20160220胡
■仁井田郷談とは
明和7年(1770)に儒者であり医師であった甲把瑞益が、戦国時代を中心にして、仁井田郷の由来、区画検地(石高調査)、仁井田五人衆七人士の居所分限郎従とその興亡を記したもので、郷土史研究の原典ともいうべき貴重な著述である。
■甲把瑞益のプロフィール
瑞益は元文3年(1738)【※1】西川角村【※2】の郷士の家に生まれ、名を長恒、号を南巣恕行斎【※3】といった。
高知城下野町少蘊に医業を学んだ後、京都の日本近代医学中興の祖といわれる吉益東洞の門下生となる。
瑞益の学問は和魂漢才、儒学、医業等あらゆる学問に通じていた。医術に特にすぐれ、かつて医術行脚のため各国をまわり、紀州では、花岡瑞軒に「日本国中に自分に優る医者が一人いる。それは土州の瑞益である」といわしめた。
瑞益は土佐に帰り、幡多郡佐賀村から妻をめとり、西川角村より東川角村に移り、幡多郡下田に移って医者をしていた。
瑞益は医者として優れていただけでなく、仁井田郷を実地踏査して戦国時代の歴史本を書いた。これが有名な『仁井田郷談』と『仁井田之社伝記』で、今日仁井田郷の郷土史研究の貴重な文献である。文中には「瑞按ずるに」と私見を述べ、不可解なところは「後日正すべし」というように、独断速断をさけて周到な記述をしている。
享和3年(1803)10月4日【※4】67歳で没した。墓は中村の百笑為松山麓に現存している。
(窪川町史p230)
※1:生年に元文2年(1737)の説もある。
※2:生誕地は西川角となっているが、神ノ西説もある。元慶が神ノ西に在郷していたことによるか。
※3:瑞益の号を町史では「南巣恕行斎」となっているが『仁井田郷談解説(辻重憲著)』は「南崇恕行軒」とある。
※4:町史では瑞益の没年を「享保三年(一八一八)」となっているが享年から推定するに享和年間ではないか。町史p230の甲把家系図には「享保三年十月没」とある。ただし、長恒の説明書きに誤記が多いことから信憑不明。
■仁井田郷談の章立て
「南路志」に編集されている『仁井田郷談』は、次の四つの章立てとなっている。
特に地名の記載が多い2,3章について、本文(赤字)と現代文及びその地名の説明を加える。
また、仁井田郷談は、1770年明和7年に書き上げたといわれることから、文中の「古」や「古代」、「近代」については、戦国時代の仁井田郷について江戸中期の明和年間に記録したことを踏まえなければならない。
仁井田郷談(窪川史談会/1973昭和48年)
南路志 巻二十六 高岡郡(六)仁井田郷談 p262
古ヘハ仁井田ノ庄といへり。庄内又六郷七郷八番といえる有。秦國主天正地検帳に仁井田庄と分明に記されぬ。されとも近代、庄と言郷と言の古名知る人なし。予今古説を按るに、所謂仁井田庄六郷七郷八番ハ、
【現代文】
過去に仁井田ノ庄と云われ、またの名を六郷七郷八番とも云われる古説があった。天正地検帳には仁井田庄と明確に記されている。ただ、今となっては庄とか郷とかいった古名を知る人はいない。この古説である仁井田六郷七郷八番について私なりに考えてみることにした。
※この「仁井田郷談」で瑞益は、高岡郡である仁井田ノ庄を幡多の仁井田といわれることについて、興津・圓蔵寺にある鏡の銘にある「土差國幡多縣仁井田与津村圓蔵寺」を引用し、幡多一條公の采地であることから幡多の仁井田という言い習わしがあったとしている。また久礼郷の佐竹氏は一条家と縁結びして、幡多一條家から仁井田庄内床鍋川筋の領地を下賜された。このようなことから諸国を廻る伊勢の御師も中世の末まで幡多郡の高岡郡境は実質上安和限りであったという。
