20150630初
20170621胡
【沿革】
長宗我部地検帳には「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の小野村と大井川村の簿冊に大井川村地検帳として記録されている。検地では、大井川一村分として地高がまとめられており、当時は大井川村の枝村として、四手村(昭和)・中又村(昭和)・大また(昭和)・大サ江ノ村(昭和)・荷田村(大井川)・クク付村(大井川)とある。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)には「四手村」「轟村」、南路志(1813)には「四手村」とある。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡四手村、大井川村、野々川村、轟村、津賀村、茅吹手村、浦越村、黒川村、小野村、久保川村、大道村、細々村の上山郷下分12か村が合併し「西上山村」が発足し、四手村は大字となった。
昭和3年(1928)11月10日、幡多郡西上山村は改称し「昭和村」となった。
昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。合併調整に合わせて大字の名称を「四手」から「昭和」に改めた(同じく黒川を里川、細々を河内、烏を古城、大野を十川に改めた)。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。
地区内の班・組編成は、北ノ川(きたのかわ)、轟(とどろ)、戸口(とぐち)、四手崎(しでざき)、上町(かみまち)、上本町(かみほんまち)、仲町(なかまち)、本町(ほんまち)、下町(しもまち)、大保木(おおほき)の10組となっている。
【地誌】
旧十和村の中央部から東部。東は津賀・茅吹手・浦越・里川、南西は野々川・大井川・河内、北西は久保川に接し、北に国有林が広がる。北に中又山、東に新四国八十八か所山、西に天拝山富賀城がある。西流してきた四万十川は地内で南に曲流し、再び流れを変えて野々川・大井川との境をなす。国道381号が四万十川右岸を通り、対岸の大井川を結ぶ抜水橋の昭和大橋が架かる。当地は旧昭和村の中心地で、国道沿いは商店街を形成する。地内の他の集落は上流から北ノ川、藤の上、三島、戸口、四手崎、大保木の各集落がある。JR予土線が商店街の裏を通り、中心部に土佐昭和駅がある。上りの次の駅は土佐大正駅で、大正~昭和と時代を結ぶ駅名があり、予土線の名物の一つになっている。地内からは窪川の中心部まで車で45分、愛媛県宇和島市へは1時間の距離にある。炎神社の東側を炎谷が南流し四万十川に流れ込む。地内には轟林業共同館・眼鏡橋・四万十森林管理署昭和製品事業所・昭和消防分団屯所・昭和小学校・昭和中学校・十和診療所・十和郵便局・保健センター・高齢者生活福祉センターこいのぼり荘・十和中央公民館・林業研修センター・窪川警察署昭和駐在所・十和学校給食センターがある。親水公園となるふるさと交流センターは四万十川中流域のラフティング・カヤック・キャンプなどアウトドアの体験スポットとなっている。地内の三島神社では、秋の大祭に花取踊りや八社神楽が奉納される。新四国八十八か所山には88体の札所本尊と太子堂がありる。地内にはアユの好漁場がある。三島神社裏山には中世に四手・大井川、野々川を知行したといわれる城主中平隠岐守重熊の四手城跡がある。
(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真左側、西流する四万十川の右岸部が昭和の市街地)
【地名の由来】
昭和の年号を由来とする村名。昭和3年(1928)11月10日、幡多郡西上山村を改称し「昭和村」とした。昭和村の大字は、役場所在地の四手村のほか、大井川村、野々川村、轟村、津賀村、茅吹手村、浦越村、黒川村、小野村、久保川村、大道村、細々村で構成される。
昭和村は、その後、昭和32年(1957)8月1日、隣の十川村と合併し新設「十和村」としたときの合併調整に合わせて、昭和村の役場所在地であった大字「四手」を「昭和」に改めた。この合併調整に合わせて、黒川が里川、細々が河内、烏が古城、大野が十川に同じく大字名称を改めた。
昭和も十川も、旧村名をそれぞれ役場所在地の大字として残すことになった。
当時の年号を冠した昭和村の歴史はわずか30年である。
年号を市町村名にあてる例は「昭和」の場合、次の例がある。
福島県大沼郡昭和村【昭和2年(1927)11月23日】今も現役昭和村。人口1,316人
東京都北多摩郡昭和村【昭和3年(1928)1月1日】昭和29年昭島市を新設。地名として残り都立昭和高等学校など
熊本県八代郡昭和村【昭和3年(1928)9月14日】昭和31年、八代市に編入。昭和同仁町など地名として残る。
高知県幡多郡昭和村【昭和3年(1928)11月10日】
香川県綾歌郡昭和村【昭和4年(1929)4月1日】昭和29年、綾南町に新設合併。平成の合併で綾川町に
