弘瀬

ひろせ


20150522初

20170222胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「広瀬」とあ。当時は喜多川村(北川の枝村的位置づけ)であったらしく、地検帳の表紙にも喜多川村とあるが枝村の記載はない。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「弘瀬村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、弘瀬村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 

【地誌】

 旧大正町の南東部。北から東は窪川地域、南は打井川、北西は上宮に接する。家地川堰直下の集落。ほとんどが山地で国営農地が造成された。地内中央を北西へ四万十川が流れている。流域両岸に水田・集落が立地。園芸、茶・クリの生産が盛ん。右岸を本村と呼び、北部を通る国道381号から町道が分かれて、集落を通り窪川地域へのびている。左岸にJR予土線が通り、並行して町道がある。東端に両岸連絡のため新設された弘瀬橋がある。大元神社があり河内神社を合祀。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央部の南側。四万十川が穿入蛇行、旧窪川境に家地川堰堤が見える。それより下流の両岸が弘瀬地区)

 

【地名の由来】

 大正町史等の関連書籍にも地名の由来はない。

 広い瀬という地形地名のほかに考えられない。四万十町内にヒロセと呼ばれる大字がここの弘瀬と下流の十和地域に広瀬がある。漢字が相違することから四万十町の合併時にも調整は行われなかった。ともに、四万十川の特有な景観である穿入曲流となった所で、さぞかし家地川堰からの分水がなかったら豊かな川であったことだろう。川の中ほどに字に「島頭」と呼ぶほどの立派な中島を形成している。

 広瀬地区を流れる四万十川の両岸には河岸段丘が形成され、重木山を背にした河川と駄場の比較的広い景観は、弘瀬の名に恥じないところだ。

 


地内の字・ホノギ

【字】(あいうえお順)

 アラヒラ、アレノ谷、アンノ谷、イガミ松、イケノ谷、イソヲダ、イタキ山、イノ谷山、イバ、イバノ下タ、岩ダサコ、岩ダノサコ、岩ノ下タ、畝越ダ、ウ子越ダ、梅ノクボ、ウルシダバ、ウワダバ、エダ畝、エダ畝、エダ畝、エンゾヲ山、大石山、大杉山、岡ヤシキ、オリアガリ、カイ林、柿ノ畝、カシノ本、カヅ子サコ、カハチナロ、上ミサコ、上ミニ斗蒔、上ハダバ、上ヤブ、上ヲヤブ、川ノ上エ、川茂、クサキ山、楠ノ谷、栗木谷、源作山、コツミ山、コヤノ前、サキノコシサコ、櫻山、ササ畝、サデノスソ、椎ノ木山、ジヒヨ畑、島頭、下モサコ、下モニ斗蒔、重木山、白ヘビ田、新谷山、新林、セド山、ソヲダ、タキノ畝、タキ山、竹奥、竹ノ畝、タテギ山、田ノ谷、ダバ畝、ツエジリ、ツルイノ谷、テンホヲ山、トイノ畝、通サコ、通ノ畝、ドヲノロ、長田、ナシノ木山、仁イヤ前、西ノ畝、仁ヤノ前、野中、ノボリヲヲ、東畝、東谷、東山、ヒサキ畝、ヒノ木山、弘見口、弘見ナロ、船戸山、ホヲキナロ、松木山、松田屋式、松ノ木山、丸山、道ノ畝、道ノサコ、ミヤクビ、ヤカシロ、ヤナギサコ、ヨコ山、ヨホヲタ、六郎山、ヲクギレ、ヲソアガリ、ヲ道キサコ、ヲ道キ山、ヲリヲ、ヲヲギザコ、ヲヲサコ、ヲヲサコ山、ヲヲタ、ヲヲ谷山【112】

※字マスターにある、アンノ谷、岩ノ下タ、畝越ダ、オリアガリ、柿ノ畝、上ハダバ、通ノ畝、ドヲノロ、仁イヤ前、松木山、ヲ道キサコ、ヲヲサコはパンチミスか

 

