20170630胡
■夢の電車は 東へ西へ
地図を眺めるのは少年時代の楽しみの一つだった。
お金のない学生時代は、時間はたっぷりあるので歩く旅行となる。当時流行った「東へ西へ」「つめたい部屋の世界地図」など陽水の超空想旅行的な歌を歌いながら友人の江戸正孝とよく旅に出た。ヒッチハイクと野宿と好意のヤドカリで、中村から山陰へ向かった。安来ではヒッチハイクの上に、夕食、風呂、マッサージ、布団での快眠、朝食、弁当と大変お世話になった。今でも、安来市には敬意をはらっちるし、ヒッチハイクに出会うと極力、乗せるよう努力する。
あれから40年。今では、陽水の空想旅行のように、国土地理院地形図を開かなくても、「電子国土Web」という全国どこでも時空を超えて疑似体験できる優れモノがあるし、もっとすごいのは「グーグルアース」で奥穂高の頂上まで登山することができる。
地図での空想旅行で気になるのが東西南北など地名の頭に付した分割地名。分割地名を調べるうちに、たまたま、「越」の国までたどり着くこととなった。「越」は古代からの地名であるが、7世紀末になって越前(コシノミチノクチ)から越中(コシノミチノナカ)、越後(コシノミチノシリ)と加賀と能登に分割されたという。越後はその中でも、上越地方、中越地方、下越地方と区分されている。かつては、上方に近い方から上越後、中越後、下越後と呼ばれていたのが略した名称で地域名となったようだ。
この上越市、平成の合併で周辺13町村を編入し、全国で初めて「地域自治区制度」が導入されたところで有名である。東京から上越新幹線で行くのが一番いいかと思いきや、ここは北陸新幹線で上越新幹線ではない。上越市を通らない上越新幹線とは不思議な話だが、からくりは起点の上州上野と越後の頭文字をとった合成名称だからという。それなら「新潟新幹線」と云えばいいものをと岡目は考えるが、こうなると群馬県が許さないだろう。行政関係者などが命名者となる場合は、「公平と忖度」が基準で、前例に倣いながら結果として合成地名となってしまう。
■分割地名
広い区域を、東西南北や上中下と地名の頭に冠して区分することは便利である。
柳田国男氏は「すでに区画されているやや広い地域を、新たに二つ以上に切って呼ばなければならぬとき、数が少なければ上中下や東西南北の方向を冠し、今までの地名を保存するのが自然である」と分割地名について説明している。このように、分割地名はすでにあった地名よりも後に成立することとしている。
確かに分割地名は、ひとつの時代、かつ一定の地表空間における、配置やそれらの相互関係を示している。当時、どこを基準として方向地名(分割地名)がつけられたのか。方向地名からその時代における集落や郷の中心地や生業、往来の姿を読み取れることができるのが面白い。
長宗我部地検帳に「宮前」「宮後」などのホノギがあれば、中世の神社の鎮座地の位置を示すことになる。また、道後温泉のように「道後」は残ったが「道前」は一般的に使われなくなった地名となる場合もある。
この「前・中・後」や「上・中・下」といった、位置関係に基づいた地名はたくさんみられる。
「地名は言葉の化石」といわれるほど、地名は歴史を語ってくれる。
位置関係に基づく地名は、地表空間を理解するうえで貴重なサインとなり、特定の時代の基準地を示すことにもなる。
ただ、注意しなくてはならないのが、本来の分割地名ではなく、新たに分割地名風に区分された地名もある。特に、市町村合併という為政者による管理空間の拡大に伴い、その領域に同一の地名となることを回避するため「東・西・南・北」等の文字により区分する方法である。
■合併調整の「東西南北」
平成の合併で発足した「四万十町」。合併に伴い同一町内に同名の大字が発生することから地名を改める作業を合併協議会が行うこととなった。
調整された大字は、「中津川(窪川町・大正町)」、「北ノ川(窪川町・大正町)」、「大奈路(窪川町・大正町)」、「川口(窪川町・十和村)」の4か所。多くは旧町村名を従来の大字名称に冠して改称されたが、相互の方位関係で区分されたのもある。窪川町の東大奈路、東北ノ川、南川口がそうである。特に地名として理解に苦しむのが東北ノ川(ひがしきたのかわ)。漢字をそのまま読めば「とうほくのかわ」となる。昭和の合併では秋丸(松葉川村・窪川町)があった。松葉川の秋丸は上秋丸と改称し、窪川町の秋丸はそのまま残ることになった。