大阪府豊能郡昭和村【昭和6年(1931)1月1日】翌年、改称して「西能勢村」となる。
広島県安芸郡昭和村【昭和6年(1931)4月1日】昭和31年、呉市に編入。呉市昭和町がある。
千葉県君津郡昭和町【昭和7年(1932)7月1日】昭和30年、合併して袖ケ浦町。昭和小学校、昭和商店街と名を残す
奈良県生駒郡昭和村【昭和10年(1935)2月11日】昭和28年、郡山町に編入。現在は大和郡山市。昭和町の名は残す
秋田県南秋田郡昭和町【昭和17年(1942)4月1日】平成の合併で潟上市。合併、合併、分立、編入と変遷した
山梨県中巨摩郡昭和村【昭和17年(1942)7月1日】今も現役昭和町。人口19,675人
岡山県吉備郡昭和町【昭和27年(1952)4月1日】現在、総社市。合併時に旧村名不使用等の暗黙了解で結果「昭和」
長野県更級郡昭和村【昭和30年(1955)4月1日】翌年に川中島村と合併し川中島町。1年の村名。現在は長野市。
大分県南海部郡昭和村【昭和31年(1956)2月1日】翌年、改称して弥生村。現在は佐伯市
群馬県利根郡昭和村【昭和33年(1958)11月1日】今も現役昭和村。人口7,583人
※合併時の自治体名称の混乱から苦肉の策で「年号」を冠した例が多いのでは
※15の昭和を冠した自治体のうち、現役は3自治体。1年の命が3自治体もある。愛着のないあらわだろう。
※「昭和サミット」があるかと思いきや、開催されていない。
【字】(あいうえお順)
赤ツエ、赤松平、足谷、アマノタキ、アライバ、家ケ谷、家ノ谷、家ノ谷口、池ノ下、池ノヲカ、イドノ上、井ノ上、岩田、岩根、ウロノタキ、榎サコ、榎砂、榎谷、大ツヱ、大坪、大平、大又、大又山、柿ノ窪、樫樽、神畝、上平、上ミホキ、カミホキヤマ、上ミ屋敷、カラ谷、川ヒラタ、北ノ川口、下駄谷、下駄谷口、幸次屋敷、コゴヲラ、コビクチ、コビハナ谷、木屋ケ谷、サカモト、サガリ、シウコ谷、四手崎山、清水、シミツケ、下ギレ、下タキ山、下モ平、シモヤシキ、下屋式道辻、新田、シンヤシキ、スカ谷、曽我ダバ、ソバビ、ソハビ谷、タカノ、タキノヲク、瀧本、タキヤマ、竹谷、竹屋敷、谷、谷上へ、谷屋式、ダバサキ、玉屋床、地主谷、ツルイノ奥、ツルイノ谷、ツルノヲク、樋ノ谷、堂ケ窪、堂ケ谷、藤次田、堂ノ森、トドロホキ、中ギレ、中畝、中ノヲキ、中平、仲又、仲又山、中ヲコチ、ナナマガリ、鍋谷、入道谷、ノボリヲ、ハサノ谷、ハサノ谷口、橋ケ谷、ハセヲリ、畑ケ谷、ハツカ谷、ハナレキ、ヒナワ谷、ヒノヂ、ヒノヂ山、日番家、ヒラハエ、フカザコ、藤ノ上、船木谷、船戸、船戸ノ上リ、船渡ノ上、フ子ノ谷、古川、ヘヤガ谷、炎谷、又口、松ケ峠、松ノ越、三島、三島越、峯屋敷、ミノコシ、宮上ミ、宮ノクビ、宮ノ谷、宮ヲク、モミヂ、ヤシキ谷、柳ノサコ東谷、柳ノ谷、ヨコナイショ、ヨシロダバ、渡瀬ノ上リ、蕨畝、ヲカウ子、ヲカバヤシキ、ヲカヤシキ、ヲキノタ、ヲリツキ【135】
【ホノギ】(大井川村/枝村:北川村・四手村・中又村・大また・大サ江ノ村 平串村の枝村:藤上ノ村・家谷・轟村)
〇土佐国幡多郡上山郷地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年、月日不詳)
▼大井川村北川村(p256-258:昭和・北ノ川)
北ノ川口、岸ノ下、ナウタノ上、カミホキ
▼大井川村四手村(p258~261:昭和)
竹カイチ、穴窪、大坪、南窪、寺中、ハタ岡、チウ木タ、寺中、中ウ子、藤次タ、川内神田、ひかし、氏神神田、向イ奥、犬神ヤシキ、大また、宮ノワキ、杉ノアカリ、中平、竹ノ内、タニ、上ヤシキ、中ヤシキ、谷ノ奥、谷やしき、西嶺、西ノ谷、シテノサキ
▼中又村(p262:)
中又
▼大また(p262)
大また日ノチ
▼大サ江ノ村(p264)
タキ山、松マエ
▼平串村藤上ノ村(p208) ※当時は平串村(浦越)の枝村
藤ノ上
▼平串村家谷(p208) ※当時は平串村(浦越)の枝村。
家ノ谷口、奥谷、東谷、ハツカ谷
▼平串村轟村(p209) ※当時は平串村(浦越)の枝村
トヽロ、柳サコセイモト、南谷、籔詰、田ノ下
▼野野川村 戸口村(p213) ※当時は野々川村の枝村
下ヤシキ、岡ヤシキ、鈴蔵庵寺中、中間ヤシキ、川内神田、川内ヤシキ、横ホキ
【通称地名】
【山名】
【河川・渓流】
炎谷川(河川調書)
仲又谷川(ゼンリン社・防災マップ425-73-005)
野々川(河川調書)
大河地谷川(ゼンリン社・防災マップ425-73-220)
洗場谷川(ゼンリン社)
カラ谷川(ゼンリン社)
ヒナガ谷川(ゼンリン社・防災マップ425-73-009)
北ノ川(河川調書)
宮の谷川(ゼンリン社・防災マップ425-73-222)
轟川(防災マップ425-73-010)
大保木谷川(防災マップ425-73-208)
横田川(防災マップ425-73-209)
四手崎谷川(防災マップ425-73-217)
【瀬・渕】
【井堰】
【ため池】(四万十町ため池台帳)
