせ)
実弘(さねひろ)
相後(あいご)
中組(なかぐみ)
井崎谷(いさきだに)
※井﨑は「立つ﨑」で、井崎谷は「大きい崎」
保喜(ほき)
※「高知県地名辞典(RKC・高知新聞)」は「保木」とある。集会所の表札も「保木集会所」
【山名】
鷹の巣山
【河川・渓流】
大平谷川(ゼンリン社)
宮の川(ゼンリン社425-72-203)
笠谷川(防災マップ425-72-002)
鷹の巣川(ゼンリン社)
下ツサイ谷川(ゼンリン社)
相後川 (河川調書)
一の又川(ゼンリン社)
二の又川(ゼンリン社425-72-211)
大石谷川(ゼンリン社)
井崎川 (河川調書)
保喜谷川(防災マップ/渓流番号72-11)
【瀬・渕】
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
八坂神社/57やさかじんじゃ/鎮座地:一ノ又口 ※実弘集落
(旧:河内神社)/58かわうちじんじゃ/鎮座地:一ノ又口 ※実弘集落
(旧:琴平神社)/59ことひらじんじゃ/鎮座地:ナガタ ※井崎谷集落
(旧:神明宮)/60しんめいぐう/鎮座地:フルアン ※井崎谷集落
大元神社/61おおもとじんじゃ/鎮座地:三ノ又口 ※相後集落
山津見神社/62やまずみじんじゃ/鎮座地:三ノ又口 ※相後集落
天満宮/63てんまんぐう/鎮座地:宮地 ※保喜集落
日吉神社/65ひよしじんじゃ/鎮座地:宮ノモト ※柳瀬集落
1)井﨑に広瀬の飛地がなんであるのか
2)四万十川の四万十町域の最下流となる左岸の四万十市境がいびつになっているのはなぜか
3)「下」を「ヒタ」と発音するのはなぜか
ツル井ノヒタ,トヲノヒタ、ヒタヤシキ、モリノヒタ、ヤマヒタ
4)井﨑と井崎
地区の名称は「井﨑」、川の名称は「井崎川。立つ﨑の井﨑はいつできたのか?
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
(幡多郡上の1p235~246)
四万十川左岸を鍋谷からホキ(保喜)い入った検地は「小の村ホキ」、「小野内井﨑」、「小野内鮎古村」、「小野内柳瀬村」と進む。
井﨑分の検地には、寺中や神田の記述が一切見当らない。
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p336)
井﨑村の四至は、東限阿伊予西限柳瀬南限下川北限甫喜東西七十町南北三十町戸凡四十六其土赤
山は、甫喜山・志宇呂久山(皆禁採伐)
川は、阿伊子谷、井才谷(皆自東流北西入大川)
寺社は、清蔵庵、川内大明神とある。
■寛保郷帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高98.792石、戸数41戸、人口195人、男98人、女97人、馬7頭、牛1頭、猟銃18挺
■南路志(1813文化10年)
223井崎村 地九十八石七斗九升七合
河内大明神 イサキ谷 祭礼十一月四日
山王権現 柳カセ 同十一月十日
大本大明神 アイコ谷 同十一月三日
天満天神 ホキ 同十一月十五日
河内大明神
法蔵庵 退轉、本尊のミ残
本尊 不動
■ふる里の地名(1982昭和57年)
▽井﨑の地名の伝承など(p62)
井﨑:丹羽基二著「地名」にいさ(石、伊佐、伊讃、石原)などを当てる砂地のこととあり。吉田茂樹著「日本地名語源事典」の中に(伊佐、位佐、五十、率)「和名抄」長門国美弥郡位佐郷など全国的に見られる地名「イサゴ(砂子)」の意で砂地に用いる地名とある。井崎谷の谷口附近には岩、石、砂利等が突出たように集積し、川竹等が繁茂している部分があり四万十川の川幅(流水幅)が狭ばまっている。此の所を指して、石崎と云い石崎が井崎になったのではないか。又、徳弘勝氏の土佐の地名にはアオイ科の一年草、イチビを方言でイサキと云うとあるが、どちらが正しいか慶長地検帳には小野の内井崎村とあり、宝暦六年土山郷下分御山控娠には伊崎村とある。
【保喜】(四万十川左岸十川鍋谷境から下る)
コブゲ谷:昔、(年歴不詳)コブのある六部遍路が此の地に来て、行きたおれて死んだと云う。その場所が小野と保喜の境界附近であり、その死体の処置について小野と保喜の人々が立会の上、協議を行った。保喜の人々は死体が小野部落に深く入っていると云い(死体の処置をするのを嫌い)結局小野人々がその死体を埋葬したという事で、それ以来その死体のあった所が小野と保喜の境界線になったと云う事である。六部遍路のコブになぞらえて、「コブヶ谷」と云うようになったと云う。
エノキ谷:此の所に榎木の大木ありて、「エノキ谷」(榎谷)と呼ぶようになった。