仁井田庄新在家郷十二ヶ村
土居村(新在家村)、平野村、黒石村、奈路村、弘見村(或は張木村という)、数家村、神野々村、八千数村、飯ノ川村、道徳村、本堂村、親ケ内村。是を古代新在家番といい(西原氏東氏代々相勤む)或は近代東番(ひがしまた)という。
【現代文】
仁井田庄新在家郷十二ヶ村
土居村(今は新在家村) 平野村 黒石村 奈路村 弘見村(別名、張木村) 数家村 神野々村 八千数村 飯ノ川村 道徳村 本堂村 親ヶ内村。この十二ヶ村を過去には新在家番(西原氏・東氏の代々の領地)と云われ、今では東番(ひがしまた)という。
※天正地検帳では弘見村について、ヒロミノ村を本村とし、シモ地之村、シキ地之村、青木之村という三つの枝村を加えて区分している。この青木村が張木村に転訛したものか。
※この当時、数家、神野々はそれぞれ独立した村であったが、明治9年の合併で旧村の一字をとって数家村となった。
※現在の東又地区である「向川、藤の川」は窪川郷十三ヶ村に属し、「志和、大鶴津、小鶴津、志和峰、与津地」は志和郷七ヶ村に属していた。
※明治22年(1889)の町村合併で新設された東又村は「高岡郡 黒石村, 志和峯村, 飯ノ川村, 弘見村, 新在家村, 平野村, 道徳村, 奈路村, 数神村, 向川村, 藤ノ川村, 八千数村, 与津地村, 親ヶ内村, 本堂村, 小鶴津村, 志和村, 大鶴津村」の18ヶ村。
※東又村と命名した由来は、この地域を「東番」と記され、「ひがしばん」と呼称されたゆえか。
仁井田庄本在家郷十二カ村
西松村(秦氏地検帳以後今に至り影山村ともいう)、野口村(今本在家村という)、市生原村、北野川村、越境村(※現越行)、川野内村、勝加野村、尾野川村、柳瀬村(川原番城茶臼山古城在西氏勤む)小松村、東川角村、西川角村(古代青木番城ハイタツ城あり東氏相勤む)。是を近代後番と言又古代よりの名称なり(或は川筋と言は四万十川の上なる故なり)
【現代文】
同庄本在家郷十二ヶ村
西松村(長宗我部地検帳より現在まで影山村ともいう) 野口村(今は本在家村と言う)、市生原村、北ノ川村、越鏡村、川野内村、勝加野村、尾野川村、柳瀬村(茶臼山に西氏の川原番城跡がある)、小松村、東川角村、西川角村(ハイタツに東氏の青木番城跡)。この十二ヶ村を後番と言うが、昔からの名称でもある(四万十川の上流だからそう呼ばれるのである)
※地検帳では西川角村と東川角村の区分がない。「是ヨリ川ヲ東路ヘ渡テ付」の言葉が西川角地区の境を示し、東川角地区の最初に「城ノ下小松ノ川谷セイモト」とある。ここが「小松村」で四万十堆肥センターの谷筋となる。ここにある「城ノ下」は川原番城のことである。
※「ハイタツ」とあるが地検帳のホノギの「ハイタツ宮」、通称で呼ばれる「ハイタツ山」のことか。南路志では「ハイタツノ」とある。
※現在の松葉川地区である「米奥、作野、一斗俵、中津川」は神田郷四ヶ村に属し、「日野地、秋丸」は大野見郷に属していた。
※藩政後期(1801享和元年)の「寛政十三年改享和元年 西郷浦山分廻見日記 下横目三八」にるとして、窪川町史(p241)の表に西影山十カ村として「西影山、越行、市生原、北ノ川、川ノ内、中村、作野、中津川、勝賀野、小野川」を記している。
※明治7年(1874)の合併で、本在家村(野口村)、柳瀬村、沖野々村、小野川村(尾野川村)、西影山村(西松村)、越行村(越鏡村)、志和影山村の七ヶ村は「七里村」となった。
