瀬里

せり


20150422初

20170219胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「瀬里村」とある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)も「瀬里村」である。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、瀬里村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。 

 

【地誌】

 旧大正町の中央部南寄り・北は芳川・江師・小石、西は大正、南東は希ノ川、東は下岡に接する。地内南部を四万十川が西へ貫流し、集落中央で、北部山地から南流する瀬里川が合流している。四万十川右岸と、合流点付近の両流域に水田・集落が立地。農林業が盛ん。ほとんどが山地。国道381号が通り、バス運行1日7便。南東部の、四万十川左岸を通るJR予土線は南西部を北上し、川・国道と交差してトンネルで大正へ抜ける。また、瀬里川に沿い町道が通る。河内神社のほか、四万十町森林組合集成材工場・ガソリンスタンド・石材工場がある。

 (写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上段中央の西流する四万十川の右岸が瀬里地区)

 

【地名の由来】

 地検帳のホノギにも「セリ谷」とある。植物地名のセリが多く採取できる土地を指しているのかもしれない。

 土佐方言でセリヤイとかセリコセリコするとか体を押し合うさまを「セル」という。狭まった地形地名に「セト」がある。左右両岸ともに通行できないような所をセト・セドというのは関東以西にある地形地名で瀬戸際のセトである。

 狭まった地形のセル・セトがセリに転化してこの地にある「セリトドロ(瀬里轟)」となったのではなかろうか。

 当時の木材の搬送は筏で流すのが主流であった。命がけの仕事である筏師は流材の難所にトドロやセリの地名を刻んできた。瀬里地区と轟﨑集落の境が四万十川では二番目となる急流の瀬「瀬里轟」がある。馬から落馬風の命名ではあるがしっかりと記憶にとどめなければならない地名として命名したのだろう。

 今村理則氏は『天竜川の新田と筏(2016年3月発行・地名と風土10号)』で天竜川流域に刻まれた材木の運搬にかかわる小字を述べ「セリは巨岩に激流があたって渦巻くところをいう。」と書いている。

 

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アンノ畝、(アンノセ)、庵免石神前、イデノ谷、イル谷口、ウトクチ、ウノス、ウルシサコ、大サコ、大田奈路、影平、影平山、カシボキ、河内田、河内山、クロイシ、ゴウロヲ、(ゴヲロウ)、サキタヤシキ、清水田、下モ山、下モ山口、下山口、重木奈路、シンヤ、セットク、谷田、田ノコエ、タマリサコ、釣ケ谷、土居ヤシキ、東地山、轟山、ナカチヨ、中ハヤシ、ナカヤシキ、ナカレタ、新田、西谷、登尾、登尾山、東谷、東中ヤシキ、東路、平サコ、ヒロマチ、ミチグチ、宮クヒ、向イヤシキ、薮山、(ヲリシキ)、ヲリツキ【53】

※字マスターには「東地山(とうちやま)」と「東路山(ひがしみちやま)」と二つあるが重複ではないか

 

(土地台帳・切絵図番順)

1薮山、2イデノ谷、3轟山、4ウノス、5下モ山、6下モ山口、7重木奈路、8ヒロマチ、9ナカレタ、10大田奈路、11庵免、12谷田、13河内田、14ナカチヨ、15アンノ畝、16セットク、17イル谷口、18○、19影平、20ナカヤシキ、21タマリサコ、22○、23〇、24平サコ、25ウトクチ、26登尾山、27大サコ、28東谷、29釣ケ谷、30クロイシ、31東路、32東中ヤシキ、33ウルシサコ、34清水田、35宮クヒ、36向イヤシキ、37ゴウロヲ、38サキタヤシキ、39河内山、(40シンヤ)、41中ハヤシ、42新田、43土居ヤシキ、44ミチグチ、45田ノコエ

※切絵図に「石神前、影平山、カシボキ、西谷、登尾、ヲリツキ」が不明

 

【ホノギ】瀬理村・セリ村・せり村

 ▼是ヨリ瀬理村(上山郷地検帳p37~42/検地日:慶長2年2月11日)

 下山口、下田、寺中、ひろまち庵免、かなや田、一セマチタ、ヤシキタ、南ノ下、東窪、橋爪、東地、西地、北地、中ヤシキ東谷、セリ谷、西谷五杯蒔田、石神前、新開、谷ヤシキ、イル谷、ハシツメ、河舞、ヲモテタ、トイヤシキウノスヤフヤマクチ

 

ダウンロード
大正町切図(0803瀬里).pdf
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【通称地名】

 

 

【山名】

 

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/かわうちじんじゃ/鎮座地:ゴウロヲ 

 


現地踏査の記録


地名の疑問


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p37~42/検地:慶長2年2月11日)

  上山郷検地は七帳に記録されているが、そのうち旧大正町の分が三冊ある。

 瀬里村は、「1土佐国幡多郡上山郷地検帳 慶長二年正月廿八日 喜多川村 瀬里村 下岡村 上岡村 四手川村」に書かれているが、この冊は「喜多川村」の検地を終えた2月6日から2月11日までが空白となっており、その間に「吉川村」、「大奈留村」、「江志村」を検地し、瀬里に入ったものと思われる。

 検地は、四万十川の右岸、田野々村堺の「下山口」から始まり、いったん瀬里川に入り、その後瀬里の上まで検地して、対岸「ウノス」に渡っている。

 検地高は、6町9段49代とある。

 所有関係では、熊法師の給地が瀬里村の大半を占めている。大部分であるが、一部「上山分」が27筆、「上山加賀給」が3筆ある。

 地検帳にみられる寺社は、宝杏庵がある。また熊法師の給地が

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p327)

 瀬里村の四至は、東限下岡村西限瀬里越南限四手川村北限瀬里之川東西三十町南北一里戸凡二十餘其土黒

 山川は、田越山・軣山(在村東西)、瀬里之川(南流入大川)

 寺社は、寶壽庵、川内大明神がある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高69.993石、戸数17戸、人口71人、男42人、女29人、馬4頭、牛0頭、猟銃0挺

 

■南路志(1813文化10年:③p625)

241瀬里村 地二百十石九斗九升

河内大明神 祭礼十一月廿八日

※寛保郷村帳に比較して石高が3倍となっている。

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

シンヤ(上p140)

明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。瀬里村の元標は字シンヤに設置されていた。

ウノス(上p313)

瀬里の川向。切図ではウスとある。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p31:仁井田川橋梁、四万十川、リバーパーク轟、瀬里川

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

瀬里、瀬里川

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

瀬里(四等三角点:標高351.35m/点名:せり)字アンノ畝318-17番地

大迫(三等三角点:標高574.70m/点名:おおさこ)字大迫330-20番地 

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p56)

瀬里川(四万十川1次支川瀬里川)

左岸: 瀬里字宮クヒ221番の1地先

右岸:瀬里字石神前134番地先

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

瀬里橋(/瀬里字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

下山口(下山口308-10・下山川)

轟山(轟山304-1・轟山川)

 

■四万十町広報誌(平成25年7月号・令和3年10月号)

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ぶら〜り散策0802【瀬里】20211010.pdf
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