マキケ谷:「マキガ谷」の地名のおこりは、谷が山上へ向って巻きあがったようになっていて、その谷の形状によって地名化したものと云はれる。「マキガ谷」の奥に平坦な地があり、昔、平家の落人が逃れきて、かくれ住んだと云う。此こにも平家にまつわる伝承あり。
平畠:平になった所、此の地区では当時としては、平たんな土地であった所。焼畑を作り、栗やキビ、ヒエなどを作っていたものであろう。平な畠と云う意味で「平畠」と云う。
トン切:切り石(割れ石)など、とがったような石が多い所で「トン切り」と名付いたと云はれる。岩山に多く見受けられる情況である。
高畑:慶長地検帳上山切り畑の項に、小野主善給・ホキ村、主作とある。その他いろいろの給地があって、高山畑が存在していた事が目見受けられる。昔は良く山の平らな所を切り開き、切り畑や焼畑を作ったものであり、高山畑が地名化し「高畑」となったものである。 ※同書では「高畠」とある。
ヲヲサコ:平な追を越え、大きく湾曲した山道を通る迫と云う事で、「ヲゝサコ」(大迫)と云う。
ドヲメン:ドウメン(堂免、道面)各地に散見され「日本国語」によると、正長2年(1429)にみえ、寺社の堂の経費を維持するために田租を免じられた田地のある所を「堂免」と云う。と「日本地名事典」にあるが、此の所にお堂があり田租を免ぜられていて、堂免「トウメン」となったものであろう。ちなみに此の所に祝神の堂免神社があると云う。
ナカヂ:保喜村(集落)の中程に位置する所。此の所は古来より開けた所。上田のある所で、その名がある。
宮ノ谷:保喜地区の氏神天満天神宮の鎮座地の近くにある谷で、「宮ノ谷」と云う。
宮地:保喜地区の氏神、天満天神宮の鎮座地で、此の附近を「宮地」と称す。
カミ上:集落の家々より少し上流の山近くの土地に、住居をかまえていた家を「カミ上」と呼んでいたと云う。その呼び名が地名化したものと云はれる。
ヲヲヒラ谷:広い平みになった所で、その地名より出でた地名である。
宮田:保喜地区の氏神、天満天神宮の神田があり、「宮田」と称するようになった。
柿ノ木ビラ:昔、此の所に柿の大木があり、柿ノ木のある所、それが「柿ノ木ビラ」と云うようになった。
モモ久ボ:此の所は非常に暖い日だまりの場所で、冬でも大へん暖く汗ばむ程の所と云う。昔から寒い日でも此処では、足のモモ迄出していても寒さを感じない位の所と云はれ、そのため「モモクボ」の名がついたと古老は話すが、一方桃の木があって桃窪「モモクボ」と云うようになったのかも知れない。
松ゲサコ:此の所は松が多く生植していて、松のある迫の意で「松ケサコ」(松迫)と云う。 ※本書では松ガサコ。
シウロク:北向きの地で年中水気(湿気〉がある所で、「シウロク」と云う地名がついた。
タキノハナ:岩山に滝があり、その先端の地で「タキタノハナ」(滝ノ鼻)と云う。此の地方では、突出た所を鼻と呼ぶ方言がある。
※タキは滝の字があてらりたりするが、崩壊地名のタキ・ダキ・ダケも多いので注意が必要
ノボリヲ:現在の様に道路が整備されていない頃は、小野地区と保喜地区の交通路は裏山を越えて行来をしていたものである。その山道の登り口にあたる所故、「ノボリヲ」(登り尾)と云う。
※登リ尾の地名は、折付(おりつき)と同じく昔の山道往来の地名。四万十町内にも多く分布する。【登尾山(宮内)・登尾(瀬里)・登り尾(打井川)・ノボリヲヲ(広瀬)・古登(烏手)・ノボリヲ(昭和)・登リ尾(戸川)・ノボリヲ(井﨑)】
ケンニウ:急勾配の山で、危険な場所の多い所。「ケンショ」(険所) は、山の斜面や通行しにくい通路の地を云う。危険な場所、険所が訛って「ケンニ」となったもの。又一名、岩のゴロゴロしている場所と云う事で「イワガラ」とも云う事である。
【井崎谷】
桑ガサコ:桑の生へている迫と云う事で、その名の通り「桑ガサコ」の地名がついた。
ヲチ山:急峻な山で、四万十川へ向って垂直に落ち込んでいるような山で、落ちるを意味したもの、落ち込んだ山と云う事で「ヲチ山」(落ち山)と云う。一方、此の山に昔、自然菜が群生していて、お菜の山がいっとはなしに「ヲチ山」となり地名化したと云う説もある。然し「ヲチ山」と字境を接する所に「ツエノハタ」と云う字名あり、(潰)ついえた山の横(端)で「ツエノハタ」とよんでいるのを見ると、山潰へで落ちた山落山(ヲチ山)の方が適切かも知れない。
ツエノハタ:昔、此の所に山津波による大潰えがあり、四万十川へ潰え込んだ。その山潰へのした山の横(端)で「ツエノハタ」(潰への端)と名付いた。
