20150630初
20170621胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の小野村と大井川村の簿冊に小野村地検帳として「大道村」の脇書が見られる。検地では、小野一村分として地高がまとめられており、当時は小野村の枝村としての位置づけと思える。小野村の枝村は大道村のほか細々村(河内)・窪川村(久保川)・井崎村がある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「大道村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡四手村、大井川村、野々川村、轟村、津賀村、茅吹手村、浦越村、黒川村、小野村、久保川村、大道村、細々村の上山郷下分12か村が合併し「西上山村」が発足し、大道村は大字となった。
昭和3年(1928)11月10日、幡多郡西上山村は改称し「昭和村」となった。
昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は二つの行政区にわかれており、「口大道」集落の班・組編成は、上組(日裏組・ひうらぐみ)・中組(なかぐみ)・日想組(ひそらぐみ)の3組、「奥大道」集落の班・組編成は、楠野(くすの)・番所谷(ばんしょだに)・入谷(いりたに)・仁井田又(にいだまた)・向畑(むかいばた)の5組となっている。
【地誌】
旧十和村の北部。北西は愛媛県鬼北町(旧日吉村)、東は大正地域、南は久保川、西は十川に接する。北部と西部に国有林が広がる。中央を久保川(大道川)が南流して四万十川に流れ込む。四方を山に囲まれ、北に愛媛県境の地蔵山、南に崎山、東にヒソウ山、西に山伏峠・たかひら山がある。およそ農林業地帯。地区は、口大道と奥大道の2地区で形成され、大畑、大滝、番所谷、向畑、仁井田又、楠野、口大道の集落からなる。林業が地内での仕事となるが、仕事がなくなれば須崎市方面、愛媛県宇和島市方面まで出かける。久保川沿いに町道が通じ、久保川で国道381号に合流する。北幡観光バスが1日2便運行する。地内には大道へき地診療所などがある。黄幡神社・天神宮があり、大祭には花取踊りが奉納される。番所谷には江戸期、伊予~土佐間の通行人の警備などを行っていた大道道番所の記念碑があり、大道の番所跡として町史跡に指定されている。平家伝説を残す大刀神社があり、また法刀で一夜に千人切りをしたという山伏芝日光院などの話が残る。町天然記念物にはコナラの大木や天神宮の槙三本などもある。龍王の滝も有名。
また国有林の中にはカジガ谷山の樅、古屋山の赤松の貴重な保護林、コジオ山の観察教育林が茂る。奥大道自然観察教育林は、国有林であり土佐藩の御留山で、日本で最も古い複層林(成長期の違う大きな木と小さな木が同時に成育している森林)である。 この複層林の景観は、藩政期から「輪伐法」という森林経営法と山村住民のたゆまない努力によって山林が守り育てられたことを理解するうえで、貴重な存在である。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真、中央部を南流するのが久保川で上部が奥大道地区、中ほどより下流域が口大道地区)
【地名の由来】
【字】(あいうえお順)
アカヅエ、アキギリ、アシヤマ、イガダ、石神、イシナベ、イシホトケ、伊勢松、イットイギ、イモヂ、上ハスギ、ウリギ、ウルシガクボ、大カゲ、大サコ、大バタ、大ヒラ、カクレバタ、カゲヂ、カゲバタ、カゲヒラ、カトロ、カトロタニ、カニゴエ、カノヲギ、上ミ川平、カミダ、上フチガサコ、カミヤシキ、川バタ、川平、カンドヲ、キクノネ、キタバタケ、キリノキ、クサギヤブ、クスノ、久保、クボノ、久保ノ上、クリノキ、クロバイ、クワカケ松、クワギ、コゴエ、コジヲ、コノヂバタ、サガリ、サクラガウ子、サクラガホリ、ササ、ササノヲイ、笹平山、サヲ、下モウヅ、下タスギ、シモダニ、シモマツヲ、下屋式、シユジウ、ジョヲキン、スギヤブ、スズ、セゴシ、セリダ、ゼン子ヂ、タカノ、タカヒラ、タクミ、タノコエ、駄場、チウダ、チガヤ、チヨコゼ、ツエガホリ、ツヱタニ、テンノヲ、トカタヲ、鳥越、トヲロ、長谷、ナカバタ、ナロ、ナ呂畠、ニ井ダマタ、西タシロ、西藪、子ギノタニ、子ズミカウチ、ハイガサコ、ハシヅメ、ハシヲ、ハチガヲイ、ハルダニ、ヒウラ、ヒガシカゲ、ヒガシタシロ、ヒコヲ、ヒソヲ、ヒノクチ、ヒミチ、ヒヨスゲ、ヒラ、フチガサコ、不動、フルアン、古家谷、文蔵地、ホトカタヲ、孫右門、マツハシラ、ミヅナシ、ミトシロ、ムカイダバ、ムカイバタ、ムカイヤシキ、モリ、ヤケソ、山ノ神、山伏峠、山モト、ヤンザ、ヨセノモト、ロクロヲバ、ワカミヤ、渡リ道、ワナノ、ヲシカワ、ヲシヲ、ヲリツキ、ヲリヲ、ヲヲダチ、ヲヲダバ【133】
※「ナ呂畠」は集成図では「那呂畠」となっている
【ホノギ】小の内大道村
〇土佐国幡多郡上山郷地検帳・小野村地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年3月8日?)
