20150522初
20170218胡
【沿革】
文治5年(1189)紀州から田那部一族がこの大正に移り住み上山郷の開発領主になった(熊野神社の棟札)と「南路志」に記録されている。当地には上山城(土居林城)、遅越城、和田林城と三つの中世城址がある。一条家に使え北幡の雄として権勢をふるったものの一条家が長宗我部に敗れ、元親の命による朝鮮出兵も不首尾となり、元親は、上山一族の宗家上山加賀の田野々村給地を没収し直轄地とした。
この上山加賀の没落当時の記録として、天正検地の仕直検地である「慶長2年2月2日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」が残されている。その宗家であった上山加賀の居所が当地字土居屋敷である。
長宗我部地検帳には本村となる「田野々村」と、「津々羅川村」と「トトロサキ村」の二つの枝村として表現している。
それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)では「上山本村」18か村、「上山本村下分」4か村と区分されていたが大庄屋の居住地はこの地にあり北幡(四万十市の一部を含む)の拠点であった。
南路志(1813)では「上山村」と「田野々村」を分けている。
明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、田野々村は大字の一つとなった。
大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は 村名を改称し「大正村」となった。
昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は町制を施行し「大正町」となった。
平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。この合併協議において大字田野々を大字大正と調整され、改称した。
大字内は街区として大正橋通・西本町・本町・土場通・貯木場・東山通・中町通・新町、南町の9区と特別養護老人ホーム四万十荘があり、それに轟崎とつづら川の12地区(行政区)で成り立っている。各地区の班・組は、大正橋通地区が吾川・上頭、南町地区が南・石路、つづら川地区が押川・集会所・クリオ・ヤガイチ・地吉でその他の地区は未区分となっている。
【地誌】
旧大正町の中央部から南西部。西は十和地域、南は標高650m級の稜線で四万十市、東は希ノ川・瀬里、北は江師に接する、ほとんどが山地。地内の地区は大正・葛籠川・轟崎の3地区からなる。
大正地区は、地内中央の南で、南流する梼原川と北流する四万十川が合流し、穿入蛇行して西へ流れている、中央が大正地域振興局(旧大正町役場)の在地で、旧町内唯一の街区があり、大正橋通・西本町・本町・土場通・貯木場・東山通・中町通・新町、南町の9区と特別養護老人ホーム四万十荘に分かれている。東西方向の旧国道381号と、南北方向の国道439号が交差し、街区中央を通っていたが、新たに梼原川左岸沿いにバイパスができた。JR予土線が通り、土佐大正駅がある。田野々小学校、大正中学校、大正学校給食センター、認定こども園たのの(田野々幼稚園・田野々保育所)、県立四万十高校、民俗資料館、大正郵便局、四万十森林管理所東山・田野々・下津井担当区事務所、四万十町森林組合大正支所、大正診療所、高知銀行大正支店、窪川警察署大正駐在所、大正生コンエ場などのほか四万十交通大正営業所、無手無冠酒造会社、そのほか建設会社、製材工場、自動車修理工場がある。各種商店も多く四万十町商工会大正支所がある。もと郷社の熊野神社は伊弊冊尊・事解男尊・速玉男命を祭神とし、秋の大祭の牛鬼の行事は広く知られる。同社所蔵の文化財として、県指定有形文化財(彫刻)の木造地蔵菩薩立像・木造如来形立像があり、境内には町天然記念物の熊野大杉・ナギがある。田野々小学校近くに国指定重要文化財(建築物・近世以前・民家)の旧竹内家住宅がある。河内神社、縦ノ木神社、曹洞宗五松寺がある。中世の豪族、田那部氏の上山城跡があり、関連する和田林・土居林・遅越山の各城跡が昭和58年9月以降、逐次調査されつつある。森ノ駄場( 舌状台地) に石斧・スクレイパーを出土した縄文遺跡がある。
葛籠川集落は、集落のほぼ中央で奥留川がつづら川に合流し北へ流れる。流域に水田、集落が細長く開け、農林業が盛ん。北東部を国道439号が、葛龍川沿いを町道が通り、小学校跡に集会所があり、一ノ又渓谷には温泉旅館の一位荘がある。国有林630haがあり、一の又原生林があり、近くに緑資源幹線林道清水東津野線(四万十市側が未開通)が通じている。河内神社があり、氷室天神社(少彦名命)を合祀。金比羅宮もある。
轟崎集落は、地内中央をつづら川が北東へ貫流、北東端で、湾曲し北流する四万十川に合流している。合流点に水田・集落が立地。農林業が盛ん。四万十川右岸を国道381号が通り、バス運行1日7便。住宅地やデイサービスセンター百年荘・製材工場・商店がある。リバーパーク轟や轟公園の整備、道の駅四万十大正を含め交流・観光の拠点となっている。合流点の左岸へ轟崎橋を渡ると四万十市へ向かう国道439号がのびている。河内神社がある。
平成18年の町村合併時に大字の名称を田野々から大正に改めた。
(写真は1975年11月3日撮影国土地理院の空中写真。写真中央部が大正地区)
【地名の由来】
上山郷の中心がこの大正(旧地名・田野々)であった。
明治の大合併で上山郷は東上山村と西上山村に分かれた。その東上山村は、類似した村名の西上山村、同じ幡多郡の東山村と書簡の誤送などを解消するため、村名改称の議を村議会に諮り、大正3年(1914)1月1日、大正村が誕生した。これが「大正」の地名の由来である。元号にあやかる村名は、明治村は25か所、大正村は8か所、昭和村は17か所と結構多い。明治の合併で新設された大分県南海部郡明治村は、昭和31年(1956)隣接2村と合併し今度は昭和村となったくらいだ。さすがに「平成」を冠する自治体名はない。
平成18年(2006)3月20日、新設・高岡郡四万十町の発足に合わせ、大正の地名を残したいという田野々地区の有志から要望を受け、田野々地区の区長会や住民アンケートを実施し、大正田野々が多かったが長すぎる地名ということで、結果として大字田野々を大字大正と改称した。
中世からの由緒ある土地に刻まれた「田野々」地名は、あっさりと「大正」に譲ってしまった。現在の国土地理院の地形図には田野々と大正を併記しているがいずれはすたる運命だろう。それでも田野々の地名は「田野々小学校」「認定子ども園たのの」と施設名に残っている。
詳しくは →たのの(田野々)
【字】(あいうえお順)
阿川駄場、足高山、アラセノ上ヘ、池田、石路、イデノ谷、出ノ谷、出ノ谷口、ウツケ薮、馬ノサコ、梅ノ木才、ウヤガタ、ウログチ、ウログチノ上、榎サコ、江原下ヤシキ、大栗、大田、大立バイ、大谷平、大平、大平山、大藤、大向山、奥田、尾崎、押川、尾曽越ノ下タ、小畑山、カゲヒラ、影平山、カヂヤシキ、門田、上頭、亀ノ森、亀山、カラ谷、神主屋敷、北亀ノ山、北栗尾、北路、北森、キノツノ、クハ木谷、久保屋敷、栗尾、小井手ノ谷、孝作り、郡山、九日田、五松寺中、御所ノ森、ゴダイ、小フヂ谷、コヲダ、今宮、作兵ノ畝、椎山、シキマキ山、シダヲ、清水、下奥田、下谷山、杓子、地吉、城山、新土居、杉ノ畝、スケノ沢、住吉、セイモト、瀬里越ノ下タ、ソヲヅ、竹ノ谷、竹ノナロ、谷ノヲク、ダバ、玉屋床、タンバ木、忠六山、長楽寺、ツエノ畝、坪サコ、坪ノ尾、テバコ、寺田、天神ダバ、天神山、トイグチ、土居屋敷、藤後谷、轟崎、ドヲカク、中谷、中屋敷、西尾崎山、西竹ノ奈路山、ハゴノサコ、ハザコ、橋詰、ハマゴ、東ダバ、ヒソ山、ヒソヲ、ヒソヲノ畝、日ノ路、平谷、広岡、富家萩、札ノ越、フヂノダバ、舟田、古酒屋床、古屋ノ谷、ホキノ平、マタジウ、溝ノ平、南路、南セイ、南ノ川、南ノヲク、南溝ノ平、宮クビ、宮ノ畝、宮ノ谷、宮山頭、向ヤ式、目白谷、樅ノ木、森ノ駄場、ヤカイチ、ヤナ場、山神、山ノ沖、要次田、ヨケチ、横道、横山、六月田、ヲキヤシキ、ヲモヤ敷、ヲモ田【147】
※字マスターのクワ木谷、御所ノモリ、梅ノ戈、コウダ、シャク子、タレハ木、西屋シキ、ミゾノ平は修正
※字マスター「日ノ路」の読みは「ひのみち」ではなく「ひのじ」ではないか。同じく「古屋ノ谷」の読みは「ふるやのたに」ではなく「こやのたに」ではないか
※字マスターの「孝作り」、「出ノ谷」、「出ノ谷口」、「藤後谷」の読みが違う。
(土地台帳・切絵図番順)
・轟崎分
1榎サコ、2瀬里越ノ下タ、3轟崎、4奥田、5キノツノ、6ホキノ平
・田野々分
7ヨケチ、8ウログチノ上、9ウログチ、10六月田、11長楽寺、12宮ノ谷、13南路、14谷ノヲク、15南セイ、16北路、17ヲキヤシキ、18天神山、19宮山頭、20横山、21大栗、22作兵ノ畝、23クハ木谷、24南ノヲク、25馬ノサコ、26セイモト、27○、28下奥田、29門田、30要次田、31神主屋シキ、32石路、33九日田、34カヂヤシキ、35ウツケ薮、36御所ノモリ、37トイグチ、38孝作り、39マタジウ、40久保屋敷、41山ノ沖、42ソヲヅ、43城山、44五松寺中、45寺田、46土居屋シキ、47梅ノ木才、48橋詰、49広岡、50新土居、51池田、52平谷、53亀山、54椎山、55坪サコ、56亀ノ森、57北森、58森ノダ場、59北亀ノ山、60古酒屋床、61樅ノ木、62尾崎、63上頭、64ゴダイ、65目白谷
77杉ノ畝、78シキマキ山、79影平山、80小畑山、81江原下ヤシキ、82ヒソヲ、83大田、84足高山、85郡山、86ツエノ畝、87今宮、88大向山、89○、90〇
・吾川分
66忠六山、67西尾崎山、68尾曽越ノ下タ、69ヤナ場、70アラセノ上ヘ、71阿川ダ場、72宮クビ、73ハゴノサコ、74大立バイ、75ハザコ、76ウヤガタ
・轟崎分
91ドヲカク、92大平山、93舟田、94古屋ノ谷、95宮ノ畝
142天神ダバ、143フヂノダバ、144富家萩、145南ミゾノ平、146ミゾノ平、147スケノ沢、148タンバ木、149清水、150シャク子、151坪ノ尾
・つづら川分
96竹ノナロ、97押川、98下谷山、99ヤカイチ、100テバコ、101コヲダ、102コウダ、103中屋敷、104横道、105中谷、106ヲモヤシキ、107住吉、108地吉、109ヲモ田、110山神、111ヒソ山、112檜ノ木尾山(国有林)、113笠木山(国有林)、114五郎木場山(国有林)、115岡崎木屋山(国有林)、116三ツ喰瀬山(国有林)、117松尾山(国有林)、118古尾穴山(国有林)、119西竹ノ奈路山(国有林)、120ダバ、121東ダバ、122○、123○、124玉屋床、125札ノ越、126日ノ路、127市ノ又山(国有林)、128影平市ノ又山(国有林)、129日ノ平市ノ又山(国有林)、130カラ谷、131シダヲ、132南ノ川、133向ヤ式、134小井手ノ谷、135出ノ谷、136栗尾、137北栗尾、138大藤、139小フヂ谷、140ハマゴ、141大谷平
※「出ノ谷口、イデノ谷、梅ノ戈、大平、カゲヒラ、クワ木谷、竹ノ谷、タレハ木、西竹ノ奈路山、西屋シキ、ヒソヲノ畝、藤後谷」は重複・不明の部分
【ホノギ】
〇田野々村(大正橋、土場、貯木場、西本町、本町、東山、中町、新町、南町)
▼田野々村(上山郷地検帳p71~81/検地日:慶長2年2月?) (※地検帳に虫食いが多く見られる)
イケタ、ヒラオカヤシキ、ハシツメ、■スキノ下、ホリノ内、ヲリキタ、トイ、クホヤシキ、シンヒラキ、マトハ、シントノ
イシチ、カチヤシキ、大良タ、ナカレタ、ヒラ谷、ワウトシテン、五月田、辻堂ノ前、ヲカモト、ドウノ前、■ラタ、■ウツハナ、シン■■、ダバ、神田、宮ノ谷セイモト、ウヤカタ ハサコ、西ノ谷、ウヤカタ、下ノ谷
(p85/切畑分)
カシツカ、ヲソコエノ下、ワタセノモト、コヱ、カケヤフ、トウゴ谷、カミツ
▼田野々村(幡多郡上山高山ハタ地検帳p379/検地日:天正16年1月16日)
南ノヲク、石地、岡本谷、カミソ ※カミソは現在の「上頭」のこと
▼アコウ村(p379) ※アコウは現在の「吾川」のこと
アコウ
〇津々羅川村(つづら川集落)
▼津々羅川村(上山郷地検帳p81~83/検地日:慶長2年2月?)
■モダ谷、タケチ■■、ヲ■ヤシキ、中谷、ムカイヤシキ、ヤカイチ、谷クチ、ウスタテ
〇トドロサキ村(轟崎集落)
▼トトロサキ村(上山郷地検帳p83/検地日:慶長2年2月?)