ゴヲロ:岩石の多い所。石などが何時もゴロと落ちて来るので「ゴヲロ」と名付いた。
※ゴーロは石ころの多い谷合い。ガラ、ゴウラ、ガアラ、ゴーロという地名とともに全国に最も多い地名。
※四万十町の事例【ゴウロヲ(瀬里)・ゴヲロ(昭和)・ゴヲロ(野々川)】
松ノ岡:その昔、此の所に務の大木があり、その松の上方を指して松の岡と呼ぶようになったと云う。
コヤノツ:慶長地検帳に「コヤ」とある。日本地名事典によれば「コヤノツ」は「小屋ノ津」で、津は港、船着場、渡し場、岸がケ等の意で、船着場、渡し場小屋の意ではないかとあり。昔此の所に渡船場があったので、「コヤノツ」と名付けたのかも知れない。
ドウノクボ:此の所に昔、堂一宇あり、弘法大師を安座していた。そのお堂のあった所で堂の窪と名付く。古くは、その堂宇で寺小屋式の手習いをしていたと云われる。その後、その堂宇は移転され、その跡地に十川村立第三小学校(井崎小学校)が設立され、現在の広瀬に移される迄存在した。
モリノヒタ:天然の大木がウッソウと繁茂し森を形成していた。その森の下地なるが故に「モリのヒタ」(森ノ下)と云う。
白王ノマエ:慶長地検帳に「シラヲウノナロ」とあり、白王神社の鎮座所で、その付近一帯を「白王ノマエ」と呼ぶ。昔は白王神社の裏側を往来していたと云われる。又、慶長地検帳によれば小野内鮎古村、「シラヲウノナロ」谷川東地ノ上、24代内三代御蔵床、下ヤシキ、鮎古村、三衛三良ゐとあり。此の一所に御蔵床があった事が記されている。
フルアン:宝暦6年の上山郷御山控帳に、堂壱宇清蔵庵、本尊不動明王とあり。此の所に昔は清蔵庵のあった所ではないかと思はれる。「フルアン」は古庵を意味したものであろう。
ヲモヤパタ:旧名本屋敷のあった所と云う。本家、分家を意味して名付けられた地名であろう。本家を主家、分家を「へヤ」と呼ぶ当地方の方言で本家のあった所を「ヲモヤダバ」と呼んだもの。昔、吉良川と云う名本がいて、田租の取立てと、お上みへ上納柝の二ッ柝(二重柝と云う)を使用して、その事が露見し捕へられ処刑されたと云う伝承あり。
ツル井ノヒタ:「ツルイ」は(鶴居、鶴井〉全国的に敬見されると云はれるが、「ツル井」は(連居〉の転化で、川岩や谷川に沿って集落の並んだ事を云う。此の所にも集落が並んでいて、その集落の下で「ツル井ノヒタ」と字名化したものと思はれる。
※ここでも「ツル井」を連居の転訛として集落の並びを意味しているという。「ツルイ」にはもう一方の「釣井(釣瓶井戸)」の意味もある。現地踏査で確認したい。
※下を「ヒタ」と江戸下町のように発音するのは、ここだけか?【セリノヒタ(十川)・ツル井ノヒタ(井﨑)・ヒタヤシキ(井﨑)・モリノヒタ(井﨑)・ヤマヒタ(井﨑)】
ゴミダ:四万十川の川辺の地にて、洪水時には上流より流れくる木材や、芥等が流れ込む所で、稲作に被害を加へる。芥の集まる水田故「ゴミダ」と名付く。
カモヲダ:此の所は四万十川の岸辺に近く昔は川池があり、鴨などの野鳥がよく飛来して泳いでいたと云はれる。近くの水田にもエサをついばみによく来て見かけたと云う。鴨の来る田と云う事で「カモヲダ」と云う。
※岸辺近くの湿田なら「ガモウダ(蒲田・かまた)」とも思える。
ナガタ:川辺に近い細長い水田があり、長い田のある所で長田「ナガタ」の名がある。慶長地検帳に「長タ」とあり。
島川原:四万十川の川中に位霞する。洪水時には、山の手の堀状の所を水が流れ川中の島の様になる。そのため「島川原」と名付いた。
【実弘】
ドヲザキ:昔、此の地に茶堂あり、茶堂先(崎)なるが故に「ドウザキ」(堂崎)と云う。慶長地検帳に「堂崎」、「上堂崎」の二つのホノギあり。
ミヤノクボ:元、八坂、河内の両社の鎮座所の地。神社(宮)のありたる所故「ミヤノクボ」と云う。広瀬地区のある古老の話によれば、井崎の八坂、河内社は広瀬の八坂、河内社の分霊と云う事である。
ウシノダバ:此の所にやゝ広い駄場あり、昔は牛馬を放牧していたもので、「ウシノダバ」と呼ぶ様になったもの。
ワラヤ:昔、牛馬の飼料として藁を保存するワラ小屋があり、そのワラ小屋がそのまま「ワラヤ」と云う地名として残ったもの。
ヒタヤシキ:慶長地検帳によると、その頃の住居地に等級(段階)をつけて、上、中、下の三段階に分けて課税をしていたようである。上ヤシキは(良)、中ヤシキは(やゝ良))、下ヤシキは(下)と区分している。田、畑も同様である。此の所は下等の地であったため、下ヤシキと定められていたものの様であ「下ヤシキ」が「ヒタヤシキ」となったもの。
タナダ:谷川より山の手へ段々の棚状の田がありて、「タナダ」(棚田)と呼ぶようになった。