▼大道村・小野内大道村(p246~255)
【口大道】
大サコ、ヒソヲ、なろ畠神田、コシイヲ、タシロ、チカヤハラ、栗木カイチ、フルアン、ホトウ子、フルイノ谷、日流、ノホリヲ、ソ子、宝寿庵寺中、火道、ハシツメ、寺家分、日浦谷、石神ノモト、くりや谷、ヲサキ、日浦畑、ハシノ上、シウシウ、アシ山、ヒウラ、かけち、上やしき、サカイタ、大ヒラ、ムカイタ
【奥大道】
イツチチイ木ノキ、川ヒラ、クスノ、むかひた、ウツシリ、西向地、川平、ヲチヤイ川端、奥大道シモヤシキ、中ハタ、橋爪、カノ谷、トイノソナ
〇土州幡多郡上山高山ハタ地検帳 (p385)
源三良、ツル井ノ谷、イツイ谷、■井テ■本
【通称地名】
・大畑
・番所谷
・向畑
・仁井田又
・楠野
・地蔵山
【山名】
地蔵山(じぞうやま:標高1,128m:愛媛県鬼北町△大道/33.312437,132.894444)
四万十町と愛媛県との境に位置する、標高では四万十町の最高地点。国有林野名でいえば「小椎尾山」となる。伊予側と土佐側に二体の地蔵が祀られていることから山名となったのだろう。地蔵山・地蔵岳は全国に分布する。また地蔵峠は「日本山名辞典」に37か所も掲載してある。峠はあの世とこの世の結界、隣村との境界となるところで地蔵が祀らることが多く地名となったものだろう。
頂上付近は、クマザサに被覆されたブナの森に抱かれている。久保川から久保川谷を遡上して大道の番所谷に向かう。途中の丹念に手入れされた棚田の畔や石垣には十和の愚直な生き方を学ぶことになる。登山口は番所谷から林道に入るとすぐに表示がある。仁井田又との稜線を左右に登り、地蔵山に続く笹平山(標高1,034.8m)との稜線のタオにたどりつけばもう一時である。
【河川・渓流】
久保川(河川調書)
クワカケ谷川(ゼンリン社・防災マップ425-65-202)
コピラ谷川(高知県防災マップ425-65-201)
ト谷川(ゼンリン社・防災マップ425-65-203)
カトロ谷川(ゼンリン社)
窪の谷川(ゼンリン社)
古谷川(ゼンリン社)
ツエ谷川(ゼンリン社)
タクミ谷川(ゼンリン社)
押川谷川(ゼンリン社)
サガリ谷川(防災マップ425-65-205)
仁井田又川(河川調書)
孫右門谷川(ゼンリン社)
孫子谷川(ゼンリン社)
西籔谷川(ゼンリン社)
高野谷川(ゼンリン社)
ユル谷川(ゼンリン社)
ハル谷川(ゼンリン社)
カンドウ谷川(ゼンリン社)
【瀬・渕】
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
黄幡神社/149おうばんじんじゃ/鎮座地:ハチガヲイ ※口大道集落
河内神社/151かわうちじんじゃ/鎮座地:ナロ ※奥大道・番所谷集落
(旧:八坂神社)/154やさかじんじゃ/鎮座地:ナロ
(旧:大氏神社)/155おおうじじんじゃ/鎮座地:タカノ
(旧:大刀神社)/156おおだちじんじゃ/鎮座地:ヲヲダチ
(旧:白皇神社)/157しらおうじんじゃ/鎮座地:下モウヅ ※神社明細帳には「字下モツウ鎮座」とある。
(旧:稲荷神社)/158いなりじんじゃ/鎮座地:モリ
(旧:大本神社)/159おおもとじんじゃ/鎮座地:カトロ
(旧:森野神社)/160もりのじんじゃ/鎮座地:ヒミチ
(旧:八坂神社)/161やさかじんじゃ/鎮座地:久保
(旧:山都見神社)/162やまずみじんじゃ/鎮座地:サクラガホリ
(旧:琴平神社)/163ことひらじんじゃ/鎮座地:ナ呂畑
大社神社/164たいしゃじんじゃ/鎮座地:クリノキ ※口大道集落
1)思案場の名前由来?
