Vol.09 城館跡の地名

■山城のニオイ

 

 「中世の城跡のにおいがプンプンする」と見定めた山を駆けずり廻るのは窪川の北琴平町在住の城郭探検家・中川豊氏。多くの城郭のつくりの形状を踏査する経験知から臭覚・視覚を研ぎ澄ませたことだろう。これまでの文献資料にはなかった新発見の城郭を自ら探しあて往時の景色を思い浮かべるのが楽しみという氏の目は少年のように輝いている。

 

  「窪川の歴史を探る会」では、新たな山城を発見したということでホワイトボードに概況を説明してくれた。地主に公表の承諾を得ていないということでマル秘扱いでの発表会となった。

 中川氏の山城探索の野帳を見せていただいたが、膨大な山城の記録であった。野帳には、右の写真のように踏査の日、場所、防御施設等の名称と簡便な要図、目視距離、その他のメモとなっている。そのフィールドは四万十町だけでなく四国一円である。

 氏の未発表の山城はたくさんあり、その全容の発表されることを強く期待したい。

 山城探検の注意点を「山城は防御施設。急峻で道なき道を辿らなければならないことは当然。マダニ、マムシ等の危険もあり、それなりの服装が大事」と述べていた。通年山城踏査していた彼も3年前のマダニ禍の教訓から活動時期を11月中旬から2月末までとしたとのことである。 

 

■中世城郭の基礎知識

 城といえば白の姫路城、黒の熊本城、緑の松江城、桜の弘前城。重層な天守や櫓、曲線美のある高い石垣、みなさんがイメージするのはthe「日本の城」。近くは高知城、中村支藩の為松城、宇和島城の近世の城である。

 ここでお話するのは中世、全国どこにでも存在する膨大な城館がつくられた群雄割拠する中世の土豪の城で、城といっても地上の建物はなく土塁が積み上げるだけの、またそれすらもたない簡素なしつらえである。今では山に埋れた遺構とも言えない形状をかすかに残している。

 

 ここでは、中世・戦国期の四万十町内の城館について、次の三点についてまとめた。

「山城」のつくりと名称説明

文献史料・出典書籍・調査報告書による「山城」の四万十町内分布

③「山城」の関連地名一覧

①曲輪(くるわ)

 

 曲輪は、城館の防御された削平地周りに堀が巡らされいたり曲輪の端に土塁があるなら、平らな場所はさらに曲輪であった確率は高くなる。
 「くるわ」を表記する漢字には郭は「カク」とも読み、もともと都市を囲む城壁など、侵入しにくくした外縁の防御施設をさす。
 これに対し曲輪はそうした防御施設に守られた内部を多くさす。
 近世の城郭では、本丸・二の丸・西の丸など、丸で呼ばれることが多いが、中世では、・・丸と呼ぶことは少なかった。
 城の中心として機能した曲輪は、他と区別して「主郭」と呼ぶ。

 

②切岸(きりぎし)

 

曲輪の周りの斜面を人工的に急にして、登りにくくすることを切岸と呼ぶ。

 切岸は必ずしも曲輪とセットでなく、攻められそうなところに単独に使われることもある。

 切岸と自然崩壊と区別がつきにくいので、注意が必要

③堀切(ほりきり)/薬研堀・箱堀・水堀・空堀

 

 堀切は山城では一番の基本の堀。

 尾根の鞍部をまさに掘り切るのが「堀切」

 堀の断面がv字形をしているものを「薬研堀(やけんぼり)」

 U字形をしているものを「箱堀」という。

 また、水のあるものを「水堀」、水がないものを「空堀」と呼ぶ。山城では当然空堀が主流となる。

 

④竪堀(たてほり)

 

 堀切を両側の斜面に伸ばした進化系が「竪堀」

 尾根伝いの侵入を防ぐだけでなく、斜面を回り込んで攻め込む敵を防御する手法で、15世紀以降に広く普及した。

 16世紀になると斜面の自由な横移動を防御するため、単独にしつらえ、斜面を放射線状に配したり、「畝状空堀群」といった竪堀を密集・面的に配する技法へと進化した。

 

⑤横堀(よこほり)

 

 横堀は曲輪の外縁に沿ってめぐらされた堀。

 中世の山城は、要害堅固な地形を選んで築かれることから、曲輪の周りを堀で囲む「横堀」は戦国期に手が加えられた城と判定される。

 