イラガサコ:此の付近一帯に「イラクサ科」の「ミヤマイラクサ」が多く群生していて、「イラガサコ」の字名がついたものと云はれる。深山の木蔭に生へる多年草、刺毛と綿毛がある。肌にさわると刺毛がさゝり、いたみを感じる。
フタゴ:此の所に双子様と云って、中野家の祝神と祀る小祠あり。双子様にちなんで「フタゴ」と呼ぶ。
ハギノヒラ:その昔、此の付近に萩が群生していて、秋となれば美しい萩の花を咲かせ人々の目を楽しませた。萩のある所、これが地名化して「ハギノヒラ」(萩ノ平)と呼ぶようになった。
【相後】
イシガミノムネ:此の地に石神の小祠ありて、田村家の祝神と云う。石神を祀る所「イシガミノムネ」と命名也り。
力ンダ:地検帳に「かち田」とあり、「かち田」は「徒田」で牛馬の入らない程の小田か、牛馬も入れない程の深田のあった事か不明。「カンダ」は「神田」を意味したものか、又は「カチダ」が訛って「カンダ」となったものか、二説が考えられる。
※神田とかいて「カンダ」と読むかそれとも「シンデン」と読むか。町内分布と読みの傾向を探る
カシワ谷:此の地方ではめずらしい柏の大木があり、柏の木のある谷と云う事で「カシワ谷」と称すると云う。
ヲサキ:丹羽基二著「地名」のおざきの項に「尾崎」山の背すじの先端。尾根のはづれ。各地に多く見られる地名とある。此この「ヲサキ」も地形を見ると、同じ事が云へる。
ダバ:「日本地名事典」の中に、ダバについて次の如く書いている。【駄場、駄馬】愛媛、高知の四国西南部にみられる方言的地名、崖地や山地の小高い所を「ダバ」と称する。とあり当地区でも平らな所を「ダバ」(駄場)と呼んでいる。慶長地検帳にも、小野村内井崎村に「ダパ」のホノギあり、小野内鮎古村にも「ダバ」がみられる。
三ノ又口:井崎地区内を流れる谷川(井崎谷)に支流があり、その谷の出口より上流(奥)へ向って、それぞれの支流を「一の又」「ニノ又」、「三ノ又」と呼んでいる。三の谷(三ノ又)の出口故「三ノ又口」と云う。
ツジドウ:交叉した道の辻に建てられたお堂、それを辻堂と云い、その辻堂がそのまゝ「ツジドウ」(辻堂)の字名となったもの。
ヲンジ:此の所は火山灰土(オンヂ)が多く見受けられ、それが地名化したものと云う。(古老談)。日本地名事典によれば、「オンヂ」(穏地、恩地、音地)で、中国地方に集中分布し西日本で敬見される地名、多くは「ヒナ」の対として用いられる地名で、日当りの悪い土地を「オンヂ」(隠地)と云うとあり、隠地を意味したものか、土質から地名化されたもののどちらかと思う。慶長地検帳に「オンヂウ子」とあり。
ヒラノ:「ヒラノ」(平野、牧野)「播磨風土記」傍磨郡に牧野里がみえ、全国的に分布する地名。山麓に近い平地を「平野」と云ったようである。「日本地名事典」とある。此の所も山麓の平地であり、この名がついたものであろう。「ヒナロノ下」とあり。
ヅウヅ:谷川に滝がありて、流れ落ちる滝水はドウドウと音をたてて、滝ツボに落下する、その滝水の音を「ヅウヅ」と云ったものと思われる。それが「ヅウヅ」の地名となった。慶長地検帳には「ヲチノ谷」とあり。
ヌタクボクチ:鹿、猪や山の獣はからだについた虫などを落すため、山の湿地帯にヌタ場を作る習性がある。此の所にもヌタ場があり昔は獣が多く住んでいた。そのヌタ場のある所故、ヌタクボクチと呼ぶ。
ヲヲパ井:此の附近に大岩があり、その岩にちなんで「ヲゝバ井」(大磐)と呼ぶ。当地方では、岩を磐と呼ぶ方言がある。
アンノ谷:その昔、谷の奥まった所に修業のためか、又は隠棲した者かは知らないが、庵(いおり)をむすんでいたのではないか。庵は「アン」と云い、庵のある谷と云う事で「アンノ谷」と云う。
※「アンノ谷」は各地で探せる。【アンノ谷中谷山(八千数)・】
力ミイシガミ:井崎地区を歩いて見ると、所々に片屋根茅きの小祠が見受けられる。小祠の中をのぞいて見ると、石が立てられ神体とされている。これが石神様と思はれる。谷川の上流の地にある石神と云う事で、「カミイシガミ」(上ミ石神)と此の附近を呼ぶようになったものと思う。
南松ヲウ:日本地名事典「マツオ」(松尾)の項に「記神代」に山城国松尾神社が見え、京都市右京区の地名。松の木の麓をいふ地名である。(中略〉。他地方の「松尾」の地名には「マツオ」(松生)の意で、松の生える土地を云うのがある。と記されている。当地区の「松ヲウ」は「松尾」の才音を引いて発音して「ヲウ」になったものと思われる。慶長地検帳には「松尾」とあり、「松ヲウ」は松尾の事であり、前記の通り松の生える所と云う意なり。