トトロサキ、キノツノ
【通称地名】
【山名】
不動山(ふどうやま:標高780.5m:四万十市△大正・つづら川集落/33.142384,132.912169)
四万十町大正と四万十市の境に位置し、国有林野名「市の又山」にある。主な登山口は大規模林道の不動山トンネルのつづら川集落側にある。300年をこえる天然ヒノキとモミ・ツガの巨木の針広混交林の原生林。登山口から15分も登れば「根上り大将」が迎えてくれる。不動山への登り口は「根上り松」かもう少し先に不動山への表示がある。
山名から判断すれば仏教の五大明王である不動明王を祀った山であろうが大正町誌・大正町史のいずれにも記載はない。日本山名辞典に5座の不動山(ふどうやま)の一つとして紹介されており、その他6座の不動山(ふどうさん)、7座の不動岳(ふどうだけ)などを掲げている。
【峠】
峠(地区△地区) ※注記
【河川・渓流】
【瀬・渕】
【井堰】
【城址】
【屋号】
【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳
皇子宮/24おうじぐう/鎮座地:城山
(旧:竈戸神社)/24.3かまどじんじゃ/鎮座地:城山
熊野神社/25くまのじんじゃ/鎮座地:ウロクチノ上 ※郷社
(旧:神明宮)/25.7しんめいぐう/鎮座地:山ノ沖
(旧:住吉神社)/25.8すみよしじんじゃ/鎮座地:ウツケ藪
(旧:島宮神社)/25.9しまみやじんじゃ/鎮座地:天神山 ※南町
(旧:山津見神社)/25.10やまづみじんじゃ/鎮座地:宮ノ谷
河内神社/26かわうちじんじゃ/鎮座地:奥田 ※轟崎集落
(旧:金刀比羅神社)/26.2ことひらじんじゃ/鎮座地:横道
(旧:天神社)/26.3てんじんしゃ/鎮座地:天神駄馬
(旧:日室天神社)/26.4ひむろてんじんしゃ/鎮座地:下谷山
河内神社/27かわうちじんじゃ/鎮座地:西竹ノ奈路山 ※葛籠川集落。鎮座地の西竹ノ奈路山は所在地と相違する
(旧:住吉神社)/27.3すみよしじんじゃ/鎮座地:住吉 ※河内神社に合祭され鎮座地は旧住吉神社境内地となったのか
(旧:金刀比羅神社)/27.4ことひらじんじゃ/鎮座地:榎サコ
樅ノ木神社/28もみのきじんじゃ/鎮座地:樅ノ木 ※村社
※神社明細帳には「椴ノ木神社」とある。椴と樅は草書体で類似しており、明細帳転載時に誤植したものではないか。
椴松(とどまつ)は北海道を中心とした針広混交林から亜寒帯林にかけて植生するもの。命名動機は歴史環境を反映する。
■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2020令和2年)
「土佐上山郷・熊野神社の勧請における紀州熊野三山との関連性」
武内 文治
1、はじめに
その昔、といっても40万年前の話で、高知県の四万十川中流域は旧十和村、旧大正町から家地川に向けて流れ、羽立川を排出口にして旧佐賀町の伊与木川に流れていた。それが、10万年前位になると、興津ドームの隆起の影響を受けはじめ古四万十川の西方への逆流が始まったという。そういえば窪川台地から山深い地域に向け逆流するかのような印象を受けるのが四万十川の中流域である。以前より不思議に思っていたら、『高知大学学術研究報告』 に流れが反転した古四万十川のことが掲載されていた。
この古四万十川の流れのように「潮垢離 ・潮汲み」の儀式が連綿と上山郷の郷社・熊野神社で続けられている。熊野神社秋の大祭の清めに使うため、2人の清浄人 (しょうじゅうど)が上山郷から遠く離れた熊野神社由来の地である熊野浦(黒潮町佐賀地域)まで山道を歩いて出向き、14本の竹筒に潮を汲み、運ぶ、三日間の儀式である。今では山林斗藪(とそう)することなく車を利用している。
この熊野神社の潮垢離と潮汲みの儀式に見える山と海の相関性は、熊野の地が山国であるがあわせて群青の海も抱いていることに一致する。海と山はどこにもある風景だが、熊野は「死者の国」、補陀落渡海の地である故に謎めいた深みをますことになる。上山郷の熊野神社の由緒について『南路志』上山郷の項に「上山領主田那部旦増之嫡子永旦、建久元年(1190)十一月紀州熊野権現勧請」(p615)とある。そのまま事実とはいえないものの、熊野の山と群青の海の地にある熊野三山の地理的関連性は、この「潮垢離・潮汲み」の儀式に刻まれているように思う。
文献資料の乏しい中世の上山郷について歴史地理学や民俗学の方法論で山の領主・上山氏の支配構造 を示したのは目良裕昭である。
「15世紀前半の応永年間、二度にわたって田野々村の熊野三山権現を造営・修築した道圓と出羽左衛門尉重正は父子と考えられ、南北朝の動乱を経て上山郷に支配領域を形成した山の領主とみなされる。道圓と重正が上山郷の開発領主や田辺別当家に連なる一族であったかは定かでないが、応永17年(1410)に打ち付けられた棟札は、山間部に浸透していた熊野信仰の宗教的権威を利用し、湛増の嫡流に結び付けることで領主としての正当性を示そうとしたのであろう」
全国に3千余社ある熊野神社であるが、この辺鄙な上山郷の地に熊野神社が勧請されたのはなぜか。中世上山郷の熊野神社について目良の論考をもとに熊野三山との関連性と高知県下の熊野社の分布をまとめ、併せて過疎地における神社運営の実際を考えてみたい。
2、紀州の熊野三山の発祥
上山郷の熊野神社は創建当初には熊野三山権現と呼ばれていた。その「三山(三所)」とは今の熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮鎮座)、熊野速玉大社(同県新宮市新宮鎮座)、熊野那智大社(同県東牟婁郡那智勝浦町那智山鎮座)の3社のことである。
この熊野三社信仰の発祥と成立については、豊島修『熊野信仰と修験道』に詳しいが、要約すると、初期の熊野信仰は「海の修験」で、海洋他界の常世を信仰対象として紀伊半島の海辺の「辺路」や島・岬をめぐる辺路修行であった。その辺路には各所に拝所として「王子」が設けられておりその修行者(修験者)の集結場所としての聖地が「那智」であったという 。その後、熊野と吉野大峰山を結ぶ大峰山修行路が11世紀初頭に開かれて、「那智」を中心に成立した「海の修験」から「山の修験」の「本宮」に中心が移行していったとある。
この「海の熊野」と呼ばれる熊野牟須美大神(那智の主神:伊弉冉尊・イザナミ/千手観音)と速玉之男神(新宮の主神:伊弉諾尊・イザナギ/薬師如来)と、「山の熊野」と呼ばれる熊野家津美御子大神(本宮の主神:素戔嗚尊・スサノオ/阿弥陀如来)を祀る本宮大社と、2つに区分されていたものが、11世紀中頃(平安時代)に組織された熊野修験道が成立してから熊野三所権現を祀る三山三社となり一体的な修行の場として発展した。
この熊野三山信仰で重要なのが「現当二世」の利益を熊野の神に立願すれば叶えてくれる「熊野詣」にある。現当二世とは、現世安穏後生善処でこの世の利益とあの世への往生である。先に述べたように「那智」は本地仏が千手観音で、あらゆる人、あらゆる願いを叶える現世利益の観音信仰にその特徴がある。「速玉(新宮)」は薬師如来が本地仏で、この世の衆生の病苦を救う那智に同じく現世利益である。「本宮」は本地仏の阿弥陀如来を信仰対象として死後の世界を救済する。
三位一体となった熊野の神仏(千手観音・薬師如来・阿弥陀如来)に立願し、在地の山伏に代参してもらう「熊野詣」。このシステムが熊野修験道で、「禊祓(みそぎはらい)」や「山林斗藪」の苦行を成し遂げた修験者(山伏・先達)が在地の布教者(熊野詣の代参と案内人)となり、熊野詣の仕切り役である熊野の御師 (おし)につなげていった。これら修験者を組織して法会や諸儀礼を統制して宗教面の管理者として務める御師(僧職)は宗教面のみならず、経済・軍事面なども掌握し、天皇家等の政治的な繋がりも深めていく。
その熊野の僧職の最高権力者が「別当」である。11世紀末、熊野三山信仰の高まりを背景に寛治4年(1090)に白河上皇が第一回の熊野御幸が行われた。これからが「蟻の熊野詣」の始まりである。「蟻の熊野詣」も一般庶民には叶わず武家社会の進展とともに上級武士が統治の装置として熊野三山の分霊として領地に勧請するようになった。これが全国3千の熊野社の序章である。
3、熊野詣
熊野は紀伊半島の南部に位置する「熊野三千六百峰」と呼ばれる山国であり、その山は海にまで迫り、外界との交渉を寄せ付けない気構えがある。
五来重『熊野詣』には「伊勢が表とすれば熊野は裏であるという感覚がすでに奈良以前からあったとだけはいえる。いいかえれば伊勢は顕国(うつしくに)であり、熊野は幽国(かくれくに)である。古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにあるとかんがえ、これを“こもりくに”(隠国)とよんだが“くまの”は冥界を意味する“くまで”、“くまじ”とおなじ“こもりくに”の変化であろう」 (p19)と伊勢と熊野を比較し熊野を死者の霊のこもる国とし熊野の語源を説明する。
古代からの「死者の国」という山中を他界とする信仰が昇華したのが熊野詣。「山越えの弥陀」は、道中の禊祓や山林斗藪の苦行を成し遂げた後に開ける世界であり、浄土を体感できる彼岸の地であったことだろう。熊野詣はそんな必ず一度はくるあの世への予行演習である。
熊野詣は前行として熊野精進屋に籠って精進潔斎(しょうじんけっさい)の食の作法とともに水垢離や潮垢離で禊祓をしなければならない。道中は「嶮難遠路、暁より食せず、無力極めて術無し」、夜を明かすは「窮屈平臥」、道中は道理に背く悪口・両舌、妄語・綺語を捨て「不妄語戒」でなければならない。右の図2のように参詣道に建立された八十六社 の王子社などで休息もしつつ折々の聖地では水垢離や潮垢離を繰り返し、幣を奉り、教を唱える修行である。最後は音無川を「濡れ草鞋の入堂」となる。
歌人藤原定家の日記『後鳥羽院熊野御幸記』には建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の参詣の様子が記録 されている。9月30日の精進屋での5日間の前行から始まり10月5日に船で出立しこの日は天王寺で泊り、6日は和泉、8日には雄ノ山を越え紀伊国となり、13日には難所の中辺路に入り、16日に本宮に到着。18日は新宮、19日は那智を参詣し、20日には雲取越えで本宮に到着。21日には本宮に参詣しその日に帰路となり26日には京都に着いたとある。往復16日の行程であるが、1日に8カ所の王子社を参詣し神楽や舞を奉納し夜は歌会にも出仕したというから速足ではない。京都御所から中辺路経由で本宮大社までGoogleマップで計測すると片道概ね250km、新宮から那智大社へとなると片道300kmとなる。京都から摂津、本宮から新宮までの船旅を考慮しても往復500kmの歩行となる。1日平均で換算すれば平坦地で35km、山道で25kmといったところであり、四国歩き遍路を体験した方には理解できる行程である。
それにしても、後鳥羽上皇は24年間の院政期間のうち28回も熊野詣をしたと云われているが、10か月に1回というペースである。単に信仰だけでなく熊野水軍を含めた軍事力など政治的な思惑も感じ取れる。最後の熊野御幸の3カ月後に鎌倉幕府と対立が激化し承久の乱(1221)が勃発。敗れた後鳥羽上皇は、全国3千カ所の荘園が没収され隠岐に配流された。
『梁塵秘抄』には熊野詣を象徴する有名な「熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし 馬にて参れば苦行ならず」がある。今でも遠い地の熊野へ上皇から庶民まで「蟻の熊野詣」と言わしめる一大ムーブメントとなった。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産(文化的遺産)に登録されたのが平成16年(2004)。三重、奈良、和歌山の3県にまたがる「紀伊山地の自然」がなければ成立しなかったとホームページで解説する。「霊場」と「参詣道」、それらを取り巻く人間の営みと自然の特異な結びつきなど「文化的景観」が主役である。日本で唯一の「道」の世界遺産でもあり、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(1993年登録/1998年フランス分含む)」には距離(1000km超)と巡礼者(10万人)には劣るものの、日本人の基底に共鳴するものを感じる。ただ、熊野古道のみ強調され、一部を切り取って観光商品化するのは残念だ。90社をこえる王子社を歩く旅・祈りの旅のサテライト(木賃宿と温泉と物産と文化・観光の拠点)として再構築し、京都から熊野三山を歩く「現代版・熊野詣」を仕組んでもらいたい。歩くことで見えない世界が見えてくる「令和版・蟻の熊野詣」だ。今日での観光の旅行商品を企画立案する会社が「旅行代理店」であるが、熊野詣を仕切るのが「御師(おし)」であり、修験道(先達・山伏)を現地のツアーコンダクターとして指揮することになる。それら熊野三社の社僧の最高権力者が「別当」と呼ばれる人である。
この熊野社の最高権力者である別当のなかでも実力者といわれる人物が第21代熊野別当・田辺湛増である。経済面では全国に多くの荘園・所領を持つ荘園領主、軍事面では熊野水軍の最高司令官であり、田辺の在地領主としては熊野別当家の惣領でもある。
この湛増とその嫡子永旦を勧請沿革としているのが上山郷の熊野三山権現(熊野神社)である。その口碑の背景について熊野別当・田辺湛増の時代を探るなかで検証を進めたい。
4、熊野別当湛増と永旦
次の図3は、21代熊野別当湛増を中心にした熊野別当家(田辺蓬莱家・田辺小松家)の略系図 (22別当範命とあるが23の誤植か)である。『熊野別当代々次第』等をもとに作成したものであるが元史料にしても後世において編纂されたものでありその内容がそのまま事実とはいいがたいものである。
例えば『熊野速玉大社古文書古記録』の「76熊野山別当次第記」では「第廿一別当湛増 湛快二男、叙法印、文治三年(1187)補任、建久九年(1198)5月8日六十九入滅了、但無拝堂、男子七人女子五人此外雖多之、不注之、治山十二年」(p81)とある。また同書には熊野速玉大社の上野宮司が昭和初期までの速玉大社に関する文献・史料のうち由来に関する部分をまとめた「官弊大社熊野速玉神社御由緒調査書」もあり熊野別当系図として先述の熊野山別当次第記に解説を加えた『紀伊続風土記』を引用している。この中に湛増の子孫となる小松家の“五本骨扇の日の丸に根曳の三階松”の家紋の記述がある。上山郷の熊野神社の宮司である田辺家の家紋も五本骨扇の日の丸でありここにも関係性を伺うことができる。『熊野那智大社文書 第三巻』には、1097号文書として法眼湛意書状があり、書状には五本骨扇に松の字を入れた絵が描かれている。
今秋、和歌山県立図書館を訪ね資料課長から湛増と永旦に関するレファレンスサービスを受けた。『那智山実報院道昭法印家本熊野別当系図』、『熊野別当流諸氏系図集』などの史料をもとに説明をしていただいたが「後世に編纂されたものでこれが真正な系図とは言い難く、湛増、永旦の名が記載されていても不確実である」との回答であった。その『熊野別当流諸氏系図集』のなかに「永湛」の記載はあったが、湛増の嫡子ではなく曾孫にあたり、名も『南路志』の上山郷の項(p615)に記載されている「永旦」とは違っている。その関係は後段で述べるとしてとりあえず湛増が生きた時代をまとめてみたい。
平治元年(1159)の平治の乱では、父湛快(18代別当)が平清盛方につき平氏政権のもと熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにしていった。湛増は平氏の御師として京都に滞在し、源氏と平家の複雑な絡み合いのなか「法眼湛宗」として情報活動を担っていた。いわば親平氏派のリーダーである。承安4年(1174)、20代別当となった範智の下で権別当に湛増は就任。治承4年(1180)、親平氏派の本宮・田辺方1000人は、親源氏派の新宮・那智方2000人と新宮の湊で合戦し、敗北した。この戦いは源氏と平氏の代理戦争というべきもので、以後5年も続く治承寿永の内乱の口火を切る戦いでもあった。
承安5年(1181)になると、湛増は熊野衆徒の支配にとどまらず平氏政権に不満をいだいていた熊野各地の海民(海賊)を熊野水軍として組織していき、治承5年 (1181/養和元年)9月、湛増はついに坂東方(源氏)に呼応して挙兵し自ら反平氏・親源氏の旗色を明らかにした。
一時、平家に与していたが源氏側に味方する「鶏合わせ」の挿話が『平家物語』にある。「熊野別当湛増は平家重恩の身なりしが忽ちに心変はりして “平家へや参らん源氏へや参らん”と思ひけるが田辺新熊野に七日参籠し御神楽を奏して権現に祈誓を致す“ただ白旗につけ”と御託宣ありしかどもなほ疑ひをなし参らせて白き鶏七つ赤き鶏七つこれを以て権現の御前にて勝負をせさせけるに赤き鶏一つも勝たず皆負けてぞ逃げにける “さてこそ源氏へ参らんと思ひ定めけれ”さるほどに一門の者共相催し都合その勢二千余人二百余艘の兵船に乗り継ぎて漕ぎ来たり」と書かれている。本文では白の鶏が全部勝ったことになっているが、白と赤、どちらが源氏を指すかは読み取れない。解説では白を源氏、赤を平氏にみたてて鶏を闘わせ、結果、熊野権現の強い意志により白い鶏が勝ち源氏を味方する形となったとしている。一方、『大正町誌』(p34~)では吉川英治『新・平家物語』引用して「鶏合わせ」を書いているが、ここでは、10羽の鶏を紅白の2組に分け、紅は平家、白は源氏として闘わせ、1番紅組、2番白組、3番白組、4番紅組となり5番の決定戦で紅組が勝ち、「神問いは、紅に。神意は平家へ味方せよ」である。