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
三島神社/69みしまじんじゃ/鎮座地:仲又山 ※郷社
炎神社/73おのおじんじゃ/鎮座地:炎谷 ※村社
八坂神社/76やさかじんじゃ/鎮座地:仲又山
河内神社/78かわうちじんじゃ/鎮座地:宮ノ谷 ※北ノ川集落
星神社/80ほしじんじゃ/鎮座地:中畝
河内神社/105かわうちじんじゃ/鎮座地:上ミ屋敷 ※轟集落
※戸口集落の神社明細記録がない。ゼンリン社には「八幡神社」「河内神社」がある。
※大保木集落の神社明細記録がない。ゼンリン社には「河内神社」がある。
大形 332号(2023.1.10)
大方文学学級
『土佐一覧記』を歩く⑦止止路岐
武内 文治
そよふけに夢も結ばず嵐吹く
夕とどろきの里の旅寝は
川村 与惣太
その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていってしまった。轟の里で今宵も一人、水音の語らいを友として草枕としよう (勝手読)
安芸の歌人、川村与惣太は上山郷の奥深い地まで訪ねている。土佐一覧記の写本の一つである図書館本(高知オーテピア図書館所蔵)の歌の掲載順は上山(四万十町大正)、矢立森(四万十町下津井)、長生(西土佐長生)、止止路岐、胡井志(四万十町小石)とあり、また広谷本では、長生、止止路、胡井志、上山、矢立森となっている。歌の流れから与惣太の足取りは、四万十川左岸となる長生から鷹の巣山を越えて井崎にいったん降り付き、井崎谷から大井川、野々川、戸口へと四万十川左岸をたどり、轟集落を訪ねたのだろう。
この轟集落には四万十川最大の川中島の三島があり、二つに分かれた川は急流となり波音を立てて下流側で合流する。「轟」とはこの川音に由来する。「三島」は沈下橋二つと抜水橋と鉄道橋梁で結ばれ、圃場整備された農地では稲作とナバナの栽培がおこなわれる。春、一面の菜の花で覆いつくされる景観はイッピンだ。
与惣太が歩いたのは明和・安永年間だから二百五十年前のことで、この地の郷社・三島神社を参詣し、川音のにぎやかさに足を止め旅寝となったのだろう。
この「轟」地名は全国に分布し、高知県下にも百八十か所の地名がある。同類の「ドウメキ(百笑)」も中村市街地の赤鉄橋たもとの百笑、高知市春野町弘岡の百笑集落など八か所ある。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなども水音からきた地形地名で、ヒトは大地から湧き出る水とこの世の叫びに畏敬の念を抱いたことだろう。大地の叫び「ドド」のオノマトペ(自然界の音や物事の状態などを音で象徴的に表した語)こそコトバの祖型であり、地名に刻まれた音韻とその分布から言語の変化(縄文語、日本祖語、アイヌ語、琉球語、日本各地の方言など)を推論することができるのではと考える。
また、「三島」は、たぶん尊称の御が三に交代したものではないか。秀麗な山・三嶺を徳島県側はミウネ、高知県側はサンレイと呼ぶのと同じだろう。島は他から隔離された所の意で、海の島だけでなく一定の管理用域を島と呼ぶのは、ヤクザ用語のシマ(縄張り)、江戸吉原の遊郭もシマと呼ばれる例がある。島地名は全国に見られ、海のない岐阜県の村でも路傍の石に「島内安全」と刻まれている。徳島では、吉野川下流域に広がる沖積土の田園をシマといい、七つあるシマの一つが徳島であり、県名になったという。ここの三島には郷社・三島神社が永正十年(1513)に勧請(明治の大洪水で遷宮)されているが、社名が地名となったのか、御島と呼ばれた地に同音の神社を勧請したかは不明である。
この三島神社が面白い。五来重著『四国遍路の寺』に「大三島のもとは、仁井田の五社だという伝承がいつからか伝わっていて(中略)もとは仁井田(旧窪川町)のほうにあって、それが転々と移って大三島にまつられたのではないか」と大三島(大山祇神社・今治市大三島町宮原)と五社(高岡神社・四万十町仕出原・宮内)の関係を述べられている。五社の創建は六世紀ごろ、伊予の豪族・物部姓越智玉澄(越智守興の子・河野一族の祖)が跡目争いから当地に逃れた時期の勧請で、仁井田神社と呼ばれていた。大三島神社の本地仏は大通智勝仏で、四国側の宿坊・南光坊(五十五番札所)の本尊も大通智勝仏。かたや岩本寺(三十七番札所)は五社の本地仏を本尊として不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来(大通智勝仏)・薬師如来・地蔵菩薩を併記している。大通智勝仏を本尊とする四国霊場はこの二寺だけである。越智玉澄は伊予に復帰し河野一族の祖となった。その後も窪川台地の開拓(窪川五人衆)や津野山開拓など河野家の子孫が土佐に流れ、その地を開拓するとともに多くの三島神社を勧請している。また五来重は「伊予の名族(河野)のいちばんの祖先が岩本寺の奥の院である所の五社にまつられて、しかもそのもとは陵(みささぎ)です。ここは伊予を支配した越智」氏の先祖の陵ということで非常に重んじられた」とも述べる。越智玉澄の父・越智守興は天智天皇二年(663)の白村江の戦いに出兵して大敗戦となった。この白村江の戦いは歴史の分水嶺で、東アジアにおける新秩序の到来となり、その後の五十年の政治変動と大移動は「日本」という新しい国家秩序の建設と創作、ヤマト王朝への歴史の一元化の始まりとなったといえる。この混乱の中で越智玉澄は河野玉澄に羽化していったのではないか。そんな歴史を思い巡らす。