⑥虎口(こぐち)

 

 城館の防御された出入口を「虎口(こぐち)」という。

 いわば門のあるところで、小さい口の「小口」が威勢のいいように「虎口」に書き替えられた。

 守りに固く、攻め出しやすい「虎口」は城を構成する重要なポイントで、戦国期には豪族ごとに工夫が加えられ発達していった。

 

⑨横矢(よこや)

 

 城壁に迫った敵兵を側面から攻撃できるように、曲輪の塁線を部分的に変形させたつくりが「横矢」

 この横矢があれば戦国期以降の城館跡となる。

 

⑩木橋・土橋

 

 堀切を越えるには、堀底に降りて通る方法か橋を架けて渡る方法となる。堀切は外敵からの攻撃を防御することにに目的があり、橋はその防御を弱めることになるが、日常の一定の交通路は確保したい。 

 そのために緊急時には破壊することが可能な木橋が作られるが、腐食による長寿命化には弱点があり、土橋が多く作られた。

 

⑪石垣(いしがき)/野面積・切石積・算木積

 

 城郭でイメージするのは苔むす石垣。

 ただ、中世の城郭では高く積み上げられた大規模な石垣はまれである。

 石垣は鉄砲の普及によって激変した。雨天でも鉄砲が使用できるよう城壁に沿って天端際に建物を配した。そのためには堅固な石垣が求められる、技術的に進化することになった。

 この石積みのしつらえが、野面積みか、切石積みか、角の部分が算木積みとなっているか、内部構造に栗石が使われているかなどにより、築城の年代を判定することができる。

 

 

■四万十町の城郭

 「土佐国古城略史」宮地森城著/1896明治29年

 

・十和地区

 

資料1:「中世古城址調査図」十和村教育委員会/1982昭和57年

 

四手城址 【位置:昭和地区・三島神社(シロトコ山)の北側  城主:中平隠岐守重熊】 

▲十進座標:33.223566,132.894863(180m)

 本丸、二ノ丸、三ノ段他数多の小段丘、尾根の切堀、竪堀九か所等。 

 南路志「上山郷、大井川、野々川、四手其外中平隠岐守重熊開て直に知行せり。四手村には、中平古城土居有」

 

黒川城ノ森 【位置:里川地区の東端にある椀を伏せた形状の山中 城主:不明】 

▲十進座標:33.187164,132.952724(260m)

 城ノ森(小字名)の頂上は三角形をしたなだらかな平坦地で、人工的なものは何もみられない。砦の後方で尾根は約25mの落差を有する切れ込みをつくり、自然の大横堀切りとなっている。

 この砦の西南、直線にして約500mのところに「古土居」と呼ぶ字名がある。

 里川盆地の西側はイトビョウ山系。地層は軟弱で幾度かの大崩壊により集落の西半分は埋没したという伝説がある。

 城ノ森の裏をとおり更に環状の尾根を越えて、上山郷の中心地田野々へ通じる旧道「田野々越え」がある。 

 

南四手城址 【位置:昭和地区、湾曲した四手崎の背後の山頂】 

▲十進座標:33.214707,132.902148(222m)

 東西に巡らす四万十川を自然の堀として、東の三島越えの街道ににらみをきかす要衝四手城の出城、又はそれ以前の砦であろう。標高222mの優美な山容の東斜面に縦堀が一箇所見られる。

 この城の対岸の大井川東城の砦とが矢合せを行い、本城から射かけた矢が無数に落ちたところが落矢となり「オチダ(落田)」になったと云われている。 

 

大井川城址 【位置:大井川の平地の中央 城主:一条氏の国侍の拠城】  

▲十進座標:33.218118,132.887836(140m) 

 通称中島と呼ばれる南北に長い山の北端段丘三、土塁一、横堀切二、縦堀一

 砦の東西及び北側は険しく、特に東側は垂直に近い断崖となり、天然の堀をなす谷川が切り立った山裾を洗っている。南はゆるい山稜が続き土居に至る。

 

大井川東城址 【位置:大井川城址の東、約800m 城主:一条氏か伊予勢か不明】 

▲十進座標:33.214743,132.892824(220m)