(土地台帳・切絵図番順)

1カイ林、2船戸山、3クサキ山、4長田、5コヅミ山、6東山、7セド山、8通サコ、8道ノサコ、9コヤノ前、10下モニ斗蒔、11ヤカシロ、12下モサコ、13上ミニ斗蒔、14ホヲキナロ、15大石山、16上ミサコ、17竹奥、18ノボリヲヲ、19ヲヲギザコ、20イノ谷山、21ヲヲ谷山、22イバノ下タ、23ナシノ木山、24イガミ松、25ウルシダバ、26ヲヲタ、27カハチナロ、28ジヒヨ畑、29櫻山、30(道ノ口)、31タテギ山、32楠ノ谷、33ミヤクビ、34ヨホヲタ、35・36サデノスソ、37テンホヲ山、38・39・40重木山、41川茂、42イソヲダ、43ソヲダ、44ウワダバ、44上ハダバ、45東谷、46ダバ畝、47ヲクギレ、48ウ子越ダ、49エダ畝、50川ノ上エ、51栗木谷、52ヒサキ畝、53イタキ山、54道ノ畝(通ノ畝)、55松ノ木山、56椎ノ木山、57島頭、58ヲリヲ、59新林、60ササ畝、61竹ノ畝、62ヤナギサコ、63サキノコシサコ、64タキノ畝(柿ノ畝)、65(欠番)、66東畝、67白ヘビ田、68西ノ畝、69カヅ子サコ、70弘見口、71岡ヤシキ、72トイノ畝、73ツエジリ、74アラヒラ、75上ヤブ、75上ヲヤブ、76ヲヲサコ山、77アレノ谷、78新谷山、79田ノ谷、80カシノ本、81松田屋式、82仁ヤノ前、83ツルイノ谷、84丸山、85イケノ谷、86ヲ道キ山、87岩ダサコ、87岩ダノサコ、88エンゾヲ山、89源作山、90ヒノ木山、91ヨコ山、92弘見ナロ、93イバ、94大杉山、95六郎山、96野中、97梅ノクボ、98ヲソアガリ、99タキ山

※切絵図に15ヲヲ石山とあるが「大石山」の誤記載か

※切絵図に17竹ノサクとあるが「竹奥」の誤記載か

※切絵図の30道ノ口は土地台帳にない

※切絵図に50川上山とあるが「川ノ上エ」の誤記載か

※切絵図の52ヒサキ畝は土地台帳にない。

※切絵図の54道ノ畝は土地台帳で「通ノ畝(とおりのうね)」

※切絵図の64タキノ畝は土地台帳で「柿ノ畝」とある。

※切絵図の69カズラサコは土地台帳で「カヅ子サコ」とある。

※切絵図と土地台帳に77アレノ谷とあるが地検帳のホノギ「アンノ谷」では

※切絵図に86ヲ通木山とあるが「ヲ道キ山」の誤記載か

※切絵図に94大坂山とあるが「大杉山」の誤記載か

 

【ホノギ】(広瀬村)

検地は、大正北ノ川の下流シトキノ川から始まり、上宮、ハリノ木と進んで広瀬村に入る。

 ▼広瀬村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳p8-13/検地:慶長2年1月29日)

 舟戸ノ上、長タ弐斗まき田、本八代地、本廿代地、モンノ下、太田カウモ、東谷ツメテ仁井田家地川堺、大川ツメテ

(2月1日) ※四万十川右岸に渡る。

 川モ大川ヨリ北地、折尾ノ谷、ヒロミ、中畠新開、西新開、島カシラサキノクシ、ソウタ、アンノ谷松タヤシキ田谷新屋ヤシキ、ツルイノクホ、中ヤシキ、ハウキヤシキ、四十六代地、ヲウトウキ、大クホ、カウタ、ミヤノワキ

サギノクシは家地川分(四万十川右岸の弘瀬の上流)。サキノコシサコに比定か 

 

