Vol.21:地名文化財(その3月) 「焼畑」

奈良・若草山焼き。薬師寺の二つの塔のシルエット/撮影:富井義夫
奈良・若草山焼き。薬師寺の二つの塔のシルエット/撮影:富井義夫

20170327初

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▼奈良・若草山焼き

 テレビでもおなじみの春の風物詩「奈良 若草山焼き」

 この行事の起源として三社寺(春日大社・興福寺・東大寺)の説によれば、若草山頂にある古墳の霊魂を鎮める杣人の祭礼といわれている。いずれにしても、春の芽生えをよくするための野焼きの遺風であろう。この行事は毎年1月第4週の土曜日という。一度は絶景に臨んでみたいものだ。

 

 四万十町でも野焼きは行われている。

 春の彼岸前、火災のサイレンが鳴り響くのは、いつも野焼きの失火と相場が決まっている。

 子どものころ、火遊びは厳しく怒られたものだが、火をつかった宗教的儀礼や、焼畑の遺風など、人は本能として火が好きなのかもしれない。

 

▼姫田忠義の「椿山ー焼畑に生きる」

 民俗文化映像研究所の姫田忠義所長が、自ら撮影した記録映画「椿山ー焼畑に生きる(1997/高知県)」を携えて大正中央公民館にやってきたのは15年位前であった。それ以降「粥川風土記(2005/岐阜県)」「シシリムカのほとりで(1996/北海道)」「奥会津の木地師(1976/福島県)」なども上映された。上映会の呼びかけ人は、いつも無手無冠酒造の山本紀子さんで、映画鑑賞の後、姫田所長を囲んでの座談会は恒例となっていた。
 「四万十川の景観は素晴らしい。ことに大向は住みたい思いだ。」と話していた。その夜は民宿「おふくろ」でアユ料理を囲んでお酒も飲んだ。「毎朝、陽の出る位置を記録しなさい。鎮守の森の植物調査をしなさい。」と江師の景観を愛でながら課題を投げかけた。ゆっくりと優しく、かつエネルギッシュな話は自然とひかれていく。姫田氏が亡くなったのは2013年7月29日、84歳であった。日本各地に残る基層文化と狩猟や焼畑、川漁などの山の生業を映像におさめた氏の作品群は150本を超える。
 この映像の「椿山」は、石鎚山系の南方、池川町を流れる土居川の上流域の急峻な渓谷の斜面にある。当時は戸数30戸ほどの小集落。この椿山の焼畑を中心とした一年の生活と集落の人々の生きざまを4年間にわたって記録した民俗映像である。日本での焼畑は終焉している。これが最後の焼畑記録映像であろうが、姫田氏はこのほかにも「西米良の焼畑(1985/宮崎県)」「奈良田の焼畑(1986/山梨県)」「茂庭の焼畑(1992/福島県)」「竹の焼畑(2001/鹿児島県)」の焼畑作品がある。
▼焼畑と縄文人
 「時間的にも空間的にも、わが国と深いかかわりを持ち続け、わが国の民俗文化の重要な基盤をなしていたのであった。(中略)これまでは総じて稲作を基盤とした民俗文化の調査研究が主流をなし、焼畑・畑作系の民俗文化の研究は希少だといえる。」と焼畑の終焉を見とどけた世代として野本寛一氏が発表したのが「焼畑民俗文化論(1984昭和59年)」である。
 野本氏はその後平成11年(1999)に「四万十川民俗誌」を書きあらわしている。「川は暮らしと生業の母である」と冒頭に述べ、上流域の梼原町では「源流部生活生業誌」として大田戸や大蔵谷、四万川の山の暮らしを記録している。
 「焼畑」は、叢林を伐採・火入れしてその灰を肥料として3年から5年、ヒエ、アワ、大豆、小豆、トウモロコシ、ソバ、タイモなどの作物を作り、地力が減退したら山に返し、20〜30年の周期でもとの場所に帰るという長いサイクルの生業である。その間、有害鳥獣から焼畑を守るための狩猟技術の発達とともに、生産性が低いゆえに漁労や木工、染色、機織り、薬草など多様なモノづくりの技術も発達していった。
 