 大井川城址より古い時代の城跡。砦の西、南北とも峻険で、西斜面の尾根に二つの横堀がる。 

 本丸、後備えと続き、後方に横堀切一つを構える。白滑、黒滑の岩峰は落田の屏風のようである。

 

宮添城址 【位置:大井川地区の西をとりまく山稜の北端 城主:不明】 

▲十進座標:33.219267,132.882063(260m)

 本丸の南側に縦堀が一つ。本丸を北へ約83mのところに三日月型の平坦地をした出城がある。その北側は急勾配で四万十川となる。

 南へのびる尾根1000m程のところで別れ、右は小野城の森へ、左は堂が森山系へと続く。 

 

富賀城址 【位置:昭和と久保川の間にそそり立つ山頂 城主:不明】 

▲十進座標:33.230701,132.890668(486m)

 天拝山富賀城と刻まれた地蔵と三等三角点の標柱がある。

 城址というより狼煙場跡か見張場跡と呼ぶ方が正確か。

 山頂からは、大井川の三城址と大井川平野全域を南西の眼下におさめ、西に小野、久保川、大野、川口の村々と各城址を一望し、北は大道の絹笠山系、南に南四手城址、戸口、野々川の山々、そして遥かに堂が森連山を望むことができる。この立地が柴を焚けばすべての城郭に知らすことができる。 

 

久保川城址 【位置:久保川字日の地、南北にのびた小山脈にある 城主:不明】 

▲十進座標:33.234712,132.877997(140m)

 本丸は10m四方の形状で東西は急斜面、北に大きな切堀、南は二ノ丸、前備か(現在では墓地)

 尾根の先端は急勾配となり久保川谷に至り、谷を隔てた陰地の「カクレザコ」と対峙する。 

 

小野城址 【位置:小野地区の扇状平地の中心に位置 城主:不明】 

▲十進座標:33.229705,132.865348(180m)

 東西に二筋の深い谷を刻み自然の外堀となす。

 南北に段丘と土塁一をつくり、北端の西側に脇ノ段をみる。

 堀は本丸の後方に横堀切三と、脇ノ段の前方にヘ型の尾根の掘割がみられる。

 この城から小野城の森城まで約30分の道のりでたえず連絡を取っていた。

 その中間の畝先に「キノク山」という東向きの地蔵山がある。

 本丸跡は現在、金比羅様という社となってる。 

 

小野城ノ森 【位置:小野地区から穿入蛇行する四万十川のくびれの部分 城主:不明】 

▲十進座標:33.220721,132.858889(423m)

 砦は、東南から西北にかけて160m余あり、二つの峰とそのなかの窪みに築かれた土塁を有する小規模な砦とから成っている。

 東側の峰から北へ尾根を少し下ると「物干駄場」と呼ばれる狭小な窪地がある。

 西側の峰には中央に地蔵がある。 

 

コノ城址 【位置:白井川合流点と戸川ノ川合流点の中間 城主:不明】

▲十進座標:33.235672,132.844985(180m)

 長沢川が蛇行する内側となる山の頂

 硬質な土壌の尾根を利用していたこの城跡は、完全に近い形で残されている。

 本丸以下七カ所の段丘が半円形に築かれ、守りやすく攻め難い竪城型である。

 三本の縦堀、横堀切が二ヶ所、高さ8mの城壁がありその上部には土塁も設えその内側が本丸となる。本丸には二ヶ所の石グロがある。

 本丸からは、二ノ丸、三ノ段等の段丘が崖まで続き、三ノ段と四ノ段の間には横堀一ヶ所、土塁一ヶ所がある。

 南は大野、川口、白井川、戸川の村々をひかえ、長沢川を上り伊予へ通ずる要衝である。

城址の近くに「シロゴエ」と呼ばれる場所がある。 

 

兵部ヶ城址 【位置:長沢川の右岸の東西に長い尾根筋 城主:不明】 

▲十進座標:33.239693,132.822132(512m)

 下山郷との境となる頂は標高512m(三等三角点)東西20m、南北10mの楕円形の平坦地。

 頂には三等三角点の標柱と雨地蔵があり、その横には高森神社、海津見神社の祠がある。人工物はなく見張りを兼ねた砦か。

 この砦の北東麓の古城下組字ヒナタゼに、吉良兵部守の墓がある。古城、地吉の領主ではないかと思われる。 

 