四万十川は地質学的にも面白く、三十万年前の古四万十川は逆流(今のほうが平地から山間に逆流しているよう)し伊与木川から土佐湾に流れていたという。そんな四万十川の特徴的な景観の一つに穿入蛇行と蛇行切断による環流丘陵(大井川・戸口・大正・江師・西ノ川・下津井など)の形成がある。轟集落の隣の戸口集落がその一つ。それも含め、春にはこの地を歩いてもらいたいものだ。 (次回は「上山(大正)」)
1)轟や家谷、藤の上が従前は平串村に属していたのはどうしてか
■長宗我部地検帳(1597慶長2年)
検地は大道村を終えて「是ヨリ大井川村 北ノ川口上下かけて」と大井川村の枝村となる北川村(北ノ川集落)から始まる。地検帳は平串村(浦越)の枝村として藤上村、家谷、轟村や野々川村の枝村戸口村が、現在では昭和地区に構成されることから注意が必要である。北川村のホノギ「北ノ川口」、「カミホキ」から四手村のホノギ「大坪」「藤次田」「中又」「日ノチ」「大また」「中平」「タニ」と炎谷周辺を検地し四手崎に至る。
昭和地区(行政区)の領域は、地検帳の脇書きから読みとくと、当時の平串村(浦越)の枝村であった「藤上ノ村」「家谷」「轟村」、野々川村の枝村「戸口村」、本村となる「四手村」と枝村の「中又村」「大また」「大サ江ノ村」「四手島」から構成される。「大サ江ノ村」のホノギに「タキ山(タキヤマ)」「松マエ(松ノ越)」があることから大保木が比定地となるか。
地検帳にみられる寺社は、四手村に「昌源庵」「宝寿寺(宝秀寺)」、また戸口村に「鈴蔵庵」がある。
■州郡志(1704-1711宝永年間)
・四手村(p341)
四手村の四至は「東限市野坂西限白岩南限大井川北限窪川山東西五十町南北四十町戸凡三十其土赤黒」とある。
山川として「大股山・地主山・上甫喜山(皆在村北東出材木及薪)、大股谷(自北流出経村入大川)」
寺社として、「寶壽寺、三嶋大明神、大明神社」
古蹟として「壘址二(皆不知何人居)」
・轟村(p342)
また、軣村の四至は「東限漆谷西限大川南限怪我谷北限藤上東西二町南北十町戸七其土黒」とあり、山川として「藤上林・家之谷・松之坂(皆属北村出柴薪)」。寺社は「無」とある。
■寛保郷帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、四手村として「石高104.507石、戸数41戸、人口247人、男119人、女128人、馬16頭、牛6頭、猟銃11挺」とある。
また、とゞろ村として「石高23.96石、戸数5戸、人口22人、男11人、女11人、馬1頭、牛0頭、猟銃0挺」とある。
■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:山本武雄著「校注土佐一覧記」p367)
安芸の歌人・川村与惣太が止止路岐(昭和・轟)で読んだ歌
止止路岐
そよふけに夢も結ばず嵐吹く 夕とどろきの里の旅寝は
※その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていった。轟の里で今宵も一人、草枕(勝手読)
※図書館本系統本では上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。
※トドロは川の水が落ち込む落差で大きい音がする、その水音に由来する地名。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなどの地名が各地にある。四万十町にも、トドロガ谷(寺野)、轟頭(野地)、コトドロ(家地川)、トドロ上(家地川)、轟川(見付)、轟﨑(東川角)、轟口(東川角)、西轟山(宮内)、轟ヶ市(窪川中津川)、轟(床鍋)、轟ヶ谷(与津地)、轟山(与津地)、轟(志和)、轟﨑(大正)、轟山(瀬里)、轟ノサコ(相去)、轟瀬ノ岡(浦越)、トドロホキ(昭和)
※昭和に轟集落があり、校注土佐一覧記ではここを比定地としているが、浦越にも「轟の上」という地名(地理院地形図)があり大正にも轟崎があり、その上流には通称「瀬里轟」という。浦越の瀬は「二艘の瀬」と呼ばれる四万十川中流域で一、二番を争う瀬で、カヤックをする者にとって「行くか、陸を曳くか」思案する場所でもある。瀬里轟も二艘の瀬と争う激流。川音の激しさは二艘の瀬ではあるが、三島神社が鎮座するこの地であり、昭和の轟を比定している校注土佐一覧記は正当といえる。
■南路志(1813文化10年)
232四手村 地四十四石四斗九升三合
三島大明神 三嶋山 祭礼十一月十九日