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
(幡多郡上の1p246~255・385)
検地は、小野内の枝村のひとつである柳瀬村の検地を経た後に、「小野内大道村」のホノギ「大サコ」「ヒソヲ」から始まる。
「チガヤ」「フルアン」「ヒミチ」など口大道集落の検地から上流の楠野集落、奥大道集落へと進む。
大道村の寺社は、「宝寿庵」とある。関連したホノギとして「フルアン」「石神ノモト」の記録がある。
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p338)
大道村の四至は、「東限大森之駄場西限高平畝南限窪川大森北限豫洲地蔵之森東西四十町南北百町戸凡三十餘其土黒」とあるが、この地蔵の森が四万十町の最高地点である標高1,128mの地蔵山である。東限となる大森之駄場とは下道境となる標高859mの思案場の北側駄場ことか
山は、小牛之背山、椅之内山(在村北皆禁樵採)、加登呂山、押川山、笹山、井流谷山(皆在村邉林木)
川は、大道谷(自北流出経村入大川)
寺社は、光持庵、川内大明神社とある。
■寛保郷帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高64.155石、戸数34戸、人口243人、男134人、女109人、馬9頭、牛1頭、猟銃14挺
■南路志(1813文化10年)
229大道村 地六十四石一斗五升三合
大番大明神 ヲサキ 祭礼十一月五日
大元権現 クサキヤフ 同上
河内天神 道ノ下 祭礼十一月六日
籠物太刀一腰、昔平家落人之刀ト云 〇賀多淡路島、ケイダイニ有
氏大明神 ヲウチ 祭礼同上
光持庵 ウハナロ 退轉、本尊のミ残 本尊 薬師 〇天神社、境内に有
関所 番人 芝 嘉源太
■ふる里の地名(1982昭和57年)
▽大道の地名の伝承(p54~)
【口大道】
山伏峠:一、日光院が山伏姿で休みよったところへ、七人の武士がおいかけて来て争いになり、そこで日光院が六人の武士を殺し残り一人帰らしたと言う。今も六人の山石の墓があり、大道部落において祀られていた。
二、日光院は天狗の術を使った人であったと思われ大阪に一日で往復されたと言う話しがある。
三、調刻師で大道の黄幡神社の御神体十二体を、また戸川の黄幡神社の御神体も同じ一本の木で作り納められたと言われる。
那呂畠:土地が広くて地質が良く、作物が良くとれるところから那呂畠と言ふことになった。
駄馬:山間の小平坦地である。土地も良く日当たりも良いところである。(人が歩いても音がする意味の音地である。)
【奥大道】
鳥越:昔は、日吉村鍵山方面との交流があり、日用品並びに楮・三椏等を買い生活をしていた。行往の運行道を越すところを鳥越と言う字名になった。
大パタ:大道部落の奥端に当り開拓の困難な所を開き田畑を作った。奥端の開いたことから大バタと字名がついたと言われる。
キタバタケ:最北端で「火入れ」 行い採草地とした、その草を秋に刈りとり田畑の肥料としていれたり、牛馬の飼料としたものである。
カニゴエ:大道の大畠から愛媛県に通ずる道である。
カンドヲ:たったけわしい滝山である。
下屋敷、向屋敷:上の方に人家があって其の下の家をさしている屋敷。その向いにも家があったことから向い屋敷と言う字名がつけられた。 ※字名は「下屋式」「ムカイヤシキ」
ハコヤマ:地形として箱形をした山である。
ツエダニ:昔、山津波でつえがおちたところ。
ヒウラ:日当りの良い東向きのところ。
イシボトケ:昔、竹田鶴喜と言う人がとこの山を開いて、とうもろこし其の他新穀を作っていたが、山がけわしい所でうえから石が落ちてきて、それに当りこの世を去った人がいる。そこに石を置き祀っていたことからイシボトケと言ふ字名にした。
川平:大道川に漂った平地の田畑がある。