■位置関係にも続く区分用語
この集落や郷などの広域空間を分割する語彙はたくさん見ることができる。
一番見られるのが「東・西・南・北」である。
太陽の日照関係による、「日野地・日の地」や「陰地・影の地」
対立的な地形による、「岡」と「沖」、「山」と「原」 、「表」と「裏」、「大」と「小」
生活空間の区分として「浦」と「郷」、「街分」と「郷分」、「里山」と「奥山」
川の流れから「上(かみ)」と「下(しも)」と「中(なか)」
垂直方向関係で「上(うえ)」と「下(した)」
地形や身体の部位による区分として、「口」と「尻」、「頭」と「尻」
主体の主従関係で「表」と「裏」、「内」と「外」、「前」と「後」、「本・元」と「脇」
集落から山への距離「在所山」、「向山」、「横山」、「奥山」などなど。
■四万十町内の事例(▽は大字)
四万十町の大字から事例を探ってみた。
▽琴平町・南琴平町・北琴平町
琴平神社を基準として街並みが形成され、住居表示として琴平町と北琴平町に分割された。南琴平町は行政区の名称。この琴平神社の祭神は大国主命、大海津見神となっている。神社明細帳に登録されている四万十町の琴平神社は、合祀された分を含めると19地区に鎮座していた。下津井地区には二つの琴平神社があるが神社明細帳に記録はない。
▽本町・上本町
江戸時代の「窪川土居図」の町筋名を見れば「竪町百三十八間」とあり道筋中央に「夷堂」がある。古来の「えびす」は、海の外からの漂着物への信仰(漁業神)、それ故「夷」の字を当てたのか。中世になり商売繁盛の神となり、私たちがイメージするふくよかなえびす顔(恵比須)である。恵比須は商家の神様であるのでこの町筋が昔の商店街となったのか。今でも「本町」の地名として窪川市街地の基点となるの商業地を形成している。現在の恵美須神社は、プラザ高南の東側にある。
▽口神ノ川・中神ノ川・奥神ノ川
「神の川」は、五社の西に位置し、往来の人々はここで身を清めたことから名付けられたというのが地名由来の一説であるが、編集子が思うに、流域全体を地元の人は「郷(ごう)」と呼び、それを口・中・奥に分割されることになったのではないか。他地域の者がその川の名称を「郷の川」と呼ぶようになりいつしか「神の川」の漢字を当てるようになった。河川名称は、地元の人にとっては大川や本川、後川というように固有名詞として区分する必要のない名称である。渕や瀬、ラウンドマーク的な岩など川漁の必要性から命名される特定地名とは別である。固有な地名として必要なのはむしろ地元の人以外の者であり、特定する必要から命名されるのが通常である。
▽東川角・西川角
長宗我部地検帳に「川津野之村」とある中世以前からの地名である。地検帳には「西路ヘ渡テ付」、「東路ヘ渡テ付」とあり、一つの村であったようだ。16世紀に編集された地誌土佐州郡志に「西川角村」と書かれるのが初出である。中世の集落形成から見れば上・下のように思えるが、東・西となったのはどうゆう意味なのか。表日本と裏日本、表社会と裏社会、上流階級と下層民、左大臣と右大臣(天皇の座る位置から。左京区は京都御所の東側)、東土俵と西土俵(番付最上位のは東)など、分割の語彙には時代に応じた格付けがあるように見える。分割地名を調査すると面白い発見があるのでは。
▽下呉地・奥呉地
久礼城主佐竹氏の支配関係を示す意味から久礼分・久礼地と呼ばれたものであろうと郷土史家の辻重憲氏は説明するが、佐竹氏の支配地を示すとするなら農地の広がる仁井田川本流域を、前久礼地(床鍋)、後久礼地(下呉地)としそうである。下の対義語は上・登・乗であるが、奥となったのはどうしてか。
下呉地のホノギ「久礼地」を基準にして下流域を下呉地、上流域を奥呉地と見立てていることから、地名の語源は支配関係による久礼ではなく、地形地名としてのクレではないかと考える。
クレは、「暗い」の転。北西~北向の地。日ヶ暮、日ヶ隠、呉地など西日本に多い。下呉地は、南に山稜が続き、まさに北西に向けた地形である。この暗いが転訛したクレではあるまいか。
▽志和浦・志和郷・志和峰、興津浦分・興津郷分
