20150608初
20161124胡
【沿革】
長宗我部地検帳に「金上野之本村」と枝村として「金上野之村成川」、「ミコノ川之村」がある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「金上野村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村・峯ノ上村・金上野村・見付村・大奈路村・根元原村・神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村・西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、金上野村は大字となった。
大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。
昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。
昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内は、金上野1・金上野2・金上野ミコノ川・金上野3・金上野4の行政区にわかれており、各行政区とも班・組編成はない。
【地誌】
旧窪川町の東部。四万十川の支流吉見川の上流一帯。国道56号が通り、集落は五在所ノ峯北麓と、吉見川を隔てた北の小山丘際にある。市街地近郊として多くの住宅が形成されている。窪川運動場・成川神社・金上野神社がある。五在所ノ峯(657.96m)は一等三角点であるとともに四国に二か所しかない天測点がある。窪川自動車学校が廃校となりその跡地に立派な町営住宅と公営分譲地が整備された。地内は金上野上(1)、金上野中(2)、金上野下(3)、ミコノ川の3集落となっている。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央、北流する吉見川流域が金上野地区)
【地名の由来】
【字】(あいうえお順)
天竺野、井堀、岩柄、兎谷、梅ノ木谷、上ハ井、上向、江戸見、大岩谷、大谷口、大谷山、大駄場、大長瀬、大平、大平山、岡ハナ、岡屋敷、押川口、押川谷、加賀ジリ、匿レ谷、カクレ谷、梶カ谷、梶加谷、樫ノ木林、樫木林、加治屋口、上坂、上波瀬ガ小路、上林野、上横田、カラス田谷、烏田、烏田谷、カロト越、川辺ノ前、木畝、木セ、クスノ木谷、楠ノ木谷、管ケ谷、黒岩、桑木畑、桑畑、小池ノ谷、小カツ籠、五在所山、古城、小谷口、五反地、小ツヅラ、小長瀬、己斐加谷、コビガ谷、己斐加山、己斐山、才能、佐右衛門、左右衛門九郎、作右衛門、作右衛門林、佐五右エ門屋式、佐吾エ門屋敷、三本松、椎ノ木谷、下向、下ハゼガ、下波瀬ガ小路、下ミコノ川、焼木谷、障子越、ショジ越、須ケ加谷、高ヒ、津々ラ、寺カ谷、出分、堂ケ谷、堂免、徳庵、土俵ケ畝、長田、長野、中堀、中向、仁イヤ、荷掛、西原渡瀬、汢ノ川、野添、野中、ハゼガ小路、初尾田、ハツヲデン、火野谷、ヒビノ木、深谷、本谷、本モ谷、又之亟屋敷、三日月山、ミコノ川、ミコノ川谷、見付越、ヤクチ、ヤケ木谷、ヤケソ、ヤケソ谷、山伏野、湯出ケ谷、與助、六升蒔【112】
(字一覧整理NO.順 金上野p12~15)
1下向、2上向、3寺カ谷、4徳庵、5梶カ谷、6天竺野、7障子越、8兎谷、9五反地、10下ミコノ川、11六升蒔、12ミコノ川谷、13佐五右エ門屋式、14西原渡瀬、15ヒビノ木、16ヤクチ、17ミコノ川、18才能、19野中、20山伏野、21大平、22樫ノ木林、23加賀ジリ、24押川口、25押川谷、26火野谷、27本モ谷、28椎ノ木谷、29大岩谷、30土俵ケ畝、31大長瀬、32小長瀬、33仁イヤ、34上林野、35佐右衛門、36荷掛、37カクレ谷、38カロト越、39楠ノ木谷、41江戸見、42小カツ籠(こつづら)、43野添、44岡ハナ、45三日月山、46コビガ谷、47大駄場、48中堀、49ヤケソ、50