※明治7年の合併新設「七里村」の構成村に沖野々村とあるが、藩政後期の西郷浦山分廻見日記には沖野々村の記録がない。沖野々村の区域は、勝賀野川が四万十川に合流する付近で沖代集落周辺と思われるが、窪川町史にも詳細な記録がみあたらない。
※明治22年(1889)の町村合併で新設された松葉川村は「高岡郡 七里村, 中村, 勝賀野村, 川ノ内村, 北ノ川村, 市生原村, 一斗俵村, 中津川村, 米奥村, 作屋村, 日野地村, 秋丸村」の12ヶ村。
※南路志の写本では「越鏡村」の鏡に「カネ」、「後番」に「ウシロマタ」、「四万十川」に「ワタリ」と読みを加えている。
仁井田庄井細川郷六カ村
桧生原村(村民ヒサハラというはソサ同韻なる故なり)、寺野村(里人今テナロ村というはラノはナロと通る故なり)。川口村、秋丸村(アキマル古名にあらずアキマロと称うべし)、野地村、家地川村。是を古代より下番という近代亦しかり。
【現代文】
仁井田庄井細川郷六カ村
桧生原村(村民はヒサハラと呼ぶがソサの音が転訛したものである。)、寺野村(地元の人にテナロ村という人もいるがラノの音はナロ(奈路)に通じるものによる。)、川口村、秋丸村(アキマルは古名ではないので、アキマロと称すべきである。)、野地村、家地川村。この六カ村を昔から今日に至るまで下番(ソモバン)という。
※南路志版では「桧生原村」に「ヒソワラ」、「下番」に「シモバン」と読みをうっている。
※現在の立西地区を井細川郷としたのだろうが、天の川地区は天野川として窪川郷に、折合地区は上山郷に属されている。
仁井田庄窪川郷十三カ村
本郷村(或記本郷村に在り古名なるべし、秦氏地検帳に窪川村と記せるは窪川氏居城有るが故也、近代は東村と言い、今、本村と言う)、中の越村、藤の川村、見付村、金上野村、荒谷村(又は穴谷村とも言又西原村と言は大永の頃西原藤兵衛重助来りて暫く鵜の巣城に住みければとて西原村と言習はせり其の後荒谷村とも言西原村とも言う)、若井村、若井川村、口神ノ川村、中神ノ川村、奥神川村、峰の上村、天野(ソラノ)川村(村民今スラノ川と言は按ずるにソス同韻なる故也、弘化の頃又改めて蘇良野川村と書す)是を古代より上番と言う。
【現代文】
仁井田庄窪川郷十三カ村
本郷村(本郷村は古名で、長宗我部地検帳には窪川村とあるが窪川氏の居城地であることによるもの。少し前までは東村と云われ、現在では本村と言う)、中の越村、藤の川村、見付村、金上野村、荒谷村(又は穴谷村とも言う。又西原村と云われるのは大永年間(1521-1527)の頃西原藤兵衛重助がしばらく鵜の巣城に居城していたことによるもの。その後は荒谷村とも西原村とも言う)、若井村、若井川村、口神ノ川村、中神ノ川村、奥神川村、峰の上村、天野川(そらのかわ)村(村民はスラノ川と言っているが、それはソス同韻なる故也、弘化年間(1845-1848)の頃又改めて蘇良野川村と書す)是を古代より上番と言う。
※南路志版には天野川村の説明書きの後段「弘化の頃又改めて蘇良野川村と書す」は書かれていない。弘化年間は仁井田郷談が書かれた以降の年代であるので、何れかの写本で付け加えられたものであろう。
※仁井田郷談に「村民スラノ川と言」の記述から、天の川の地名の由来としてスラ(材木を切り出す時にできる傾斜面の滑りみち)が多くあったとしているが、地形的に見ても不自然である。
仁井田庄久礼郷十カ村
床鍋村、影野村、奥久礼地村、下久礼地村、加江坂本村、神有村、柿木山村、汢の川村、浜の川村、川井村(現平串)。是を近代大奈路筋と言(佐竹氏番して守らしむ)。