力ゲヒラ:日当りの悪い所で向い側はけわしい山がある。
イモヂ:傾斜地で開いた畠でイモを作っていたと言われる。
西藪:西の方角で大竹藪があったところ。
ハイガサコ:両方に谷がありけわしい山になっているが、其の中央は駄場い畠がある。
クロバイ:地質がか黒色をしている。
ナロ:人家も多く田畑もあってなろい場所で番所のあったところ。其番所には、徳川時代の末期に高知市の方から、芝藤太の父が番人を務めていたと言われる。現在地は、林数馬代の屋敷となっている。穴の開いた大きな石に昔は、通交人の馬をつないだと言われるが、今は記念碑として建てられている。番所が出来るまでは「ナロ」と言っていたが現在は、通称番所谷と言う
ハシヅメ:橋がかかっている向いづけのこと。
ヲヲダチ:大刀を神体として祀っていたが、現在は天神宮に合祀し、お祭をしている。
文蔵地:文蔵と言ふ人の所在地があったものと思われる。
ゼン子チ:昔は、人家もあったと考えられるが現在は、畑として作られている。
上フヂガサコ:フヂが多くあったことから「フヂガサコ」と字名がついたと言われる。
クワギ:山クワが多くあった所と一言われる。
ウリギ:ウリギの木があった。(皮部が青くて葉はもみぢ形をして少しもみぢの葉よりも大きい。
コジヲ:奥大道の部落所有山。
イシナベ:国有林の山の中に鍋の形をした大きな石があるので「イシナベ」と言う字名がついたものである。
コヲジカセ:国有林で、もみ、とが、ぶな、もみぢなどの大木があり、秋は紅葉で美しいところである。
ジヨヲキン:昔は、国有林で現在は民有になっている。
カミヤシキ:「番所ナロ」のうえの方の人家をカミヤシキと言う。
タノコエ:「ナロ」から仁田又に越る道路があることから「タノコエ」と字名がつけられた。
ヒガシカゲ:日が当らないかげ地のためついた字名である。
石神:昔は、石神を祀られていた所と思われる。
ヲリツキ:「タノコエ」を越えておりついたところで「ヲリツキ」と言われる。
上ミ川平:仁井田又川添にあり、人家もあり田畑もある。
下タスギ、上ハスギ:昔は、焼き山で採草していたとのことで、現在は新木林となっているが、山が広いため上と下に分割して字名を付けたものと考えられる
山モト:国有林並び、民有林へ行く登り口である。
孫右門:孫右門と言う人がいて、其の所有地であったものと思われる。
ツエガホリ:山津波によって崩ずわりとなり、平坦地が出来田畑を作ったところ。
ロクロヲパ:「きじ」の材料になる「トチノキ」があり、木地師が居住していたと思われるところ。山一つ越えた所の下津井に木地師がいたと言われる。ロクロは木地師の大切な道具であったところから、地名の付いたものと考えられる。
笹平山、ササ、ササノヲイ:一千メートル以上の山で頂上部には笹が群生しているところから笹平山と字名がつけられたものと思われる。
伊勢松:人物から来た字名ではないかと考えられる。
ムカイバタ:仁井田又川奥端の向いにあたるところで、人家や田畑もある平坦地である。
ホトガタヲ:大正町下津井(越える街道)(峠)である。現在は自動車が通行出来る道路になっている。
渡り道:「ホトガタヲ」に通ずる小道である。
チウダ:比較的日当り、水もちの良い田のあるところ。
力ゲパ夕:日当りの悪い所。
仁井田又:仁井田又組で一番ナロとなっているところで、人家も田、畑も多く一番早くから開けた所と思われる。
クスノ:昔の茶堂に幽霊が出て通れんようになって、伊予大洲の坊さんを雇って御祭りをしてもらって大蛇がにげる時、踏みこかした跡が大つえになったと言ふことから「クスノダバ」になった。その大蛇は坂島七轟に、にげて現在竹田福美氏宅の下の井戸で子供が遊んでいたところその子供がいなくなったが、大蛇がにげた方向の「カジユウ」と言うところに、子供の着ていた着物が松木にかかっていたが子供は行方不明であった。
【口大道】