ヤケソ谷、51出分、52井堀、53左右衛門九郎、54梅ノ木谷、55五在所山、56津々ラ(つづら)、58大谷口、59小谷口、60木畝(きせ)、61岩柄、62己斐山(こひやま)、63焼木谷、64與助、65上横田、66加治屋口、67上ハ井、68又之亟屋敷、69上波瀬ガ小路、70下波瀬ガ小路、71黒岩、72小池ノ谷、73湯出ケ谷、74上坂、75汢ノ川、76須ケ加谷、77長田、78深谷、79初尾田、80中向、81桑畑、82川辺ノ前、83堂免、84岡屋敷、85堂ケ谷、86三本松、87高樋(たかひ)、89カラス田谷、90古城、91佐吾エ門屋敷、92梶加谷、93桑木畑、94管ケ谷、95下ハゼガ、97ショジ越、98大平山、102本谷、104作右衛門林、105匿レ谷、106ヤケ木谷、107烏田、108烏田谷、109作右衛門、111小ツヅラ、112己斐加山、117ハツヲデン、119長野、120ハゼガ小路、122己斐加谷、124クスノ木谷、127見付越
※現在の土地台帳の調査は、金上野北西部の吉見川左岸の「下向」から逆時計回りにミコノ川の奥付の「六升蒔」まで進み、折り返して「ミコノ川」周囲を終え、「才能、野中、山伏野」と吉見川左岸を峰ノ上堺の「左右衛門」に至る。ここから右岸に渡り「荷掛、カクレ谷、カロト越」と五在所の峯の西麓を北側の成川に向けて進む。成川は左岸を上り右岸に渡り、折り返し下り吉見川合流点からはその右岸を下る。「黒岩」からは汢ノ川を一周し、吉見川右岸の「長田」から「中向、桑畑、堂免、岡屋敷」と古市町境となる「高樋」まで進み、ここからは見付川左岸から「カラス田谷」を上下し金上野地区を一周することになる。
【ホノギ】(金上野之本村/枝村:金上野之村成川・ミコノ川村)
〇仁井田之郷地検帳 四(高岡郡下の2/検地日:天正16年12月14日)
▼金上野之村成川(p348~349)
ノソヘ、鍛冶屋口、戌亥、ハサコ、東溝、横タ、(▼川奥ノ越ノ下ヨリ付)トトロクチ、川奥ノ越、カチタ、左衛門九良サイノヲ、サイノヲ、ナモトタ、井ホリ、坤道、ヤケソ、小屋ノマヘ、中ホリタ、岡ハナ
▽爰ヨリカロウトノ越ノ谷(p349~351)
ノソヘ、中ノ新カイ、ツツラカ谷、ニカケ、カロウトノ越、ニイヤタ、河原田、ヲシ川
(12月16日)
ヒノクチ、ヲウヒラ、永野、ワタセノモト、カミハセカセウチ、池ノモト
▽爰ヨリヌタノ川ノ谷ノカミノハシヨリ付(p351~352)
ヌタノ川、スケノ谷、カヤノキ、山フシノ野、ノ中タ、アナ渕、山ノ子、ツ井ノモト
▼金上野之村之内ミコノ川之村(p352~353)
ミコノ川、カチタ、(▼爰ヨリ戍亥小マタノ谷之セイモトヨリ付)小マタ、松ノモト、ツクハタ、(▼爰ヨリセウシ越ノ谷ノセイモトヨリ付)セウシ越、道ノ谷、天竺ノ野、魚テン
※「魚テン」は天竺野、ショジ越附近であった。【植村輝子談(90歳)】
▼金上野之本村(p353~356/12月17日)
マツノモト、樋ノクチ、ワタセノモト、中マタ、河辺ノマヘ、西ヤシキ、クワイタ、ユハヤシキ、タタサキ、藤村ヤシキ、小次良ヤシキ、シウケ、井ノクホ、岡ノヤシキ、堂ノモト、カラステ、ウソフキカトウ、ヲト井カセ、ヨウタカノクホ、彦衛門タ、ハシツメ、リヤウタ、リヤウヤシキ、徳雲庵寺中、ニイヤヤシキ、井領テン、天神マヘ
※青色等強調文字のホノギは、比定された地名
【通称地名】
【山名】
【峠】
カロウト越(金上野△峰ノ上)
【河川・渓流】
みこの谷川(河川調書p95)
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【ため池】四万十町ため池台帳:ため池名(所在地・貯水量・提高・受益面積)
ショジ越池(所在地・貯水量・提高・受益面積)
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
金上野神社/21きんじょのじんじゃ/鎮座地:上向 ※村社。中向の付近の天満宮と運動公園下集会所の金上野神社?