「物語」と「小説」の違いとはいえ、いささか結果の判然としない内容ではあるが、湛増の苦渋の決断としたたかさを垣間見ることができるのが「小説」である。闘鶏神社のホームページには「紅白七羽の鶏」と平家物語説を採用している。熊野三山の別宮的存在となった闘鶏神社に伝わる『平家物語』と吉川英治の『新平家物語』。どちらにしても湛増の心のうちが読み取れる挿話である。
平氏政権によって解任された権別当の湛増は実質的には別当の役を担っていたが、ついに、元暦元年(1184)空席であった念願の熊野別当に補任され21代別当となった。くわえて文治3年(1187)、後白河法皇の熊野詣の奉仕の功により法印 に叙せられた。
しかし、義経が頼朝に謀反した時、紀伊の武士団の多数が義経らに味方したとの不信感は強く、その罪を許されたのは建久6年(1195)、湛増66歳になってからのことである。建久9年(1198年5月8日)に享年69歳で湛増は亡くなった。鎌倉幕府と友好な関係に修復した湛増は、熊野水軍を軍事力として、全国にある熊野三山の荘園や所領を結ぶ「太平洋航路」を確保し、海上交通の諸権益を増していった。
弘安5年(1282)、湛増の曾孫にあたる正湛が31代別当になったが、弘安7年(1284)に還俗しその後別当職は廃止され「熊野七上鋼」によって熊野が支配される時代となったと地方史誌に書かれている。しかしながら図3のとおり40代別当定遍まで一定の勢力はあり、徳治3年(1308)に発生した「西国ならびに熊野浦々海賊」の一斉蜂起以後、熊野水軍の統制力も弱まり、14世紀以降には新興地方武士勢力が別当家に反旗を翻す各々独自の行動を取り始めた。その頃から、熊野別当家は熊野の在地支配者としての地位を失い、南北朝動乱の最中、歴史の表舞台から消えて行くことになったといえる。
このように田辺別当家の湛増を中心に大まかな流れを阪本敏行の『熊野三山と熊野別当』から要約した。
この熊野別当の歴史を踏まえ、上山郷の熊野三山大権現の勧請縁起にある「田那邊別当旦増(湛増)之嫡子永旦建久元年(1190)十一月熊野三所権現勧請」との考証が課題となる。先述のとおり湛増と嫡子永旦について目良が「山間部に浸透していた熊野信仰の宗教的権威を利用し、湛増の嫡流に結び付けることで領主としての正当性を示そうとしたのであろう」と論考している。
勧請年となる建久元年(1190)といえば、壇ノ浦の戦い(1185)で源氏の勝利に貢献し上総国に広大な所領を獲得するなど法印湛増が熊野別当として権勢をふるっている時代で、承久の乱(1221)に向けた京都と鎌倉の対立前の熊野安定期の時代である。
『南路志』萬亀山五松寺(四万十町大正/曹洞宗)の記述に「田那邊別當旦増其子永旦、八嶋兵乱之砌讃州江渡り、夫ゟ當國ニ来上山領主ト成」(刊本三巻p616)とある。史実では屋島の合戦には熊野水軍率いる熊野勢は合戦に間に合わず(若しくは恣意的に遅れて)合流したのは壇ノ浦であったという。永旦が屋島の合戦に参戦し讃岐から上山郷に来たというが勝利した者が熊野に凱旋することはあっても遠流の地に来ることはなかろう。
『熊野別当流諸氏系図集』 に「熊野別当総系図」があるが、湛増とその子等についてまとめたのが次の図4である。
『熊野速玉大社古文書古記録』 (熊野速玉大社所蔵)の76熊野山別当次第記には、湛増の子は息子が7人、娘が5人とあるが、『熊野別当流諸氏系図集』の「熊野別当総系図」には湛憲(湛顕/権別当)・実増・湛勝・湛眞・祐豪・能行(柿原)・女・湛全・七郎・湛圓の息子9人、娘1人が書かれている。このなかに「永旦(えいたん)」はないが、湛増の四男・湛眞(27代別当法印/1184-1244/補任1237年・嘉禎3年)の次男・定湛(29代別当法印・権大僧都/補任1258年・正嘉2年)の5男として「永湛(えいたん)」の名がでてくる。系図そのものの真正さは不確かであるが、同一人としても、勧請年となる建久元年(1190)には生まれてもいないことになる。
また、伊与喜郷の熊野神社の縁起も同じようではあるが、地元佐賀の熊野浦には「弁慶の父・湛増上陸の地」と案内板が書かれ、かの湛増よりも有名な弁慶にあやかった表示となっている。また、伊与喜郷の郷社である熊野神社(黒潮町熊井字法泉寺山鎮座)の石碑には「熊野三所権現の伝承」として次のように書かれている。「伝承」と書かれているが本文は史実のような書き方である。木造の案内板なら朽ち果てるものの、石碑であるがゆえに注釈が必要であろう。
熊野三所権現の伝承(国道56号の鳥居端)
熊野三山の権力者弁慶の父別当湛増は平治の乱(1159)以来平清盛の味方し巨大な富と紀州熊野の政治・軍事・経済の実権を握る大権力者となる。源平の戦には傍観の末最後の壇の浦での戦で熊野水軍2000隻を持って源氏に味方し勝利に導くが源平戦後は頼朝の政権強化と熊野三山内部一族との権力争いが再燃(中略)熊野三山内部には反乱勢力が漲り紀州の大権力者別当田辺湛増も平家滅亡とともにその権威を失いもはや紀州に居る事ができず決意し熊野三山の杉苗三本と宝物を持ち重臣一族と共に紀州田辺より舟にて讃岐に逃れるがここにも居る事ができずさらに南下を続け太平洋を西に土佐国幡多に着く ここは平清盛の長男小松重盛の領地 やがて鈴沖へ そしてその西に上陸する 故にここを熊野浦という その後峰づたいに西に移りここを熊井(熊居)と名付け法泉寺山に熊野三所権現を鎮座し伊与木郷(佐賀町)の総鎮守社とする文治二年末(1186)の事である 田辺湛増は熊井に居て伊与喜郷全体を統合善政を敷くが世は正に波乱の時代源氏の追求厳しく文治五年末(1189)湛増は死亡 その子永旦は熊井に居るを得す伊与木山を越し打井川を通り田野々に移る(以下略)
この「熊野三所権現の伝承」の要点となる部分は
① 源平の合戦後、熊野三山の内部の反乱により湛増は紀州田辺から讃岐へ船で逃れた。
② 平清盛の長男・小松重盛の幡多領地へ立ち寄り、その後熊野浦に上陸、その後熊井へ移る。
③ 文治2年(1186)、熊野三所権現を熊井の地に勧請し、文治5年(1189)、湛増が亡くなる。
④ 湛増の子・永旦は熊井を離れ、上山郷田野々へ移る。
根拠とする史資料は示されておらず、いわゆる正史と伝承の境が判然としない。
『南路志』は熊井村への勧請由来 として「紀州熊野別當田那辺旦増ハ初メ源家に縁ありといへども、後心を翻し平家に属し源氏とあらそふ。寿永年中平氏西海に没落に到って、旦増身をおくに所なく、船に浮て漂泊す。此時熊野三の御山より三本の杉をおろし、三所権現の御神体になそらへ奉供、所々の海浜にさまよひ、終に当国伊与木郷の南の岸に漂着す此所を今に傳へ熊野浦と称す。夫より西の方五十町はかりに鎮座なし奉る、故に其所をさして熊居村と云」(以下略/p349)と記している。
『南路志』を根拠としつつ前段部分の①については、現存する史資料のある「壇の浦での戦で熊野水軍2000隻を持って源氏(義経)に味方し勝利に導く」に改めたものの、その後については②のように湛増が熊野浦に漂着したこととしなければならないことから『南路志』を引用しつつ、「小松重盛の領地」の脚色をしたものと思われる。小松重盛(平重盛)については、足摺の金剛福寺の古文書に「平安時代末期の幡多郡は、関白藤原忠通の荘園であったが、応保元年(1161)平清盛に召し上げられ、後に長男重盛の領地となった」とあり、『南海治乱記』にも「平相国の時、幡多、高岡二郡を小松重盛に賜う」とある。③では文治2年(1186)に湛増が熊井の地に勧請し、湛増の死を文治5年(1189)としているが、当時の記録では、熊野別当田辺湛増が「将軍源頼朝と対面し頼朝の嫡男頼家に甲を献じることによって、ようやく積年の罪を許され、改めて“鎌倉の御家人”として認められた」(『吾妻鏡』建久六年五月十日条)とある。湛増の死はその後、建久9年(1198)のことで、熊野で生涯を終えている。
また、「弁慶の父・田辺湛増上陸の地」もしかりである。湛増の故郷田辺地方にも武蔵坊弁慶が湛増の子であったという伝承が残されているが、先述の『熊野別当流諸氏系図集』の「熊野別当総系図」には、湛増の弟・湛政の嫡子・湛全(禅)の脇書きに後武蔵坊弁慶と書かれている。
義経を支援した湛増に対する頼朝の猜疑心は強く、義経と頼朝の不仲の関係は大きく熊野三山にも影を落としたが、湛増は政治力学にも長けており最終的には頼朝と和解を成している。『義経記』や講談などでも有名な武蔵坊弁慶であるが、ここでは、最高権力者湛増を説明するための引用句となっている。
義経がフビライとなったという伝説のように、不世出の熊野別当湛増も、「この地」での「再来物語」として期待されたのではないか。
5、熊野の氏族
いずれにしても、『大正町誌』『長宗我部地検帳の神々』などで熊野神社の棟札や由来がそのまま事実として認められないと指摘されている。ただ、口伝・伝承にしても先人の「物語」に盛り込まれた意思を読み解く使命がある。『大正町史』(2006年)は「中世における神社建立は、その地の有力者によるものが多いため、田野々の熊野神社創建の事実は、既に有力な在地豪族が存在したことの証の一つとみている」(p60)と、今後の試論を期待している。冒頭に書いた目良の「山の領主・土佐上山氏の支配領域とその構造」はその試論の一つである。目良が述べるように文献資料が皆無といえる上山郷において「棟札」は文字として検証できる唯一の要素となるものであるが、加えて歴史地理学や民俗学の方法論で検証する要素が「地名」であり「氏名」である。この「地名」と相関する「氏名」については後段で述べるが、ここでは「棟札」に書かれた湛増永旦の末裔の名に関連して熊野別当家等の「氏名」と荘園神領、開発領地についてまとめてみる。
湛増と永旦。この2人の正史と伝承の隙間を埋める史料がない中で、唯一確認できるものが棟札である。上山郷と伊与喜郷の2つの熊野神社が鎮座するが、湛増と嫡子永旦の勧請縁起が同じである。また、応永17年(1410)の棟札も「大檀那真方中将四代孫田那部別当旦増嫡子永旦・儀旦・光旦・満旦・道■(積)・定阿・聖■(検)・道勝・道圓(固)・出羽左衛門尉重正」と同じ内容となっている(※■は虫食い、丸括弧書きは伊与喜郷の棟札。上山郷の棟札は明治23年の大洪水で流失)。
この棟札にある「真方中将」は、熊野別当家の先祖の一人とされる藤原実方ではないかと思われる(熊野別当系図に記載がある)。中将は平安時代の近衛府の次官(四等官・従四位下)のという高級官僚であるが、藤原直方が中将であった記録はない。興味があるのは、棟札の名にある「旦」と「道」の一字である。
熊野別当でも、田辺別当家は湛増の「湛」が多く、競合する新宮別当家は「快」が多く用いられる。また、熊野別当支配の後、別当に代わり有力な社家が熊野を統治する「七上鋼(しちじょうこう)」とか、熊野が土豪化して八家の有力武士集団である「熊野八庄司」が現れた。
『熊野別当流諸氏系図集』によると次の諸氏の系図がまとめられている。この系図を詳細に見ても上山郷を領した記録はないが、上富田町の「市ノ瀬」地名、白浜町堅田に所在する「才野(さいの)」地名、目良の姓(先述の目良裕昭は高知市在住)、仁井田五人衆の一人である西原氏の祖・吉村左衛門尉清延は紀州日高庄に住んでいたが文明年間(1469-1487)、一条氏に伝を求めて窪川に来たということなど、土佐-紀州-伊豆は海の道を通じた交流から各地に類似の地名や氏名が記憶装置として散見される。熊野三姓・熊野三党とよばれる「宇井」「鈴木」「榎本」がある。熊野速玉大社の神職を代々務めたという。その鈴木の姓が全国に多く見られるのも熊野信仰の全国布教が要因と言われる。熊野那智大社の麓の集落は「市野々」であり、伊与喜郷の市野々との関連を思われる。また「ウイ」は和歌山県の特徴的な地名でもある。カイトと同じ意味らしいが、ウイが上山郷の打井川(ウ・つ・イ)の類似音となる。黒潮町の熊野浦・熊井・市野々川、四万十町の打井川・大正、和歌山県田辺市本宮町本宮・同県新宮市新宮・同県那智勝浦町那智山・同市野々の字名を全部調べたが伝播地名と思える法則性は見られなかった。これは字名が農民ら地に暮らす民にとって日常的に必要な地名として命名・継続されている性格によるものと思われる。
6、高知県の熊野神社
オーテピア高知図書館が所蔵する『高知県土佐国神社明細帳』(以下『神社明細帳』)は、明治12年に内務省の布達により高知県が調査し、まとめた県下の神社の総目録である。神社の名称、鎮座地、社格、祭神、由緒、例祭日、建物や境内の規模、合殿神社、境内神社、信徒数などが記録され、それ以降、大正・昭和初期を通じて追記や修正が加えられている。安芸郡6冊、香美郡8冊、長岡郡9冊、土佐郡7冊、高知市1冊、吾川郡6冊、高岡郡14冊、幡多郡12冊の簿冊でデジタル化もされ、申請により閲覧も可能となっている。この神社ごとの由緒には勧請の経過のほか、棟札の内容、土佐州郡志や南路志などの文献の引用、津波等の災害記録も記録されており、歴史を学術的に研究するための貴重な資料となっている。
明治12年当時の神社の総目録数は5,600社余りで、その後、昭和初期まで『神社明細帳』は調整され合祭(900社)にともなう書き込み等が行われ、最終的には4,700社余りとなっている。現在の神社数は宗教法人を所轄する高知県法務課で把握しているが統計数値は示されていない。文化庁の2018年宗教統計調査 によると、高知県は2,171社となっている。
この『神社明細帳』における熊野神社系と思われる神社(合祭社、神社の境内にある摂社・末社を除く)は、熊野神社が53社、若一王子宮が21社、十二所神社が19社、王子宮が11社、三所神社が9社、三熊野神社が5社、その他が8社で、合計126社が県内に勧請されていることになる。また、郡別(市部も旧郡域に入れる)では安芸郡が9社、香美郡が20社、長岡郡が24社、土佐郡が11社、吾川郡が9社、高岡郡が37社、幡多郡が16社となっている。これら熊野神社系の126社のうち107社については、鎮座地が確認できるので別図に示す 。107社の旧社格は、県社1社、郷社21社、村社55社、無格社30社となる。祭神は伊弉冉神(イザナミ)が最も多く49社、次に速玉之男神37社、事解之男神30社、天照大神28社、伊弉諾神23社と続く。伊弉冉・速玉之男・事解之男の三神を祀る神社が25社にのぼる。高岡郡旧窪川町の熊野神社では伊弉諾・天照大神・月夜見神の三神で、幡多郡旧佐賀町熊井の熊野神社では伊弉諾・速玉之男・事解之男、幡多郡旧大正町田野々の熊野神社では伊弉冉・速玉之男・事解之男と三神も変わってくる。ことに大正と佐賀の熊野神社は勧請由緒を同じとするものであるが祭神が異なるのは、神道信仰において依代とする対象は山や川であり、祭神の名は特に必要としなかったものが、後世に祭神の名を付せられるようになり往来の地域性による祭神群となったのではないかと思う。ちなみに、熊野三山協議会HP< http://www.kumano-sanzan.jp/>によると高知県では78社の熊野神社が数えられている。神社名、祭神名、本地仏、勧請年代等について統計資料も明示しているのでおもしろい。
高知県の庶民の信仰の実際を戦国末期の『長宗我部地検帳』(以下『地検帳』)の脇書きなどから読み解いたのが、廣江清の著作『長宗我部地検帳の神々』である。『地検帳』のホノギの名称とその社領・所有関係、神田名称と神事儀式を書き込んだ脇書き等をもとに神社を推定し系列化して説明する。
同書では、八幡宮(113社)、熊野社(79社)、天満宮(181社)など42の区分で系列化し、郡別にそれぞれの分布を数値で表すとともに、『南路志』や『土佐州郡志』など時代ごとの変遷や『神社明細帳』の記載事項を集約している。それとともに神社の年中行事も月別にまとめており、庶民の生活もうかがえる内容となっている。
廣江が示した42の神々のうち熊野社の項(同書p22-36)について要約してみると、熊野信仰が土佐に入ってきたのは、平安末期。文書により創建を推定できるのが高岡郡越知村横倉社で保安3年(1122)、祭神は熊野権現としている。熊野詣を仕切る御師(おし)は参詣者の為の祈祷師や宿主である。この御師と武士との間に立って仲介したのが先達である。熊野で修行した山伏のうち功績顕著なものが先達の称号を得て平安末期以降各地に散在した。先達はそれぞれの居住地で熊野信仰を宣教し、熊野詣の客引きの立場をになった。近世初期以降熊野信仰は凋落していった。熊野信仰を広めるのに役立ったのに熊野社領がある。大忍庄(香美郡の東側)が鎌倉末期に熊野権現社領であった。これらの社領の由縁で勧請されたのが若一王子宮(香美市香我美町徳王子鎮座)で奇祭「烏喰神事」がある。また熊野牛王宝印に烏が用いられるが、土佐でも(旧大正町)田野々の熊野社が牛王宝印をだしている。勧請の由来について棟札から読み解くと勧請者は上級武士である。このように熊野社は上級武士、先達によって勧請され維持されてきた。熊野信仰が広まるにつれて、熊野詣のできない下層の人々の願望から熊野の勧請が行われた。しかし室町中期以降、山伏達は衰頽し熊野との支配関係から離れていった。地検帳の時点では熊野信仰は衰えており、熊野社のうち神田のないものが22社、下層階級(無姓者)が維持していたもの13社と半数を占めるとある。