ダウンロード
大正町切図(0809弘瀬).pdf
PDFファイル 457.2 KB
ダウンロード
808弘瀬・集成図.pdf
PDFファイル 1.3 MB

【通称地名】

 

 

【山名】

重木山・重木谷山

小積山

折尾山

笹の森山

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

   

【ため池】(四万十町ため池台帳)

大久保池 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

大元神社/34おおもとじんじゃ/鎮座地:イバ ※村社

(旧:白皇神社)/34.4しらおうじんじゃ/鎮座地:ミヤクビ

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)ヤガシロ

 民俗語彙では、ヤガシラとして屋根に関係のある語とある。この地が昔の茅葺の茅採取地であれば「屋頭」であろうか。

2)イバ

①イバは水の堰。井の場か②岩の濁音化③弓を射る場所。弓場・射場。江師にイバがあり、東川角、西川角に射場がある。神社の神事に井場はあるが、一般的には「射」でなく「井」と理解した方が正しそうだ。

3)ミヤクビ

 本間雅彦氏は「牛のきた道」でビヤ(牛の古称)地名について高知県に特に多くクビ音を付したものを含め34例あると指摘。「ビヤクビ」は全国で26例、漢字のビヤクビ音を加えると122例を数えるとある(p112)。クビは、焼畑の跡をクビタといい、山中にあるクビト地名(首戸・首田・首頭)の転訛で、アイヌ語の焼畑(切替畑)の語であるクピタ。つまり、焼畑の跡牛の放牧と耕作を交互に行う「牧畑」をビヤノクビと推論(本間著「縄文の地名を探る」p63)

4)テンポウ

 テンポウは高知の方言で「てんぽーな」といえば、無鉄砲な・思い切ったの意味。「てんぽーすっぽー」といえば、思い切って・一か八かの意味。テンバ(天端)といえば上面、頂の面の意味

5)ヲソアガリ 

 「ヲソ」は、川獺(かわうそ)の「獺(うそ)」か、遅越の「遅(おそ)」か。伊与木定氏は「掻き暑めの記」にヲソアガリ附近に川獺が生息していたことによるとある。オソ(獺)の字はオソ、ウソの両方に使用される。地名では「浅し」と同じ用法で命名。

 「遅ー」は「アサ(浅)」と同義、「遅越」の地名は、短い近道とする山越えの所に命名。

 郡境である弘瀬峠への近道

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p8~ 13/検地:慶長2年1月29日~2月1日)

 検地は”ハリ木村(喜多川村の枝村、現在の上宮地区)”から”広瀬村”に入り、慶長2年1月29日、四万十川左岸の「長た(長田)」、「二斗まき田(上ミニ斗蒔・下モニ斗蒔)」から始まる。

 左岸を家地川村境の「カウモ(川茂)」まで進み、対岸へ渡り「島カシラ(島頭)」、「ソウタ(ソヲダ)」と一旦上流に入る。ここに弘瀬地区境を越えて現在の家地川地区となる「サキノクシ(鷺の串)」とあるが、昔は広瀬村分であったことだろうが、家地川村と境界争いがあったという。。

 「田谷(田ノ谷)」、「ツルイノクホ(ツルイノ谷)」、「ヲウトウキ(ヲ通木)」辺りに上田があり、中ヤシキもある。

 所有関係では、全筆が「上山分」とありそれぞれ扣地となっているが、一部、番匠弥介の給田が3筆ある。

 地検帳にみられる寺社の記録はないがホノギに「カウタ」、「ミヤノワキ」とある。現在の大元神社付近であろう。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p330)

 弘瀬村の四至は、東限仁井田家地川西限北之川南限打井川界山北限仁井田之秋丸東西四十町南北二十町戸凡十八有渡舩二艘其土黒

 山川に、重木谷山(在村東禁採伐)、小泉谷、井之谷(自南流北)