タキノ上エ:井崎地区、字名No71の「ヅウヅ」の項で述べた滝の上部にあたり、「タキノ上エ」(滝ノ上)と名づく。
中ゴヤ:当地区には「コヤノツ」、「ワラヤ」等小屋に由来する字名があるが、「中ゴヤ」は山中の小屋で上、中、下三ケ所にあった小屋を意味して付けられた字名と思はれる。
ミイダバ:日本地名事典「ミイ」の項に、次のように記されている。「ミイ」(三井、御井)「継体記」に築紫の御井郡がみえ、西日本に多くみられる地名「ミ(接頭語で美称)井(井)」で立派な井戸、清泉のある地を云う地名とあり。「ミイダバ」も清泉の湧き出づる駄場を意味したものと思われる。
ヒルマパ山:「ヒルマ」(昼間)徳島県三好郡三好町の地名。ヒルマ(藤間)の当て字と見られ、ユリ科の藤の生える谷間地をいふ。と日本地名事典は書いている。「ヒルマパ山」は「藤間場山」と書くのではないか。宝暦6年の上山郷御山控帳には藩政時代の享保6年にお留山となっている。
カゲジ:井崎谷の源に位置し北向きの日陰の山地故、「カゲヂ」陰地と云う。
ヒキチ:「カゲヂ」と背中合せの山地にて、日当りの良い土地の意と思はれる。ヒキは(日置、比企、比木)で、此の「ヒキ」は「日置」の方が適切と思はれ、日当りの良い土地を意味していると思はれる。
※「引地」地名は四万十町内にも多くみられる。
タキタ口:「タギ(激)」は、水の湧き出づる所、また「タキ(滝)」の意を云う(日本地名事典)。此こも又井崎谷の源に位置し、水の湧き出づる所の意で「タキタ口」(滝多口)と名付いたと思はれる。
ウシヲトシ:昔、此の山で木材を木馬道を作って搬出していた頃、あやまって牛引の牛が転落して死亡した。牛が落ちた所故、牛落しと云う。
三ノ又:字名番号No67「三ノ又口」の項参照。その奥山に位置し、三ノ又谷に位置する。
二ノ又:字名番号No67「三ノ又口」の項参照。「二ノ又」の谷の奥山、二ノ又谷の源に位置する。慶長地検帳に「二ノマタ」とあり、宝暦6年上山郷御山控帳に「二ノ又普トウ山」寛文13年留りとある。又、御留加工として元禄3年にも残の部分をお留山とされている。
シダヲロ:シダは羊歯の意と思はれる。羊歯の生えている山を意味する。
清水:崖地にて清水の湧き出づる所多く、湧水(清水)に由来する地名。
二ノマタグチ:井崎地区字名No67、「三ノ又口」の項参照。「二ノ又」の出口に位置し「二ノマタグチ」と云う。
馬道:古くは、木材や炭、薪等を木馬道を作って搬出したものである。お留山などからの木材搬出の木馬道が作られていたので、その名残りと思はれる。木馬道がそのまゝ「馬道」の字名となる。
フル田:此の地区では最も古くから水田が作られて、古い田の意ではないか。 ※書籍では「クル田」とある。
【実弘】
椎ノ木谷:古老の話によると、此の所は古くは椎ノ木が多く生へていて、椎ノ木のある谷、椎ノ木谷と云うようになったと云う。
スタノヲ:No74「スタクボグチ」参照。
一ノ又:字名番号No67、「三ノ又口」の項参照。一ノ又谷の源に位置する。
ヲヲツエ:藩政の頃、此の山に山津波があり大潰となった。そのため此の所を「ヲゝツエ」(大潰)と云う。
笠松口:松の木が直立して成長するのを何かの原因でとめられ、唐傘を広げた如く枝が横に広がった松を時々見かける。当地方では古来より山の神様の止り木とよく云はれるが、そのためか大ていの笠松が切り残されている。めづらしいので神聖視されたものかも知れない。笠松のある所故「笠松口」と云う。
一ノ又口:字名番号No67、「三ノ又口」参照。一番目の支流の出口。
赤ツエ:山潰の跡が赤く見えるので「赤ツエ」と云う。赤く見えるのは、赤土のためか又は、赤い岩肌が露出していたのかも知れない。
ワラビウビラ:昔はよく蕨粉を採取するため、蕨根を堀った所と云はれる。蕨の生へる所で「ウピラ」と云うのは、「平み」の事を意味して「ワラビウピラ」(蕨生平)と云うようになったものと思われる。
【柳瀬】
アミ一重:アミ一重(アミイチヂュウ)と云う。地名の起りは、その由来を知る人ぞなし。此の所に地蔵尊が祭祀されていたと云うので、調査をして見た。旧道の道端に安座されていて、「オンヂダパ」との境界(字界)にある。安座年暦は不詳なれども、相当古く大日如来と思はれる。十七番柳瀬村おコマと刻まれている。
ヲンヂダパ:相当広い駄場(平らな所)があり、昔は耕作をしていたものと思われる土質は火山灰土(オンヂ質)であり、そのため「ヲンヂダパ」と云う事である。