熊野神社はその社名から熊野社と区分できるが、王子宮・王子神社・三所神社・十二所神社が他の神社系列と混合している場合がある。例えば王子宮・王子神社の場合、五所王子をさす熊野神社系の「若一王子」である場合と、仏教の守護神である牛頭天王(祇園社・八坂神社)の八人の子を祀った「八王子」の場合がある。また、三所も本宮・新宮・那智の三山を示す場合と、在地三社を合祀して三所とする場合もある。
この多様な名称も明治以前は熊野権現、熊野三所権現、若一王子権現、新宮大明神など本地垂迹の社名となっていたが、明治政府の神仏分離(神仏習合の慣習の禁止と廃仏毀釈)や神社合祀の宗教政策から神社名も大きく改変され祭神も大きな変革期となった。土地と職から解放された明治の「市民」は、西洋の思想に影響されつつ、家族の信仰から個人の信仰へと移行していった。今では神社を参拝する氏子も祭神が何であるかは意味を持たず、慣行として年数回の祭礼に臨み、観光化された神社に御朱印やお守り・おみくじを求め参拝する。過疎地の神社や都市化された地域の産土神社は宮司不在の現況で境内の佇まいは静謐とはいいがたい。「立派な神社」と「過疎地の神社」は、今般の経済社会と同じく二極化された神社の様相である。その意味でも神社は現代世相の影絵となっている。
廣江は同書のあとがきで「“長宗我部地検帳”の神々の種類は三百余。この数はおそらく中世末の土佐の神々を網羅している。ここでとりあげたのは四十二にすぎない」と述べている。庶民は何を願ったかというテーマについて、資料を残さないなかでも営々と続く年中行事をとおし描いている。発刊された昭和47年当時は、明治の神仏習合を廃する宗教観の大変革の大波を乗り越え、過疎化・信仰の多様性とともに年中行事も廃れつつあり、記憶をたどり復元できる最期の時代だったと考える。
全国3千社の熊野神社、熊野信仰を流布したのは、「熊野詣」と「熊野社領」である。熊野信仰を支え広めたのが熊野詣での司令塔となる御師と在郷の先達や熊野比丘尼達である。全国各地で熊野牛王宝印の護符を配りながら、下層階層の信仰にこたえ、上級武士の熊野詣を支援した。在郷領主は領地支配の装置として熊野三山の勧請(小型化した霊場)を成し、領民の「後世安楽」の願いに応えていたのだろう。
岡本健児は『土佐神社考古学』のあとがきに「十二世紀~十三世紀にかけて、土佐に熊野信仰が波及する。その経路の一つとして、吉野川を遡り山岳部に入り石鎚信仰につながるもの、いま一つは海辺にそって入ってくるものとがある。今後より細かい研究は仏教考古学の面から追及が是非必要」と結んでいる。
全国の熊野権現の勧請地について宮家準は『熊野修験』で「原田敏明は、中世期に土豪が割拠していた山間部に多いことに注目し、これに対し堀一郎は鹿児島・千葉・高知などの事例をもとに熊野神社が海岸線にそって散在し、山間中央部は大小の河川に従って遡上した形跡があるとし、近藤喜博は高知の事例をもとに堀の主張を認めつつも荘園や御師の活動も考慮しなければならない」(p223)と3人の研究者を紹介しつつ各地の権現勧請の特徴を述べている。四国札所のうち熊野信仰の影響が見られる所として最御崎寺、金剛福寺など十八カ寺をあげている。宮家が四国の勧請を紹介するなかに「北宇和郡三間町成妙(なるたえ)に建久元年土佐(※上山郷の熊野神社)から勧請した熊野権現がある」(p251)の記述がある。上山郷の熊野神社と勧請年の由緒が同じであり、南予との歴史的な交流を踏まえれば関連もあるように思える。
その長い歴史の中で伝播した熊野系の神社を、高知県内の『神社明細帳』に記載された由緒や棟札をもとに勧請年代(1300年代まで)で列記すると次のようになる。
①弘仁拾弐年(821) 熊野三所権現(伊邪那美・速玉男・事解男/土佐清水市足摺岬金剛福寺境内鎮座/鎮守社)足摺山金剛福寺秘蔵ノ記録ニ曰ク昔弘仁拾弐年(821)ニ足摺山鎮護ノ神トシテ弘法大師自ラ紀州熊野ノ社ヨリ遷シ来リ号シテ熊野三所大権現トシ・・
②保安三年(1122) 横倉大権現(伊邪那美神・速玉之男神・事解之男神/越知町越知丙字横倉山鎮座/旧社格郷社) 主トスハ南社ニシテ古来本山ヲ横倉山ト呼ヒ本宮、中宮、下宮ノ三所アリ俗ニ横倉三所権現ト称ス本社ハ所謂下宮ナリ 傳説曰南社ハ紀伊国熊野神社
③久安五年(1149) 若一王子権現(天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神/本山町寺家字大宮鎮座/旧社格郷社) 紀州熊野有馬村ヨリ御別天降給ヒヌ。
④仁平年中(1151-1154) 若一王子(天照皇大神/大豊町寺内字大田山鎮座/旧社格郷社) 伝記「熊野ヨリ勧請仁平年中(1151-1154)再興」「神亀元年(724)新ニ建立」。棟札「寛文七年(1667)土佐太守忠豊公」
⑤文治二年(1186) 十三社妙見大権現(伊弉諾命・伊弉冉命/馬路村馬路字三山鎮座/旧社格郷社) 紀州熊野中ノ新宮ヨリ平氏ノ臣大野源太左衛門勧請ス
⑥建久元年(1190) 熊野三所権現(事解之男命・伊邪那美命・速玉之男命/四万十町大正字ウログチ上/旧社格郷社) 建久元年(1190)十二月三十日上山ノ城主田那部旦増?紀州熊野ヨリ勧請。棟札「応永17年(1410)再興」
⑦承元二年(1208) 十二所大権現(伊弉冉尊・速玉之男・事解男之命・天照大神・天忍穂耳尊ほか/本山町本山字冨山鎮座/旧社格郷社) 承元二年(1208)『長徳寺文書』に「十二所供田」が所見。弘安10年(1287)の『熊野衆議下知状』 に熊野から山伏や先達が長徳寺側に立って吾橋庄の地頭に対抗せよとの指示文書。弘安11年(1288)の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也・・」とある。
⑧寛元元年(1243) 熊野権現(伊邪那美神・速玉之男命・豫母都事解之男命/土佐市用石別当寺中鎮座/旧社格村社) 未詳。当社所蔵銅器之銘「比丘尼阿弥陀仏後嵯峨天皇御代也寛元元年(1243)」
⑨弘安四年(1281) 二所権現(伊邪那岐大神・伊邪那美神/仁淀川町下名野川字ソオゴヲチ鎮座/旧社格村社) 帝都ノ落人古味式部ト云者アリ同年蒙古舩
⑩文保三年(1319) 若一王子宮(天照大神・池田親王、相殿:速玉男神・伊邪那美命・事解男神/香南市香我美町徳王子字澪標鎮座/旧社格県社) 昔熊野ヨリ村上永源上人御厨子ヲ背負来リ此村ニ勧請
⑪元亨元年(1321) 熊野三所権現(速玉之男神・伊弉那美神・事解之男神/安芸郡安田町別所鎮座/旧社格郷社) 安田三河守熊野ヨリ勧請
⑫建武五年(1338) 熊野権現(伊弉冉神/津野町芳生野乙字権現ノ本鎮座/旧社格郷社) 後醍醐天皇建武年中(1334-1336)藤原朝臣土佐国高岡郡吉生野邑名之川江自熊野奉勧請。棟札「建武五年(1338)権現社造立大願主藤原氏女
⑬貞和年中(1345-1350)浅上王子権現(天照皇大神/香南市香我美町山北鎌井谷鎮座/旧社格郷社) 当郡王子村ヨリ勧請。神社記「浅上王子権現右熊野権現勧請ト申傳年歴不相知」
⑭康応三年(1391) 熊野権現(伊邪那岐神・天照皇大神・月夜見神/四万十町平串字田代山鎮座/旧社格無各社) 未詳。棟札「康応三年(1391)」
未詳 御市河若一大王子権現(天忍穂耳命/香美香北町五百蔵字市川鎮座/旧社格村社) 鰐口銘云土州韮生郡一河若王子奉施入享徳元年(1452)九月九日大願主大仲臣沙弥通芳
未詳 新宮大明神(紀州熊野本宮/高知市鏡大利字宮ノ前鎮座/旧社格村社) 棟札文曰文明十三年(1481)建立新宮大明神大願主太郎左衛門
未詳 本宮大明神(速玉男神・事解男神・伊弉冉命/高知市本宮町字宮ノ東鎮座/旧社格郷社) 永正十六年(1519)再興当社一宇別当珠光阿闍梨大願主秦氏茂親
未詳 那知真宮(伊弉冉/四万十町興津字大財野鎮座/旧社格無格社)
7、高知県の修験道
この熊野での禊祓や山林斗藪の苦行を成し遂げた修験者(先達・山伏)は、在郷での山岳修業の場と祈りの場を獲得していった。その修験者や熊野社の財政的な支えとなったのが牛王宝印の護符配付ではないか。
廣江は『長宗我部地検帳の神々』で「土佐でも(旧大正町)田野々の熊野社が牛王宝印をだしている」(p28)と述べているように、今でもこの地の熊野神社では「那智瀧宝印」の牛王護符を発行している。『大正町の文化財』・『大正町史』では「七十五羽のカラス(千羽烏)をもちいて熊野牛王の文字をあらわしたもの」と書かれているが、現存する牛王宝印の版木を判読すると72羽の八咫烏と15個の宝珠で那智瀧宝印の文字をデザイン化されている。
熊野三山は修験の地であり、各地に熊野社が勧請されるに至り来国した修験者がその地で修行する山岳修験の場が形成されていった。廣江清の『近世土佐の修験』には、享保2年(1717)の高辻帳によると本山派(聖護院末千手院・東一坊・伽耶院)が278人、当山派(真宗系南光院/宿毛・延光寺)が16人、合計294人居ることになっている。
備前国児島の修験、近江国多賀坊の修験、讃岐国金毘羅多聞院の修験と他国の修験が牛王の神符を配りに訪れた。その中でも最も早く来国したのが備前国児島の修験と廣江は述べ「児島の修験は特殊な立場にあったもので、役行者が大島に流された時、弟子達が熊野の神輿を奉じ迫害をされて諸国を漂泊すること三年後、この地(児島)にきて一社を創立(761年)した」(p15)と熊野十二所権現(現在の日本第一熊野神社。那智宮にみたてた由加神社・蓮台寺、倉敷市木見には新宮にみたてた神社もある)の勧請由緒を紹介している。
山々を回って山林斗藪の修行をすることから山伏と呼ばれたが、近世以前に盛んであった修験の活動は土地に刻まれ、戦国末期の『地検帳』にホノギとして記録され現在の字名にも連綿と続く。
山伏(日高村沖名、黒潮町田野浦)、山伏地(四万十町国見)、山伏郷(日高村沖名)、山伏田(土佐市家俊)山伏塚(越知町五味・越知町宮地)、、山伏塚ノ本(四万十町上秋丸)、山伏墓(土佐清水市下ノ加江伊豆田)
山伏野(四万十町金上野)、山伏ダバ(四万十町仁井田・土佐清水市有永)、山武士出口(越知町宮地)
山伏谷(越知町横畠南・四万十市古尾・四万十市具同)、小山伏谷(四万十市具同)、山伏池(四万十市具同・四万十市坂本)、山伏ガ淵(高知市久礼野)
山伏山(四万十市双海)、山伏谷山(土佐清水市浦尻)、山伏岩(佐川町峰)、ヤマブシウ子(黒潮町伊田)
山伏峠(四万十町大道・黒潮町入野・土佐清水市下益野)、ヤマブシトウ(黒潮町奥湊川)
山伏峠山(四万十市手洗川)
修験道の行場として必須なのが険しい岩山と巨石(山林斗藪と覗岩)、滝(浄めの行場)、岩窟(胎内くぐり)である。各地の大峰山や石鎚山、横倉山をイメージしていただければ行場の景観を理解することができる。廣江は土佐国の修験の場として五在所山(四万十町金上野)、御滝山(四万十町七里)、三滝山(大川村高野)、稲村山(本川村脇ノ山)、子持権現山(いの町寺川)、行者山・石立山(香美市物部町別府/比志利賀峠四足堂)、横倉山(越知町越知)、大峯山(香南市夜須町出口)をあげている。また、行者堂、庚申堂、夷堂などの祠も村での修験場として山伏に関係するものだという。
山伏は熊野系ばかりとは言えないが、次の機会に熊野系神社と信仰地名との相関性を分布から読み解いていきたい。
これら多くの修験者(先達・山伏)は1300年の流れをくむ土着の宗教的様式である神仏習合のなかで布教活動や時に占いや教育の現場でも活躍してきた。しかしながら明治新政府によって神仏分離令が慶應4年(1868)発令され「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」となり神宮寺の僧は神職となった。この驚くべき国家統制による廃仏毀釈は神社合祀令とともに猛威を振るい小さな社は合祀され、山伏、巫女や六部、虚無僧、祈祷師などの追放にも至った。江戸時代の歴代天皇皇后は明治天皇の先帝・孝明天皇まで仏式の葬儀で行われ京都東山泉涌寺が菩提寺であったというのに、明治新政府は天皇家の葬礼までも変えてしまったのだ。
神仏分離により上山郷の熊野三所権現は熊野神社と改称され、熊野神社の境内にある神宮寺であった長楽寺は五松寺の管理に移行され現在に至っている。高知県は廃仏毀釈の取り組みが特に強烈であり、東上山村の五松寺の国本住職も先頭に立って寺を壊し、寺の本尊、棟札、経文その他は廃寺調査に来た県庁社寺係の永井が一部の仏像を押収し残りは焼失・散逸したと『大正町誌』(p443)は記している。
モノとしての仏像の散逸以上に大きく影響を及ぼしたのが、明治の国家神道政策から熊野信仰の基底を支えた修験者(山伏・先達)を追放したことである。
上山郷の修験者について伊与木定の『上山郷のいろいろ掻き暑めの記 上』に「姿は神主でもなく、僧形ともつかんが、袈裟に珠数を掛け、のーまくを冠て金剛杖をつき、法螺貝を吹いて高まが原を唱え、般若心経を誦ずる山伏と呼ばれる修験道の行者があった。修験道には真言宗三宝院の“当山修験”と、天台宗聖護院の“本山修験”の二派がある。幡多郡には中村に竜光院という一条家の尊信あつい修験が居た。土佐の修験者は石鎚山や大峯山に登って修行をつみ、加持祈祷にまねかれた報酬によって収入として生活をつづけ、蓄髪妻帯、僧俗一如というありさまであった」(p220)として1800年代以降の上山郷の各村々に居た修験者13名の名をあげている。上山郷の修験者が本山派か当山派は不明であり、熊野神社に関係する修験者とも記されていない。京都の聖護院は“聖護院大根”や“聖護院の八ツ橋”が有名であるが、修験道における本山派の中心寺院である。この聖護院(左京区中町)の南西に京都熊野神社がある。聖護院の鎮守社として811年に創建されたという京都で一番古い熊野神社である。高知県では本山派が強く、当山派は宿毛平田の南光院を中心として数が限られている。当山派の流れといわれる足摺岬の金剛福寺の境内には今でも鎮守社として熊野三所権現がある。上山郷の熊野神社も天台系の本山派と思えるが「のーまくを冠て」とあるから真言系の当山派かもしれない。それにしても上山郷にも中津川、大奈路、江師、木屋ヶ内、市ノ又、弘瀬と各地に修験者がいるほど盛んであった証である。「ほーいんのいっしんさいに占ってもろうた」という記憶があるので山伏として生業していたのは昭和30年代頃までだろう。
修験者の苦行として山林斗藪があるが、これに関連する文献として『法華験記』と『諸山縁起』がある。『法華験記』 によれば平安中期の長久年間(1040~1044)以前から、熊野と大峯を結ぶ山林斗藪が行われていたという。この書を編集した者が比叡山の天台僧であり書名も示すとおり、あまたの経典のなかでも法華経が卓越した霊験があると多くの説話を紡いでいる。この中に熊野那智山の僧応照法師の「火定三昧(焼身往生)」の話もある。また、上山郷の熊野神社のお宝には「法華経石」 があり、熊野別当田那部旦増(湛増)が土佐に来るとき持ち寄ったと言い伝えられている。この法華経石や那智瀧宝印の牛王護符などから、熊野三山のなかでも那智大社に関係が深いように思える。
上山郷の熊野神社の勧請由緒に熊野浦から熊居(熊井)に入り勧請したのち上山郷に来たとあるが、その奥深い山々に「熊野三千六百峰」の心象風景を寄せたことだろう。熊野浦から熊居への向かう山の稜線から東に秀麗な五在所之峯(658m/修験の山。麓に山伏野のホノギ)を仰ぐことになる。西には仏が森(688m)が鎮座する。またほど近いところに四手ノ川集落(紙垂に似た地形を由来とする)、杓子峠(鏡味は石神のある峠と解釈する)、不動山(780m/修験道で広く信仰される不動明王)、堂が森(857m)、源太夫串山(535m/神職の別称を太夫・たゆう)、地蔵山(1128m/四万十町最高峰)など多くの修験に関連する地名を刻んでいる。
世界遺産(文化遺産)である「紀伊山地の霊場と参詣道」の重要な構成要素は吉野と熊野を結ぶ大峯奥駆の山々にある。この大峯奥駆道では比叡山の僧も高野山の僧も山林斗藪の過酷な修行を行っている。山中で双方にであっても不思議に思うことなく受け入れてしまう。まさに修験道は森羅万象すべてに命や神霊が宿るものとして、そのすべてを信仰の対象とするものである。伊勢信仰が余計なものを極限まで削ぎ落す様式美とすれば、熊野信仰はあらゆるものを包み込む才色健美だ。古来より多様な文化を受け入れ止揚していく知恵をもつ日本人の精神構造の基底には修験道のエトスが宿っているのではないかと思える。
上山郷の熊野神社に熊野修験に関する記録は一切ないが、修験に関する地名を拾いながら、今後発見されるかもしれない襖の下張りに使用された牛王護符(誓詞の古文書)に期待を寄せたい。
