小石

こいし


20150422初

20170226胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には江志村の脇書に小石村とあることから、江志村の枝村の位置づけであったようだ 

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「小石村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、小石村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 

【地誌】

 旧大正町の中央部。四周は江師に接する。北西は梼原川を境に、対岸江師に面している。大部分が山地で大字の区域としては町内で一番小さい。南流する川沿いに水田・集落が立地するほか、集落を縦断していた国道439号は町道に移管し、国道は橋梁とトンネルで全面改良された。バス運行1日8便。製材工場がある。金刀比羅神社・茶堂がある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上段の江師地区の南、梼原川の左岸)

 

【地名の由来】

 小石は、四方を江師に囲まれた面積5ha位の四万十町で一番小さな大字である。

 君が代に「さざれ石のいわおとなりて」とあるように、今は小石でも時を経て、あつまり大きな岩となるだろうと祈りを込める。石は単に固い物体でなく、旅先の石を記念に持ち帰るように、信仰に似たその土地を象徴するものである。建築物の礎石に関係者出身の石を集めるようなものである。峠の石仏、山でのケルンなど、石には精神が宿るものなのだろう。

 

 小石とはかわいい地名であるが、由来は不明である。大正町史には「小さな石地の意と思われる。(p91)」とあるが、そのまんまである。

 この小石を昔の人は、「小江師(コ・エシ)」と呼び、それがいつとなく転訛してコイシとなったと編集子は考える。集落協定や自主防災組織など二つの地区は仲良く集っている兄弟地区である。

 ちなみに江師の由来は→江師(①「え・シコッ(大きな窪地)」アイヌ語説②「烏帽子」説③凹状地形「エゴ」説)参照

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 上ミコイシダ、上ミユス谷、コヤノ谷、下モコイシダ、下モユス谷、スゲノサコ、セミチ、コイシダ【8】

 

(土地台帳・切絵図番順)

※土地台帳の調査は、四万十川下流から上流に向けて行われる。

 1下モユス谷、2上ミユス谷、3コヤノ谷、4下モコイシダ、5中コイシダ、6上ミコイシダ、7セミチ、8スゲノサコ

 

【ホノギ】

 小石タ、北ノサカリ、上やしき、南永返り

 ※又四良扣の所有関係から小石タから南永返りまでを小石分と判断した。

ダウンロード
大正町切図(0815小石).pdf
PDFファイル 284.2 KB
ダウンロード
815小石・集成図.pdf
PDFファイル 691.3 KB

Googleマップの小石の区域は誤り


【通称地名】

 

 

 

【山名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

旧:金刀毘羅神社)/55.8ことひらじんじゃ/鎮座地:スゲノサコ 

※郷村から明治の町村制まで一つの村であった小石だが、神社明細帳がまとめられた明治12年当時、社格は無格社

※神社明細帳には「明治42年村社河内神社に合祭」とある。小石の産土神は江師の河内神社であったのだろうか。

※今でも金刀毘羅神社には祠があり小石地区が祀っている。

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)小さな地名の小さな大字

 江師に包み込まれた小石地区。長宗我部地検帳時代は江志村の枝村であったが、どうして100年後(土佐州郡志の記録)には一つの村に独立したのか。


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p100/検地:慶長2年2月8日)

 2月7日に”大なろ村”、”竹谷村”、”小見野々”を調査し四万十川左岸の大奈路境のホノギ「筏戸」から”江志村”の検地がはじまる。

 慶長時代の小石地区は、”江志村”の枝村として位置付けられており、「筏戸」、「川ノ内」、「舟戸」と川ノ内集落を終えて、ホノギ「小石タ 小石村」から始まる。

  検地高は枝村のため不明であるが、”江志村”が本田出田の合計で16町1反とあり、寛保郷村帳では江師村として14町8反と記録があることから、差し引くと概ね1町3反位であろう。郷村帳の小石村も12.8石とあることから頷ける数値か。

 「小石タ」から南(下)にむけて検地が進められていることから、本田出田を加算していくと「南永返り」までが”小石村”の領地であると推定する。

 ”江志村”のホノギ「ウツシリ川ヨリ西地」のウツシリ川は比定できていない。 

 

■州郡志(1704-1711宝永年間):下p345

 小石村の四至は、東限小石峯西限津野之大川南限榧之木本北限宮之向東西五町南北十二町戸僅ニ

 山川、寺社とも記載はない。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高12.863石、戸数4戸、人口7人、男4人、女3人、馬0頭、牛0頭、猟銃0挺

 

■土佐一覧記(1772-1775明和・安政山本武雄著「校注土佐一覧記」p368

安芸の歌人・川村与惣太が胡井志(小石)で草枕して読んだ歌 

 胡井志

今宵しも夢にもみつる故里を  胡井志の里に草枕して

 

胡井志 大正町小石

梼原川と仁井田川の合流点のやや上流に位置し、州郡志には「戸僅に二戸」とみえる。寛保郷帳には戸数四、人数七と記載されている小村である。(略)昭和45年「今宵しも」の歌碑が、小石を一望できる江師の保養センターの庭に建てられた。(校注土佐一覧記/山本武雄著)

※今日はなんていい日なんだ。この喜びを故郷に伝えたいので、今宵はゆるりと夢見で寝るとしよう(勝手読)

※山本武雄氏は校注土佐一覧記を出版するにあたり「はじめに」として、この句碑に敬意を表し冒頭の写真にも大正町にある3つの与惣太の歌碑を掲載している。与惣太の歌碑は、町内に旧大正中央公民館前下津井保養センター、その他県内に2カ所、与惣太の地元の室戸市役所前南国市十市の石土池の湖畔にある。江師保養センターは現在大正温泉となっている。

※大正で詠まれた三首の歌は、それぞれその所在に歌碑として刻まれているが、建設にあたって尽力したのが武政秀美氏である。彼の自伝「里に生きて里に死す」の第2弾が刊行されたら、その経緯が分かっただろうがその前に亡くなってしまった。残念

 

■掻き暑めの記(1984)

  「土佐一覧記」と云う徳川時代につくられた歌集で、作者の川村與惣八貞佳は、安芸郡の人で、土佐全域を歩いて歌を詠んでいる。田野々と小石(胡井志)部落に旅寝して大奈路から尾根伝いに、矢立の森を越えて檮原への旅を続けたものと思われる。上山郷(旧大正町)で詠まれた上山・胡井志・矢立森の3首の一つ

胡井志(小石)

今宵しも夢にもみつる故里を

  胡井志の里に草枕して

 対岸の江師の大正温泉の敷地内に石碑がある。

 

 黒作畑(上p30)

 大字江師字小石峰海抜約300m位の所に通称「黒作畑」がある。1850年代頃小石に住む黒作(黒作蔵とも言った)は、小石一円の田畑(当時田一町歩畑五反位)を所有し、この地方としては裕福な大地主であった。この黒作が小石峰の平坦地に猪囲いをして畑を開墾し、主として甘藷を作った。猪囲いは開墾地の外側に深さ2mの濠を掘りめぐらしその内側に約2mに近い石垣を築いていた。囲いの内は約40a(約4反)位。現在も中平茂喜氏が栗園として所有し耕作している。「江師の小石の黒作は夜も昼も頭巾かぶりとおした。」と今でも言い伝えられている。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p15:小石、梼原川、小石清流橋

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

小石、小石清流橋

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

なし

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

なし

 

■四万十町広報誌(平成26年3月号) 

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ぶら〜り散策0815【小石】20140301.pdf
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