力卜口、カトロタニ:一、昔は、奥大道辺りには鹿がかいたことがあり、鹿の通り道であったと考えられ、カトロと字名を付けたものと思われる。
二、鹿を良く見かける谷で、鹿が水をのみに来たところとも考えられる。
ヒミチ:焼畑の火をきる道のことである。
ヤンザ:大道部落の一番下の端でこれから大道に入るとこでひと休みしたことから、ヤンザと字名がついたと言われる。
石神:山に往来の交通安全を祈願して祀ったものであることから、石神と字名がつけられたものである。
スギヤブ:大きな杉林が昔からあったところから「スギヤブ」となった。
大サコ:大きな堀になっていて「サコ」になっている。
マツパシラ:伊賀正信氏の先祖が住んでいたところで、庭に大きな松の木があったと言われる。
長谷:非常に長い谷に流れているのでその地形をとって字名をつけたものである。
ミトシロ:谷は小さいが、水が多く舌み水及び水田等に使用されている。
コジヲ:細い水田があり、昔の話しでは百せまちあって残り一せまちが(みの))の下にかくれて通称字名が九十九せまちと字名がついたとも言われている。
カクレパタ:見えない所に畑があったとも言われる。
タ力ヒラ:高い山で広くて平になっている。
西タシ口、ヒガシタシロ:下大道の中心か西対東の方角にあたるところ。
不動:日光院の持地であった。現在は芝正行氏所地となっている。
久保:窪みがかった地である。
セゴシ:山伏峠を越て白井川に通ずる道路のふもとである。
ナカパタ:国有林の入口で、昔は切畑もあって作物を作っていたと言われる。
古屋谷、タクミ:昔、偉い祈祷師が住んでいた屋敷であると思われる。現在も墓地として自然石を建てられてある。
ユスガフチ:カナコ渕に大蛇がいて、安斉坊がこれをおいてはいけないと言ふことで、セキの小刀をなげこんだら白い布を引いたようにし、にげた所が「ユズガフチ」にきたので猟師が鉄砲で打ったら、その渕が血で真赤にそまった。その小刀は番所谷の茶堂の裏にうめてあるので、今でも人の立入は禁止されていると言われる。
サクラガホリ、サクラガウネ:サクラの木が多かった。その木は製紙工場で木管として使用されていて出荷された。サクラの木が多いため「サクラガホリ」「サクラガウネ」と字名がつけられたものである。
ヒウラ:南向きの日当りの良い所。
ミヅナシ:古い井戸があるが、水が少ない。現在、竹内清義氏が住んでいる。
ワナノ:三野進と言ふ小武士墓があり、そこに刀があってその墓や刀にさわるとたたりがあると言う。さわった人は、病気になり死亡した人もあると言われる。
イツトイギ:舟の櫂(水をかいて舟を進ます道具)に使用される。木「イツトイギ」が多かったためにつけた字名と思われる。
カミダ:下の方に水田があって、上をさしたものである。
サヲダ:水田にいつも水がたまった所で、ことは日の御子様を祀っていたところに大桧があったが昭和初期に切った。その水田には女が入られんと言ふ伝説がある。現在は其の片角に残してあると言われる。
モリ:ここは稲荷神社をお祀りしているところ。
ウルシガクボ:漆の木が多くある山である。染物に使用される材料となる木。そのため「ウルシガグボ」と字名、がついた。
大ヒラ:平い山で広い山からきた字名である。
ヲヲダパ:山の上と下に駄場があり、昔は畑で作物を作っていた所である。
キリノギ:馬の足を祀った神社があった。今は合祀している。それはこの奥に「ニワタニ」と言ふ所があり、ここに平家の落人は住いして馬を飼っていたものと思われる。
シユジウ:芝家が主で林家が従であって「主従」と言ふ字名がつけられた。
力卜口:門脇の守神(大元神社〉として祀られていたが、大正8年頃に芝家の黄幡神社の勢力に従い現在は、口大道部落氏神黄幡神社を氏神としている。
フルアン:地吉から安藤精喜と言う医師をむかえ住居を建てて提供し現在の診療所であったが、大正時代頃には伝染病者を隔離するところとなったが昭和20年頃まで建物があったが、現在はない。