コジロと上コジロ 【位置:古城と地吉の地区境の古城側 城主:不明】 

▲十進座標:33.250290,132.821859(151m)

古城・コジロ谷を挟んで西側をコジロ、東側を上ミコジロという字がある。

砦としての人工物は何一つない。字名等の地名のみが城址をうかがわせるのみである。  

 

  

 ・窪川地区

資料1:窪川土居城跡「土佐史談172号」前田和男著/1986昭和61年 

資料2:茂串(窪川)城跡「土佐史談174号」大原純一著/1987昭和62年

資料3:「窪川町史」窪川町史編集委員会編/2005平成17年

資料4:「仁井田五人衆」佐々木馬吉著/1984昭和59年

資料5:「土佐国紀事略編年」中山厳水著/1848刊本臨川書店/1974昭和49年

元親進て仁井田郷に至る。西陰山城主仁井和泉守藤原宗勝・本在家城主福良丹後守藤原宗澄・窪川城主山内備後守宣澄、新在家城主西原紀伊守藤原貞清、志和城主難波権介藤原宗茂等亦不戦して降る。

 

 ①窪川土居城跡(古渓山城跡) 【位置:窪川・新開町の出雲神社の裏山 城主:林勝吉】 

 ▲十進座標:33.210219,133.127695(273m)  引用:資料1「土佐史談172号」前田和男氏 

 古渓山は低いにもかかわらず急峻であり、西に四万十川、南に吉見川が流れ、北にも小さな谷が流れていて自然の要害をなしている。

 城跡はいま山林・草地となっており、一部破壊・崩壊してはいるものの比較的その原形をとどめている。

 城は標高273m、比高70mたらずの古渓山上に詰ノ段(東西15.9m、南北28m)があり周囲に石垣が残存。二ノ段、土塁、三ノ段、堀切、竪堀がある。

 安芸市の五藤家に伝わる寛文年間(1661~72)のものと推定される窪川絵図には林(窪川山内)氏の土居と城跡が描かれている。 

 城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城

 『窪川町史(p137)』には「城郭は広大堅固で、さすがに5000石城主の権勢を誇示しているようだ。この城は慶長8年(1603)、窪川城主山内伊賀守一吉が、藩主山内一豊公の命により築いたもので、藩政時代の仁井田郷における唯一の城であった。・・・集会所裏の険阻な山道を右に左に登ること約20分にして城台に至る」とある。

 

茂串(窪川・久保川)城跡 【位置:窪川市街地の南、茂串山上 城主:仁井田五人衆の一人、窪川氏】

 ▲十進座標:33.204222,133.134314(372m)  引用:資料1「土佐史談174号」大原純一氏

 城跡は、山頂部に詰ノ段を構え、詰の東南と西南に二ノ段、北東・北西の両尾根上には堀切等を挟んで郭を構えている。そして、詰と二ノ段の下方に竪堀を放射線状に配した典型的な中世山城の遺構。 

 西ノ郭の段の下方に四国電力の反射板がある。

天日城(天一城)跡 【位置:呼坂トンネル東方の天日山 城主:福良助兵衛】

 ▲十進座標:33.217597,133.145338(429m)  引用:資料1「窪川町史」p135

 城址は山林となって樹木の茂るに任せているが、詰(東西24m、南北16m)、二の段、三の段の郭地を有し、土塁、堀切、竪堀、礎石も残り、中世の城館跡の名残りをとどめている。眼下には窪川街分、見付、大井野、東川角が開けて見える。

 伝承によると、戦国時代、窪川城主七郎兵衛宣秋が、朝鮮の役に出征し、現地で戦死したので、長宗我部元親は、志和城主志和宗茂と本在家城主東宗隆の両名に窪川城の守護を命じた。ところが、東宗隆の伯父福良助兵衛が天日城を築いてこれに反抗したため、元親大いに怒り直ちに助兵衛を殺したという(「窪川町史」p135)

 

