20150608初
20180115胡
【沿革】
室町以前は大半未開の地であったが、奥州南部因幡守高忠という人が僧として諸国をめぐったのち一斗俵に止まり開拓を始めた。一斗俵の地名由来は南部氏の開拓によるもので応安年間のことといわれる。その後、南部氏の子孫は大野見殿、津野氏に仕え、神田郷(米野川、作屋、壱斗俵、中津川の15名)は南部氏の領地となった。
長宗我部地検帳には「一斗俵村」
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「一斗俵村」とある。
明治22年(1889)4月1日、「明治の合併」といわれる新政府の町村制により、壱斗俵村は同じ仁井田郷の七里村・中村・勝賀野村・川ノ内村・北ノ川村・市生原村・作屋村・米奥村・中津川村と大野見郷の日野地村・秋丸村と新設合併し「松葉川村」となり、壱斗俵村は大字となった。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町・ 東又村・ 興津村・仁井田村と 松葉川村は合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内の行政区は、上一斗俵と下一斗俵の二つがある。各行政区とも班・組編成はしていない。
【地誌】
旧窪川町の北部。中津川が合流するあたりから川奥川が合流する地点の上流付近までの四万十川左岸に開けた平地。上流域を滝本と呼ぶ。主に農業地域。集落は山麓に展開し、主要地方道19号窪川船戸線が通る。河内神社がある。昭和10年(1935)建設の壱斗俵沈下橋は四万十川に現存する最も古い沈下橋として国の登録有形文化財(土木構造物)に指定されている。また、平成18年日本全国から公募した近代遺産から「ヘリテージング100選」として壱斗俵沈下橋が選定された。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央部、南流する四万十川の左岸が壱斗俵地区)
【地名の由来】
甲把瑞益の『仁井田郷談』に「応安三年(1370)三月、奥州南部の住人周防守高忠、諸州を経歴して此地に来りて数月を送り、漸田地を新開して、穀(モミ)壱斗を以此地のみつきものとし、時の国造へ献せり。故に此村里を号て壱斗俵村といへり。」とある。律令政治が終焉した時代となると国造でなく郡司と思われるし(窪川町史には国司とある)、献上品が一斗の俵とは単位としても曰くありそうで数量も少ないと思うがどうだろう。
高知新聞連載コラム『土佐地名往来No9』(平成15年(2003)5月29日付夕刊)には「米一俵が地名の由来。六百年余りさかのぼった開拓の時代をしのばせるものだ。昔の人々は稲を「命の根」と考え、米粒を「菩薩」「舎利(しゃり)」などと呼んだという(舎利の原義は仏陀や聖者の遺骨)。人々が長い間、どれほど難儀しながら稲を育て、米を作ってきたか、想像できるだろう。」と四万十町(当時、窪川町)では一番に取り上げて紹介している。窪川と言えば米どころ、壱斗俵の地名を選んだ記者の思いが伝わってくる。
また、四万十町広報誌『ぶら~り散策』(2011年8月号)では「お米は4斗で1俵。集落名は「一斗俵」。かまどから上る煙が細く、あまり裕福でないと思った殿様が1斗を以て1俵としてくれた説と、その昔この地を拓いた池田という人物が初めて取れた米を献上するも、4斗俵にいれる程の収量がなく、1斗を俵詰めした故事が由来という説がある。」と壱斗俵を紹介している。出典の説明がなく残念であるが、話としては面白い。米は1俵60kg、炭は1俵15kで重さは丁度4分の1である。殿さまが貧村を案じて俵に炭を入れよといい、炭を入れた米俵の重さが米1斗分であったという話ではないかと思ったりもする。
「壱斗俵」の表記には時によっていろいろ変化する。長宗我部地検帳では「壱」、土佐州郡志では「一」と表記が混在するが明治の合併で大字「壱斗俵」と公称地名となっている。とはいっても、主要地方道窪川船戸線に架かる橋は「一斗俵橋」、河川名は「一斗俵川」とあり、国の登録有形文化財である沈下橋の表記も「一斗俵沈下橋」である。集落なり地区全体なりを示す総称としては「壱斗俵」、河川や橋梁等その一部を指すときには「一斗俵」とすみわけしているのかもしれない。