四手村・大井川村・野々川村氏神也(以下略)
炎大明神 杉ノ上り 正体十二座 祭礼十一月十八日
王地大明神 中平山 祭礼十一月十九日
命徳山宝壽寺 退轉、本尊のミ残
本尊 阿弥陀
古城 中平隠岐守重熊居之。
219轟村 地二十三石九斗六升
河内大明神 祭礼十一月十八日 正体五座
壱たひ (以下略)
■ふる里の地名(1982昭和57年)
▽轟(昭和甲)の地名伝承など(p6)
木屋ケ谷:伝説では、古くから畠作をし、作物をあらすものの、番をする小屋のあったところときく。
ウロノタキ:水の流れがよどみ、其の対岸がほれこんでいる上は、岩山でそそり立った地形である。
卜ドロホキ:川より、そそり立つ斜面の多いところ。
下駄谷:傾斜な所に、突然平たんになっていて谷が流れているところ。
堂の森:山であって、集落の人の話では、お堂が建っていたところ。
下駄ケ谷口:急斜面の土地であって、うね先に平たん地がありそこの谷口。
下屋敷道辻:集落名より。
堂ケ窪:お堂があって、窪地がある所。
峯屋式:山の峯こしに、一家の住宅があったところ。
神田:神に奉納する米を作る田。
ヨシロダバ:伝説では昔、与四郎が住んでいたところ。
柳ノサコ東谷:大きな柳のあったところと。
タカノ:高いところにある耕地ではないかときく。
橋ケ谷:曲りくねった谷のあるところ。
峯コシ:轟から屋敷へ越すところ。
ハタガ谷:切り畑の多いところ。
八子ノ谷:せまい谷。
家ノ谷:古くから大きな家のあるところ。武家屋敷ではないかといわれる。
家の谷口:武家屋敷のあった谷すそ。
ノポリヲ:轟部落の上、行き詰った所。
藤ノ上:植物の藤かづらが、大正のころまで、そのあたり一面においしげっていた。現在も藤が多い所である。
▽戸口(昭和乙)の地名伝承など(p8)
カガリヤ:伝説では、昔から松の根を掘り、松煙をたいていて、かがらせたと話している。山中留吉、川村長吉氏語る。
奥堂谷:せまくて、奥の暗く、洞窟のような感じの谷。
奥重パタ:山の中腹に、駄馬があるところ。
口重パタ:谷口に、駄馬のあるところ。
一本木:一本の木を目当にしたところ。
シモヲク:一つの集落の地点から上、中、下にいったところ。
山下タ:山裾の、少し開けた平地。
宮ノ下:神社のある所の川下をさす。
宮ノ上:神社のあったところから、上の方のこと。
横林:山の中腹に横たわる平らな土地。
ヒラノ:一条家とともに、京より下り代々神官をつとめて、中村から移り住んだ屋敷跡ときく。永正十年頃、五代程野々川に住んだ。現在、昭和の平野伊勢氏宅に平野蔵人藤原近重を書いた物がある
川ヒラ:川に面した土地
マトオバ:昔、弓を射る(マト物)である。野々川の住民の話では谷をはさんで向こう側に弓をいたところ。
シモヤシキ:野々川部落の入口を言う。
内ケ平:谷に向ったひらみ。
ゴヲロ:にぎりこぶし位の石が多く士が少なく底を水が抜けているととろ。昔、山しおといって(ツエ)がぬけたところ。
下ゴヲロ:ゴヲロの下の方の土地。地質は同じ。
駄場:野々川では、いちばん広い土地のこと。今は畑だった所を田にしている。その時にいくつもの年代もさだかでないか墓が出てきたと言う。
シンパタ:新らしく開いた畑である。
ドラ子ン:谷川に沿った窪地で、段々になっている所。
シンデン:新しく、開いた田。
ダパダ:うね先にある駄場の田。
下パサ:段々畑の多い所。岡本正寿氏の家地の附近。
椎木田:大きな椎の木のあった所。
岩根下:山に大きな岩があり、そこに岩根神社があった。この神社は昭和初期まであったが、今は野々川神社と合祀している。
シンタ:新らしく、開いた田。
ヤスタ:安という人がいたところ。
下モダ:民家より、下にあった田
下モハタ:民家の下にあった畑。
又口:野々川谷の入口で、二又に分かれたところ。
水ガサコ:山の中腹に谷がなく、水が湧いて出るところ。
横保木:斜面を切りひらいた、段々畑。
下タヨコホキ:谷に沿って細長い田がある。
野々川平:野々川谷に向った斜面の土地。
ホリハタ:堀り切った、道の周辺をひらいた畑。
ホリヌキ:山の峰を堀り切って作った道。
ヒノヲガトヲ:山の中腹に平らな土地で陽あたりの早い土地。
下モ川平:四万十川に面した野々川谷口。
上川平:四万十川に面した野々川谷口の上。
宮上ミ:神社があった場所の谷の上流。
宮ヲク:神社のある、うね先。
アライパ:集落の生活用品を洗っていた所。
サガリ:集落の窪地。
谷上へ:谷の上のほう。
川ヒラタ:大川に面した田。
ダパサキ:峰のさきに、開けた駄場。
ヲカヤシキ:古くは池ではあり、はてしなく地質か深い所、自然に水がふき出していて、大正末期頃松をうめ込み、田んぼを作っている。
ヲキノタ:地主宅の前にある田。
ツルノヲク:集落民の使用していた家庭用水の水源地。
ヒナハ谷:水のない谷。
シンヤシキ:戸口集落の新しい屋敷。
シモヤシキ:集落より谷しもをさす。
カラ谷:比較的大きい谷であるが、民家もなく、田畑もない所。
一ノ又:野々川谷の最初に分れた谷。
▽昭和の地名の伝承など(p12)