クリノキ:石神神社と大社神社を祀り、子の日に祭りが行なわれていた。大きな「クリノキ」があったことから字名がついた。
クワカケマツ:共同墓地があって墓握グワを掛けていた松の木があったと思われる。墓を握った道具は、けがれているため何日かおいて内へはすぐにとってこなかったことから考えられる。
ムカイダパ:大道りから見て向いに当る田、畑ある場所。
アカヅ工:土質的に石も赤く、土も赤く土地が軟弱なため山崩れの多い所から「アカヅエ」と字名がつけられたものである。
▽徳弘勝氏の特別寄稿
・大道の果たしたミチ(p89)
古代、中央と土佐をむすんだ官道のいわゆる南海道というのは、京都をでて紀伊(和歌山県)にたちより淡路(兵庫県)で海をわたり阿波(徳島県)をとおり讃岐(香川県)から伊与(愛媛県)をへて土佐という道筋であった。伊与は、阿波境に近い宇摩郡新宮村馬立から西南にまわりこみながら「おそ越」をへて幡多郡十和村の奥大道にとりついた。
「土佐の西北部の国境から国府へというような、まわり遠い道すじであった(山本大著・高知県の歴史)」といわれる。
大道のミチはあまりに遠く、山谷がけわしく危険であった。七一八年(養老2年)五月、土佐の国司は、阿波から海岸まわりで土佐にはいる道を申請。ゆるされて新道がひらかれた。
・又は山の地形方言(p94)
一つのものが二つ以上にわかれているところ。また「そのもの」を先祖たちは、又とよんで合意した。
十和村では標高六三三メートルにおいて足を張り立っている山を「大又山」(オオマサヤマ)と名づけた。久保川の流れを「日の地」→口大道→楠野をすぎると「仁井田又」(ニイダマタ)に出合う。昭和三十四年ころ桂井和雄さんが、次のように描いている。
「山村の道路や谷川の分岐点の状態を説明したことばが、そのまま地名となっているものに又のつく地名がある。こ れは下流から上ってきて山路がY型に分れているところの名称に多く、その最初の分岐点は一ノ又(市の又)、それが三つに分岐しておれば三つ又となり、その附近の事物を目標にして川又、津江文などというととになる。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p1:大道、大畑、番所谷、久保川、カンドウ谷川、ハル谷川、ユル谷川、高野谷川、西籔谷川、仁井田又川、仁井田又口橋、祇園神社、龍王神社、天満宮、大道のコナラの大木、龍王之滝、平家の里興し記念碑、絹巻之駄場、奥大道公民館、大道の高野槇
p2:大道、向畑、仁井田又、仁井田又川、孫子谷川、孫右門谷川、向橋、いかだ橋、五葉松
p3:大道、楠野、久保川、押川谷川、落合橋、奥大道生活改善センター
p6:大道、久保川、押川谷川、カトロ谷川、窪の谷川、古谷川、タクミ谷川、ツエ谷川、古屋口橋、宮向橋、黄幡神社、Ю足山、Ю不動、大道へき地診療所、口大道公民館
p9:大道、口大道、久保川、ト谷川、クワカケ谷川、口大道橋、Ю駄場
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
大道、大畑、番所谷、向畑、仁井田又、楠野、口大道、久保川、地蔵山、笹平山、大滝
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
(四等三角点:標高m/点名:ひらがな)字番地
笹平山(二等三角点:標高1034.78m/点名:ささひらやま)大道字ササ1320-2番地
仁井田越(四等三角点:標高639.41m/点名:にいだごえ)下津井字催合851-4番地
高野(三等三角点:標高655.43m/点名:こうの)大道字タカノ1293-1番地
桑木(四等三角点:標高630.20m/点名:くわき)大道字クワギ1284-12番地
大畑(四等三角点:標高617.85m/点名:おおはた)大道字ヒコヲ59林班