 四万十方式作業路網として環境にやさしい作業道工法を習得・普及しているのが四万十町役場OBの田辺由喜男氏。彼の口癖は「山は畑。多くの実りを授けてくれる。作業道は山に栄養を運ぶ毛細血管」。稲は田にあしげく通う足音が育てるという言葉は、山にも言える。山に通い、木を伐り、運び、山菜を採り、薪を担い、猪を獲る。
 山で暮らす人は、まさに縄文的な暮らしである。その中心に焼畑があったのだろう。
 話は余談となるが、「弥生人」は高知城の樹木を伐採してはいけないとクレームをいう。手を加えてはいけないという。お城の松、楠、ケヤキ、桜など人工林に庭師の手を入れるのを拒むとはどういうことか。県の公園責任者は県民の反対意見が寄せられたため、方針転換して伐採を断念したという。「事前説明が十分でなかった。広く意見を聞いていくようにしたい。」とコメントしている。人工林の修景に色々な手法があるなかで、「クスノキは残った」を結論にしたのは、修景の技術論ではなく、大きな蔓に巻かれたのだろう。
 この「クスノキは残った」論議は、イメージとしての環境保護論に陥っては危ういことになる。老木を伐ることによって生まれる林冠ギャップは、次世代の若い樹木の生長を促すのである。薪炭林は伐採することで萌芽更新した生命力ある樹相に生まれ変わる。山は木を切ることによって成長し、山は人工的な手を加えないと貧相な植生となってしまう。山で暮らす人がいなくなれば山は死んでしまう。
 平成の大合併で四万十町が誕生したが、特徴的なのが郡域を越えての合併であった。高知県の郡域を越えた広域行政がこの選択を進めることになったのは確かである。ある町長が「山間農業で暮らしが成り立たなければ、台地の農業へ働きに来ればよい」といったという。ちょっとした経済効率からの発言であろうが、山から人がいなくなる政策は百年の計を誤ることになる。四万十町は縄文人と弥生人の結婚でもあった。縄文人は、森から富をいただく知恵と感謝、その果実を分配する約束を守る哲学者。弥生人は、稲作ゆえに、自らの裁量による生産と収奪を契約で成長させる経済学者であると思う。どちらがいいというわけではないが、どちらだけでもいけない。
 木を伐る人が生業としてなりたつことは、「山で暮らす技術と知恵の伝承者」を次世代につなげることを可能とし、集落としての人々の群れが他の生き物と共に生活をする世界を繋げられることである。歴史における動乱期には逃れる世界として人やモノを匿い、飢えたものを癒し、成長期には都市へ人とモノを供給する兵站基地の役割を果たした。この広い山という空間はいつも国の安全弁の役割を果たしている。一方的な都市の論理はしなやかなバランスを壊してしまう。
 自然破壊と思われがちなゴルフ場が、生物多様性を育んでいるという。水辺の流水、乾燥地、芝生、植え込み、沼地、森林など変化のある環境が多くの動植物の食物連鎖を助けているという。バランスは一片の思考や見た目だけではわからない。
▼「きび」と高知の暮らし 昔ながらのトウモロコシ  《牧野植物園/平成29年度企画展》
 かつて焼畑王国であった山国高知。焼畑でのキビ栽培は四国の山間地に集中していたという。
 キビは、日本の五穀の一つでイネ科の1年草。「黍」の漢字が当てられる、黍団子のキビである。が、高知県でキビといえば、煮キビ、焼きキビ、はったい粉と日常食のキビであった。今では、トウモロコシになり「スイートコーン」と呼ばないと子どもは見向きもしない。モチキビが一番おいしいと思うのは編集子だけだろうか。
 そんな「キビ」の企画展が、高知県立牧野植物園で開催された(2017年7月15日~10月9日)。
 この企画展の展示担当の学芸員川上さんが高知新聞に寄稿した「トウモロコシの民俗誌」を読んで、足をはこぶことになった。山間での暮らしを切り取ったような展示構成は、魅力的で子どもの頃を思い出しながらの楽しい一日。展示されたキビに「田野々キビ」があり産地・江師とあった。編集子の奥方が栽培したキビではないかと疑ったくらいで、川上学芸員さんの足と耳で丁寧にフィールドワークを行った展示だなといたく感動した。図録もきっちりと編集されそれも無料配布。
 さっそく雑穀研究会に入会し「キビをつくるぞ」と決意した次第で、展示のチカラに恐れ入りました。
 後日譚、下津井を訪ねてキビの話をしたら「下津井のキビはできがわるーなった。来年はすぼの太い大道キビを植えろうと思いゆう。」と洋子さんは大道キビを勧めた。来年の夏には四万十町内全部廻って、キビの作付けを調べるのも面白い。
 帰りには牧野博士の十五カ条の学問心得「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」を書いたノートを数冊買ったので、キビの研究成果を富太郎風に倣って記録してみよう。
 
