20150608初
20160820胡
【沿革】
長宗我部地検帳では、「加江坂本村」と「賀屋坂本村」と表現され二区分されている。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、高岡郡床鍋村、影野村、奥呉地村、魚川村、下呉地村、替坂本村、六反地村、仁井田村、小向村、中ノ越村、富岡村、平串村の12か村が合併し「仁井田村」が発足し、替坂本村は大字となった。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡仁井田村は、 窪川町・松葉川村・東又村・ 興津村と 合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は、替坂本と山株の二つの行政区があり、それぞれ班・組編成はしていない。
【地誌】
旧窪川町の北東部。南流する仁井田川上流地域。支流の奥呉地川との合流点下流左岸の小平地。JR士讃線・国道56号・県道323号作屋影野停車場線が通り、集落は山麓にある。地内は、替坂本集落と仁井田川右岸の山株集落とでなる。山株には仁井田保育所と影野保育所を統合したひかり保育所がある。字汢岡山に河内神社がある。東又の道徳や平野、奈路に通じる龍石トンネルが整備された。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上段左側、南流する仁井田川の流域が替坂本集落)
【地名の由来】
上ノ加江へ通じる坂の起点”加江への坂の本”が由来という。
郷土史家の辻重憲さんは『史談くぼかわ第5号』で「今の中土佐町のうち、大矢井賀、小矢井賀を除いた旧久礼町と、旧上ノ加江町の区域と、旧仁井田村とは戦国時代、久礼郷と言った。上ノ加江へ通ずる道が今の替坂本にあった。それ故、加江(上ノ加江)に通ずる道が坂の本から起こった地名で、古い文書には加江阪本と記してある。」と書かれている。
替坂本から龍石トンネルの上部を峰越して道徳の大井川を上り四道峠を越えて楠木(くちき)に降り付き、そこから上ノ加江川を下って上ノ加江と続く道。昔は加江坂本、賀屋坂本などとも書かれたという。
地名のもとにもなった上ノ加江。不思議なことに土佐清水にも下ノ加江がある。京に近い方が、上であるので納得はいくが離れすぎているのでどんな関係なのか知りたいものだ。
岡村憲治『西南の地名』には下ノ加江について「植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変わり、明治には下ノ加江村」となったと述べている。
民俗地名語彙辞典には①カヤの生えている所②ススキ③熊笹④薪⑤松の葉⑥入江とある。ここでいう「カエ(加江)」は入江を意味する「カヤ」の転訛したものではないかと思える。
行き交う人々にとって地名は重要な情報である。往来地名をあげてみると、「坂本・坂」のほか「峠(とうげ・とう)」「越(こし・こえ)」「串(くし)」「休場(やすば)」「傍示(ほうじ)」「矢掛(やかけ)」「地蔵(じぞう)」「石・石神」「折付(オリツキ)」「ミノコシ」「堀切(ほりきり)」などがある。 →地名のお話サイト「峠の地名」参照
【字】(あいうえお順)
アリノ木窪、岩ノ本、大窪、大田、大畑、折尾、折尾山、柿ノ木窪、カツ子岡、神屋敷、カモン谷、北屋式山、具足谷、サカバヤシ、櫻ノ間、定足山、下岡、タクミハタ、谷屋式山、ツエノ野、中岡、長サコ、長サコ山、中谷、ナツチ、汢岡山、ハタゴ谷、又タ岡、ミサキノ本、宮ノ地、彌太郎谷、山形、六反ダ【33】
※「又タ岡(またおか)」とあるが字マスターのパンチミスで正しい読みは「ぬたおか」でホノギ「ヌタノ岡」に比定できるのではないか
(字一覧整理NO.順 替坂本p99)
1下岡、2ミサキノ本、3神屋敷、4六反ダ、5柿ノ木窪、6定足山、7カモン谷、8宮ノ地、9中谷、10汢岡山、11又タ岡、12大窪、13大畑、14山形、15彌太郎谷、16北屋式山、17中岡、18岩ノ本、19カツ子岡、20折尾山、21長サコ山、22ナツチ、23谷屋式山、24ツエノ野、25大田、26ハタゴ谷、27櫻ノ間、28サカバヤシ、29タクミハタ、30アリノ木窪、31折尾、32長サコ、
※字マスター「具足谷」は字一覧にない。魚ノ川の字名にある。
【ホノギ】
▼加江坂本村(高岡郡久礼分地検帳之事p639~643/検地日:天正16年2月22日~23日)
掃部谷神田、中谷神田、ヌタノ岡、大クボ、ヲク神田、南地、北地、下道ノカミ、神田、中岡ヤシキ、エノキノクボ、ミスマ畠、南ヤシキ、北地川原ダ
▼賀屋坂本村(p643~644)
大タ、ヨコタ、イカリ道ノ下
【通称地名】
【山名】
【河川・渓流】
彌太郎谷(高知自動車道Br)
中ノ谷川(高知県防災マップ)
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
河内神社/16かわうちじんじゃ/鎮座地:大窪 ※村社(現在は集会所に隣接。字汢岡山に鎮座)
1)掃部の地名
掃部寮(かもんりょう・かんもりのつかさ))は宮中の行事の設営や殿中の清掃を行う、律令制において宮内省に属する部署。掃部はその職の最下級の名称。
2)加江坂本村と六反地村
長宗我部地検帳には六反地村の検地の後、「山カフ」から、加江坂本村のホノギ・掃部谷神田=字・カモン谷、中谷神田、ヌタノ岡と検地が進む。地検帳に六反地村とあるがその後の文献史料の寛保郷村帳には「六反地新田」として記載されている。
州郡志には加江坂本村とともに六反地村もひとつの村として記述されている。しかしながら南路志には加江坂本村の段に「六反地枝村慶安年中開発開発セシニ不成、其後小倉少助新開発也」とある。
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
地検帳では、加江坂本村と表現されている地域と、賀屋坂本村と表現されている地域に分けられ、二区分されている。(同p297)
検地を行ったのは、加江坂本村は天正16年2月22日のことであり、賀屋坂本村とされている地域は同月20日に行われている。
・神社: 河内神社(村社/字大窪鎮座)/合祀:八坂神社、熊野権現、竈戸神社、白皇神社 若宮神社
・寺院: 地蔵院
■州郡志(1704-1711宝永年間:下p256)
加江坂本村の四至は、東限横峯西限往還路南限五水谷川北限影野界縦五町横五町其土白
寺社は、地蔵堂、明神社
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高101.685石、戸数14戸、人口65人、男38人、女27人、馬10頭、牛5頭、猟銃2挺
■南路志(1813文化10年):3巻 p297
146加江坂本村 仁井田郷本堂之内、又云久礼郷十村之一也 地百六石二升三合
六反地枝村慶安年中、須崎村郷士武政利右衛門開撥せしに、功を不成して其後小倉少助新開発也。
小向村同上承應年中、小倉氏新開撥也。
川内大明神 クホタ 祭礼九月十二日
三所権現 同 正体鉾
白王権現 トウノ谷 正体同 祭礼九月十二日
譲葉権現 同 九月十一日
牛頭天王 同上
■ゼンリン社(2013平成25年)
p24:替坂本、山株、仁井田川、替坂橋、中の谷川ダム、龍石トンネル、河内神社
p32:替坂本
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
替坂本、山株、高知自動車道、龍石トンネル
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
替坂本(四等三角点:標高431.74m/点名:かえさかもと)替坂本字汢岡山528-1番地
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
山形橋(無名/替坂本字山形306-1)
替坂橋(仁井田川/替坂本字大窪257-3)
■四万十町広報誌(平成24年8月号)