20150608初
20170604胡
【沿革】
この村は承応(1652-1654)のころまでは荒原で農家も少なかったが高塚六太夫が開拓した(甲把瑞益の「五社伝記」)。
長宗我部地検帳に「大井野」
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)には「大井野村」とあるが、南路志(1813)には大井野村の村区分はなく、仕出原村の項に「古名笈野村又大井野村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村・峯ノ上村・金上野村・見付村・大奈路村・根元原村・神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村・西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、大井野村は大字となった。
大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。
昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は、大井野上と大井野下の2つの行政区がある。それぞれ1班、2班に分かれている。
【地誌】
旧窪川町の中央部。四万十川が地域の北から東を経て、南端を西に向かって流れる。三方を四万十川に囲まれた右岸地域であり、明治23年の大水害のあと集落は西の山麓に移された。窪川地区でのほ場整備の始まりがこの地区で比較的まとまった平野が広がり主に農業地域。市街地が四万十川を隔てて東方に展開する。平野の中央を国道381号が通り、県道322号松原窪川線が北に分岐する。高南酪農協同組合・大井神社・四電工窪川支店・葬祭会館「山火傳」・コンビニ「ローソン」・ホームセンター「コメリ」がある。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央、南流する四万十川の右岸に広がる農地が大井野地区)
【地名の由来】
甲把瑞益の「五社伝記」によれば、弘仁5年(814)、弘法大師が蹉跎山(足摺)において五社の本地を作り、山伏に幣を笈に納めて持ってこさせ、その幣を祠に納め笈の神を祭ったので笈野村(おいのむら)といったという。今は文字が変わって大井野村(おおいの)となったと伝える。
笈(おい)とは、修行する僧や修験者が、仏像をはじめとして、仏具、経巻、衣類などを背負う道具。歌舞伎の演目「勧進帳」で、花道を飛び六方で入っていく弁慶はつとに有名で、その姿が笈を背負い金剛杖を手にもって北国に出立するところである。徳島には剣山(1955m)のとなりに次郎笈(1929m)が座している。剣山は別名太郎笈と呼ばれることから兄弟対峙していることになる。剣山の山名の由来は安徳天皇ゆかりの剣によるとされることから、山岳信仰の修験者が両山の頂に鎮め石を笈で運び安置したのではないかと思うところである。
野(ノ)は、山麓の緩傾斜地、裾野もこれにあたり、それを開墾して平坦な原(ハラ)にすることから、野と原はおのずから異なる地形である。「原」である対岸の西原が小久保谷川の水利で早くから開墾され、「野」である大井野は大川からの導水技術が確立されてからの開墾となったのだろう。
大井野の「野」を格助詞の「の」を漢字にあてたとしたら別の意味にもなる。
大井野の産土神は「大井神社」に祀られている。「オイ」から呼びやすい「オーイ」に転訛したのは、甲把瑞益の説のとおりである。村名「大井・野・村」は地名と村の間に格助詞「の(野)」が付されたものの、社名「大井・神社」はそのままとなったのではないか。
片岡雅文氏は高知新聞「土佐地名往来」で「笈神を祭った土地として”おいの”の地名で呼ばれ、やがてそれが「おおいの=大井野」となったというわけだろう」としている。
町内には接尾語が「野」となる大字が、大井野のほかに「高野」、「金上野」、「寺野」、「勝賀野」、「影野」、「平野」、「小野」の計8か所ある。地形地名の「野」なのか、格助詞の「ノ(之)」が転訛したのか?