【国有林野・北ノ川上流部】(国有林野地のため土地台帳上の字名はない)
ソパビ谷:ソバの木の繁茂していた谷沿いの土地。
ソバビ:山の中腹で蕎麦を焼畑で作っていた急傾斜地。
下道引地続山:畝越に大正地区の下道に接続した山地。
下道引地山:畝越に大正町下道へ続く山地。
大滝山:大きな滝があり、滝の山に山の神を祈っているあたり。
唐江山:常時は水が流れてない谷場のある石ころの多い山肌。
※四万十森林管理署の施業実施計画図では「唐汢山」とある。
天狗滝山:屏風の様に切り立った絶壁のような山地。
足谷:交通の困難なところ。
障子ケ峠山:切り立った山の峠を越す道のある所。
釣石山:岩山。かずらで石を釣った様にみえるところ。
穴尾:谷に近い湿地のあたり。
【北ノ川】(四万十川1次支川北の川の上流部、国有林野境から下る)
竹屋敷:竹の茂っていた谷にそった平地。
又口:北ノ川の東谷と西谷の落合った所。
玉屋床:谷沿いの湿地帯。
松ケ峠:谷沿いの湿地帯。
蕨畝:蕨の多く生える畝地。
岩根:岩山。
宮ノ谷:お宮のすぐそばを流れる谷のあたり。
宮クビ:神社の畝の前方に広がった所。
渡瀬の上:谷川を渡った上のあたり。(たえず部落民が渡っていた道の上)
樋ノ谷:田へ引く水路の取入口のあたり。
大平:平な土地。
幸次屋敷:幸次と云ふ人物が住んでいた屋敷。
ナナマガリ:くねくねと曲がった地形で、道もそれに沿っていた。
畑ケ谷:切畑が斜面に広がっていた。
北ノ川口:北ノ川谷が大川へ注ぎ込んだ所。
ヒラハ工:川へさし出た平な大岩があるあたり。
カミホキヤマ:平地のない傾斜の急な所。
船木谷:舟をいつもつないでいた場所。
柳ノ谷:柳の木が川にかぶさるように繁茂して居った所。
コビクチ:両側から山がせまって細長い小さな土地。
上ミホキ:狭い急傾斜地。
【三島】(四万十川と三島渓流の間、三島を上流部から)
ハナレキ:一本の大きな木がはなれて立っていた辺り。
古川:昔は川が流れていた現在は雑草荒地。
船戸ノ上:昔の船付場の上。
中ギレ:島の中央部。
下ギレ:畑地の内の下の方の土地。
三島:旧三島神社の境内。
【四手崎】(四万十川右岸を三島トンネル口から四手崎方面へ下る)
サカモ卜:東から三島越への登り口一帯。
フカザコ:深い傾斜地。
池ノヲカ:河川敷に大池があって、その山手の方。
ヲリツキ:ツイナシ越より下り付いた所。
シミヅケ:地下水がふき出ていた。
船渡ノ上リ:船付場(戸口からの〉のあたり。
榎サコ:榎の大木があった窪みのある坂。
上ミ屋敷:集落の川上の端の土地。
榎谷:榎がたくさん繁っていた。
上半(※ママ):人家の上のなだらかな平みの土地。 ※字名は「上平」
赤松平:赤松が繁っていたなだらかな斜面。
池ノ下:小さな池の下の方。
ハサノ谷口:せまくるし谷がある土地。
中畝:集落の中程にだらだらとした畝がある。
ツルイの奥:水源地の奥。
下モ平:集落の川下へ向いた平みの丘。
ツルイの谷:集落が用水として使っていた谷口のあたり。
イドノ上:昔から使用している井戸がある。
カラ谷:水の少ない谷。
柳ノ谷:柳の木のあった所。
コビハナ谷:狭く長い土地。
四手崎山:四手の集落の端の方に広がる山地。
モミジ:流れる水のため大川の中にある岩々がモミヂの葉の様な形をしているその山手の方。
【昭和】
ミノコシ:調査漏れの土地。
※音韻からの推理だろうが、「小さい尾根を越える小路のよう」と民俗地名語彙は説明している。高知県に多い地名であるがミノコシ本来の意味は不明とも書いている。
船戸ノ上リ:船付場の上。
三島越:三島峠のある土地。
地主谷:地主が持っていた。
清水:地下水が噴き出ていた所。(現在、昭和中体育館がある付近)
大坪:蟻地獄のような窪みが所々に出来る土地。
鍋谷:滑らかな山地。
ヘヤが谷:大地主の分家の所有地。
スカ谷:砂地で作の出来が悪かった。
藤次田:藤次という人物の所有地。
大ツエ:大山崩れのあった軟弱な土地。
大又山:炎谷本流の大又谷を主とした山地。
大又:炎谷本流の大又谷の中流に開けた土地。
ヒノヂ:日受の良い土地。
ヒノヂ山:字ヒノヂの裏山。日当りの良い山地。
仲又:炎谷の支流で大又の次に大きな谷である為、仲又と名付けたその谷沿いの土地。
新田:畑地や草地であったのを新しく田にした。
炎谷:炎谷沿いの土地。炎神社のあったところ。
中平:四手城主中平一族の土居跡。
仲又山:字仲又の後方の土地。
船戸:大井川への渡船場のあたり。
アマノタキ:高い急傾斜地。
タキヤマ:川へつかした切り立った山地。
【大保木】
柿ノ窪:柿の古木があった。
松ノ越:松の大木があった峠付近。
入道谷:東西に谷があってその問を道が縦横に通り、道と谷が入り組んでいる土地。
下タキ山:崖の多い山。
滝本:付近に滝壺がある。
日番家:部落の番小屋のあった所。
シウコ谷:谷に水はないがそのあたりが少しづつにじんでいる
ハサノ谷:小さな谷と谷に狭まれ、上からは山が迫っている細長い地形。
岩田:岩地の間に田を開いた。
榎砂:大砂に大榎があった。