伊豆山神社/26いずさんじんじゃ/鎮座地:五在所山
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2020令和2年)
第1章 四万十の地名を歩く
4、地名語彙からムラを読み解く
地名語彙のカテゴリー分類により、四万十川中上流の四万十町域で使われた地名の全体像が把握されたところで、各集落の小字分布からムラの景観や暮らしを読み解いてみよう。ここでは、四万十町窪川地域の大字・金上野と十和地域の大字・小野の小字分布を分析する。
(1)金上野(p12)
まず、社会的要素の地名語彙の分布を見てみよう。集落と集落をつなぐ峠の存在を示す「コエ」「サカ」地名は、大字・西原(さいばら)との境界にある「ショジ越」、大字・見付(みつけ)境の「見付越」「上ミ坂」、大字・峰(みね)ノ上との境にある「カロト越」が大字境に分布している(図8)。「ショジ越」「カロト越」は戦国末期の『長宗我部地検帳』にも見られる地名で、中世から使われた峠道の存在が確認できる。家屋敷を表す「ヤ」「ヤシキ」、寺を示す「アン」(庵)、中世の山城を表す「シロ」(城)、「人名」の接尾辞を持つ地名語彙の分布を見ると、平地部は「岡屋敷」のみで、谷奧や丘陵部に位置するものが多い。またこれらが、集まるのでなく分散して位置している状況が確認できる(図9)。
次に、自然的要素の「ノ」「タニ」と社会的要素の「タ」「デン」の分布を見てみる。金上野には、「天竺野」「山伏野」「上林野」と「ノ」地名が多い。その位置を見てみると、山裾の平たん地にある。「野添」「野中」など「ノ」に関連した地名も見られる(図10)。年貢が免除された田を指す「堂免」は、「徳庵」の免田の地名が残ったものと推測される。「タ」地名は谷口の場所に位置する、その奥には「タニ」地名が散見する。棚田の開発は、灌漑システムからA型=長水路型で長大な水路から用水を確保する近世末から近代にかけて発達したもの、B型=小浸食谷から取水する迫田型中世農民の開発と強調されてきた山間部の狭小な湿田、C型=短水路乾田型で中世の在地領主とも関わる谷の開口部に展開するものの3類型に分類される15)。「タ」地名の分布を見ると、金上野でもA型による平地部の水田が開発される以前は、B型、C型の田が主体であった状況が確認できる。
このように水源の豊富な金上野では、耕地・宅地の「開発」に関わる地名が多い。また、幡多郡と高岡郡をつなぐ往還(遍路道)の途中にあり、集落間の行き来を示す「交通」に関する地名が広く使われたことが推測される。
脚注・写真・図表など詳細は当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2020令和2年)
第2章 四万十の村々を歩く
6、金上野(p48) 仁井田庄の一村
吉見川の上流部にある集落で、窪川から佐賀へ抜ける国道56号沿いに位置する金上野。窪川の町に近く住宅地と農地が混在する現在の景観から遡って、村の歴史的景観や暮らしを探ってみよう。
(一)『地検帳』に見る村落景観(図16・17)
(1)集落
「仁井田郷談」(『南路志』所収)には、仁井田(にいだ)庄窪川郷13村の一つと記されている金上野村。九条家の庄園・幡多庄内の仁井田郷に含まれ、土佐清水の金剛福寺供養奉加米を幡多庄に課した正安2年(1302)の「政所下文」に「仁井田参斛五斗」と記されている(『金剛福寺文書』)。また、応安4年(1371)に比定される『長福寺文書』には「土佐国幡多庄仁井田村」と記されている。幡多庄は一条氏に伝領され、幡多郡の中村に下向した土佐一条氏の高岡郡進出の足がかりになっていく。天正17年(1589)の『地検帳』(仁井田之郷地検帳)では、一反余の西原分を除けば土地は全て窪川分となっており、仁井田五人衆と呼ばれる有力武士の窪川氏の支配下にあった。金上野本村と成川(なるかわ)、ミコノ川村の3地域に分かれている。