▼「畑」か「畠」か 
 ハタケを漢字に当てると「畑」と「畠」と「甫」と「圃」がある。
 字源辞典・字統には
「畑(畠) はた・はたけ」(p694)
 国字 火と田に従う。焼畑。水田をいうのに対して、草を焼いて開墾した陸田をいう。古くは焼畑耕作がひろく行われていたので、このような字が作られたのであろう。中国で火田というのは、古くは狩猟のことであったが、のち焼畑の意にも用いる。
甫 ホ・フ・なえぎ・はたけ・はじめ」(p777)
 象形 苗木の根をかためる形。のち上部は父、下部は用の形となるが、もと苗木の根をかこむ形であった。甫は苗木で植樹のはじめをいい、その圃を甫田、苗木を輔(たす)けるためかこみをつけるので、輔・補の字は甫に従う。
圃 ホ・はたけ・その」(p778)
会意 口(い)と甫(ほ)に従う。甫は苗木の根を包んだ形。その植樹のところを圃という。菜を植うるを圃といい、果樹を植えるところを園という。
 畑も畠も国字(漢字でなく日本で作られたカンジ)で、火+田が焼畑のハタ、白+田が水をはる水田でない乾いた田で、普通にいわれるハタケ。畑が主流として使われるのは、畑が常用漢字(畠は常用漢字でない)というルールがあるため、使われる頻度の違いにあるのだろう。常用漢字を答申する文化審議会国語分科会は、本来の漢字(国字)の意味を変えてしまった犯人である。
 民俗地名語彙辞典には「ハタケ(畠)は常畑、熟畑、ハタ(畑)は焼畑。焼畑は、山を焼いて種を播き、灰を肥料として数年作付けして肥料が乏しくなると土地を休ませ、何年かしてまた焼く。常畑は、肥料を入れて連作する。この二つの中間にあるのが、アラクまたはアラキと呼ばれるもの。アラは曠野をさす語らしく、アラク切る、アラク越すなどは常畑候補地を造成している。畝を作らぬ焼畑から、畝を作ってアラクにし、ソバ、アワなどを輪作し、三年目からハタケと呼ぶ地方もある。焼畑はおそらくこういう経過を辿って常畑となる。ハタケのケは、畑に生えている植物のこと。」とある。
 
▼土地台帳の「畑地名・畠地名」
 四万十町の土地台帳にみられる「畑・畠・ハタ・ハタケ・バタ」関連の字は次のとおりである。ただし、土地台帳を調査した明治のころは、畑と畠の語彙の違いはなく、記録者の思いから漢字が当てられたようだ。地名は読みで日常的に利用される。当時、呼ばれていたホノギ地名数カ所を一つの字にまとめた経緯もあり、どの漢字(カタカナ)を当てるかは、土地調査を担当する役人の地名への好みや漢字取り扱いの癖も影響したのであろう。
 ハタの音は「畑」だけでなく、「端」、方言で「そば」「近く」の意もある。例えば「ツエハタ」が潰えた畑なのか潰えた所の近くなのかは判明できない。
 公称地名とはいえ経年による転訛も見られる。明治以降、土地台帳の複製編纂作業中の転載ミスや固定資産税の課税電算化時の入力ミスも多くみられ、「オーハタ」と呼ばれる地名も「大畑」「大畠」「王畑」「奥畑」「オウハタ」「オオバタ」「ヲヲハタ」、時にはオハタと聞き取って「小畑」と逆の意味にもなってしまう。
 