【字】(あいうえお順)
石ガサコ、今井山、エンヅカ谷、大隅谷、大スミ山、大ヒラ山、沖ノ元、カゲヒラ山、カザヤシキ、キュウ場、キリコノ上、銀兵衛ヤシキ、クロハザ、後家ヤシキ、小笹ノ駄場、才能、坂元、茂六山、下ダバ、十蔵アン、菅野々山、蔵六山、タキケ谷、タキ元山、竹ノ後口山、竹ノハナ、堂ケ谷、堂野々、仲駄場、西ゲサコ、ハケ谷、ヒジリ神山、ヒメヤシキ、フ子サコ山、ブタイノ元、ホヲジノ越山、ホキ谷山、ホヲジノ越、松ノ元、的ノ元、六兵衛ヤシキ【41】
(字一覧整理NO.順)
1松ノ元、2ハケ谷、3菅野々山、4才能、5キリコノ上、6タキケ谷、7ヒジリ神山、8堂野々、9西ゲサコ、10ブタイノ元、11竹ノハナ、12躬場(キュウバ)、13的ノ元、14クロハザ、15十蔵アン、16大隅谷、17小笹ノ駄場、18後家ヤシキ、19カザヤシキ、20六兵衛ヤシキ、21沖ノ元、22下ダバ、23仲駄場、24ヒメヤシキ、25エンヅカ谷、26坂元、27銀兵衛ヤシキ、28石ガサコ、29大ヒラ山、30茂六山、31カゲヒラ山、32大スミ山、33フ子サコ山、34竹ノ後口山、35ホキ谷山、36堂ケ谷、37タキ元山、38ホヲジノ越山、39今井山、40蔵六山、41ホヲジノ越
【ホノギ】
〇仁井田壱斗俵村地検帳 土佐国高岡郡津野分(高岡郡下の2/検地:天正16年2月19日)
▼壱斗俵村(p543~544)
堂野、ホキノクチ、フタイノ本、竹ノ後、ヲキ、クホタ、いやしき、ヲカヤシキ、ヲカノ前、クロハサ、クホ、竹ノハナ、十蔵庵寺中、宮ノクホ
【通称地名】
【山名】
山名(よみ/標高:)
【峠】
峠(地区△地区) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
河内神社/17かわうちじんじゃ/鎮座地:竹ノ後口山
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅱ」)
地検帳では一斗俵村と表現しており、枝村をもたない単独の村であった。(同p623)
検地を行ったのは天正16年2月19日のことであり、この検地結果の記録からこの部落の特色を挙げると、松葉川地区の冒頭でも触れたように、本地登録人(領主)の箇所が”松井左馬助給”のように記録され、これまでのように給人・扣人・作人などの記録がないこと、および市生原部落のような名制もとっていないことである。
・神社
河内神社(村社/字仲駄場鎮座)/合祀:六十余社、海津見神社、須賀神社
多喜神社(無格社/字ホキ谷山鎮座)
・寺院
十蔵庵
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p268)
一斗俵村の四至は、東限窪川領山西南限大川北限大野見界縦二十町横二町其土黒
山川は、堂之谷山
寺社は、観音堂、権現社、川内大明神社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」での壱斗俵村は、は、石高16.3石、戸数22戸、人口91人、男50人、女41人、馬16頭、牛0頭、猟銃0挺
■皆山集(第8巻地理編p310)
第十四大区仁井田郷三の一斗俵村の元標が「カザヤシキ」に設置された。
■南路志(1813文化10年:③p341)
189一斗俵村 仁井田郷本堂之内、又云神田郷四村之一也 地十六石三斗
仁井田郷談云 応安三年三月、奥州南部の住人周防守高忠、諸州を経歴して此地に来りて数月を送り、漸田地を新開して、穀(モミ)壱斗を以此地のみつきものとし、時の国造へ献せり。故に此村里を号て壱斗俵村といへり。委は(本書p264)に見えたり。
川内大明神 神田
八大龍王 土井ノ上
四社共正体幣、外ニ鉄鉾一本ツ、有
若宮明神 土居ノ上 祭礼九月十一日
姥神 堂ノ野 祭礼九月十日
■土佐地名往来(2003平成15年5月29日:高知新聞夕刊連載コラム No.9)
「土佐地名往来」は、片岡雅文記者が高知県下各地の地名の由来や歴史を綴った、平成15年4月3日開始の週1回コラム
壱斗俵