【現代文】
仁井田庄久礼郷十カ村
床鍋村、影野村、奥久礼地村、下久礼地村、加江坂本村、神有村、柿木山村、汢の川村、浜の川村、川井村(現平串)。この十カ村を今では大奈路筋と言う(佐竹氏が番頭として領地している)。
※現在の仁井田地区はこの神有村、柿木山村、汢の川村、浜の川村が合わさった地域となる。
※魚ノ川、六反地、小向は後の段に新しい村として説明がある。
仁井田庄志和郷七カ村
志和本村、大鶴津村、小鶴津村、小矢井加村、大矢井加村、(以上五カ村を古代より志和五郷という)、志和峯村、与津地村、(以上前に合して七カ村を志和の七村という)、是を古代より志和の五郷七村という(今に至りまた然り言う)。
以上を仁井田庄六郷と言う(或説にいう久礼佐竹領し給わぬ以前は五郷というよし)。
【現代文】
仁井田庄志和郷七カ村
志和本村、大鶴津村、小鶴津村、小矢井加村、大矢井加村、(この五カ村を昔から志和五郷という)、志和峯村、与津地村、(前の志和五郷とこの二村を合してた七カ村を志和の七村という)、是を昔から志和の五郷七村という(今でも当然ながら志和の五郷七村という)。
以上のように仁井田庄を六つに区分して述べたがこれらを総称して仁井田庄六郷と言う(久礼佐竹領が一条家に召し上げられる以前は仁井田五郷と云われていた)。
※志和本村を中心に大鶴津、小鶴津、志和峰、与津地と現在の中土佐町分である小矢井賀、大矢井賀を合せれ志和郷となっていた。今の交通事情では、与津地が飛地のように思えるが六川山系の北面山麓の峯越え道で隣接と言うことだろう。
仁井田庄神田郷四カ村
米野川村、作夜村(今夜を屋の字に書)、壱斗俵村、中津川村。
是を古代神田郷十五名という。又南部郷ともいう。中古より号して作野番という、或いは奥番という。
前に合して是を仁井田庄七郷と古昔より言伝う。
【現代文】
仁井田庄神田郷四カ村
米野川村、作夜村(※今では夜を屋の字に書き替えている)、壱斗俵村、中津川村。
この四か村を昔から神田郷十五名という。またの名を南部郷ともいう。その後作野番とも言われ、或いは奥番とも言われる。
前の仁井田六郷と合せて、これを仁井田庄七郷と昔から云われている。
※作夜村について今は作屋と書かれるという説明書きは、南路志や土佐國群書類従にはこの注記がないことから新しく写本の段階で書き加えられたのであろう。何時の時代から「作屋村」となったのかは不明。南路志等には奥番に「(オクバン)」と読みが加えられている。
※現在の米奥地区は、明治9年、米ノ川村の本村部分と川奥村の合併により誕生したものである。川奥村は明治4年の郡区制導入の際に第52区(51村2町)の一村として名がでてくるがそれ以前は不明。
仁井田庄蹉跎分二カ村
宮内村、仕出原村(或いは是を古代神願分、神願番ともいう。)
以上是を古代仁井田庄八郷といい、又八番ともいえるよし、各番城有り番士有り、又與津村は古代幡多郡の内にして中古不入事は古より公家方分にして御政所御領分御代官地なるが故也。
【現代文】
仁井田庄蹉跎分二カ村
宮内村、仕出原村(この二か村を昔は神願分、神願番とも言った。)
以上、この庄の全てを仁井田庄八郷と言うし、又、仁井田八番とも言われている。、各郷にはそれぞれ番城が築かれ、番頭とその家臣が居た。又、與津村は仁井田の庄以前から幡多郡に属してた。それは建久2年から一条家の荘園として御政所が設置され直轄されていたことによるものである。
※南路志、土佐國群書類従ともに神願番に「(シクハン)」と読みが加えられている。