屋敷地を見ると、南から「鍛治屋口」1軒、「井ホリ」1軒、「シモハセカセウチ」1軒、「岡ハナ」1軒、「ミコノ川」1軒、「西ヤシキ」1軒、「タタサキ」1軒、「マツノモト」5軒、「藤村ヤシキ」1軒、「藤村タ」1軒、「岡ノヤシキ」2軒、「カラステ」1軒、「リヤウヤシキ」1軒、「徳雲庵寺中」2軒、「ニイヤヤシキ」1軒の21軒である。地名の現地比定から位置を確認すると、「成川」に4軒、「ミコノ川」1軒、「松ノ元」周辺に11軒、「下向」4軒、「カラステ」1軒という5つの集落域が見えてくる。特に現在も集落の中心があり宅地化している「松ノ元」は家屋が集まり、集村化している状況が確認できる。「松ノ元道懸テ」の表記から現在の国道とほぼ同じ位置に道が走っていたことが分かる。「下向」の「徳雲庵」は寺中であるが、江戸時代には退転し、現在跡地に地蔵堂がある
(2)土地開発・水利
地名の現地比定が不十分で断片的にしか分からないが、南側では「ニイヤタ」「ツツラカ谷」「ヲシ川」といった小谷沿いの谷田、成川の大谷沿いの「上横田」「左衛門九良サイノウ」「井ホリ」の谷田、大谷開口部の「岡ハナ」「鍛治屋口」といった田が開けている状況が確認できる。北部でも小規模な「谷田」が開発されている。水量の多いヌタノ川沿いの「ヌタノ川」「スゲノ谷」、カラス田谷沿いの「カラステ」、ミコノ川の「ミコノ川ノヲク」、小谷の開口部の「大平」「セウシコエ」「魚テン」などである。平地部の「ノナカ」「山フシノ」など低地部の田の利水は不明である。いずれにしても、戦国末期の段階ではまだ谷田がほとんどであり、吉見川の堰からの長距離用水路を引いた平地部の田の開発や、谷奥に溜池を築き田地を増やす開発は、近世以降の産物とみてよいだろう。
(二)昭和期の村の暮らし
(1)地名
井堰 田んぼへの取水堰は吉見川の「オカバナゼキ」「永野ゼキ」「山伏野ミゾ」、大谷の「ヤジエモン堰」(成川神社の前)がある。
ヌスット谷 盗人が入っても行きつかん、それぐらい谷が深い、山が深い。上に上にあがっていたら若井川に行く道がある。
松ケ江川 地域では吉見川を「まつがえがわ」と呼んでいた。
古城 川向こう(西側)の山に古城がある。金上野城跡。
茶屋堂 おへんどさんを接待した茶堂が国道沿いにある。御大師様の石仏を祀っている。
二宮さま 女の神様で美子ノ川神社(二宮神社)ともいう。二宮さまのお宮で夏祭りがあり、夜は相撲が行われた。
(2)集落
17世紀末の『元禄地払帳』によると、『地検帳』段階の本田高は197石余、『地検帳』以後に開発された新田高は140石余で江戸前期にも一定土地開発は進んでいた。江戸前期は窪川山内氏が村を知行した。18世紀半ばの『寛保郷帳』には戸数53、人数203、馬28とあり、戦国末期から家屋は2倍以上に増えている。現在の集落は、上(第1常会)、中(第2常会)、下(第3常会)で、上は成川神社、中は二宮神社、下は天満宮が氏神である。
集落には、カジヤ(西岡)、炭や材木を町へ運ぶ馬車ひき(田村の「いっちゃん」)、製材、長谷川商店(子供が菓子かって、豆腐、しょうゆを買うくらいの店)があった。魚屋は町の方から行商に来ていた。ミコノ川には昭和10数年ごろに金上野部落の信用組合があった。品物を売ったり、お金を貸したりしていた。昭和20年(1945)にはなくなっていた。
(3)生業
田 米の後に一部麦を植える人がいた。自分の家で若干のみそを造るため。米は若干農協に出す人もいた。畦には大豆、自分の家で石臼を引いて豆腐をつくっていた。
畑 カライモを畑でつくり、焼酎にもした。
炭焼き 地元の人が炭焼きをしていた。雑木を伐採する。山によってはスギがえい、ヒノキがえいとそれぞれある。50~60年前にそれぞれに植林したのが今の山になっている。