8、上山郷周辺の熊野神社と熊野本宮大社の配置
上山郷の熊野三所権現を勧請する際に、熊野神社境内に神宮寺として長楽寺が建立されたといわれる。それを示す地誌として『土佐州郡志』下巻には「長楽寺 號寶亀山禅宗領主祈願所」(p324)とあり、『南路志』には「宝龜山長楽寺 真言宗在境内 本尊、観音・薬師・不動 建久元年本社勧請之節建立、神宮寺ニ而上山郷祈念所也」(三巻p615)とあり、上山領主の菩提寺として萬龜山五松寺もあると書かれている。2つの寺の山号に亀の字を使っているが、「亀」は四万十川の景観特徴の一つとなる穿入蛇行により形成されたいわゆる蛇行残丘(還流丘陵)を亀に見立て通称「亀の森」としたものだろう。字名にも「亀ノ森」「亀山」「北亀山」とある。右の写真の梼原川の旧河床に田野々の市街地が形成され、四万十川との合流点(ウログチ)に熊野神社が鎮座する。
『熊野那智大社文書』第五巻に『熊野山略記』が所収されているが、本宮の条に「二河ノ間ノ嶋ヲ新山ト号ス。霊亀以テ其ノ山ヲ象ル。之ニ依リテ蓬莱嶋ト称ス」(p88)とあり、この霊亀の「亀」である。
山本ひろ子は『変成譜』で「亀が海中の仙郷=蓬莱山を背負っているという中国発祥の神仙思想の影響による。亀は尾から油を出すので御在所を“油戸”という」(p60)とある。飛来する霊山伝説とあいまってこの地(四万十川と梼原川の合流点と亀の森の景観)に熊野神社を勧請し長楽寺の山号を宝亀山としたと考える。
この熊野本宮大社の鎮座地の景観を記憶しているものが、海の道を渡りこの山深い地・上山郷に辿りつき熊野神社を勧請したのだろう。
「熊野三千六百峰」=上山郷の山々
「東流熊野河、西流音無河 二河間」=四万十川と梼原川
「霊亀以テ其ノ山ヲ象ル」=亀の森
「油戸」=ウログチ(大蛇伝説の蛇塚が旧鎮座地の横にある)
この上山郷の熊野神社の鎮座地の位置からが考えれば「本宮」といえ、熊野神社の縁起から読めば伊与喜郷の熊井の熊野神社が「速玉」で、熊野浦が「那智」となるのだろうか。
ここに上山郷周辺の熊野神社を『神社明細帳』によりまとめてみる。
■ 上山郷(幡多郡)
熊野神社(旧大正町田野々字ウログチ鎮座/現四万十町大正。郷社。『神社明細帳』幡多郡2/12冊)
祭神:事解之男命・伊弉冉命・速玉之男命
由緒:建久元戌年(1190)十二月丗日上山ノ城主田那部旦偶(湛増)記州熊野ヨリ勧請シ古来ヨリ上山郷上分下分ノ惣鎮守ナリ元ト熊野三所権現ト称ス明治元年熊野神社ト改称
※神社本庁への届書(昭和27年7月3日承認第199号)による由緒の創立年月日は「建久元年12月29日」とある。
※『南路志』には「建久元年十一月勧請」とある。
合祭神社:三島神社
〇神社牒 後鳥羽院御宇武将源頼朝公御時直方中将四代孫田那邊別当旦僧(湛増)嫡子永旦為氏神建久元年(1190)十一月(ママ)熊野三所権現勧請ト云傳記文無之ニ付不知
〇享保調 永旦ヨリ十代出羽左ユ門重正応永七年(1400)十一月廿四日再興棟札并応永三十五年・・・田那邊家天正年退転以後上山郷民惣鎮守ト崇敬郷民ヨリ祭礼等仕由
※応永7年11月24日再興して10年後の同日にまた勧請の棟札は不自然。
※「田那邊家天正年退転」は何を意味するのか。
〇棟札 応永十七年大歳庚寅(1410)十一月二十四日 大檀那直方中将四代孫田那部別当旦増嫡子永旦・儀旦・光旦・満旦・道積・定阿・聖検・道勝・道圓・出羽左衛門尉重正
※『南路志』を引用し虫食い部分を補正した。
〇棟札 応永三十五年戊申(1428) 出羽入道沙弥道圓家嫡出羽左衛門重正
※「出羽入道」とあることから宮家準は出羽三山系統の聖 が入っていると推測
〇棟札 享徳二年癸酉(1453)十二月十二日 大願主出羽左衛門重正次願主藤原泰
※出羽左衛門重正の代に都合4回勧請したことになるのは不自然。
〇棟札 享禄三年庚寅(1530) 熊野権現藤原朝臣藤兵衛亟義重
〇棟札 享治(弘治)三年(1557)※『神社明細帳』に「享治三年」。「弘治三年」の誤記か。
〇棟札 天正十年(1582) ※『神社明細帳』に「都合棟札六枚有之」とある。
〇棟札 寛文(1661-1673) ※郷民再興之棟札
〇棟札 正徳(1711-1716) ※郷民再興之棟札
〇霜月晦日ヨリ極月朔日迄歳越之規式ヲ・・
※上山郷の熊野神社の歳越は、11月30日、12月1日に行う。現在では11月の秋の大祭に正月飾りをして祭事を行う。
熊野神社(旧大用村字岡升谷鎮座/現四万十市大用。郷社。『神社明細帳』幡多郡2/12冊No1)
祭神:速玉男之命・伊弉冉命・事解男之命
由緒:勧請年月縁起沿革等未詳古来ヨリ上山郷上分ノ内山中ノ惣鎮守ニテ当村ノ産土神ナリ元ト熊野三所権現ト称ス明治元年熊野神社ト改称
〇棟札:弘治三年丁巳(1557)卯月熊野権現大檀那藤原資重嫡子弥陀保子丸二男重家義重入道沙弥良範
〇棟札:享禄三年庚寅(1530)霜月五日熊野権現藤原朝臣藤兵衛亟義重 ※両棟札とも上山郷と同年
■ 伊与木郷(幡多郡)
熊野神社(旧佐賀町熊井字法泉山鎮座/現黒潮町熊井。郷社。『神社明細帳』幡多郡1/12冊No16)
祭神:伊弉諾命・速玉男之命・事解男之命
※『南路志』刊本には伊弉諾(イザナギ)ではなく「伊諾冊尊(三巻p349)」と書かれている。東京大学史料編纂所データベースも「伊諾冊尊」と書かれている。
※『佐賀町農民史』は「伊諾冊尊」とし「事解男尊は須佐之男尊の間違い」としている。
由緒:勧請年月縁起沿革等未詳古来ヨリ伊与木郷ノ總鎮守ニシテ元ト熊野三社権現ト称ス明治元年熊野神社ト改称
〇棟札:永保八年(?) 熊野権現大檀那帷宗朝臣蔵人将監経吉永保八年丙辰首夏中九日御鎰取秦氏左近将監
※神社明細帳では「永保八年丙辰」となっているが、永保年間(1081-1084)は4年まで。丙辰から判断すると永享8年(1436)丙辰の誤記か。首夏中九日は4月9日か
〇棟札:享徳二年癸酉(1453)十二月十二日 熊野権現大願主出羽左衛門重政次願主藤原重泰
※上山郷の熊野神社と同じと思われる棟札あり
〇棟札:享禄三年庚寅(1530)霜月五日 熊野権現藤原朝臣藤兵衛亟義重
※上山郷の熊野神社と同じと思われる棟札あり
〇棟札:天文五年丙申(1536)二月吉日 熊野権現大檀那伊与木対馬守宗実
〇棟札:弘治三年丁巳(1557) 大檀那藤原資重嫡子弥陀保興丸
※上山郷の熊野神社と同じと思われる棟札あり
〇棟札:天正十二年甲申(1584)二月十八日 熊野権現大檀那高康平氏本願実能平氏
熊野神社(旧佐賀町熊野浦鎮座/現黒潮町熊野浦。村社。『神社明細帳』幡多郡1/12冊No40)
祭神:伊弉諾命・速玉男之命・事解男之命
由緒:勧請年月縁起沿革等未詳古来ヨリ当村ノ産土神ニテ元ト熊野三社権現ト称ス明治元年熊野神社ト改称
〇棟札:なし
■ 仁井田郷(高岡郡)
熊野神社(旧窪川町弘見字敷地鎮座/四万十町弘見。村社。『神社明細帳』高岡郡10/14冊No54)
祭神:與美津事解男神・伊弉冉神(伊邪那美)・月弓命(月夜見)
由緒:勧請年月縁起沿革等未詳古来ヨリ弘見村外大久保黒石飯野川新在家平野道徳奈路神野々数家八千数親ヶ内本堂ノ十三村ノ総鎮守ニテ中古十二社大権現称ス明治元年三熊野神社(ママ)ト改称ス
熊野神社(旧窪川町興津字大財野鎮座/四万十町興津。無格社。『神社明細帳』高岡郡8/14冊No66)
祭神:伊弉冉命(伊邪那美)
由緒:傳記ニ云往古紀州熊野ヨリ勧請ニテ社地ノ土姓熊野新宮ノ社ト同性ト云傳ニ曰八幡宮ヨリ前勧請新宮ノ御鍵ヲ以八幡宮ノ御戸ヲ開クト又新宮トモ云嘉永七寅年(1854)十一月五日地大震入潮ノ節神端アルヲ以テ大波別神社トモ云
〇棟札:なし ※興津八幡宮より創建は古いといわれる。
三熊野神社(旧窪川町茂串町茂串山鎮座/現四万十町茂串町。村社。『神社明細帳』高岡郡9/14冊①)
祭神:伊弉諾神(伊邪那岐)・天照皇大神・月夜見神(月弓命)
由緒:勧請年月縁起沿革等未詳古来ヨリ当村ノ産土神ニテ元ト熊野三所大権現ト称ス明治元年三熊野神社ト改称
〇棟札:なし
9、熊野神社の神宮寺(長楽寺)の仏像
上山郷に勧請された創建当初の社名は熊野三所権現(三山)といわれている。三所とは現在の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社である。とはいえ、当初はそれぞれ別の開基と性格由縁をもち不明確な祭神も徐々に確立され、12世紀末頃には三山が相互に祭神を祀りあい、本地垂迹の宗教観から権現として主祭神=本地仏としての「三所権現」となった。前述の表1には十二所毎に本地仏が示されている。この熊野三所の本地仏は千手観音(那智)、薬師菩薩(速玉)、阿弥陀如来(本宮)で、多くの三所権現ではこの3像が祭られていたという。上山郷の熊野三所権現においても、勧請する際に熊野神社境内に神宮寺として長楽寺が建立されたと先に述べた。
この長楽寺は、廃仏毀釈後 には五松寺(曹洞宗)の住職が管理することになり、熊野神社の夏と秋の大祭の祭祀の始まる前に、総代や神輿の練りを行う当屋が長楽寺本堂に参集し住職から供養がおこなわれている。
長楽寺には、6体の仏像が安置されている。うち2体の作像年が平安末期といわれることから熊野神社の勧請年代や像の姿から三所のいずれを依拠したかものかを推考することができる。
この「木造如来形立像」と「木造地蔵菩薩立像」の2体が高知県保護有形文化財(美術工芸品・彫刻/昭和44年8月8日指定)に指定され、のこり3体の「木造阿弥陀如来坐像」「木造薬師如来坐像」「木造増長天立像」が四万十町有形文化財(彫刻/昭和43年3月19日)に指定されている。
高知県公式HPの「高知の文化財」サイトには次のとおりである。
① 木造如来形立像(像高88.7cm)
肉髻(にっけい)を半円形に高くつくり、螺髪(らはつ)は小粒の螺髪を切り付け、衲衣(のうえ)を偏袒右肩(へんたんうけん)につけ右肩に祇支(ぎし)をかけて直立する。右手は前膞部(ぜんはくぶ)先を、左手は前膞部を失っているために像名はわからない。
スギの一木造(いちぼくづくり)、彫眼(ちょうがん)の彩色像で、眉、目、ひげを墨描きとするほかほとんど剝落(はくらく)しているものの、肉身部は肌色、衲衣は朱彩であったと思われる。頭体を通して背面を割り矧(は)ぎ、頭部を三道下で割り離す。小像ながら、丁寧なつくりといえよう。本地仏(ほんじぶつ)らしく簡潔なもので、衣文(えもん)も浅く類型化しているが、ひきしまった面相(めんそう)、ふくらみのある体部の肉付けなど、なかなか巧みな彫技をみせている。
建久3年(1192)に紀州熊野より勧請したものというが、制作もその頃であろう。
※前田和男『私のメモ帳 第十』には、121と像の番号を付し「像高89.3cm、平安時代末、ヒノキ材」とする。
※『大正町の文化財』では「木造阿弥陀如来立像」としているが、左手が欠落しているためどの印を結んでいるか薬壺(やっこ)を持っているか不明のため判断は困難。
※『大正町誌』では杉材としている。「阿弥陀如来立像」と「阿弥陀」に特定した箇所も見られる。
② 木造地蔵菩薩立像(像高63.5cm)
円頂(えんちょう)で髪際線(はっさいせん)をつくらず、腰前の衲衣(のうえ)の下に裳(も)の上端部をのぞかせ、沓(くつ)をはいて蓮華座(れんげざ)に直立する。
スギの一木造(いちぼくづくり)、彫眼(ちょうがん)の彩色像であるが、彩色はほとんど剝落(はくらく)して素地(そじ)をあらわしている。
頭体を通して一木で彫り出し、両手首から先を枘(ほぞ)で止めていたが、いずれも失っている。本地仏(ほんじぶつ)らしく簡潔な彫り口で、衣文(えもん)線も極端に省略しているが、小首をかしげるようなポーズに味わいがある。
如来形とともに、建久3年(1192)に紀州熊野より勧請したものと伝え、制作もほぼその頃と考えてよかろう。
※前田和男『私のメモ帳 第十』には、122と像の番号を付し、「平安時代末、ヒノキ材」とする。
この2つの座像については前田和男の『私のメモ帳 第十』に「高岡郡四万十町 大正田野々 長楽寺跡」と項を立て「121木造如来立像 像高八九.三センチ 平安時代末」「122木造地蔵菩薩立像 像高六三.五センチ 平安時代末」と二つの立像を平成26年(2014)4月21日に詳しく調査している。如来像については名称を木造如来立像として「形」を削除し、像高も89.3cmと0.6cm高く訂正している。いずれも作像年代を平安末期としている。
如来像には、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」「大日如来」があるが、左右の手が損失しているため、何の印を結んでいるか判断できず特定が困難である。阿弥陀如来か薬師如来であろう。
また同書の中で町指定文化財の4体(町指定文化財三体を含む)「123木造阿弥陀如来坐像」「124木造薬師如来坐像」「125木造天部立像」「126木造地蔵菩薩立像」について次のように解説している。
③ 123 木造阿弥陀如来坐像(像高60.0センチ/平安時代末)
ヒノキ材、一木造、彫眼の像で、内刳りを施す。肉髻は半円形につくり、螺髪は小粒の切付螺髪で白毫相の端正な面相を表し、三道を刻む。(中略)右手をまげて前方に上げて掌を前にして第一指と第二指を捻じ、左手はまげて膝上に掌を上にして第一指と第二指を捻じ、右足を上にして結跏趺坐する。(中略)一時損傷していたようで、両手に釘で修理した後をとどめる。膝裏の墨書銘(昭和29年修理)がある。
④ 124 木造薬師如来坐像(像高42.5センチ/江戸時代)
ヒノキ材、寄木造、彫眼の像で、内刳りを施す。肉髻を半円形につくり、螺髪は小粒の切付螺髪で、白毫相のおだやかな面相を表し、三道を刻む。(中略)左手はまげて前方に上げて掌を前にして五指をゆるやかにのばし、左手をまげて膝上に薬壺をとって結跏趺坐する。(中略)阿弥陀如来同様損傷していたようで修理のあとがみえる。
⑤ 125 木造天部立像(像高87.5センチ/室町時代)
ヒノキ材、一木造、玉眼の彩色像で、内刳りはない。兜をかぶり、大袖の衣、鰭袖の衣、袴、裳をつけ、鎧をつける。籠手、脛当てをつけ、沓をはく。(中略)右手を側方に上げ、左手はまげて前方に上げ、腰を左に捻って立つ。損傷多く、彩色剥落
⑥ 126 木造地蔵菩薩立像(像高51.0センチ/江戸時代)
ヒノキ材、寄木造、玉眼の彩色像で、内刳りを施す。円頂に髪際線をつくらず、おだやかな面相を表し、三道を刻む。(中略)右手をまげて前方に上げて錫杖(欠失)をとり、左手は肩先に上げて宝珠(欠失)をとって立つ。
平成5年(1993)刊行の『大正町の文化財』には、天部の像でも増長天像(仏教の守護神である四天王の一つ)と特定して「仏法と仏法を信仰する人々を守る神として、矛という両方に刃のある武器を持っている仏の姿の仏像」とあることから、発刊当時には矛があることから増長天(南の方位を守る神)と判読したと思われる。天部像は如来や菩薩の守護神であることから、天部の神を判別することは守護する仏の特定を意味することになる。例えば、十二神将は薬師如来の守護神、二十八部衆は千手観音菩薩、八大龍王は釈迦如来などである。
『南路志』の上山郷上山村・熊野三山権現本宮十二所の段に「宝龜山長楽寺 真言宗在境内 本尊、観音・薬師・不動 建久元年本社勧請之節建立、神宮寺に而上山郷祈念所也」(p615)とある。また萬龜山五松寺の段に「本尊千手観音」とある。
17世紀の記録として長楽寺の本尊を「観音」「薬師」「不動」と記している。長楽寺に現在残っている仏像にあてはめると、観音と不動はなく、木造薬師如来坐像=薬師しか該当しない。作像年が江戸時代としか判明されていないことからこれも断言はできない。
平安時代末とされる県保護有形文化財の木造如来形立像と木造地蔵菩薩立像は南路志に記載されていない。記述漏れがないとすれば南路志の記録後に何らかの事情で持ち込まれたのかもしれない。
『大正町誌』には「仏像三体木彫 阿弥陀十一面観音立像・高三尺一寸、阿弥陀如来立像・高三尺、地蔵菩薩立像・二尺一寸。僧空海の本宮奉納仏と伝へられしが明治四年神仏取分の際御裏長楽寺に移転せられその他の像は足摺の寺へ持ち去られたと云う」(p474)とある。廃仏毀釈の時に長楽寺関係の仏像もその際に徴発され足摺岬の寺へ持って行かれたとある。真実は別として、仏像の移動はあり得ることで、その鑑定年と所在する寺社の創建年とはすべて同じとはいえないものだろう。
10、熊野神社の神鳥・八咫烏と牛王宝印
神武東征を道案内した八咫烏を神鳥とする熊野三山であるが、一躍多くの人に認知されたのは、1997年、ワールドカップ初出場を決めた日本サッカー代表選手のエンブレムとして八咫烏(三本足のカラス)が輝いていたことによる。「烏」といえば、朝からゴミをあさる悪者、不吉な鳴き声、死屍をあさる黒い鳥。嫌われものの烏であるが、テレビで八咫烏の解説報道が繰り返されたことから、少しは名誉も挽回されたようだ。古くは世界のどこでも三足烏は瑞鳥とされていた。太陽とともに現れて夜明けを告げることから世界各地の神話にも登場した。中国、韓国の例に倣い「高句麗建国神話の思想と枠組みで、日本神話が再構築され、天孫降臨思想とともに、太陽信仰と三本烏信仰も組み込まれた」 とある。日本書紀にみられる神武東征の「八咫烏神話」は、神武天皇が熊野の山々で迷った時に八咫烏が先導して大和まで道案内したという話で、八咫烏が熊野の神の使い(ミサキ神)としてとして信仰され熊野の牛王宝印としてシンボル化されるに至ったものである。