※南路志、土佐國群書類従ともに與津村を与津村と新字体で書かれている。1970年刊行の窪川町史には「与津村は小室、島戸、杓子、荒平等四つの津(港・湊)があるので四津といい、それが与津となった。この与津の地名を物語るものとして、応永18年(1411)、円蔵寺の鐘銘に『土佐国幡多県仁井田庄与津村円蔵寺・・』」と書かれている歴史ある地名である。昭和23年、村名を変更し現在の興津の字となった。
或いは曰く、慶長八年御当代始世、一豊公御巡国の時より都て仁井田郷という
凡そ仁井田庄古城数多所々に有けるは多く古代の番城なり。今委しく記するに不遑故(いとまなきゆえ)略す。
又仁井田新地村多く有り是新に開発しける新村なり。(主なもの左の通り)
魚ノ川村(下呉地村の内承応の頃郷士の開発の地也)。六反地村(始め慶安の頃須崎の郷士武政善長俗名利衛門開発せしが其の功を成し得ずして打捨て置きしを其の後小倉家により新開せられぬ。但し此の村加江坂本村の内)、小向村(承応の頃小倉家により開発)、大奈路村(川井ノ内郷士領也)、権現原村(窪川村内上に在)、根々崎村(宮内村の内上に在)、神の西村(窪川村の内上に在)、大向村(若井村の内)、大井野村(村名笈野村という古名なり、従ってオオイノ村にあらず)、向川村、高野村、大矢井賀村(この浦は寛文七年窪川三世の牧主山内丹波勝政より新開の地也。伹し此の時まで大矢井賀浦は荊蕀生茂りぬる荒原なりけるを牧主人力を尽くして開発しけるとなり。今は人家層々と軒を並べ漁艇の繁栄恰も春陽に草むらの茂るが如く昔時牧主の始め給ひしに万倍せり。)、沖野々村。
【現代文】
別称としては、慶長八年江戸幕府が開府し、山内一豊公が土佐に移封されてより仁井田郷と言われるようになった。
仁井田庄には古城が多数みうけられるが、多くは戦国時代の豪族の山城である。。今は詳しく述べれないので省略する。
仁井田郷には新しい村が多くあるが、これは新たに開墾してできた新村である。(※1:主なもの次の通り)
魚ノ川村(下呉地村の内にあり承応の頃郷士の開発の地である)
六反地村(始め慶安の頃須崎の郷士武政善長俗名利衛門が開発していたが失敗し、その後小倉家により新たに開墾された。ただし、この村は加江坂本村の枝村である)、小向村(承応の頃、小倉家により開発)、大奈路村(川井村にあって郷士の領地である)、権現原村(窪川村に属する)、根々崎村(宮内村に属する)、神の西村(窪川村に属する)、大向村(若井村に属する)、大井野村(村名は笈野村という古名があり、従ってオオイノ村ではない)、向川村、高野村、大矢井賀村(この浦は寛文七年窪川三世の牧主山内丹波勝政による新開の地である。ただし、大矢井賀浦はいばらが生茂る荒原であったが人力を尽くして開発したものである。今は人家が幾重にも軒を並べ漁艇が繁栄しているさまは春陽に草むらの茂るが如くである。)、沖野々村(※2)
※1:南路志にはこの注記はない。
※仁井田郷の開墾された新しい村を魚の川村から沖野々村まで都合13か村を列記しているが、現在の大字(明治22年の町村。七里は明治7年当時)と突合したら、富岡(享和元年1801年の西郷浦山廻見日記には柿木山十カ村を構成している)、中村(享和元年1801年の西郷浦山廻見日記には西影山十カ村を構成している)、志和分(享和元年1801年の西郷浦山廻見日記には志和影山村として西川角七カ村を構成している)の3地区はこの仁井田郷談から記録がないことになる。
※2:沖野々村は四万十川に勝賀野川が合流する附近の左岸一帯。沖代集落がこれに比定されるのか。
未定稿