 ▽畑:77か所(窪川44か所、大正6か所、十和27か所)
 大畑、中畑、小畑、長畑、高畑、上畑、横畑、平畑、向畑、五反畑など、農地の方位、高低、形状の違いによる命名
 小太夫畑、新屋畑、弥次郎畑、太夫畑、天一畑、伊勢畑など、耕作者や耕作物を献上する由来による命名
 榎畑、三ツ畑、永泉畑など農地周辺の樹木や寺院などのランドマークを示す命名
 石畑、笹畑、古畑、奈路畑、千日畑、荒神畑、川原畑など畑の性質を示す命名
 桑木畑、桑畑、カジ畑、薩摩畑、茶園畑、キノコ畑など作物に由来する命名
 畠:25か所(窪川2か所、十和23か所)
 大畠、小畠、横畠、高畠、長畠、平畠、中畠など、農地の方位、高低、形状の違いによる命名
 太夫畠、竹ノ丞畠など、耕作者や耕作物を献上する由来による命名
 川畠、野路畠など農地周辺の樹木や寺院などのランドマークを示す命名
 奈路畠、陰地畠、クボ畠など畑の性質を示す命名
 ハタ:16か所(窪川2か所、大正5か所、十和9か所)
 下モハタなど、農地の方位、高低、形状の違いによる命名
 タクミハタなど、耕作者や耕作物を献上する由来による命名
 ホリハタ、タカヒハタなど農地周辺の樹木や寺院などのランドマークを示す命名
 タキハタ、ナロハタ、今ハタ、ツエハタ、カゲノハタ、ステハタなど畑の性質を示す命名
※「畑・畠・ハタ」地名の数からみれば、窪川48か所、大正11か所、十和59か所とである。焼畑が稲作の盛んな窪川に比較して十和が多いのは想定されるが、大正の少ないのが気になる。
▼焼畑地名の町内分布
 野本氏の「焼畑民俗文化論」で示された焼畑地名のそれぞれの四万十町での分布を字名から探ってみた。
一 焼畑呼称型
1.火・焼地名
 雑木を夏伐って夏焼く「夏ヤブ」と、秋伐って翌春焼く「秋ヤブ」または「春ヤブ」とがある。夏ヤブは除草の手が省けるので、笹や雑草の多いところをこれに当てる場合が多い。春ヤブ、秋ヤブ系に属するものでハルヤマがあるが、夏焼きに比べて、これがきわめて少ないのは、焼畑卓越地域では、主食としての稗、粟を栽培する「春焼き」が一般であり、むしろ夏焼きが特殊であった。(同書p303)
 四万十町では「夏焼」「夏ヤケ」の字名が多い。
▽火
 ヒノ谷(金上野)、ヒノ口(窪川中津川)、ヒノクボ(影野)、ヒビ原(数神)、火打岡(奈路)、火打ヶ森(道徳)、ヒノ木山(弘瀬)、ヒノ口(芳川)、ヒノ谷(下津井)、ヒノヲガトウ(野々川)、ヒナワ谷(昭和)、ヒノジ(昭和)、ヒミチ(大道)、ヒコヲ(大道)、ヒソヲ(大道)、ヒノクチ(大道)、ヒノサコ(十川)、
※「ヒ」は樋ノ谷などの樋で水利関連の地名か、日ノ地などの日で日照関連地名か
▽夏・秋・春+(焼)
 夏焼(窪川)、ヤケキ(金上野)、焼木川(見付)、夏ヤケ(南川口)、夏ヤケ(市生原)、ヤケヤノ川(七里)、焼木谷(興津)、ヤケソ(希ノ川)、ヤケソ谷(久保川)、ヤケソ(大道)、ヤケソ川(古城)
 ウチハルキ(弘見)、ハルダニ(大道)
※ハルは季節の春でなく開墾の墾(ハ)るの意もある。松尾俊郎著「日本の地名」に「秦野地方の切替畑はふつう、草ヤブを焼くのではなく、十年くらい雑木を育て、それを切り出して、その3,4年間、肥料なしで畑作したのである。どこで聞いても育てる木は主としてハンノキ(榛)である。根が深くなく根起こしが楽、実生で育つ、成長も早い、萌芽更新もなく土地の養分を吸いとられない利点がある(p61)」。ハルキ・ハリギ(針木)はハンノキかもしれない。低地や湿地など過湿地にもよく育つため護岸林となることが多い。