この八咫烏を刷り込んだものに熊野の牛王宝印(ごおうほういん)がある。諸寺社から発行、授与される護符(お守り)の一種で、最も広く用いられたのは熊野三山の熊野牛王である。熊野詣が盛行するに伴って御師(おし)が活躍し、全国に3千余社の熊野神社が勧請され、熊野比丘尼(くまのびくに)の広範な活動により牛王宝印は全国に配付されるに至った。この牛王宝印を書面にして神仏に偽りなきことを誓う起請文(誓約書)の料紙に使われたことから、後世まで残ることになった。これら多くの残された牛王宝印の図案の変遷から、熊野三山の勧請の経緯や変遷・関連性を読み解くことができる。
「三社それぞれカラスと宝珠の集合体で描かれているが、その烏の数も本宮92羽、新宮48羽、那智75羽などの説があるが現在のものは、本宮108羽、新宮88羽、那智70羽が数えられる」と五来重『熊野詣』(文庫本p50)には書かれている。カラス文字のデザインは時代と共に変化しているらしく、最新としては、熊野本宮大社公式HPには「カラス文字の数は、各大社によって異なります。本宮大社の熊野牛王神符は、88のカラスが見事にデザイン」、速玉大社公式HPには「熊野速玉大社の牛王は48の烏文字で描かれ」、熊野那智大社HPには烏文字の数は示されていないが画像を数えると72羽となる。後日、熊野那智大社に照会すると花薗瀧人権禰宜から「当社の牛王神札は72羽とされている」との回答があった。
山本殖生の『熊野 八咫烏』には「那智瀧宝印」や「熊野山宝印」の図案化の経緯が詳しく述べられている。烏点宝珠のデザインは突然に始められたのではなく字画の一部を烏形や宝珠形に装飾したのが始まりという。「那智瀧宝印」は、文安2年(1445)から徐々に進化し完全に烏点宝珠に変化したのは永正年間(1504~21)のことで、現在の那智大社の図案が確定するのは宝永6年(1709)「榊原喬長起請文」の料紙で、それ以降、現在まで変化はみられないという。
大正の熊野神社で発行される護符「牛王宝印」は右のとおりである。『大正町史』には「75羽の烏を用いて熊野牛王の字を表したものといわれる」とあるが、熊野那智大社の牛王宝印に酷似しており「那智瀧宝印」と読める。この牛王宝印の烏と宝珠の数は、「那」が烏15羽で宝珠なし、「智」が烏13羽で宝珠1個、「瀧」が烏13羽で宝珠6個、「宝」が烏11羽で宝珠6個、「印」が烏20羽で宝珠2個、合計で烏72羽・宝珠15個と那智大社と同数であり、大正町史の75羽の烏とは相違する。中央の「印」の部分には「日本第一」の文字が入り、その下の宝珠には「吉」の文字が入れ込まれているのも同様である。少し違うのは宝印の中央に、8弁の丸花に「熊」の文字が朱で押印されているところである。既述の「那智瀧宝印」と同じことから、牛王宝印からは那智大社系の熊野神社と思われる。ちなみに本宮大社と速玉大社はともに「熊野山宝印」に烏点と宝珠で図案化がされているが、本宮大社は烏が88羽で宝珠が8個、速玉大社は烏が48羽で宝珠が7個となっている。
熊野神社には牛王宝印の版木が残っているが、その名称について、『大正町誌』では「熊野神社千羽烏の印璽」、『大正町の文化財』では「千羽烏の神璽(群烏牛王宝印)」、『大正町史』では「千羽烏の木印(群烏牛王宝印) 縦20cm、横23.5cmの大きさで、75羽の烏を用いて熊野牛王(ママ)の字を表したもの」とある。熊野那智大社HPでは「烏牛王神符(からすごおおしんぷ)・牛王神璽(ごおうしんじ)」とし、この神符を俗におからすさん、千羽烏ともいわれるとある。
八咫烏は熊野神の使いとされるが、その烏にまつわる烏勧請や烏喰の民俗芸能が各地にある。高知県香南市香我美町の若一王子宮には奇祭「お烏喰御膳上げ」の神事がある。この神事は年3回行われ、昼搗いた御膳上げ餅と呼ばれる餅を深夜に神社本殿の屋根に供え、朝までに烏がこの餅を食べたか否かで作物の豊凶を占う行事である。この若一王子宮が鎮座するこの地は、鎌倉時代には大忍庄(香南市香我美町や夜須町、香美市物部町の槙山地域)と呼ばれ紀州熊野権現の荘園経営の本拠地として勧請されたものである。若一王子の「烏喰」は、本家の熊野三社でも失われた神事が今でも連綿と続いている。
11、熊野神社の社宝
熊野神社の社宝としてとして『大正町史・資料編』には「社宝の諸刃造剣、熊野群烏牛王宝印、法華経石と一対の木造獅子は町の有形文化財に、また大杉は町の天然記念物に指定されている」(p268)とだけ記されている。
「法華経石」は、小さな砂岩の川原石に1文字づつ梵字で墨書されたもので正式には一字一石経と呼ばれ本来土中に埋納するもの。室町時代以降に出現し江戸時代にさかんに作られたもので境内のどこかに埋められていたもの掘り出したものだろうと書いてある(『大正町誌』p21)。別の段には「田辺永旦の一行が熊野を去り八島落ちのとき田野々村まで奉持し来り熊野権現に奉納したものと伝う」(p474)とある。岡本健児は『土佐神道考古学』で熊野神社(p23)と礫石経(p262)の項をおこして説明しているが法華経石について「法華経石は供養のため土中に埋納するものであるが、熊野神社のものは、供養のために埋められたものとは異なる。これは礫石経のことで大半は江戸時代のもので、熊野本宮の奉納、田辺永旦のことなどあたらない」と喝破し「法華経ではなく光明真言の梵字24文字(ママ)を一石に一字ずつ書き2回書くと48石になる。これが一石欠失し47石になったもの」と説明する。熊野神社の礫石経は弘治3年(1557)に地下に埋納したものと考えたいと岡本は棟札から推定している。ただ、光明真言は梵字23文字の短い御経であること。また『大正町の文化財』では法華経石の個数は29個とあること。このことから、岡本健児の説と違うところでもある。写真の梵字を光明真言と比べながら読み進めても、数える文字しか判読できない。旧大正町指定有形文化財(昭和43年7月24日指定)では「法華経石」となっているので、正式に炭素年代測定や赤外線カメラにより梵字の判読など再調査し名称変更を含め検討する必要がある。
「諸刃造剣」は、「諸刃造り小刀」として旧大正町指定有形文化財(昭和43年7月24日指定)となっている。『大正町誌』には田辺永旦所持の両刃の刀として「一尺一寸九分の刀で、両刃すなはち菖蒲造りであります。しかし刀剣としてとれをみるとき、この刀を鎌倉時代まで遡らせることは問題があるようです。しかし造りとしては珍らしいものであります」(p24)と記されている。湛増の大蛇退治伝説の剣である。
「木造獅子一対」については『大正町誌』に詳しいいわれが書かれている(p475)。明治23年8月17日(ママ) の四万十川の大洪水で宝物書類棟札一切は流亡滅失。このとき、木造獅子一対も四万十川に流れ海に出て熊野権現由来の地の熊野浦の浜辺に打ち上げられた。同所成又の漁民佐竹長太衛同馬之助がこれを持ち帰り灯の台に使っていたら災難続出。仁井田五社の岩崎忠雄宮司に占いを受けたところ木像獅子の体を焼きごがしていることが判明し不破原の窪田多喜次が通報。熊野神社の仁井常次、津野鍞次等が受け取りに出向き元の本殿回廊南側に安置したという。木造獅子一対も旧大正町指定有形文化財(昭和43年7月24日指定)となっている。
「熊野大杉と梛の大木」は、ともに、旧大正町指定天然記念物(昭和42年4月8日指定)となっている。『大正町誌』に詳しく書かれているが、要約は、この大杉は熊野神社の旧社殿(ウログチ。今の御旅所)の正面右寄りに1本(享保の初め社殿修理のため伐採。切株に梛を植栽。現在は町指定天然記念物)、社殿の北側に1本(寛永年中に伐採の記録)、社殿の南側に1本植えられたという。明治40年頃に本田静六博士が鑑定したところ「樹齢七百三十年(1167年頃) 根廻三十四尺(10.3m) 目通二十四尺七寸(7.5m) 樹高百二十二尺(37m)」という内容である。境内地にある説明板には「樹齢800年 胸高直径240cm 樹高37m」とある。目通とは立木を人の目の位置にあたる樹高の部分で、目通周が24.7尺ということだから換算したら直径が238cmとなり、説明板は『大正町誌』を踏まえた表記となっている。
そのうち1本が残っており「三名杉の大杉(大正町誌の名称)」「熊野大杉(文化財の名所)」「熊野神代杉(上山小唄の歌詞)」などと呼ばれ町民に慕われている。
12、熊野神社祭式御膳
『南路志』の上山郷の段に祭式に奉献する供物(神饌)として「祭式(上山) 御膳(本供)餅(亘一尺弐寸) 河菜・椎・柏・青苔・団子・煎餅・野老・海草・青三・芋ノ茎・黒豆・栗・以上十二品小皿ニ盛、御膳カイ敷(穂長ゆつり葉山草共)梅・根引松(御膳取扱者二人、七日精進佐賀浦ニ而潮ごり取、其潮を竹筒ニ入、始終右潮水を以清メ備也)」(第三巻p615)とあるが、詳しい解説はない。
「餅(もち)亘一尺弐寸」は、通常の丸餅で端から端まで(直径)36cmの鏡餅ということか。普通は二段餅でその上に橙などをのせるが具体の記載がない。古代より蛇は霊的な生き物として畏敬と嫌悪の両相をもつことから信仰の対象となり、その姿を象徴するものが鏡餅(とぐろの姿)であるといわれる。
「河菜(かわな)」は、河菜草で川に生える藻の古名で、カワモズク科の淡水産の藻と書いてある。水質の良い小河川・水路の水底の石に着生するらしいが、見たことがない。
「椎(しい)柏(かしわ)」は、椎と柏の実のことか。『下津井文書』 に五台山の島崎貞左衛門が文政10年(1827)上山郷において椎茸仕成りの椎茸林引渡請書があり、椎茸の一般化は『南路志』の編纂時代以降となるだろう。
「青苔(あおのり)」は、セイタイなら不入山のセイランをイメージして川海苔の最高級品となるがアオゴケと読んだら食べられそうにない。青海苔の脱字なのかもしれない。
「団子(だんご)」は、団子だろうが、大きさや数の指定はない。
「煎餅」は、お菓子をイメージするが、縄文時代から栗や芋を押しつぶして焼いていたという。仁淀川のいりもちは最高に美味しい。
「野老(ところ)」は、トコロという芋のこと。自然薯に似ているが猪も嫌がる山芋だとのこと。海老と並ぶ長寿の象徴である。熊野神社では今でも11月晦日の正月飾りに野老を神饌として供える。
「海草(うみくさ)」は、水草の一種で種子植物。コンブ、ヒジキ、モズク、ワカメ、アオノリは海藻で胞子によって繁殖するもの。ヨロコンブと特上利尻昆布を供えるのは間違いか、それとも海藻の誤記載か。
「青三(あおみ)」は何だろう。青海苔があったのでアオサノリのことではないか。アオサはアオサ目アオサ科アオサ属の海藻。アオノリ属の青海苔と違い、ちょっと安いが粉末にしてお好み焼きにかけるのがアオサ。アオサを記録するときにアオサンと聞き青三と漢字を当てたのではなかろうか。
「芋ノ茎」は、今でも芋の茎は炒め物・煮物・佃煮と美味しく食べることができる。大正町誌には「芋、茎」と区切られており河菜から栗まで12品にならない。東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベース<https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/>で調べたら「芋ノ茎」とあり、『南路志』刊本も「芋ノ茎」とある。
「黒豆」は、縁起物。古語のマメはまじめ、勤勉、健康の意味で「まめに暮らすの」語呂合わせから今でもおせち料理には欠かせない一品だ。まじめに働けば神様も喜ぶことだろう。
「栗」は、縄文時代から貴重なエネルギー源として栽培されていたという。ここ北幡は縄文遺跡が多く発掘されているところで栗の名産地でもある。規格外の地元の栗を工夫したのが栗焼酎「ダバダ火振」である。
「梅」は、松竹梅の梅。
「根引松」は、根を付けたままの若松を半紙で幹の中央部を巻き込み水引で真結びしたものをいう。
「御膳カイ敷」は、食べ物をのせる膳の上に敷くもので「穂長ユズリハ」と「山草」とある。『延喜式』に「供新嘗料 絹二丈。絲二兩・・・橘子十蔭。干槲(かしわ)三俵。弓絃葉(ゆつるは) 一荷」と新嘗に供える品々を槲や弓絃葉に敷いたものと思われる。
「ユズリハ」 は、よく譲り葉、楪、杠の漢字が当てられ、葉の新旧交代が顕著であることが名の由来で新年を迎える正月飾りには欠かせないものとされているが、本来の意味と音は「弓弦葉(ゆづるは)」で葉の筋が丸く太く弓弦に似ていることからの命名であった。その常緑の弓弦葉が永遠不変の生命力を表すものとして「祝モノ」に使われるようになり、ユズルの音をあたかも春に新葉と旧葉が交代するさまを「譲る葉」と読み替えその後「譲り葉」への変化につながったというものである。しなやかな羽生のスケート人気で今度は先祖返りして「結弦葉」になるかもしれない。ユヅリハの意味は時代とともに変化するにしても、ユズリハの常盤の葉に永遠の願いを託し、神饌や料理の盛り付けに懐敷(かいしき)に使われることは変わらないだろう。
「山草」は、ヤマクサと読み、裏白(ウラジロ)の異称と古語辞典にある。
これら神饌の品物にルビがふられていないが、植物名は正訓で表記するのが一般的であることからそれに従って読みを付した。
南路志には神饌として供える12品目と懐敷に穂長ユズリハと山草・梅・根引松が書かれているが、神の依代である山や田畑で育てたものに感謝の意をこめてお供えするものであり、伝統を守りつつも少しの変化は許されることだろう。
熊野神社の熊野神社の秋の大祭における神饌は、奥に3膳と手前に4膳の二段組となる。全ての三方(さんぼう)は上段・折敷部分の継ぎ目(へそ)を手前にして、その上に半紙を折り二つの角を手前に向けるよう懐敷にして、その上に供え物をのせることとなる。
「奥の中央膳(1膳)」には、1升の米を広げその上に雄松とユヅリハと裏白を挿し、手前に干柿と栗を揃え置く。
「奥の右膳(2膳)」には、手前に二段重ねの鏡餅(大が15cm位)、奥に瓶子(へいし)を対に置く。神酒は少量でよく、ふたは半紙を円錐状にして差し入れる。
「奥の左膳(3膳)」には、手前に干物の鰯を盛り付け、奥には白磁の水器(すいき)に水を入れ塩も盛り置く。「手前の中央右(4膳)」、「手前の中央左(5膳)」、「手前の右端(6膳)」、「手前の左端(7膳)」には、それぞれ海苔、昆布、鰹節、野菜(ダイコン、ニンジンなど)、お菓子などを供える。
神饌には、生のまま供えられる生饌(なません)と、調理したものを供える熟饌(じゅくせん)があるが熊野神社では調理したものはない。地元の山の幸、大地の恵みとして、猪や鹿の肉、ネギ・ニラもあるがお供えすることはない。熊野詣に向かう前、精進屋に籠り精進潔斎の食の作法を行うがニラ・ネギを食べていたら精進屋の滞在が長くなるという。神道ではあまり禁忌となる食物はないというがこれも熊野権現・神仏習合の名残りかもしれない。
先述した『南路志』に「御膳取扱者二人、七日精進佐賀浦ニ而潮ごり取、其潮を竹筒ニ入、始終右潮水以清メ備也)」とある。御膳取扱者2人と潮ごり取とは同一人のように読めるが、現在でも清浄人が宮司と共に神饌のお供えを整えることになっている。
13、熊野神社の田辺と武内
『大正町誌』に田辺家の年譜として「上山と云ふ土地あり深山幽谷を回して、落人の好き隠れ場所にして且土地広く人口多し就て見るべしと湛増大に欣び家臣武内七郎を遣して上山城代上山氏に謀る、上山氏歓んで之を迎へ其主と仰く享を約す、月余の後一族上山郷に移り、田野々、北野川に居城を構え郷民を撫愛す、上山郷上分、下分四千石の領主となり、上山氏に替る」(p38)と述べている。史資料の出典が記されていないうえに、歴史の通説から理解すれば物語・伝承のものと理解するが「田辺家の年譜」とあることから、田辺家か武内家の先祖書きに書かれているものかもしれない。「昭和二十八年宗教法人設立登記書類」の簿冊が熊野神社の田辺社務所にある。その文書の中に熊野神社の祭神と創建年(建久元年十二月二十九日)とともに由緒として「田辺家の年譜」と同じ文面が記されている。この年譜も含め、名家名門の末裔として先祖を結びつけた系図は多く、家紋の変更も多いのも事実である。他地域から侵攻した領主が、在郷の地名を領主名に冠することはよくあることで、田辺が上山に変わったのも何らかの事情によるものと思われる。
その事情の一つに南路志は「田那部天正年中退転」と記述する。
『南路志』上山郷の段には「田那部天正年中退転以後ハ、上山惣鎮守ト崇郷民より祭」とあり、続いて「神主一人 南神納 社人八人 嶋太夫 平野山城太夫、平野出雲太夫、平野河内太夫、蕨川石見太夫、平野筑前太夫、蕨川因幡太夫、兵衛太夫」(第三巻p615)とある。そのまま読めば田那部は天正年中(1573-1593)に退転し、その後は上山郷惣鎮守として郷民が神社を守ったということになり、神主は南神納で、8人の太夫が仕えたということになる。南路志には寺社の退転、宗旨替えはよく見られる。退転したという田那部(田辺)はその後どうなったか不思議な結末である。新たな神主が南神納ということだが、明治6年(1873)に提出された幡多士族年譜に「田野々・田辺神納・神職」とある。同じ神納の名が300年後によみがえったことになる。同じように『神社明細帳』には「田那部家衰ヘ子孫知レズ」とある。