西原城跡 【位置:西原字荒谷山山頂 城主:西原清延】

 ▲十進座標:33.190073,133.120168(424m)  引用:資料1「窪川町史」p136

 城址は、西原小字荒谷山(424m)の山頂にある。

 山麓の共同墓地を登り口として谷沿いの山道を進み、道の途絶した所から急斜面の山肌を這いながら登ること30分にして城址に至る。

 現在、雑木に覆われてはいるが、詰(東西18m、南北27m)、二の段、三の段、土塁、礎石、切岸、堀切(空濠)が残り、城域は広大で権勢の程を知ることができる。

 城主は、仁井田五人衆の一人で西原紀伊守貞清の父清延が、文明年中(1480)に紀州日高庄から来住し、城を築いてこの地方を領守した。西原紀伊守貞清の代になって新在家(東又土居)の中江山に城を構えて移った。以後一族の西原摂津守が在城したが、窪川城主に併合されて城は絶えた。

 

鵜ノ巣城跡 【位置:大井野と口神ノ川の境  城主:西原藤兵衛重助

 ▲十進座標:33.198190,133.118345(206m)  引用:資料1「窪川町史」p136

城址は大井野と口神ノ川との境付近、国道381号線沿いの丘陵地にあった。城の東方直下は四万十川が流れ、鵜ノ巣と称する深渕に臨み、20mの断崖絶壁の地である。城址は、先年農地の基盤整備により掘削されて惜しくも消滅した。

この城は大永のころ(1525)西原藤兵衛重助が城主となり田禄144石を領した。後に窪川城に併合され、文禄2年、窪川氏の断絶で城は絶えた。

ちなみに、絶世の美人と謳われた西原藤兵衛重助の妻お万御寮が、蛇神に魅せられて、鵜の巣渕に入水したという哀話が伝

わっている(「窪川町史」p136)。

 

宮内城跡 【位置: 城主:】

 ▲十進座標:33.229857,133.125297(291m)  引用:資料1「窪川町史」p136

城址は、宮内字城山の山頂にある。払川部落の登り口から草を分け、茨を排し、尾根を東に進みようやくにして城址に至る。

現在、植林地となっているが、詰(東西15m、南

北8m)、二の段、三の段の郭地と比高(高低差)2mの切岸、土塁、堀切等の跡がある。樹間からは払川、宮内、根々崎の耕地と人家が一望できる。

城主や城の由来は定かではないが、仁井田庄蹉跎分宮内村、仕出原村二か村の守護に当たったものと思われる。太平洋戦争中は、ここに対空監視所が設けられていた。

 

ハイタツ城(青木番城)跡 【位置:西川角  城主:本在家城主東丹後守

 ▲十進座標:33.240150,133.127598(268m)  引用:資料1「窪川町史」p136

 城址は、西川角の通称ハイタツ山にある。城の麓を流れる小久保川を挟んで窪川町立丸山小学校がある。

 現在、城址は山林で、桧の植林地となっている。城台は東西15m、南北28mの舌状単郭で、周囲を比高3mの切岸と堀切で防御し、急斜の地形を巧みに利用している。城台からは、西川角、東川角、宮内、小久保川、柳瀬の全域を望むことができる。

城は、本在家城主東丹後守が一条氏の番頭職を命じられ、家臣の青木弥三衛門に監守させた。

 

東川角城跡 【位置:東川角  城主:大木玄蕃

 ▲十進座標:33.233546,133.133263(213m)  引用:資料1「窪川町史」p137

 東川角部落の南東方向、四万十川本流に仁井田川(東又川)が合流した地点、通称「カマガ淵」の左岸段丘に所在した。

 現在城址は長年月の間に平地化して跡形なく、今は、「城ノ森」のホノギ(字名)がその名残りを留めている。

 古記録によると、この城は、中世、土佐一条氏の治世に築いたもので、大木玄蕃がこれを監守したとある。

 

⑨金上野城跡 【位置:金上野字古城  城主:

 ▲十進座標:(m)  引用:資料1「窪川町史」p137

 城址は、金上野小字古城の山頂にある。国道56号線脇の深谷の山道を経て尾根伝いに登る。山頂に平地はあるが、詰、切岸、堀切等は確認できない。恐らく長年月の間に風化され崩壊したものと思われる。

 古老の話によると、ある時の戦いにおいて、城主が午睡中、不覚にも敵襲に遭い敗北したので、一名「眠りが城」の名があるという。

 