2.輪作地名
 焼畑は伐採・火入れから4年前後作るのが普通で、各年の呼称は多様で一定しない。
 焼畑1年目を静岡県では「アラク」「アラキ」と呼ぶ地方が多い。焼畑を起こすことをアラキ(荒起)をオコスという。新しく開墾した所の意か。
 焼畑3年目に使う場合が「クナ」。「クナ」は「来勿」で「クナドノサカヘノカミ」のクナと同様禁足を示す語と考えられる。(同書p304)
 野本氏の著作「四万十川民俗誌」に梼原町大田戸地区の焼畑輪作伝承に輪作呼称が「1年次が”アラチ(作物:キビ・ヒエ)”、2年次が”コナバタ(作物:キビ)”、3年次が”コナバタ(作物:大豆・小豆)、4年次も”コナバタ(作物:キビ)」と書かれている。また梼原町大蔵谷では「キリハタ(1年目)」「クナハタ(2年目)」
▽アラク・アラチ
 アラヒラ(弘瀬)、アラキサコ(烏手)、アラタサコ(烏手)、アラ谷(相去)、アラタ山(相去)、アライバ(下津井)、アラヒラ(下津井)、アライバ(昭和)、アライバ(戸川)、中カアラ(古城)  
※アライバは「洗い場」若しくは「新しい井(水取り口)」の意もある。
▽クナ・コナ
 小奈路(床鍋)、小奈良地(仁井田)、小成川(打井川)、クナ岩口(大井川)
※「焼畑が地力衰えて使えなくなることをクナといい、したがってクナバタとかクナサクと言えば三年目または四年目のことである」(綜合日本民俗語彙②p494)
3.循環地名
 四年前後の輪作をした焼畑地は、短い所で15年、長い所で30年の休閑期間をとる。その間、山は放置され、やがて樹林が蘇生するのである。「ソーリ」「ソリ」「ソーレ」「ゾーリ」「ゾレ」などの地名がある。
 柳田の「地名の研究(文庫p85)」に「”ソリ”は動詞にしてソラスといふのが荒らすことである。三年、五年と山を畑にして作るのがサス、それを再び樹林地戻すのがソラスであったかもしれない」と述べている。
 山にもどすことを「アラス」という地方が多い。
 ソリタ(高野)、上ソリ田(若井川)、ソリタノ内(宮内)、曽理田(仕出原)、ソリ(飯ノ川)、ソリヤシキ(烏手)、ソリ(芳川)、大ソリ(江師)、柿ノ木ソリ(大井川)、曽利(大井川)、ホソリ(戸川・地吉)、ソリ田(井﨑)
※ソリには焼畑地名のほか、ソル(反る)からきた崩壊地名もある。窪川町史(p59)に、窪川付近では微高地が河川に並行して連なる地形を「おきぞり」と呼ぶとある。 
▽アラス
 嵐山(平串)
4.伐採形状地名
 「薙ぐ(なぐ)」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したものとしては、日本武尊の伝承で名高い「草薙」がある。草薙は、いうまでもなく、日本武尊伝承成立以前に成立していた焼畑系地名である。焼畑のために草木を薙ぎ払うことであり、また、薙ぎはらわれた場所を意味する。南会津では「カノ」、信州では「カンノ」但馬では「カリュウ」。焼畑地名の一つに、草木伐採を示す地名があったことが明らかになる。山崩れをナギと呼ぶ。焼畑地名か山崩れ地名かは厳密な考証を(同書p308)。
▽ナギ
※四万十町には事例がないが、柳ノクボ、柳ノサコ、柳ノナロ、柳尾、柳谷は多くみられる。ナギがヤナギに転訛したかは不明。
▽カノ・カンノ
 官ノ屋式(魚ノ川)
5.その他
 「コバ」は九州地方の焼畑呼称である。