宅急便がなければ生きていけないような時代になった。縄文時代においても姫島の黒曜石や香川のサヌカイトが西日本の広範囲に流通したように、太古よりヒトは日本の足での移動をいとわなかった。この物流を飛躍的に増大させたのが造船技術・操船技術であったことだろう。そういった意味で志和は窪川台地の物流拠点であり大いに繁栄したことだろう。
興津もしかりである。中村一条家が政所を置き仁井田庄を幡多の一角としたのも、海の道による物流支配が確立されていたことと思われる。
▽大鶴津・小鶴津
大と小の格付けによる分割地名はみられるが、接頭語として付される場合は、断然「大」が多い。
小芦川(仕出原)、小越(若井川・米奥・与津地・飯ノ川・志和峰・大道・古城)、小キレ(日野地・土居)、小浦(大鶴津)、小井出ノ谷(大正)、小貝(十川)、小才能(志和峰)、小島戸(興津)、小島(床鍋)、コジヲ(下津井・大道・地吉)、小奈路(床鍋)、小畑(奈路・与津地・志和・打井川・戸川、小向(寺野・六反地・仁井田)、小森(親ヶ内・打井川・大正北ノ川・烏手・相去)
▽上岡・下岡
「岡」は、地形用語としては陸の意味ではあるが、地面が高くて水のあたりが悪い所をいう地方もある。また、「岡場所」が非公認の遊郭をいうように、岡目八目(第三者の対戦者)・岡っ引き(同心の個人関係。非公式な捜査機関)と同じく「岡」は、「脇」「外」を表す言葉である。
▽その他対となる字名・行政区
西影山・中影山、上小野川・下小野川、上作屋・下作屋、上栗ノ木・下栗ノ木、口打井川・中打井川・奥打井川、大道・奥大道
■二つの「北ノ川」
四万十町には、松葉川地域の北ノ川(現在の大字・東北ノ川)と、大正東部地域の北ノ川(現在の大字・大正北ノ川)がある。
東北ノ川は、長宗我部地検帳には「北川村」、州郡志には「北之川村」、南路志には「北加野村」「北川野村」「北野川村」とある。共通の語彙は、「北」の「川」である。方向地名としての北は、どこを基準とするのか。北ノ川の近くに西ノ川(作屋地区の行政区の一つ)がある。その二方から読みとけば本在家郷を基準としたのだろうか。
大正北ノ川は、長宗我部地検帳には「喜多川村」「北川」と書かれてある。それでは方向地名としての北はどこを基準とするのか不明である。
土佐の方言で、崖の上の平地をキタという。いわゆる河岸段丘を示すケタの転訛で、毛田、桁などと書かれ高知県山間部に多い。後背の山から地滑った土が、麓に堆積してケタをつくるという(民俗地名語彙辞典)。
どうも、北ノ川のキタは、方向地名ではなくて、山村の地形地名である段丘を示す「ケタ」からきたのではなかろうか。
■「東」地名の字
東町(窪川)、シケクシノ東・チカヤブ東(窪川)、東タ(西原)、東柿ノ木谷・東坂ヲリツキ・東谷(高野)、東田・東谷(若井川)、東大奈路、東川角、東才能・東高岡・東野(東川角)、東森目(西川角)、東轟山(宮内)、東ノ本(仕出原)、東小川平(中神ノ川)、橋ノ詰東(檜生原)、東路山(秋丸)、池ノ東(家地川)、東平・古城ノ東(七里・西影山)、東谷・東屋式(七里・本在家)、谷ノ東(中村)、東惣ヶ谷(川ノ内)、中津川東新山(窪川中津川)、上ハ井セキノ東・大本谷東路・柿谷ノ東路・新道谷東路・セキチ谷東路・堂谷東畝・東川・森ノ東(日野地)、東北ノ川、梶田東(市生原)、東稲口・東家舗・東山(床鍋)、東谷山之内(影野)、東外宮(下呉地)、東野(仁井田)、東城(黒石)、東才能(本堂)、東屋敷(与津地)、東谷(数神)、東谷(奈路)、東地(道徳)、東谷口・東谷山(土居)、東山(志和峰)、東屋敷(興津)、東ダバ(大正)、東地山・東谷・東中ヤシキ・東路山(瀬里)、東畝・東谷・東ダバ(希ノ川)、東オチガ谷・東カトケ谷・東ナラシキ・東横野・東ヲチガ谷(上岡)、東イノマタ山・東谷・東日ノ谷・東屋敷(打井川)、東畝・東谷・東山(弘瀬)、東畝・東ホヲロク(大正北ノ川)、東谷口・東又川(烏手)、東畑谷山・東畝山・東黒岩・東新田・東ドンド・東マキ谷(相去)、東クボ(江師)、東畑・東峯(西ノ川)、東ノ畝(大正大奈路)、東ノ前・東峯山(大正中津川)、東大畑山(木屋ヶ内)、東谷(里川)、柳ノサコ東谷(昭和)、石フシノ東・東谷・東串・東野々串・東又口・東又山(大井川)、東上川津(小野)、東又・東横臼(十川)、東カツロ(戸川)、東上ノ平・東ナラ谷・東ワサジ(古城)、東裏・東久保山・東五味・東ノ窪(地吉)