 寺社は、則心庵、大元権現とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高83.373石、戸数21戸、人口69人、男38人、女31人、馬11頭、牛0頭、猟銃2挺

 

■南路志(1813文化10年:③p627)

252弘瀬村 地八十三石六斗七升

王本三社権現 祭礼十一月廿六日

白王権現 同十一月廿五日

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 ・大サコヤマ(上p139)

 明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。弘瀬村の元標は字大さこやま(大さこやま谷口旧道の上)に設置されていた。

 ・ウワダバ(上p141)

 藩政時代の上山郷上分弘瀬村と窪川下分家地川村との境(郡境にもなる)。弘瀬村字ウワダバと家地川村字サギノコシ坂の境界について争いが起こる。ウワダバからサギノ越へに通じる旧道の畝境に双方の関係者が交渉を重ね「眼下の四万十川中央にある鵜礁(通称地名で「うばい」と読む。家地川堰堤の直下にある)という礁を中心に向の御留山重木山の直下の川茂谷口に見通す」という条件の許に解決を見た。

 ・鵜礁(上p141)

 上山郷上分大庄屋と窪川下番大庄屋とが現地に出張し、立ち会いの上村境の協定をした。基準としたのが家地川堰提の下流にある礁で通称を鵜礁(うばい)という。この境界は村境であるとともに幡多郡と高岡郡の郡境でもある。

 ・山伏轟(上p149)

 昔は道路もない、乗り物もないので窪川から田野々まで物産を運送する高瀬舟に便乗。その途中弘瀬の「山伏轟」は危険であるため川原へ上がって轟すそまで歩行するという。

 ・オソアガリ(上p163)

明治の末頃まで上山の村内には沢山棲息していた川獺(カワウソ)。弘瀬の入口に「オソアガリ」というホノギの川辺附近に棲息していた。

 ・僧田の淵・じょうぼん淵(上p263)

弘瀬村の僧田からじょうぼん淵に至る川では昔から度々変死する者があったりするので小駄場の上と本村の向うえ地蔵様を建立して見合いの地蔵と称えて村を保護して安全を祈り毎年旧盆の施餓鬼供養をつづけてきた。

 ・ヌタ窪(上p407)

 弘瀬村上薮谷の奥の登り詰めにヌタ窪という周囲三方を丸るく山に囲まれた窪地がある。小石村の小石峰の峠にもヌタ窪。下道村の向中津川に接した官林の中にもヌタ窪という所がある。四手の川村の奥杓子山の中にもヌタ窪という所がある。烏手村と秋丸村の境、六谷の峠にもヌタがある。折合村の奥源味の峠、松葉川に接した所にも太鼓堂というヌタがある。

 ・夫婦岩(下p312)

 此処は昔はカイガヤシ坂を越して打井川村に出てトリウチ場の官林を経て山中郷から中村行往還の渡場であった。此のジヨーホン淵の川向の薮の下に大きさも同じ岩が二個並んで居る。この岩は鈴の浜から一つずつ、かるうてきて、ジョーホン淵の川辺におろして並べて置いたものであった。この岩を村の人は昔から夫婦岩といって伝承されてきた。明治二十三年の水害の時に一個、かみ側のものが水中へコロガリ落ちて現在ではそれが川に半分位つかっておる。

 ・小積山(下p320)

 高七十丈根置十二丁元標の坤に在り東本村に属し仁井田川を界とし、西嶺上より分ち本郡打井川村に属す北本郡上宮村に属し南本村重木谷山に連り其十の一分は樹木生し其余は雑草を生す。登路は一条本村字ミヤクビより上る険なり高さ三丁打井川村へ通す、渓水三条其一条はクサギヤブ谷と称す深さ一尺幅三尺長凡そ二丁長田の用水に供し及仁井田川に入る。

 其一条は小積谷と称す深さ一尺五寸広一間長五丁其一分は、長田小屋前田等の用水となり仁井田川に入る。

 其一は井ノ谷と言う深さ一尺五寸広一間長四丁太田、弐斗蒔田の用水となり仁井田川に入る。

 ・重木谷山(下p321)