▽コバ・キバ・木場
 大木場(東川角)、大木場(西川角)、大コバ(米奥)、コバサコ(平野)
二 収穫表示型
1.多収量表示地名
 「クラ」は元来、神霊の座を示す語で、磐座(いわくら)、真座(まくら)、座位(くらい)などの語を形成する。山地、特に焼畑文化圏にはこれとは別に多収量地、豊作地を示すに「クラ」をもってする傾向がある。
 山中に、実際に倉を建てなくとも、倉に収めるべき穀類がたくさんとれるところに「クラ」という名をつけて呼んだ。不作の土地は地名として子孫に伝えれれた(同書p310)。
 鍋・釜・倉に伏せる、割る、欠けるという名称を加えて表示した。
▽クラ
 倉谷(窪川)、庫床(七里・西影山)、古庫(七里・柳瀬)、岩倉(床鍋)、大倉(本堂)、ヲクラトコ(下津井)、倉本(大井川)   (不作表示地名)倉掛(土居)
三 出作り関係型
1.小屋地名
 遠隔地に焼畑を営む場合、人びとは出作り小屋を作ってそこへ泊まりこみ、播種、草とり、収穫をした。集落に比較的近いところで焼畑を行う場合でも、作物に害を与える猪を追うタオイ小屋を作っていた。焼畑と小屋とは密接に結びついていた。(同書p312)
▽小屋・古屋・木屋・コヤ
 小屋ヶ谷(若井)、小屋ヶ谷(寺野)、古屋ノサコ(寺野)、小屋ノヤシキ(南川口)、コヤ(天ノ川)、小屋谷口(勝賀野)、コヤノ谷(上秋丸)、コヤノナロ(上秋丸)、古屋谷山(東北ノ川)、古屋(六反地)、古屋ヶ谷(与津地)、古屋ノ谷(大正)、コヤノ谷(上岡)、中ゴヤ(打井川)、コヤカ谷(打井川)、コヤカ谷(上宮)、コヤノ前(弘瀬)、コヤノ畝(大正北ノ川)、コヤノ谷(市ノ又)、ナカゴヤ(芳川)、コヤノ谷(小石)、小屋ノ畝山(木屋ヶ内)、木屋ヶ谷(昭和)、古屋(大井川)、ナカコヤ(十川)、コヤヶ谷(古城)、ダシコヤ(古城)、古屋ヶ谷(地吉)、コヤ(井﨑)、コヤノツ(井﨑)、中ゴヤ(井﨑)
2.収穫作業地名
 焼畑の出作り小屋の付属物の一つとして、収穫物を乾燥させる「ハサ」があり、方言ではある「ハザ」「ハンデ」などが地名として残っている。
▽ハサ
 上ハサ(大井野)、ハザコ(宮内)、ハザコ(七里・小野川)、クロハザ(一斗俵)、ハザコ(市生原)、石ハサコ(数神)、スクノハサコ(数神)、スダノハザコ(黒石)、楠ハザコ(奈路)、クリノキハザコ(弘見)、柳ノハザコ(弘見)、スダノハサコ(志和峰)、ハザコ(大正)、ハサコ(烏手)、ハサノ谷(昭和)、松ノハザ(昭和)、ハサ(戸川)、ハサ(古城)
※「ハサコ」は土佐の方言ですき間のこと。谷が迫る狭隘地のサコ(迫)と同じ意か。「石ハサコ」は石の隙間を貯蔵庫として利用したのかもしれない。ハサに接尾語のコを付したのかもしれない。餡子(餡+こ)、判子(判+こ)、根っこ(根+っこ、端っこ(端+っこ)、隅っこ(隅+っこ)の例。
※「スダノハサコ」のスダは土佐の方言でまったく収穫のないことをいう。空っぽの貯蔵庫の意味にもとれる。
四 人名型
 稲作地帯には、主として新田開拓地に開拓者の名を冠する人名型が多い。焼畑文化圏においては広大な山地のある部分に、人命を冠して所有を示す方法があった。「〇〇作り」という形は明らかに焼畑地名であり、その他も焼畑地を示す場合が多い。
▽作り
 一郎九郎作(仕出原)、春次作(仕出原)、弥十郎作(勝賀野)、弥掛作り(川ノ内)、於児作り(黒石)、孝作り(大正)、カンツクリ(十川)、牛ヶ作(戸川)、仁王作り(古城)
▽地