ワダ:「ワダ」(和田・輪田)。全国的に分布する地名であるが必ずしも同義ではない。多くの場合「神武記」に見える〔「ワダノウラ」(曲浦)〕のワダで川谷や海岸などの曲った土地湾曲した所を云う。と日本地名事典にある。此この「ワダ」も四万十川の湾曲した所で「ワダ」(曲)を地名としたものであろう。慶長地検帳に「和田」とあり。
ワダヒラ:ワダの項参照。四万十川の湾曲した所の少し平みになった所で「ワダヒラ」と云う。
上タキ:岩肌が露出し、滝の如くなっている所でその名がある。四万十川の流れにそって、上流に位置しているので、「上ダキ」(カミダキ)と呼ぴ下流に位置する滝を「下タキ」(シモタキ)と呼ぶ。
下ダキ:「上ダキ」の項参照。
ヲヲサコ:谷の流に沿って広い迫となっている。大きな迫と云う事で「ヲゝサコ」(大迫)と云う。
スミトコ:「スミトコ」は(炭床)であろうと思はれる。炭ガマを意味したものか、それとも炭俵を積んでおく小屋があって「スミトコ」と名付けたかも知れない。
ハナサキ:蛇行した四万十川に突出た所。当地方の方言で突出た所を突鼻とか鼻先と云う言義があるが、突出た所で「ハナサキ」(鼻先)と名づく。
ヨムネカサコ:昔、姑か嫁いびりをして、事々に嫁につらくあたる。やり切れない嫁は泣きの涙で此の山にかくれたと言う。嫁がかくれた山と云う事で「ヨムネカサコ」と呼ぶようになったと云う。
ヤゴ子:その昔、屋号を持った家があった所と云う。その家は落人の者が住んでいて、或年の正月追手が来て、その家の者が逃げようとした所着ていた着物が門松の枝にかかり、その時矢でころされたと云う。そのため柳瀬地区では今もって正月に門松を立てない風習があると云はれる。矢でとろされた所と云う事で「ヤゴ子」と云う。
一中原:慶長地検帳に「イチイ原」とあり。伝承されている間に「一中原」と変化したのではないかと思はれる。一位の木があって「イチイ原」と呼ばれていたのではないか。
ゴヲソ:谷渕の地でゴロコロ石のある所。そのため「ゴヲソ」と名づく。
コヤ:谷川の奥まった地で作小屋か、山小屋のあった所。小屋があったので「小屋」が地名化したものである。
笠松:井崎字名番号、No102の項参照。
クワサコ:自然木の桑の大木があり、桑のある迫と云うので、「クワサコ」(桑迫)と呼ぶようになったと云う。
ヲスキ:此の所に杉の大木ありて、大杉の石と云う。何故の間にか大杉が「ヲスキ」となり、地名になったと伝承されている。
石神越:旧道の山の手に近くの家の祝神が祭られている。片屋根茅きの小祠で中には小さな石が立っている。代々祝神として祭祀されていると云う事である。此の小祠が石神なのかも知れないが、石神を祀る小さな尾根を越える道があって、「石神越」と名付けたかも知れない。
大平:此の附近では面積が広い字名の山地である。大きな「平み」のある山で「大平」の名がついたと云はれる。
カミ田:昔、水田の少い頃に名付けられた地名ではないか。慶長地検帳に上夕、シモタと云う(ホノギ)が見えるo 四万十川に沿って上流の位置にあるので「カミ田」と名付いたと思はれる。
宮ノモト:柳瀬地区(組)の氏神を祀られている日吉神社の鎮座所。神社(宮)のある所放「宮ノモト」と称す。
宮ノ谷:柳瀬組氏神日吉村神社の近くの谷の附近一帯を「宮ノ谷」と云う。宮のある谷の意なり。
ワテ:「ワテ」の地名については、その由来を知る人が少ない。その字名の中に「ワテ」(和手)を名乗る家あり。「和手」は地名より起ったものか、家の姓から起ったものかつまびらかでない。此の所に地蔵尊ありて、石仏なり刻まれし文字を読んで見ると「奉鎮延命地蔵大菩薩、為柳瀬組中安全、慶応2年3月24日」とある。此の地蔵尊にまつわる伝承あり。
ヒメトコ:昔、此の地に落人が逃げ来て住んだと云う。従者が一人の姫君を大切に保護し、住居を建てゝかくまったとの事。姫が住んでいた所で「ヒメトコ」(姫床)と称す。
谷ヤシキ:谷川のホトリに住居あり、それが地名化し「谷ヤシキ」(谷屋敷)となったもの。
シモコミ:四万十川の蛇行した部分が湾曲していて、洪水時には上流より流されて来た流木や芥などが湾曲した所に集まる。「ゴミ・芥」が集まる所で「シモコミ」(下も芥)と云う。
ヲトガ谷:ヲトガ谷集落のはづれに谷川がある。裏山より直流に流れ出た谷は洪水時には、岩石が水に流され、音を立て〉落ちて行くと云う。それ故此の谷を「ヲトガ谷」〈音が谷)と呼ぶ。
フタマタ:その昔、此の所を小径があり大きな岩と岩の間を抜けて通っていた。双又の岩と云う事で「フタマタ」と名づく。
フヂノ石:露出した岩肌、起立した岩に藤がたれ下がり、春ともなれば紫色の花を咲かす。えも云はれぬ美しき眺は人の目を楽しませた事であろう。藤と岩の美はそのまま地名化し、「フジノ石」(藤の石)となる。
▽徳弘勝氏の特別寄稿