鍛治谷※ママ(四等三角点:標高677.59m/点名:かじたに)十川字鍛冶屋谷1226番地
番所谷(四等三角点:標高594.52m/点名:ばんしょだに)大道字石仏1263番地
若宮(四等三角点:標高773.85m/点名:わかみや)大道字ワカミヤ1393-3番地
大平(四等三角点:標高639.71m/点名:おおひら)大道字大ヒラ1359-6番地
思案場(三等三角点:標高859.53m/点名:しあんば)大道字ワカミヤ1339-2番地
大道(四等三角点:標高619.67m/点名:おおどう)大道字カトロノタニ1386-13番地
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
糀ヶ瀬山:(2056林班)
小椎尾山:(2057林班)
揚串山:(2058林班)
箱山:(2058林班)
古屋山:(2059・2060林班)
梼ヶ内山:(2061林班)
内匠谷山:(2061林班)
■高知県河川調書(2001平成13年3月:p54)
久保川(四万十川1次支川久保川)
左岸:大道字大カゲ324番の3地先
右岸:大道字文蔵地503番の1地先
仁井田又川(四万十川1次支川久保川2次支川仁井田又川)
左岸:大道字ツエガホリ687番地先
右岸:大道字ササノヲイ1325番の4地先
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
大畑橋(/奥大道)3.70
口大道橋(久保川/口大道)25.60
向畑橋(仁井田又川/大道)15.30
いかだ橋(仁井田又川/大道)11.50
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 26奥大道自然観察教育林(日本最古の複層林)
奥大道自然観察教育林は、現在は国有林となっているが元は土佐藩の御留山で、日本で最も古い複層林である。御留山とは藩政期の藩有林、複層林とは成長期の違う大きな木と小さな木が同時に成育している森林である。
土佐は山国で、長宗我部の時代から良質の木材の産地として知られている。藩政期、土佐藩の仕置役・小倉少助が進言した「輪伐法」という森林経営法が、家老・野中兼山によって積極的な林業政策として展開された。
藩は、良材を産出する山林を藩有林の御留山として管理し、そこで生産される木材の販売を、藩の貴重な財源とした。また、材木を伐採した山には積極的に植林が行われ、森林資源の確保も図られた。
奥大道自然観察教育林も、四万十川流域の奥山の多くが御留山とされた1つで、文化8年(1811)にスギとヒノキが植林されたと伝わる。植林から120年余りたった昭和9年にその一部を伐採した後、改めてスギ500本、ヒノキ500本を植林し、旧藩造林を豊かな複層林にしている。奥大道自然観察教育林の景観は、藩政期から「輪伐法」という森林経営法と山村住民のたゆまない努力によって山林が守り育てられたことを理解するうえで、貴重な存在である。
・ 27古屋山林木遺伝資源保存林
・ 28梶ヶ谷林木遺伝資源保存林
古屋山林木遺伝資源保存林は、「大道松」と称した優良なアカマツの天然林である。「大道松」は枝下高が高く、樹幹、木理とともに通直で、形質が優れ、芯材は桧に似て色が淡く光沢があるのが特徴。大正13年から昭和30年頃まで伐木され阪神方面に送られた。その美しさから「大道松」と称され、あかまつ美林ともいわれた。
また、梶ヶ谷山林木遺伝資源保存林は優良なモミを主体とした260年生の天然林で、ともに、日本の発展や戦後の復興への木材の需要に対し、積極的な木材の供給に応えてきた国有林の一部である。古屋山林木遺伝資源保存林と梶ヶ谷山林木遺伝資源保存林の景観は、四万十川流域の豊かな森林と、それによって支えられた日本の国有林事業の歴史を知ることができる貴重な存在である。
■四万十町広報誌(平成18年10月・平成23年12月号)