 頭地(根元原)、小倉地(東川角)、権現地(東川角)、白皇地(窪川中津川)、中ノ地(日野地)、ウシ地(影野)、小奈良地(仁井田)、麻斗地(与津地)、幸地(与津地)、新吾地(与津地)、飛多地(与津地)、孫四郎地(与津地)、松尾地(与津地)、備後地(奈路)、東地(道徳)、松尾地(興津)、元地(興津)、平野地(下道)、文蔵地(大道)、百人地(十川)
(人名地でないその他の地)
 五反地(神ノ西)、六反地(神ノ西)、陰ノ地(若井川)、五反地(若井川)、五反地(金上野)、影地(見付)、五反地(根々崎)、八反地(東川角)、八代地(宮内)、七反地(大井野)、両免地(大井野)、西野地(寺野)、形ア地(南川口)、影地(野地)、五代地(米奥)、宮ノ地(替坂本)、松ノ下モ地(平串)、西野地(黒石)、三代地(数神)、下モ地(奈路)、廻り地(道徳)、西野地(平野)、六代地(打井川)、十九代地(市ノ又)、奈路地(芳川)、ダバ地(下道)、下ノ地(地吉)、宮地(井﨑)
五 作物型
▽芋・豆・粟・黍・ソバ
 キビジリ(峰ノ上)、アハガサコ(中村)、ヒエノ谷(窪川中津川)、小豆谷(床鍋)、円豆端(黒石)、豆代(藤ノ川)、キビジリ(希ノ川)、豆ヶ谷(打井川)、ソバビ(昭和)、イモヂ(大道)、豆尻(地吉)、小豆谷(広瀬)
▽イラ・藤・ 
稲作の少ない山地では、藁を手に入れるのに苦労した。逆に山地の繊維材料を採取し工夫した。イラクサ・藤・葛
 イラガサコ(井﨑)
六 「焼畑民俗文化論」以外の焼畑地名
▽カノウ・カンノウ・カノ・カン
「地名の歴史学(服部英雄著)」に焼畑地名としてカノウ地名の分布を示している。
 ドウカン(窪川)、叶田(東川角)、トウカノ(寺野)、トウカノ続山(寺野)、官立(窪川中津川)、カン立山(窪川中津川)、官ノ屋式(魚ノ川)、カンジキ(下津井)、カノヲギ(大道)、カンドヲ(大道)、カンツクリ(十川)、カンダ(井﨑)
※「官立」は、神立の転訛で神社所在地かもしれない。
▽サシ・サス
サシは焼畑を意味する古語。関東にはサスという地名が非常に多い。サスは焼畑地名
 石サシ本田(数神)、石サシタ(市ノ又)、佐助谷(茅吹手)
 ※サスヶ谷が転訛して佐助谷か
▽キリ・切
 大切(東大奈路)、南ノ切(根元原)、大切(根々崎)、大切(川ノ内)、久保切(窪川中津川)、ヌケ切山(窪川中津川)、窪切(日野地)、源八切(上秋丸)、下タ切(仁井田)、上切(平串)、三反切(与津地)、耳切山(八千数)、キリノ木サコ(打井川)、太郎兵衛切り(下津井)、釣切山(戸川)、堀切山(戸川)、ヒツキリ(古城)
▽コウゲ
 「コウゲ」とは、四国の愛媛から中国地方に広く使われる語彙。多くは短い草の生えた土地で、水田はもとより畑にも開き難い所。それ故にしばしば芝の字が宛てられている(綜合日本民俗語彙②p536)。
 一般に高原の草地の水流に乏しい所。芝、高下、広原などの地名。カゲに同じ(民俗地名語彙辞典上p345)
 打井川のコウゲダバは芝草地というより焼畑地であると推理する。
 コウゲダバ(打井川)
▽クビ・ビヤクビ・宮首・クビタ   →詳しくは「ミヤクビ」
 本間雅彦著「牛のきた道」では「ビワクビ・ミヤクビ」の地名が高知県に広く分布していると指摘。ビヤは牛の古語、クビは焼畑の跡「クビタ」の転訛したもの。アイヌ語も焼畑は(切替畑)の語がクピタ。
 宮クビ(大正)、ミヤクビ(弘瀬)、宮首(浦越)、宮クビ(昭和)  ※ホノギでヒワクヒ(南川口)
(未定稿)