・井﨑(p77)
「小野内井崎村」(地検帳)は、植物イサキにちなむだろう。なぜなら発音のかよう大月町の一切(イッサイ)につき、こんな記事をみかける。
「庄屋いわくイサキという木その地(一切)に生える。イチビに似た木で甘皮をとり網にすく甚だよく袴(はかま)など織ってもよし」(皆山集)。イサキはアオイ科の一年草で植木屋のいうイッサイ物イチピのことらしい。『大和本草』に植物「つなそ」(綱麻)の別名」。「これも皮をとりて苧(お)のごとく用ゆ」。
『万有百科大事典』はイチビの利用を記していう。茎の靭皮(じんぴ)繊維はロープや麻袋製造原料に利用される。コウマ(黄麻)の繊維よりも質が劣るので、単独で製品にしないで、コウマに30%内外をまぜて混織する。
・相後(p79)
「もうちくとアイをあらけて植えや」。
「アイにゃしらん顔しよって、都合の悪い時にや頼よってくる」。ココ、コレ、カシコのコ。ゴは濁音化でしょう。
※徳弘氏は「アイ」についてモノとモノとの間とか普段といった方言としての言葉でもって地名の意を説明しているが、「コ」の説明を含め、かえって地名を考えるうえで混乱をますことになる。
・上山さんのことども(p89)
長野県では、上村と書いてワデ村と読む。あるところでは、カサ村といったりする。笠は頭にかぶるものだから上(かみ)に通じるか方言ワテ、ワデは次のように分布する。ワテ(上手)は
1.山道の上手側 高知県高岡郡東津野村。
2.家の後手 島根県鹿足(かのあし)郡・広島県比婆(ひば)郡。
3.家の奥の方 島根県斐伊川流域。
4.勝手場。台所。島根県仁多(にた)郡三成(みなり)。
5.南風。伊豆八丈島宇津木。
ワデ(上手)は上の方。「村のワデ」。山梨県・長野県。「ワデ・-つ・かた」。
そのかみの東上山、西上山、十川で成りたっていた上山(かみやま)郷にちなむ井崎の上山さんは、「かで・つ・かた」というのであろうか。
ふたりの上村さんは、胸にひめていることであろう。
※徳弘氏は「東上山、西上山、十川で成りたっていた上山郷」とあるが、東上山、西上山、十川は明治22年の町村制の村名であり
※上山さん(上山岩雄氏)とは十和錦の育成者。香り米として有名な「十和錦」は、「黄金錦(愛知県農試)」と「ヒエリ(近藤日出男)」の自然交配種として昭和32年からこつこつ上山さんが育て広めてきた品種。
※「掻き暑めの記(下p400)」で伊与木定氏は、「烏手の市川幾治氏が18歳の時(明治39年)、住宅前の田んぼから香りのする一穂探しあて、3年かけて香り米として固定した原種をつくりあげた」と書いてある。幾治氏はこれを「ヘンドヨリ」と命名し栽培普及に努めたという。ヘンドヨリはいもち病に強く、倒伏しない。米に香りがある等の特徴が人気となり大正はもとより高南台地の農家にも普及した。伊与木氏はヘンドヨリといわず敬意を表して「幾治ヨリ」と感謝を込めたという。終戦後高南台地の「香り米」が土佐十名産の一つとして高知新聞に紹介されたという。戦時中の質より量の時代となり幾治ヨリの栽培も次第に衰えていったという。
※「えひめの記憶(http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/12/view/2059)」には遍路が高知県下の優秀な稲を普及したとして次のように紹介している。「民俗学者で稲の研究家でも知られる近藤日出男氏によると、素庵が蟄居(ちっきょ)生活を送ったという土佐国仁淀川河口にある宇佐町から高南台地は、「遍路選(よ)り」、「よりヘンド」、「高橋ヨリ」、「大正選リ」、「香り吉」、「ヒエリ」、「カラス」、「幾治ヨリ」、「ヤマシロ」、「渡船」とたくさんの在来種を輩出した産地でもある。とりわけ高岡郡七子坂を越えた仁井田川沿いは酒米の名産地といわれてきた土地柄である。仁井田(現窪川町仁井田)の民謡に「におうお米で育てた娘 他所にはやらぬと親心」、あるいは「娘やるなら仁井田にやろぞ におうお米の金の波」とあるが、当時仁井田地方で栽培されていたにおい米(香り米ともいう。)の品種は「遍路選り」であった。近藤氏は、「この品種は、四国遍路を巡る人たちが少しずつ各地に持ち出していたようで、私が調査したころには、九州各地、中国地方にも広まっておりました。(④)」と述べている。」と書かれ、「遍路選り(ヘンドヨリ)」「大正ヨリ」「幾治ヨリ」と紹介されている。仁井田米は全国米品評会で優勝するなど大きなブームとなっているが、市川幾治氏はその先駆けであり、上山岩雄氏も劣らぬ在野の百姓農学者である。その先達の記憶を正しく記録にとどめ後世に伝えてなければならない。四万十町の旧町村史には何の記述もない。