竹谷:竹がが無数に生えていた谷。
赤ツエ:地質が赤土で大崩壊のあった所。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p28:昭和、四万十川、炎谷川、仲又谷川、昭和橋、JR予土線、第2昭和トンネル、三島神社、炎神社、昭和本Ю
p27:昭和、JR予土線
p26:昭和、大保木、横田橋、JR予土線、大保木トンネル
p29:昭和、三島、四万十川、三島渓流
p30:昭和、藤の上、北の川、北の川橋、四万十川
p35:昭和、四手峠、三島トンネル、三島歩道トンネル、JR予土線
p36:昭和、轟、四万十川、三島渓流、三島第一沈下橋、三島第二沈下橋、轟橋、JR予土線、第4四万十川橋梁、茅吹トンネル、河内神社、大師堂
p41:昭和、四手崎、戸口、四万十川、ヒナガ谷川、大河地谷川、洗場谷川、カラ谷川、戸口橋、河内神社、八幡宮
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
昭和、大保木、北の川、藤の上、三島、戸口、四手崎、四手峠、四万十川、北の川、三島渓流、三島トンネル、昭和大橋、土佐昭和駅、茅吹トンネル
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
北山(四等三角点:標高578.38m/点名:きたやま)昭和字カミホキヤマ
石川(四等三角点:標高413.93m/点名:いしかわ)昭和字大平1079-1番地
三島(四等三角点:標高265.41m/点名:みしま)昭和字四手崎山1133-16番地
※四手崎に三角点が所在するのに点名は「三島」
轟(四等三角点:標高398.41m/点名:ひらがな)昭和甲字トドロホキ236-27番地
戸口(四等三角点:標高325.11m/点名:とぐち)昭和乙字カラ谷456-31番地
■高知県河川調書(2001平成13年3月:p54)
炎谷川(四万十川1次支川炎谷川)
左岸:昭和字大又山1188番の193地先
右岸:昭和字ヒニヂ山1190番地先
北ノ川(四万十川1次支川北ノ川)
左岸:昭和字ソバビ1014番の20地先
右岸:昭和字又口10番の6地先
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
第一三島橋(四万十川/昭和)77.00 ※ゼンリン社では「三島第一沈下橋」
轟橋(四万十川/昭和)150.00
第二三島橋(四万十川/昭和)54.90
戸口橋(/昭和)5.30
戸口橋(野々川/昭和)28.00
北の川東橋(/昭和)5.40
北の川橋(北の川/昭和)14.70
宮谷橋(/昭和)6.40
北の川口橋(北の川/昭和)18.10
ツルイ谷橋(/昭和)2.50
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
下道引地続山:(2044・2045林班)
下道引地山:(2046林班)
大滝山:(2047・2048林班)
唐汢山:(2049林班)
天狗滝山:(2050林班)
足谷:(2072林班)
障子ケ峠山:(2051林班)
釣石山:(2051林班)
穴尾山:(2053林班)
伊豆ヶ谷山:(2053林班)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・35北の川口橋
北の川口橋は、四万十川の支流北の川に架かる橋で、この橋に平行して走っている国道381号線の旧国道橋である。高知県では、明治18年に道路百年の大計が立てられ、明治30年頃から工事が始まった県道窪川宇和島線の橋梁として建設された。
この橋は大正中期に建造された石造りのアーチ橋で、施工は高知県安芸郡の石工である堅田一族という説と、伊予の石工によるという2説がある。窪川宇和島線は、昭和50年に国道381号線となり、以後、国道橋として四万十川の上・下流域、県境を越えて宇和島間との流通・往来に大きな役割を果たした。北の川口橋は、四万十川中流域の流通・往来と道路建設の歴史を理解するうえで貴重な建造物で、国の登録文化財に指定されている。
架橋年度:大正中期 / 管理:町道 / 構造:石造アーチ橋 橋長18m 幅員3.4m 脚部間15m
・36三島神社
三島神社は、元は四万十川最大の中洲・三島に鎮座していた。
四万十川では、林業の繁栄とともにその流れを利用した河川流通が発達したが、岩礁や蛇行、急流域も数多くあり、危険を伴った。古来より流域の人々には、川そのものをご神体と考える風習があり、四万十川の中洲・三島には神社が祭られ、周辺流域の安全を守る神として篤い信仰を集めていた。
聖域の中洲には注連縄が張られ、その中央に三島神社が鎮座しており、四万十川を通行する筏師や舟乗りは、三島神社に向かって礼拝し旅の安全を祈ったといい、この三島は心のよりどころであり、四万十川の流通・往来の結接点でもあった。 三島神社は、明治23年の洪水で流失し、この場所に再建された。
構造:木造 瓦葺き 入母屋造
・44町道四手崎線