牛馬 田の耕作は、戦前はほとんどが馬で、昭和20年からはほとんどが牛。赤牛で黒牛はほとんどいなかった。1軒馬を使っていた、牛に比べて足が速かった。ばくろうさんは地元にいた。牛のえさは田んぼのふちの草を刈って与える。
ミコノ川 現在は12軒、昭和20年は14軒。冬は山へいってタキギをとった。畑で野菜を作って女の人が窪川の町へ天秤棒かついでふごに入れて売りに行っていた。豆腐、みそは昭和30年ごろまで各家で作っていた。
(4)交通・流通・娯楽
山手側の道 昭和30年ごろまでは山手側に道があった。部落の土地をかして国道ができた。
カロト越 峰ノ上にいく峠道。ボンネットバスが1車線くらいの道を通っていた。
ミズモチ 見付に越える峠の地名、ヤマモモがあってようとりにいった。ミコノ川の分にもヤマモモがあった。見付の人も採りにきた。
旧自動車学校 もとは松林がある広い場所で競馬をしていた。口神川の玉川まさごろうさんが馬を借りて競馬をしていた。半年に1回ぐらい開催され、昭和20年頃には年に2~3回行われていて、地域の人も見に行っていた。競馬場は東又地区の遠山にもあった。
芝居 明治27年(1894)生まれのおじいさんが芝居をしていた。金上野は芝居のほんもと、窪川町の本家と言われた。浄瑠璃や芝居はぎっちりやりよって上手だった。
南海地震 昭和の南海地震ではミコノ川の裏山がつえた。家は瓦が落ちて、礎石の石垣も崩れた。トイレや風呂の小屋もかたむいた。
(文責:楠瀬慶太)
聞き取り調査日:2016年3月7日
聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/楠瀬慶太・甫喜本一・武内文治
話す人:長谷川安夫さん(昭和27年2月生まれ)
植村輝子さん(大正15年3月生まれ)
脚注・写真・図表など詳細は当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
【補遺】
・林野という字は、ここらへんではハエノと呼んだ。
・「ウオテン」は天竺野、ショウジ越え附近やった。
・ミコノ川を地元ではヌスット谷と云っていた。この谷を登りつめると若井川部落にぬける。
・ヌタノ川から見付越えの道がある。その頂附近にある山モモを見付の人と競争で採ったもんやった。
・金上野の自動車学校跡のところで競馬をやりよった。口神ノ川の玉川アサゴロ―さん、戸村さらーが乗りよった。そのころは東又の遠山でもやりよった。
1)西原地区にも金上野地区と同じ字として「天竺野」、「障子越」があるのは何故か
2)「カロウト」地名が金上野にある。中世の葬制と修験の霊山五在所ノ峯との関連性は
3)五在所山と伊豆山神社
修験の山と伊豆山神社とカロウトと巫女の関連性は
■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)
当時のこの部落は、金上野之本村と金上野之村・ミコノ川之村の二つの枝村から成り立っている。(P51)
この部落の検地は天正16年12月14日から17日にかけてである。
・神社
天満宮(村社/字上向)/左合祀:六十余社、仁之宮、山之宮、竃戸神社
六十余社:窪川ではこの神を二十二社もまつっており、神社名は六十余社のほかに六十余尊社、六十四社、六十余尊、六十余所などと称えている(同P59)
成川神社(村社/字ヤケソ谷)左合祀:三日月神社、栄野神社、竃戸神社、山之神社、水神社
伊豆山神社(無格社/字五在所山)
・寺院
徳雲庵、東光寺、瑞光庵
・山フシノ野
山嶽修験者に関係あるホノギ。金上野の五在所山は、佐川(※越知)の横倉山、夜須・片地の大峯山などとともに土佐では名の通った修験者荒行の地(同P60)
・ミコノ川(※天満宮に合祀された仁之宮の鎮座してたところ。)