※コメの品種の伝播も遍路の役割が大きい。「いいものをいい意味で盗み、広めて、伝える」という遍路の所作は「文化の伝道師」でもある。土佐の人は気前もいいから、過去にはハウス栽培技術も盗まれ、今は前轍を踏むことがないように学習して、ミョウガ・生姜などのハウスには関係者以外入ることもできず、栽培技術は門外不出とか。
・鷹ノ巣山(p)
鷹狩用の巣鷹を保護する目的で住民の立入りを禁止した一定区域の山林をスダカヤマ(巣鷹山)といった。指定されると鷹狩行事が衰えた後も、また鷹が不在になってからも解禁されることなく「御林」同様の保護林となった。『地方凡例録』はそういい、こうものべている。
「御巣鷹山ある村かたにて、前々の仕きたりある村の功者なる御巣鷹山の有無は村鑑にのせてきし出す也」 。
十和村の鷹の巣山(654メートル)にどのような経緯があったというのだろうか。
※1985年(昭和60年)8月12日、羽田発の日航ジャンボ機の墜落事故現場が御巣鷹山。国内最大の墜落事故で520人が犠牲となり、国民的歌手・坂本九さんもその一人。「ダッチロール」「圧力隔壁」「金属疲労」など多くの専門用語がくりかえし報道された。
※「タカノス」の四万十町内の分布は、鷹ノス(打井川)、タカノス山(大正北ノ川)、タカノス(十川)
※「〇の巣」は多く分布する。蜂巣(藤の川)、ウノス(瀬里)、トビノス(打井川)、トビノス(上宮)、トビノコ(十川)、トリノス(十川)、トリノス(久保川)、鷺ノ巣(大井川)、ハチノス(久保川)、熊ノ巣山(地吉)
■ゼンリン社(2013平成25年)
p39:井崎、実弘、相後、井崎谷、相後川、一の又川、二の又川、カシワ谷川、大石谷川、井崎谷川、八坂神社、河内神社、大元神社、広井大橋、井崎橋、相后橋、三ノ又橋
p32:井崎、保喜、ニロウ谷川、桑ヶ迫
p24:井崎、保喜谷川、ニロウ谷川、天満宮
p21:井崎、柳瀬、大平谷川、宮の川、日吉神社、四万十トンネル、川平橋
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
井崎、柳瀬、実弘、相後、井崎谷、保喜、鷹ノ巣山、相後川、井崎川
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
鷹巣山(三等三角点:標高654.55m/点名:たかのすやま)四万十市西土佐半家字鷹巣山19林班3小班
柳瀬(四等三角点:標高540.31m/点名:やなせ)広瀬字シシダバ605-と
一ノ又(四等三角点:標高606.25m/点名:いちのまた)広瀬字カゲヂ山607-9
馬道(四等三角点:標高343.59m/点名:うまみち)字馬道1143番地
井崎(三等三角点:標高484.69m/点名:いざき)字ミイダバ1124-16番地
桑ヶ迫(三等三角点:標高422.34m/点名:ひらがな)字クワガサコ1042-イ
※点の記の所在地は「大字大野字クワガサコ」
■高知県河川調書(2001平成13年3月:p53)
相後川(四万十川1次支川相後川)
左岸:四万十町相後字ツジドヲ630番地先 ※相後は「井﨑」の誤記載
右岸:
井崎川(四万十川1次支川井崎川)
左岸:四万十町八木(※ママ)字下岩穴1861の1地先
※八木は「大井川」の誤記載。地区は「﨑」で、河川は「崎」
右岸:四万十町八木(※ママ)字上岩穴2856番地 ※右岸、左岸の所在地名は逆か?
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
広井大橋(四万十川/井崎)213.00
井崎橋(井崎川/井崎)51.70
井崎橋(不明/井崎)11.80
オトガエ橋(不明/井崎)2.20
下津才橋(鷹の巣川/井崎)6.10
柳瀬橋(不明/井崎)6.60
山下橋(不明/井崎)9.00
相後橋(不明/井崎)12.30
一の又橋(不明/井崎)8.20
二の又第1号橋(不明/井崎)5.70
相后橋(不明/井崎)10.90 ※アイゴの当字のひとつ。他にNTT柱は「相郷」、地検帳は「鮎古村」、河川調書では「相後川」
二の又第2号橋(不明/井崎)7.00
下津才第1号橋(不明/井崎)7.00
下津才第2号橋(不明/井崎)2.20
三ノ又橋(ゼンリン社)
■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)
井﨑谷川頭首工①~②(井﨑・井﨑谷川)
相後川頭首工①~⑧(井﨑・相後川)
■四万十町広報誌(平成20年1月号)