また、『南路志』の同じ段に田那部旦増(湛増)嫡子永旦より10代の末裔として「出羽左衛門重正」がでてくるのが天正3年(1575)前後である。この段階では姓が田那部(田辺)なのか上山なのかはは分からない。上山出羽左衛門重正としてでてくるのが、『土佐物語』 第八巻・中村陣並内政朝臣大津城に移らるゝ事に「上山出羽左衛門・同源介(中略)彼是廿三人、其勢五百八十騎、中村へぞ押寄せ」(国史叢書p275)とあるのが天正3年頃で、第九巻・四萬十川合戦の事の段に「田の野に上山出羽左衛門重正(中略)柏島・沖の島に三浦等、是等は皆降参の輩なり。本領を給はり居城に安堵して、萬歳を唱へける」(同書p306)とあることから四万十川の戦いの論功行賞である。『土佐物語』も名のとおり物語であるが、四万十川合戦に田野々・上山出羽左衛門重正が参戦したとある。上山郷でも上分にあたる上山出羽左衛門重正は元親に早くから恭順していたようである 。ただ、上山郷の武士全てが元親に恭順したわけではなく一条の恩義から岡村権吾郎補宗は孤城落日の一条家に加わり塩塚城の戦いに参戦討死にしたと東上山村村長岡村五郎の年譜記にあると『大正町誌』(p47)は書いている。
もう一つの史資料に戦国末期の『地検帳』がある。『地検帳』は天正年間に検地されたものであるが上山郷については天正15年(1587)に一度は検地されたあと、仕直検地となり慶長2年(1597)に実施された。いわゆる慶長地検帳である。上山出羽左衛門重正が元親に恭順することで給地没収でなく上山分として村落領主として名目上維持しつつ実質名主的な役割となっていたのではないか。例えば、長宗我部の直轄地として「上山分」としつつ「上山加賀給」とある。
この経過について上岡正五郎は『地検帳が語る幡多の歴史 上巻』で旧一条家の家臣団がどのように処遇されたかを地検帳の分と給の有無・多寡によって推論している(p206~)。そのなかで地検帳、土佐物語、四国軍記にも記されない国地侍がいるとして「当時の幡多の有力な国侍と思われる家に上山の田辺氏」と田辺氏を挙げている。ただし、その史資料をここでは示していない。また同書で上岡は慶長地検帳における上山郷の給地者について上山熊法師(瀬里土居15.6町給地/瀬里)、上山加賀(田野々居13.9町給地)、上山十兵衛(8.8町給地/上岡・相去)、森野弥五良(烏主居4.7町給地/烏・地吉・江師)、上山惣吉(4.5町給地/下岡・つづら川)、上山右ヱ門佐(4.1町給地)、上山蔵人(3.7町給地/津賀・戸口)。上山分の308.5町 を一筆ごとに集計し給地高順に並べている。上山加賀が田野々に居所を構え実質的な名主となっているようだが、それより給地の多い上山熊法師が田野々から4km上流の瀬里に居をえていることから、めまぐるしい政治的動乱から名を改めたのではないか。この熊法師がその名から「上山の田辺氏」ではないかと推論する。
次に田那部旦増(湛増)に随行したという家臣武内七郎のことである。この武内七郎の末裔といわれる家系が田野々の武内清郎(東山/故人)、武内勇(南町)、武内繁雄(新町)の3軒でそれぞれ先祖書を持っているという。武内の姓は田辺と共に旧大正町では多い姓である。武内の全国分布で高知県は第5位、人口密度比では一番かもしれない。ちなみに田辺姓は旧大正町で一番多い姓である。
武内繁雄の先祖書は慶長17年(1612)に竹内弥十郎がしたためたもの。「一、元祖竹内内蔵ト申者性国ハ紀州熊野、土佐国江罷越」にはじまり、熊野別当旦僧嫡子永旦に仕え一ノ谷合戦八島まで随行してきた。上山4千石の領主から知行50石を受ける。内蔵には惣領藤太エ門、二男蔵之進の2人がおり惣領に知行を譲り、藤之進は鍛冶職に仰せつけられたとある。惣領藤太エ門から藤九郎、喜惣太、左内、源太、大蔵、蔵之介、蔵人と続き8代目が竹内弥十郎であるとのこと。この弥十郎の代に元親公より領地召し上げられ田野々城主九郎兵衛殿、北ノ川城主喜田左近頭殿ら上山の侍一同が牢人となる。上山殿の家老、山中賀入は上山の代官に元親公から仰せつけられるとある。
弥十郎の父蔵人は北ノ川城主喜田左近を大将にして朝鮮出兵(元親公は文禄元年(1592)、慶長2年(1597)と二度出兵)したと書かれている。上山領主の素早い元親公への恭順で「所領安堵」と思っていたが、朝鮮出兵の首尾良くいかなかったのか、『地検帳』(上山郷地検帳は慶長2年)には2人の城主や山中賀入の給地はみあたらない。
この竹内弥十郎の先祖書について平井上総は『長宗我部氏の検地と権力構造』のなかで「慶長五年二月四日付で作成された上山郷の給人目録が存在しておりそこに記された給人は四十三名と先祖書と一致する。その目録には竹内弥十郎も含まれている。よってより後年に作られたものであったとしても、ある程度の実態を踏まえたものであったと考えていいだろう」(p327)と述べている。先祖書にある「上山ニ罷有、西之御国境守様被仰付度旨申上候所、願之通被付(略)」を引用し、弥十郎が知行地を減らしてでも上山郷に居住し境界防衛の在地給人となることを願い元親公に認められたことを示し、長宗我部氏が豊臣期に入っても境界警備に力を入れ在地給人を残した政策に一致するとし史料の信憑性を一定追認している。上山郷は伊予国との境であり、伊与喜郷とともに幡多一条家との境でもあった。上山郷と伊与喜郷が仕直検地となったのもその一つの要因かもしれない。
南路志の「田那部天正年中退転」の真意は不明ではあるが、南国市田村に鎮座する王子神社の由緒に「長宗我部滅亡ト共ニ(入交新右衛門尉)先達職停止トナル」とあることからも、天正から慶長にかけての政治的な動乱がそれまで土佐の為政者にも興味を受けることのない歴史から忘れ去られていた遠国深山まで押し入ってきたことは確かだ。
14、過疎地における神社の今後
戦後の農村部から都市部への人口流動や新興宗教の飛躍的な展開により、これまで地域共同体に深く根を下ろしていた神社の信仰形態も大きく変化するようになった。この「過疎地域」における神社について旧窪川町の現況を報告したのが冬月律の『過疎地神社の研究-人口減少社会と神社神道-』 である。冬月は、平成24年(2012)、旧窪川町(現四万十町)に鎮座する宗教法人格を持つ103社(神社本庁包括神社)を対象に、それらの神社関係の神職6名 に調査シートを配布し、結果をもとに再度聞き取り調査。全26問の調査項目(神社名、地域名、宮司名、責任役員、所在地、祭神、境内概要、祭儀数、会計、境内神社、氏子世知数、後継者問題、合祀課題、宮司の欠員課題等)について集約し論考を進めている。同書には神職4人と筆者との座談会も掲載されており、窪川独特の神社事情が本音で語られており興味深い。巻末には高岡神社氏子地区内の集落と戸数一覧(同書附録1)と103社の調査結果・表形式(同書附録2)を示している。
調査項目の特徴的な項目は、神社別にみた神社運営の年間経費は10万円以下が圧倒的に多く、その経費に係る氏子費は1,500円から2,000円の段階が多い。また、神社会計の内訳は、神職への謝礼、神饌費、調度品費、直会費、積立貯金となっており、会計については地区の総代が主管して神職が不干渉の立場にあることが多い。
この書のまとめの特徴的な点は、一つは、集落の産土の神と地域の総鎮守との「二重氏子」で、二つは、社殿の老朽化と神社芸能の継承・氏子の減少・神職の兼職神社など「神社の担い手課題」、三つは、「神社財政の脆弱性」である。 冬月の特徴的な3点についての指摘は、四万十町の旧大正町(郷社・總鎮守の熊野神社)、旧十和村(上山郷下分の郷社・總鎮守の三島神社と上山郷十川分の郷社・總鎮守の星神社)にも類似する点がうかがえる。なお、裏付けとなる統計試料は旧大正町と旧十和村についても同様な調査シートにより宮司に聞き取り調査をして検証しなければならない。
旧大正町には、郷社の熊野神社と産土神社の23社がある。宮司は熊野神社の田辺利成宮司と皇子宮・河内神社(田野々城山鎮座)の田辺猛宮司の2人だけで、残り22社の宮司を兼ねている。また、隣の旧十和村は宮司が1人ということで、田辺宮司が兼ねる産土神社も多い。以前は大正大奈路にも武内神職がいたが廃職したとのことである。
調査結果を待たないといけないが「神社財政の脆弱性」は深刻である。大規模修繕の積立はおろか、火災・地震などの危機管理に対応した損害賠償保険にも十分対応しきれていない状況である。鎮守の森の整備も手つかずで、竹林は浸潤し、風倒木の樹木もそのまま放置される状態である。土地に縛られた封建制度から、居住の移動も職業の選択も自由となり、信仰の基となる土地の恵みの感謝や氏子入の儀式も廃れていった。地元の産土神社の維持すら困難ななかで旧郷社であることの共同意識を培っていくことは平成の合併を経てなお厳しくなる。
このなかで、新たな取り組みが始まっている。
四万十町大正の熊野神社の境内で毎月9日に開催される「9の市」という小さな産直市と「じんじゃ食堂」という子ども食堂である。高知県児童家庭課が取り組む「食事の提供を通じて、子どもや保護者の居場所となる“子ども食堂”」事業を取り入れて神社で行うようになったもの。この事業の目的に「子どもや保護者の居場所となることだけでなく①保護者の孤立感や負担を軽減する場②地域の大人たちによる子どもたちを見守る場としての機能が期待される」とある。じんじゃ食堂は大人も子どもも集まる場として直会殿と広い境内地が活用されている。
主催者である田辺利成宮司は「年に数回しか利用されなかった直会殿も毎月利用することにより明るく清潔な施設となった。境内地は広く子どもの遊び場としても申し分なく目も届き安心である。地域の大人も多く食べに来てくれるので世代間の交流はもとより運営費も助かる(子ども100円・大人200円)」とのこと。子どもにとっての熊野神社が親しみのある場所となり、夏と秋の祭りにもこぞって来るようになった。夏の宵祭りには中高生のジャズバンド・フェアリーピッタの演奏も恒例となった。子どもは地域の宝である。
15、まとめ
上山郷の熊野神社は、勧請の由緒が建久元年といわれているが明治23年の大洪水により棟札等が流失し、モノとしての証明ができないところではある。ただし、別当寺(神宮寺)である長楽寺の木造如来形立像と木造地蔵菩薩立像(2体は高知県保護有形文化財)が平安時代末の作像であること、鎮守の森にある熊野大杉が明治40年頃の鑑定で樹齢730年(1167年頃)であったということなど、熊野神社の構成要素となるモノから仮説推論すればあながち「建久元年(1190)」も否定するものではない。とすれば熊野信仰の最盛期であった時代に遠国深山の地に勧請したことになる。
『神社明細帳』をもとに県下の熊野系神社126社について神社名、名称の読み、市町村名、鎮座地(大字・字・地番)、旧社格、祭神、勧請年、神躰、由緒、祭日、信徒、『土佐州郡志』『南路志』の記載事項、『神社明細帳』冊別番号をデータ化しそのうち107社については現地を確認し十進座標を入力した。成果品はHP「高知工科大学フィールドデータベース」に公開しているので詳細はそちらを参考にしていただき視点を変えて再考していただきたい。
高知県下の熊野系神社の勧請伝播から上山郷の熊野神社の勧請について推考しようとしたが史資料不足等で断念した。その要因の一つが明治の廃仏毀釈による神仏習合の解体とその史資料の焚書である。神道は祭祀の作法や霊威の深遠さは感じるものの、祭神について宗教者の信仰的説明は少なく、氏子は神社に参拝はするものの神道の理解を深めることはない。不思議な宗教である。
全国3千社の熊野神社の勧請となった信仰のバックボーンは「現当二世」の利益を熊野の神に立願すれば叶えてくれることにある。この立願への修行が「熊野詣(禊祓・山林斗藪)」にあり、その苦行を成し遂げた修験者(山伏・先達)が在地の布教者となる布教システムが確立した。
この熊野信仰の修行の基礎をなすものが、海洋他界の常世を信仰対象として海辺の「辺路」や島・岬をめぐる辺路修行であり、その後の山中を他界とする信仰が昇華したのが「山の宗教」としての熊野詣であった。この「辺路」と「山の宗教」の相互補完性は、四国のヘンロの原初でもある。熊野の修験者(天台系本山派)や真言密教の思想を持つ修験者(高野山系当山派)が四国を巡る遍路修行の道場を築き上げたことは、四国八十八カ所の札所の山号や奥の院、鎮守社に色濃く残っている。
「四国霊場八十八カ所と遍路道」は四国で初めての世界遺産の登録に向けた取り組みである。弘法大師と現在の札所のみを構成要素とする単層的な理解では運動の広がりにはならない。熊野修験者、高野聖、成人の通過儀礼としての遍路、個々の苦悩を抱える巡礼者など「民衆の宗教運動」が四国遍路の基層を支えているという運動の展開が重要であると考える。
熊野3千社の原動力となった熊野詣と御師・先達の布教システムを解体に導いたのが明治政府の廃仏毀釈運動である。上山郷の熊野三所権現は熊野神社に改称した。あれから150年の歴史を経るなかで神社本庁の統制も進み熊野神社が本来持っていた宗教的ダイナミズムは失われたといえる。
今回、熊野神社の周辺の史資料を集成し、田辺宮司はもとより総代ほか関係者が総覧できるようまとめてみた。調査の中で潮汲み祭事に同行し、その後実際に歩いて35km先の熊野浦を山林斗藪した。「熊野三千六百峰」に劣らぬ土佐の山国には修験道由来の地名が散見する。この大地に刻まれた歴史の記憶である地名を訪ね、それを線で結び、面で体感する山林斗藪の場を復元したい。
上山郷の歴史の原点ともいえる熊野神社を調べるなかで、医師であり吉野大峯修験の中先達である友人の山本洋からお誘いがあり2度「岩組・大峯龍王講(講元曲渕仁達)」の大峰奥掛修験に新客として参加した。その修験の最終が吉野・櫻本坊の大護摩供厳修である。護摩の炎と法螺貝の音がはるか蒼穹への祈りを届けるようだった。その時の法話が印象的だった。
「草木は決して他と比べることをしない」
脚注・写真・図表は書籍で →当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く)へ
大形 334号(2023.05.10)
大方文学学級
『土佐一覧記』を歩く⑧上山
武内 文治
四万十町大正の地域交流センターの前庭の歌碑に刻まれているのが、上山で詠まれた次の歌である。
山里の物さびしさはま柴焼く
けぶりも雲にまがふ夕暮
川村 与惣太
里の夕餉の煙が雲とひとつになっていく。家族の団らんに加えて雲までさらっていくのか。二つの大川もこの上山の里で合わさっている。私は今日も一人寝なのだ。 (勝手読)
山本武雄は『校注土佐一覧記』の巻頭にこの歌碑の写真とともに、はじめにとして「ある朝、高知新聞を開くと『碑のある風景』に、幡多郡大正町に建てられている・・」と大正町で詠まれた三首がそれぞれ歌碑として建てられていることを紹介している。
①上山 旧大正町立中央公民館前(s46/大正)
②胡井志 旧大正温泉(s46/江師)
③矢立森 旧下津井ヘルスセンター(s52/下津井)
歌碑は施設の建設記念として建てられたが、当時の教育長や町長を歴任した武政秀美の発意であったと思われる。
川村与惣太が記した「上山」は、いわゆる北幡と呼ばれる下山郷・上山郷の上流域の山国で、長宗我部時代の在地支配単位として機能していた。その領域は広く、近世には上山郷下分(旧昭和村)、上山郷上分(旧大正町)、十川(旧十川村)、山中(旧富山村)の五十一ヶ村として大庄屋が大正(旧大正町田野々)に置かれていた。長宗我部地検帳には給地として上山分の名がほぼ全域に示されている。上山とは在郷開発領主の名前でもある。
その上山郷の古い縁起が上山郷の旧郷社・熊野神社で、四万十川と梼原川が合流するところに鎮座している。社寺の由緒書きや棟札には建久元(1190)年、田辺湛増の子・永旦が熊野三山権現本宮十二所を勧請したとあるが、いささか疑問。源平争乱の勝者である熊野別当湛増がこの地に逃れることもなく、平氏側に与した熊野田辺の傍系がこの地にわたり、上山郷の開発領主の寄進により、紀州熊野社領となったものと思われる。
この上山郷の地方文書による詳細な記録はないなかで、目良裕昭は一条教房の土佐下向と山林資源の関係について『遠流の地・土佐』(高知県立歴史民俗資料館企画展図録)の紙面で、教房の土佐下向は幡多庄の周辺海域が占めた海運・航海上の重要な位置(土佐沖航路・瀬戸内航路・琉球東アジア航路)に注目し対明貿易による膨大な利益を得ることを目的としたと述べ、その交易のモノとなるのが四万十川流域の豊かな木材資源であるとの見方を示している。
土佐藩の財政の窮地を救ったのが白髪ヒノキであることは有名な話で、他国の材を寄せ付けない白髪ヒノキは大阪木材市場跡に土佐堀・白髪橋の地物名まで刻んでいる。「土佐は山国」、上山郷と名づけられた「山の郷」である。近代になり「西の魚梁瀬、東の大正」といわれるほど国有林野事業は盛況を極めた。高知県で最後まで残った森林鉄道(正式には林用軌道)は昭和四十二年三月二十五日に終山式を迎えトラック輸送となった。トラック搬出とチェンソー導入により林野事業は活況をあらわしていた。『高知林友(昭和三十五年九月号)』によると、大正営林署には三百五十六人の雇用があった。今は事務所に数名という盛衰である。