町道四手崎線は、四万十川の穿入蛇行によって形成された半島状の地形に沿って延びる道で、四手崎という集落がある。この四手崎と対岸の戸口の間には渡し場があった。
古くは昭和を四手といい、四手崎はその東部に位置している。半島状の地形の付け根の場所には四手や十川と田野々(現在の四万十町大正)とを結ぶ旧往還の「四手峠」があった。また、対岸の戸口は中村へ至る往還に通じており、四手崎と戸口の渡し場は二つの往還をつなぐ要所でもあった。 四手崎は、河岸段丘上に数件の民家が耕地を開墾し農業を営む集落である。町道四手崎線は、四万十川中流域の幹線である国道381号線につながっており、川沿いの集落にとって重要な生活道となっている。
・45町道昭和戸口線
町道昭和戸口線は、国道381号線から四万十川の中洲・三島を通り、轟と戸口の両集落を経て野々川に至る道である。
かつて、轟には渡し場があり、渡し船は集落の所有で、全戸が順番で渡し守を行っていた。轟側の岸にフナバン小屋というのがあり、対岸に人の姿が見えると舟を出して迎えに行った。中州・三島の両岸に沈下橋が架けられると、轟の渡しは廃止された。
戸口集落は中村に通じる往還から四万十川を渡る要所で、集落の入り口には茶堂があって、今も「茶上げ」という旅人をねぎらう習慣が残っている。 四万十川の最大の中州・三島では、轟集落の住民によって水田の耕作という独特の土地利用が行われている。町道昭和戸口線は、轟と戸口の両集落と四万十川流域の幹線である国道381号線を結ぶ生活道であり、三島で農業を営むための農道の役目もある。
三島の左岸に轟集落に通じる抜水橋が架けられ、中州での農作業は大きく向上した。
・46町道轟藤の上線
町道轟藤の上線は、四万十川左岸の轟集落から上流の民家へ通ずる集落道である。轟集落で、中洲・三島を通り国道381号線に通じる町道昭和戸口線につながっている。
轟集落の住民は、四万十川の最大の中州・三島に農地を開墾して生業とし生活を支えている。 町道轟藤の上線は、轟集落の住民の生活道であるとともに、三島で農業を営むための重要な農道の役割も担っている。
・47轟集落
・48三島の水田
轟集落は、四万十川最大の中州・三島の左岸にあり、三島に農地を開墾し生業としている。
四万十川では、林業の繁栄とともにその流れを利用した河川流通が発達したが、岩礁や蛇行、急流域も数多くあり、危険を伴った。古来より流域の人々には、川そのものをご神体と考える風習があり、四万十川の中洲・三島には神社が祭られ、周辺流域の安全を守る神として篤い信仰を集めていた。
四万十川を通行する筏師や舟乗りは、中州の中央に鎮座する三島神社に向かって礼拝し旅の安全を祈ったといい、この三島は心のよりどころであり、それを守ってきたのが轟集落である。 現在、三島は水田が耕作され、轟集落の住民の生活を支える重要な存在であるとともに、夏場の水稲、冬場のナバナの栽培によって季節ごとに彩る景観が、四万十川を通行する人々に感銘と安らぎを与えている。
・49町道三島線
町道三島線は、町道昭和戸口線から分岐して四万十川の中州・三島の中を通り、上流側の町営キャンプ場に至る道である。
中州・三島には三島神社が祀られ、周辺流域の安全を守る神として河川流通に携わる人々や住民の篤い信仰を集めていた。聖域として崇められていた。三島神社は心のよりどころであった。
三島神社は洪水で流失し、昭和にシトコロに遷座している。現在の三島では、農業という営みによって創り出される季節ごとの景観が、四万十川の魅力となっている。また、中州の上流部は、河原も広く町営のキャンプ場も設置されて親水性があり、特に夏は県内外から多くの家族連れでにぎわう場所である。 中州の中をめぐる町道三島線は、四万十川の豊かな自然と魅力を身近に感じることのできる道である。
・50第一三島橋
架橋年度:昭和41年 / 管理:町道 / 構造:鉄筋コンクリート 橋長77.0m 幅員3.3m 橋脚5本
・51第二三島橋
三島は四万十川最大の中洲で、そこでは水田の耕作という独特な土地利用が行われている。その三島に渡り、対岸との往来のため、2つの沈下橋が架かっている。三島の右岸の国道381号線側が第一三島橋、左岸の轟集落側が第二三島橋である。
第一三島橋は昭和41年、第二三島橋は昭和42年の架橋で、この2つの橋が完成するまでは渡し舟が運航されていた。中洲で左右に分流する四万十川は、右岸側は比較的緩やかであるが、左岸側は轟の瀬と呼ばれる急流で、古来より往来の難所であった。この2つの橋の架橋により、中州・三島と両岸の往来が容易となり、中州での農作業も大きく向上した。
中洲・三島という独特の地形のなかでの農業という営みによって、四万十川に季節ごとの彩りを添えている。轟集落の人々に生業を与えるとともに、それを支えてきた沈下橋である。
架橋年度:昭和42年 / 管理:町道 / 構造:鉄筋コンクリート 橋長55.0m 幅員3.3m 橋脚4本
■四万十町広報誌(平成19年4月号・平成19年7月号・平成22年6月号)