どい(土居)【大字土居、土居・土居屋敷ほか多数各地】
どうがもり(堂が森)【野々川△四万十市西土佐藤ノ川△四万十市竹屋敷/標高857.4m】
どうめん(堂免)【】
とがわぐち(戸川口)【十和川口地区の集落】
とぐち(戸口)【昭和地区の集落】
昭和地区の轟集落の下流隣の集落。
ところばやし(所林)【打井川】
土佐藩の輪伐制度を提案したのは小倉小助である。「当国第一の富源は山林にあり」と藩主山内忠義に進言したのは元和3年(1617)、小助が参政として赴任してからである。以来、野中兼山にも引き継がれた持続可能な林業政策であった。「所林」は土佐藩の林業政策における山林の種目の一つ。「御留山林の一種で、村々で支配するものである。その村が困窮した場合には渡世即ち生活手段として部分的に解放される。立木10本につき3本を残置する慣例がある。公有林」と平尾道雄の土佐藩林業経済史(p70)で述べている。
四万十町内で山林種目として字名に付されているのは、井林(イバヤシ/作屋/田役道具や材料用として残置された山林。公有林)、旧井林山(日野地)、宮山(ミヤヤマ・ミヤバヤシ/上宮/神社林。伐採禁止)がある。
とどろ(轟)【昭和地区の集落】
昭和地区にある四万十川流域最大の川中島「三島」を渡りぬけた四万十川の左岸集落。
とどろざき(轟崎)【大正地区の集落・行政区】
とどろのうえ(轟の上)【浦越地区の集落】
とびのす(鳶ノ巣)【打井川】
とびいりち(飛入地)【窪川、根元原、宮内、東川角、八千数、土居、黒石、本堂、大正大奈路、広瀬】
とめば(トメ場・留場)【安田町正弘、土佐清水市鍵掛】
トメ場は、江戸時代において、一般の人 の狩猟や漁労を禁じた場所。「留」は御留山と同じ禁止の意味を持つものだろう。
とり(鳥・戸里)【】
とりうちば(鳥打場)【打井川△四万十市】
とりおち(鳥落)【】
(20170727現在)
■語源
■四万十町の採取地
■四万十町外の採取地