昨年、奈良・天理教本部の「昭和普請」の記録映画を見た。芳川地区国有林野の巨大ヒノキを天理教本部の南礼拝殿主柱として搬出された記録映画で、全十五巻の十六ミリ記録映画をデジタル再編集したものである。今でも神々しく林立しているこの「昭和の献木」ついて山﨑眞弓は『地域資料叢書㉓続・四万十の地名を歩く』に「小野川利國氏の手記―旧大正町「昭和天理教大改修献木」にかかる新資料―」と題して報告している。巨大ヒノキを伐採搬出したのは昭和五年のことで、手記の作者・小野川利國氏が十三才の頃の記憶をもとに八十才になって書き下ろしたものである。この記録映画や手記は、九十年前の山の暮らし、ふるさとの姿、林業の現場を知ることができる第一級の史資料である(当該報告書の詳細はホームページ『四万十町地名辞典(https://www.shimanto-chimei.com/)』を参照)。
与惣太が記した地名・上山は郷名を示す広域地名で、詠まれたところの村名は田野々である。長宗我部地名帳にも記録される中世以前の地名・田野々は平成の合併で大正へと大字の変更がされ消えた地名となった。地物としては田野々小学校など残っているが、大正時代に東上山村を大正村に名称変更した「大正」を刻むために、結果として中世以前の歴史ある地名が百年前の年号あやかり地名に二度負けたことになる。
平成の合併では多くの自治体名称や歴史的地名が消えた。中村、佐賀、大方もしかりである。『市町村合併法定協議会運営マニュアル・基本編』で新市町村の名称基準がしめされ「人口規模の最も大きい市町村の名称が選ばれる危惧」を回避する行動となり「名称の知名度、対外的にも覚えやすい名称」による命名へと誘導されることになった。波多国五郷の一つ、「大方」も合併優先の配慮から「黒潮」となった。全国で進められる学校統合も新学校名に混乱が起きている。地名・地物の命名のあり方について明確なルールを示す重要な時期と思えるがどうだろう。
地名はコミュニケーションの符号であるとともに、大地に刻まれた過去の営為を記憶する語り部でもある。
(次回は「胡井志(四万十町小石)」)
■長宗我部地検帳(1597慶長2年) ※記述は編集子
田野々村を含む上山郷の検地の特徴は、慶長地検帳といわれる、仕直検地である。長宗我部による検地は主に天正15年(1587)から天正18年(1590)であったが、当時は長宗我部の勢力拡大に伴う直轄地を確保する必要から、検地のやり直しを行った、その標的の一つが「上山郷」であった。上山一族は、一条家の傘下にあって北幡の雄として権勢をふるったものの一条家が長宗我部に敗れ、元親の命による朝鮮出兵も不首尾となり、元親は一族の宗家上山加賀の田野々村の給地(家臣としての知行地)を没収し直轄地としたのである。
その記録が「慶長2年2月2日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」である。上山郷は「上山六帖」といわれるが、その一冊となるこの地検帳には宇津井川村と田野々村がまとめられている。宗家上山加賀の主な領地であったことからであろうが、上山郷の他の村先だって仕直検地され、直轄地としての「散田」化(「給」と「抱」の二本立て)となった。特に「抱」地とされているものが多いのが特徴である。この経緯については、浜田数義氏の「天正地検から慶長地検へ(下)-幡多郡上山郷の場合ー」土佐史談184号(1990.10月)を参照していただきたい。
この検地簿冊に「此紙新帳を以写書入但八枚之内」と8枚を差し替えているが、その箇所すべてが「扣」である。仕直検地で「抱」としたのを「扣」に一部を差し替えたのは謎である。
▼土佐国幡多郡上山郷御地検帳 刊本幡多郡上の1p71~83、p85/検地:慶長2年2月2日~2月10日)
田野々村(大正の市街地と吾川集落)の検地は宇津井川村(打井川)の検地に続き始まった。検地日は明確ではないがこの検地簿冊に「慶長二年(1597)二月二日」とあるからその数日後ということになろう。
最初に見られるホノギに「イケタ大道ノウヱ」、「ヒラヲカヤシキ」とあることから、亀ノ森(四万十高校)の南東緩傾斜地(「下山畠」)のイケタ(字池田)から上ヤシキのヒラヲカ(字広岡)と通り、ハシツメ(字橋詰)へと向かう。次に城山の下のトイ東(字土居屋敷)から時計回りに踵を返し、クホヤシキ(字久保屋敷)、シントノ(字新土居)、イシチ、カチヤシキ(字カヂヤシキ)、ヒラタ谷(字平谷)、五月田(字六月田?字九日田)となる。次に吾川集落に渡ったのかダハ(字阿川駄場)、ハサコ(字ハゴノサコ)、ウヤカタ(字ウヤガタ)ととなり田野々村の検地を終える。
次に津々羅川村(つづら川集落)と続く。
この地検帳に「トイ東 一所壱代四拾代 上ヤシキ 田野々村 加賀抱 主居」とあるが、上山一族の統領である、宗家上山加賀氏の居所がトイ東で当地字土居屋敷に比定できる。上山加賀の抱地はこことシントノ(字新土居か)の屋敷地だけである。慶長2年3月24日の布令で土佐国中の庄屋が発令になったが上山郷の庄屋に命ぜられたのが上山加賀と上山四良兵衛である。また、津々羅川村には「上山惣吉良給」とあるなど、元親から不興を買った上山一族であったが上山十兵衛の活躍が「忠義公記」にもあるなど、それなりの処遇もあったと見える。
▼土州幡多郡上山高山ハタ地検帳 (刊本幡多郡上の1p379/検地:天正16年1月16日)
地検帳は、慶長2年の「土佐国幡多郡上山郷地検帳」(仕直検地)とともに、それ以前の天正16年の「土州幡多郡上山高山ハタ地検帳」の検地記録がある。
天正時期の地検帳は、刊本では「幡多郡上山切畑」として上山郷全域の「高山畠」の土地種目についてまとめられている。この地検帳に記録されている村は、田野々村(大正/アコウ村を含む)、十川ノ村(十川)、大野々村(十川)、十川カラス村(古城)、コシロノヲク(古城)、地吉ノ村(地吉)、今成村(十和川口)、鍋谷村(十川)、広瀬村(広瀬)、柳瀬村(井﨑)、アイコノ村(井﨑)、ホキ村(井﨑)、小野々村(小野)、細々村(河内)、大道村(大道)で、田野々村のほかは西上山分が占めている。都合4町7反の面積である。上山郷については天正の時には切畑のみを検地したのか、それともこれ以外は事情により再度慶長時になって検地したのかは定かでない。
「幡多郡上山切畑」とあるが切畑は、畑(火の田)の漢字が示すように焼畑である。それなのに「高山畠」の字を当てているのはどういった意味があるのか。ちなみに「畑」は山を焼いて灰を肥料として作物を栽培し地力が落ちたら他の場所へ移るという移動農法。「畠」は、白い田すなわち田に水をはらないで作物を栽培する定地農法である。畠は屋敷近くのハタケ(菜園ジリ)で、畑は、里山の開墾畑ということか。
この中に「アコウ 一所卅代 高山畠 田野々村 アコウ村杢衛門扣 上山直分」とある。この天正時代の検地には上山の直分とあり、慶長の地検帳六冊と幾分違った所有関係を示している。
田野々村のホノギとしては、南ノヲク(字南セイ)、石地ノ上(字石地の上側)、岡本谷ノヲク(旧大正役場前を流れる岡本谷の奥)、アコウ(大正橋集落の右岸。通称吾川)、カミソ(大正橋集落の左岸。通称上頭(かみず))がありすべて比定できるが、切畑が少ないことから、慶長地検時との重複部分を廃棄し切畑の一部となったのかもしれない。
■州郡志(1704-1711宝永年間)
・本村(p324)
上山上村惣十八村の本村として四至には「東限瀬里村西限大川南限家之市北限後山畝東西八町南北一里三十町津野山川在西仁井田川在南過合流戸凡三十餘」
山川に、後山、亀山
寺社には、長楽寺、熊野権現
古跡として「城址三所 和田林在南・遅越山在西・土居林在北 領主田那部氏丗二居之」とある。
・上山本村下分(p344)
また、上山本村下分として四至は「東限二淀林西限遅越南限葛川北限村中家林東西九町南北五十町戸凡五十餘其土赤黒」
山川は、後山(在村北)、津野山川(過村西入大川)、仁井田川(自東至西合流津野山川)
寺社には、五松寺、川内大明神社とある。
■郷村帳(1743寛保3年)
寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高210.785石、戸数94戸、人口393人、男206人、女187人、馬24頭、牛4頭、猟銃26挺
■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:山本武雄著「校注土佐一覧記」p365)
安芸の歌人・川村与惣太が上山(大正)で草枕して読んだ歌
上山
此の山里に旅寝し待る時
山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮
※こんな遠くまで来てしまった。旅のかりねに真柴の煙が雲のようにたなびいている。煙は安芸まで届くだろうか(勝手読)
※※大正の三ヶ所を詠んだ与惣太の歌はすべて歌碑として残されている。土佐全域を歩いた紀行歌集である土佐一覧記を紹介した山本武雄氏の著「校注土佐一覧記」は、この大正の歌碑を冒頭で紹介し称賛している。歌碑建設に尽力されたのは武政秀美氏である。この歌は、昭和46年大正町中央公民館前に建てられた。
※図書館本系統本では伊与野(宿毛市)→呼﨑(宿毛市)→上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。
■南路志(1813文化10年:③p615)
205上山郷 寛永郷村帳四十七村 元禄郷村帳五十村
○上山村 寛永帳無之。元禄帳云、地二百十石七斗八升五合
熊野三山権現本宮十二所(詳細は本文)
四十四社
川内大明神 河内
川内大明神 轟崎川ゟ南
○田野々村 則上山本村也
萬龜山五松寺 禅宗洞家豫洲宇和島龍澤寺末(詳細は本文)
古城 田那邊旦増、同永旦居之(詳細は本文)
■掻き暑めの記(1984昭和59年)
池田(上p139)
明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。田野々村の元標は字池田(熊野神社の東方道路横。轟崎つづら川を含めてほぼ中央)に設置されていた。
子積みの谷(上p257)
昔つづら川村でえんこうの子が生まれたとこから「子積みの谷」と呼ばれた。
オメの川原(上p409)
昔、狼と鷹と熊と三つを獲るものはマトギの名人と云われた。葛篭川村の猟師久四郎は、この三つを同時に獲て山内の殿様に献上して、絵帽子、たつつけ、はっぴの三品を項載して、マトギの名人として、其の栄誉を保持していた。山内の殿様が七十三の撃ち止めの狩猟を上山郷田野々村の眺子の川山でやったとき、ものの見事に大猪をしとめて、殿様から「久四郎あっぱれ、あっぱれ」とほめられた上に「何にぞのぞみは無いか」と言れたが其時久四郎は「コメヲ」と答えて殿様から米を八俵下されたのである。その上に「は-び」をとらすといって「山田五半巻き張りの火縄銃八匁弾」を賜うたのである。オメの川原のホノギは久四郎が殿様に「ホメられたり」「コメをと」云ったりしたことから、つけられたものであるとつたえられた。
■ゼンリン社(2013平成25年)
p19:黒川トンネル第二田野々トンネル、梼原川橋梁、第一田野々トンネル、田野々トンネル
大正新橋、石鎚神社
p22:大正橋、大正橋歩道橋、河内神社、樅木神社
p23:五松寺、御所ノ森谷川
p24:田野々大橋、ウログチ川、熊野神社、熊野神代橋
p25:岡本谷川、JR予土線、土佐大正駅
■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)
黒川トンネル、吾川、大正橋、田野々、土佐大正駅、四万十コンベンションホール、大正、轟崎トンネル、轟崎、轟崎橋、道の駅、井津井谷、葛籠川、奥留川、一の又トンネル、不動山、不動山トンネル、地吉山
※東山・五松寺付近に神社記号を付してあるが寺院記号の錯誤では
■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)
※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ
敷巻山(四等三角点:標高319.28m/点名:しきまきやま)字シキマキ山1366
大平山(三等三角点:標高442.36m/点名:おおひらやま)字大平1391
大谷平(四等三角点:標高569.36m/点名:おおたにだいら)字大谷平1486-20
押川(三等三角点:標高637.63m/点名:おしかわ)字押川1402-16
日ノ地(四等三角点:標高522.83m/点名:ひのち)字日ノ地1461-1
蛇ヶ塔(三等三角点:標高594.55m/点名:じゃがとう)四万十市片魚字ジャノアナ
不動(三等三角点:標高780.46m/点名:ふどう)四万十市古尾字ドヲシ
■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)
桧尾山(4080林班)
桧曽畑山(4080林班)
笠木山(4081林班)
五郎木場山(4081林班)
岡崎木屋山(4082林班)
桧尾山(4083林班)
コビ穴山(4083林班)
三ツ喰瀬山(4084林班)
日ノ平市ノ又山(4085林班)
市ノ又山(4086林班)
市の又渓谷風景林(4086林班)
影平市ノ又山(4086林班)
■高知県河川調書(2001平成13年3月/p56)
つづら川(つづら/四万十川1支川つづら川)
左岸:大正字日の地1461番地の1地先
右岸:大正字カラ谷1465番の8地先
奥留川(おくどめ/四万十川1支川つづら川2支川奥留川)
左岸:大正字地吉1439番地の21地先
右岸:大正字西竹ノ奈路山1457番の23地先
■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)
轟崎
宮の畝(大正字宮の畝924・ワルヤ谷川)
南水平(大正字南水平1492・水平谷川)
溝平(大正字溝平1459-15・溝平川)
つづら川
地吉山(大正字地吉1438・地吉谷川)
中谷(大正字中谷1007-1・中谷川)
中屋敷(大正字中屋敷1004-2・中屋敷谷川)
一ノ又(大正字カラ谷1465-1・一ノ又川)
南ノ川(大正字南の川1471-1・南ノ川)
コウダ(大正字テバコ972・テバコ谷川)
イデノ谷(大正字イデノ谷1475-イ・イデノ谷川)
小藤谷(大正字小藤谷1148・小藤谷川)
大藤谷(大正字大藤1154・大藤谷川)
押川(大正字押川1401・押川)
■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)
〇田野々
孝作リ橋(/大正字)
新土居橋(/大正字)
山ノ沖橋(/大正字)
カジヤシキ橋(/大正字)
ゴショノ森橋(/大正字)
寺田橋(/大正字)
山ノ沖3号橋(/大正字)
山ノ沖4号橋(/大正字)
寺田2号橋(/大正字)
城山橋(/大正字)
山ノ沖2号橋(/大正字)
池田橋(/大正字)
坪サコ橋(/大正字)
ウログチ橋(/大正字)
田野々大橋(/大正字)
大正橋(/大正字)
大正橋歩道橋(/大正字)
〇つづら川
葛籠川橋(/大正字)
宮ノ畝橋(/大正字)
横道橋(/大正字)
地吉口橋(/大正字)
轟崎葛籠川線1号橋(/大正字)
井津井谷橋(/大正字)
押川橋(/大正字)
デバコ橋(/大正字)
竹ノナロ橋(/大正字)
東ダバ橋(/大正字)
一位橋(/大正字)
栗尾橋(/大正字)
栗尾2号橋(/大正字)
栗尾3号橋(/大正字)
■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)
・ 25市ノ又渓谷風景林
市ノ又渓谷風景林は、四万十川の支流、葛籠川(つづらがわ)の原流域の国有林「市ノ又山」にある。 樹齢200年をはるかに越えるヒノキ・モミ・ツガなどの巨樹が樹立している。その一部に遊歩道があり、豊かな大自然の姿を見ることができる。戦後の復興や日本の発展への木材の需要に対し、積極的な木材の供給に応えてきた国有林の一部である。
・ 34大正橋
大正橋は、四万十町大正の四万十川から上流に約500m、支流梼原川に架かる橋である。県道窪川宇和島線の橋梁として、昭和3年3月に完成した。朱色に塗られていることから住民に「赤鉄橋」と呼ばれている。
大正(旧田野々)には、「上頭の渡し」と呼ばれる渡し場があった。これは、上山郷上分と上山下分(四万十町十和地区)及び下山郷(四万十市西土佐地区)に通じる重要な往還用の渡しであった。この橋の完成により、西土佐・宇和島方面へ自動車の通行が可能となった。 大正橋は、四万十川に沿って延びる国道381号線の橋梁として大きな役割を担い、流域の経済の流通や文化の交流・発展に大きく寄与した。
四万十川の景観と流通往来の歴史を理解するうえで重要な建造物であり、国の登録文化財に指定されている。
架橋年度:昭和3年 / 管理:町 / 構造:鋼製3連ワーレントラス橋 橋長138m・幅員4.6m 親柱花崗岩製
■四万十町広報誌(平成19年6月号)