漢字で書けば御子ノ川または神子ノ川となるであろう。”二ノ宮”とは一宮に対する二宮であり、仁之宮の祭神を未詳としているが、おそらく”御子神”ではなかろうかと思われる。したがってミコノ川というホノギもこの祭神名からのものではなかろうかと思う。(同P60)
・井領テン、堂免井領田
堂免井とは堂免堰のことであり、今日でもこの堰は使用されている。元親はこの堰の維持管理のための領田を与えていたことが知れる。(同P60)
■州郡志(1704-1711年宝永年間:下p291)
金上野村の四至は、南限峯之上村北限見付村東西十二町南北三町其土赤
山川は、五臺山、大谷、津々羅谷、小屋之谷、眠之峠、唐櫃越坂、成川、神子之川
寺社は、天神社、大元社、荒神社
古跡は、古城址として「在眠之峠不詳城主」とある。
■郷村帳(1743年寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高197.395石、戸数53戸、人口203人、男109人、女94人、馬28頭、牛0頭、猟銃3挺
■南路志(刊本南路志3郡郷の部p302)
167金上野村 仁井田郷本堂之内、又云窪川郷十三村之一也。地百九十七石八斗九舛七合
今本田九十五石余、新田百五十三石余、家數四十軒、人高百六十一人
天神 シモムカイ 祭礼八月廿五日
大元権現 ナルカワ 祭礼九月十二日本社の榼ウト木ニ安置
二宮権現 ミコノ川
六十余尊 ウヲテン
権現 ハエノ
荒神 大道ノ下
観音 カラステン山ノ上
御在所山 高山也、村の右ニ有。山の八分より上ハ不能登、(略。本文参照)
今大明神 神野西村 窪川土居後ノ山 正体幣 祭礼九月九日
元禄六酉年九月廿五日、五社之内今大神勧請
■ゼンリン社(2013平成25年)
p89:金上野、吉見川、高樋橋、汢の川橋、ミコノ川停留所、松ヶ枝橋、天満宮、中向停留所、二の宮(神社)、天竺野里山自然公園
p100:金上野、吉見川、成川神社、林野停留所、成川橋、大平橋
※「林野」を地元では「はえの」と呼ぶ。【長谷川安夫談(64歳)】
■国土地理院・電子国土Web
金上野、みこの川、中向、下向、五在所ノ峯(標高658.3m)
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
五在所森(一等三角点:標高658.31m/点名:ございしょもり)金上野字五在所山113林班
大谷山(三等三角点:標高610.39m/点名:おおたにやま)金上野字大谷山1523番地
金上野(四等三角点:標高308.86m/点名:きんじょの)金上野字下ハゼガ小路1542-9番地
■鎮守の森(2009平成21年)
天満宮、成川神社、二宮神社
■高知県河川調書(平成13年3月/p95)
みこの谷川(みこのたに/四万十川1次支川吉見川2次支川みこの谷川)
左岸:金上野字五反地115
右岸:金上野字左右衛門屋敷135イ ※字名は「佐五右ヱ門屋式」
河川平均延長:620m
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
金上野橋(みこの川/金上野字ニイヤ503-1)
成川橋(吉見川/金上野字加賀ジリ404-3)
左右衛門九郎橋(吉見川/金上野字左右衛門九郎809-2) ※橋調書では左右門九郎
汢の川橋(吉見川/金上野字山伏野382-2)
第1山伏野橋(不明/金上野字山伏野382-4)
無名橋(不明/金上野字寺ガ谷1394-13)
出分橋(成川/金上野字出分756)
無名橋(不明/金上野字西原渡瀬200-1)
小谷口橋(不明/金上野字小谷口823) ※橋調書では谷口
加治屋口橋(吉見川/金上野字加治屋口871-ロ) ※橋調書では鍛治屋口
▼ゼンリン社地図
大平橋、第2山伏野橋、汢の川橋、鍛治屋口橋、成川橋、加賀ジリ橋、小長瀬橋、左右門九郎橋、金上野橋、出分橋、第1山伏野橋、小谷口橋
■四万十町広報誌(平成20年9月号・令和2年4月5月)