【字】(あいうえお順)
イナヤシキ、扇田、岡山、梶田、春日田、上ハサ、西原開、桜木ノモト、七右衛門屋敷、七反地、蛇谷山、スゲタ、高ツカ屋式、瀧ノ平、立テ道、堂ノ前、鳩打田、舩戸、瀑平、堀詰水戸ノ本、松カサコ、松ケ谷山、水神ノ上、宮ケ谷山、屋舗割、四ツツジ、両免地【27】
(字一覧整理NO.順 大井野p33)
1瀧ノ平、2上ハサ、3屋舗割、4鳩打田、5舩戸、6堀詰水戸ノ本、7水神ノ上、8桜木ノモト、9七右衛門屋敷、10イナヤシキ、11西原開、12立テ道、13四ツ辻、14扇田、15七反地、16高塚屋式、17堂ノ前、18松カサコ、19梶田、20両免地、21春日田、22岡山、23瀑平、24スゲタ、25松ケ谷山、26蛇谷山、27宮ケ谷山、28春日田(再掲)、29屋舗割(再掲)、30鳩打田(再掲)、31扇田(再掲)、32船戸(再掲)、33桜木ノ元(再掲)
【ホノギ】
▼大井野(p387~388)
河津口、カミキレ、嶺田、中キレ、山ノ子、カスカテン、左近衛門タ、春日テン、マツノモト、マツノクホ、カチタ、菅タ
(爰ヨリ神之川ノ内永野地之村東ノハシヨリ付)
【通称地名】
【山名】
山名(よみ/標高:)
【峠】
峠(地区△地区) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
※現在は、大井野集会所横に遷宮している。字名は「扇田」か?
1)大井野は仕出原の古名?
南路志には仕出原村の項に「古名笈野村(オヒノ)又大井野村(オヰノ)」とあるが、仕出原村の領域について昔は笈野村といわれたのか?
仁井田之社鎮座傳記(甲把瑞益述)は笈神の項で「五社より南の方、溪に鎮め斎ふ。此社ハ、蹉跎山にて弘法大師五社の本地を作り、蹉跎山の山伏に負せ来れる、其笈に一幣を納めて南の溪に遷して笈神と斎祭る。(中略)又其所の在名を笈野村と呼ふは此故也。今ハ文字書替て大井野村とす。
仕出原地区の南端、大井野地区境に「南谷」、「宮ノ谷山」の字がある。
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
地検帳の記録によると大井野と記されているのみで村名は付けられていない。そしてどの部落の枝村であったとも思われない。(同p97)
・神社
大井神社(村社/字岡山鎮座)/合祀:三熊野神社、竈戸神社、水天宮、水神社
(勧進:1682天和2年)
大井野の地名の由来について、佐々木氏は甲把瑞益著『仁井田之社鎮座伝記』の”笈神(おいのかみ)”の項を引用し「弘法大師が仁井田大明神(高岡神社)を五社に分祀したとき①五社の本地を造り運んできた笈に一幣を納めて南の谷に笈神としてまつったこと②そしてこの地を笈野村(おいのむら)と呼んだが今は書き替えて大井野村としていたこと③承応の頃(1652-1654)までは荒野であったが高塚六太夫がこの村を開いたこと(中略)南路志(武藤致和・1813)はこの部落について『古名笈野(おひの)村又大井野(おゐの)村』と記しており、また大井神社については『大井神・イノ奥家掛林・祭礼九月十五日』と記録している。南路志に示されたこの部落の古名と、前述の②を対応させると笈神(おいのかみ)から笈野という地名が生まれ、大井野に変遷してきた経過を読みとることができる。(同p102)
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p284)
大井野村の四至は、東限久保川村西限口神之川村北限仕出原村東西七町南北十町其土黒
山川は、宮之谷、虵谷
寺社は、大井社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では「大井野村新田」として、石高375.237石、戸数45戸、人口170人、男97人、女73人、馬24頭、牛4頭、猟銃0挺
■南路志(1813文化10年)
(記述なし。仕出原村の項に「古名笈野村又大井野村」とある。)
■ゼンリン社(2013平成25年)
p78:大井野、四万十川、県道松原窪川線、大井神社
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
大井野、四万十川(渡川)
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
大井野(四等三角点:標高227.94m/点名:ひらがな)大井野字岡山507番地
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
(記述なし)
■四万十町広報誌(平成27年11月号)