 高百十丈本村根置四丁元標の南方に在り、東本村に属し西打井川村と嶺を以て界し北小積山に通り南は高岡郡家地川界笹森に連る樹木鯵葱登路渓水なし。

 ・析尾山(下p321)

 高四十丈本村根置四丁元標の巽方に在り東南山嶺より分ちて高岡郡家地川村に属し西は本村仁井田川を限り北、本村に属す山□口亘りて本郡相去村重子山に連る樹木なく唯茅葦を生す。

 ・笹の森山(下p321)

 高六十丈本村根置八丁元標の東方に在り、東嶺上より分ち高岡郡野地村及秋丸村に属し西南本村に属し仁井田川を限り、登路一線本村字イバより上り高二丁二十間高岡郡秋丸村に通す嶺より上へは樹木なく茅茨を生し以下は樹木鬱葱す。

 ・龍奔渡し(りょうほんのわたし・下p321)

 家地川道に属す元標の西方七丁深一丈広五十間仁井田川の下流にあり渡し舟一艘。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p42:弘瀬、井の谷川、重木跨線橋、向弘瀬橋(沈下橋)、大久保池

 

国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

弘瀬、四万十川(渡川)、予土線、弘瀬トンネル

 

基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

弘瀬(四等三角点:標高306.13m/点名:ひろせ)字上ヤブ450-1

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

弘瀬橋(不明/弘瀬字)

向弘瀬橋(不明/弘瀬字)

船戸山橋(不明/弘瀬字)

船戸橋(不明/弘瀬字)

クサキ橋(不明/弘瀬字)

コヅミ橋(不明/弘瀬字)

ヤカシロ橋(不明/弘瀬字)

下モサコ橋(不明/弘瀬字)

イノ谷橋(不明/弘瀬字)

重木橋(不明/弘瀬字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

川茂(川茂・川茂川

ソウダ谷(オクギレ149・ソウダ谷川

椎ノ木山(椎ノ木山159・椎ノ木川

柿ノ畝(柿ノ畝186・白ヘビ川

テンホウ山(テンホウ山409-3・重木谷川

イガミ松(イガミ松397・井ノ谷川

セドヤマ(セド山373-1・コヅミ谷川

クサキ山(クサキ山368-1・クサキ谷川

上ヤブ(上ヤブ453-1・上ヤブ川

大久保(桧木山293・丸山川

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 29向弘瀬橋

 四万十川は、弘瀬集落を分断する形で流れている。向弘瀬橋は、弘瀬集落の本村と対岸を1つの集落として結ぶ沈下橋である。 

 この沈下橋が架けられるまで、弘瀬側と向弘瀬の井の谷口を結ぶ「ジョウホン渡し」と呼ばれる舟による渡し場があった。弘瀬側には夫婦岩と呼ばれる岩礁があり、増水して水位がこの岩を越えると渡しを中止したという。昭和38年、沈下橋の架橋により渡しは廃止された。

 沈下橋は、増水時に水中に潜ることを前提とし、欄干が無く橋脚が低いのが特徴である。上流には佐賀取水堰があり、普段の水量が少ないためにこの橋は特に低い。左岸側には河原へ降りるためのスロープが設けられ、夏は子供たちの川遊びの場であり、住民の営みと四万十川との繋がりを理解することのできる景観である。 右岸側の橋脚の一部は、以前、折れて修復したため、他の橋脚と形状が違っている。この橋は4t以下の車輌や人が通行でき、対岸の農地や集落内の往来に利用され、地域の生活を支えている。

架橋年度:昭和38年 / 構造:鉄筋コンクリート 橋長62.1m・幅員2.5m 橋脚9本

 

■四万十町広報誌(平成25年3月号)

ダウンロード
ぶら〜り散策0808【弘瀬】20130301.pdf
PDFファイル 714.5 KB


フォトギャラリー