「米作りに込めた思い」の見出しで「奥州南部の周防守高忠がこの地を開拓、籾米壱斗を時の国造に献上したことに由来。」と甲把瑞益の仁井田郷談を引用して紹介。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p9:壱斗俵、四万十川、一斗俵川、主要地方道窪川船戸線、一斗俵橋、一斗俵沈下橋、四万十源流大橋、河内神社
p5:壱斗俵、滝本、四万十川、滝本谷川、主要地方道窪川船戸線、滝本橋、松葉川発電所、Ю滝本
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
壱斗俵、滝本、四万十川(渡川)、一斗俵沈下橋
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
滝本(四等三角点:標高493.93m/点名:たきもと)一斗俵字トウガタニヤ49-イ番地
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
なし
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 61水田(上壱斗俵・下壱斗俵)
・ 67上壱斗俵集落
・ 68下壱斗俵集落
壱斗俵は、窪川から四万十川の上流に約9kmの場所にある。高南台地と呼ばれる四万十川沿いの平野部の最上流域に位置し、農業を生業とする集落である。
壱斗俵集落のある高南台地は、仁井田米に代表される県内でも有数の穀倉地帯で、この稲作は弥生時代から行われてきた。
壱斗俵は、応安(1368年~1375)の初めに奥州南部の住人周防守高忠がこの地に住み着き、田地を開拓し穀物一斗を貢物として時の国造りに献上したことが地名の起源といわれ、中世神田郷の土豪南部氏の開発地であったと伝えられる。
高南台地では、仁井田五人衆による開発が進められ、天正地検帳には一万六四三石五升七合の石高が記されている。
新田開発の課題は灌漑用水の確保であり、農地開拓の歴史は灌漑の歴史でもある。高南台地では、四万十川の本流に多くの堰や水路を築き広大な農地を開拓してきた。
壱斗俵は、四万十川の本流に築かれた堰と水路による灌漑で潤された美田が広がる集落で、ここに構築された法師ノ越水路トンネルや松葉川発電所は、この地域における灌漑の苦難を物語る貴重な存在である。 壱斗俵は、数々の苦難を英知と汗によって乗り越えてきた、高南台地における水源利用と土地利用を理解する上で欠くことのできない景観地である。
・ 62法師ノ越水路トンネル
法師ノ越水路トンネルは、壱斗俵と市生原集落の水田を灌漑するために構築されたものである。
明治23年の大洪水で、壱斗俵と市生原の両集落に通じる灌漑用水が破壊された。そこで、市生原の野村成満は、この自然の猛威を回避するためには、法師ノ越山に水路トンネルを抜く以外に方法はないと考え、農民を説いて資金を募り工事を始めた。しかし、資金が足りず所有の山林や田畑を売却してこれに当て、難工事の末に完成させたものである。この水路トンネルは、100年の長きにわたり農地を潤し両集落に多大な恩恵を与えてきたが、老朽化のため、平成10年に改修された。
長さ:343.0m / 受益面積:37.6ha
・ 63一斗俵沈下橋
一斗俵沈下橋は、昭和10年(1935)年に架けられた、現存する沈下橋中では最も古い橋である。壱斗俵と米奥集落を結ぶ橋で、この場所には渡し場があり、渡し舟により往来行われていた。
架橋は難工事で、橋の中央部は川底の岩盤が深く、「木工沈床」という割り石を詰めたものを川底に敷き詰める工法で構築された。
下流に堰があり水流は極めて緩やかであるが、台風による洪水で完成したばかりの橋の中央部が流出した。復旧工事も困難を極め、中央部の橋脚の幅を長くすることで修復した。対岸の米奥には小学校や商店があり、通学や買い物などの日々の往来に利用されてきたが、現在は老朽により通行止めとなっている。橋は国の登録有形文化財である。
架橋年度:昭和10年 / 管理者:町 / 構造:鉄筋コンクリート 橋長60.6m・幅員2.5m 橋脚8本
■四万十町広報誌(平成19年1月号・平成23年8月号・平成30年1月号)