家地川城跡 【位置:河内神社の境内地の伝承  城主:不詳

 ▲十進座標:33.163161,133.073600(192m)  引用:資料1「窪川町史」p137

 伝承では、家地川の鎮守河内神社の境内が城址ではないかといわれている。

 城主その他由来は不詳であるが、古老の話によると、この地の開祖影井氏ではないかと思われる。城域は広く、詰、二の段、三の段で構成し、四周を急斜面で守り、城址の麓を流れる小川が水濠となって要害の役を果たしている。なお、近くの山裾に古墳墓、槍塚、鏡塚、石櫃があるという。

 

⑪米ノ川城跡 【位置:  城主:南部周防守高忠

 ▲十進座標:(m)  引用:資料1「窪川町史」p137

 城址は米ノ川小字城鼻山に大正末期まで残されていたが、昭和の初期米奥小学校第二運動場造成のため掘削されて消滅した。今は植林地となっている。

 この城は南北朝時代の建徳元年(1370)、奥州二戸の浪人南部周防守高忠が、諸国遍歴の後この地に来住し、田地を開拓して稲作を始め城を築いたことに始まる。子陸奥守宗忠、孫甫木本與四郎忠重が継承し、神田郷(米ノ川、一斗俵、中津川、作屋の四か村)502石の領主として200年の長い間この地を守護した。

 なお、南部周防守高忠は仁井田五人衆七人士の一人であった。

 

市生原城跡 【位置:  城主:

 ▲十進座標:33.278072,133.118087(384m)  引用:資料1「窪川町史」p138

 城址は、市生原小字城が森の山頂にある。田井鶏舎裏の山道を谷沿いに進み、右に折れて城山の尾根伝いに約30分にして城址に至る。

 現在は雑木林となっているが、山頂を削平して造成した詰(東西15m、南北10m)、二の段、三の段、土塁、切岸、堀切の跡が残されている。城台からの眺望は良好で、蛇行する四万十川、市生原、米ノ川、作屋の各平野が開けて見える。城主や築城の由来等は不詳であるが、仁井田庄の北辺監守の役を果たしていたものと思われる。

 

影山城(蔭山城・滝山城)跡 【位置:七里字古城山  城主:西和泉守宗勝

 ▲十進座標:33.259109,133.125683(290m)  引用:資料1「窪川町史」p138

 城址は、影山小字古城山の山頂にある。八坂神社の右山道を登り口として容易に城址に達する。

 現在は植林地で眺望は利かないが、城域は広く、詰(本丸)は東西17m、南北15mに及び、南北に二の段、三の段の郭地が造成されていた。また、切岸(比高3m)、堀切、それに数多くの礎石が遺存している。

 この城は、戦国時代(1476〜1577)、仁井田五人衆の一人である西和泉守宗勝の居城であった。元は影山の平地にあったが、ある年の大洪水で流失したので、後背の城山に移築したものであるという。西和泉守宗勝は、本在家郷で530石を領有し、家臣は中間、足軽共を加え34人であったと記録に残っている。その後天文年間(1532〜1554)一条房基の配下となり、川原越トンネルの西山上にある茶臼山城で川原番頭を兼任した。長宗我部元親が仁井田郷を侵略した後は、一条氏から離れ元親の軍門に降った。

 文禄2年(1593)、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、仁井田五人衆のうち四人が元親の命により出征することとなった。留守役を命じられた宗勝は、四人が興津、志和港から出征するのを見送りに行く途中、洪水中の仁井田川を遮二無二渡らんと乗り入れたが、水勢思いのほか激しく人馬共に流され溺死したので西氏は断絶し影山城は退廃した。

 

本在家城(野口城)跡 【位置:七里(本在家)字城ケ森  城主:東三河守

 ▲十進座標:33.260311,133.135339(320m)  引用:資料1「窪川町史」p139

 本在家村は野口村とも言ったので野口城ともいう。城址は、本在家小字城ケ森(標高320m)の山頂を削平して築かれていた。

 現在城址は樹木の雑生するところとなっているが、城域は広く、詰(本丸)は東西15m、南北20mを数え、二の段、三の段を有し、それに切岸(比高3m)、堀切、更に城台の西側に数条の竪堀を備える典型的な山城であった。

 城主は伊予河野家の一族東氏で、初代東三河守その子伊賀守宗澄は一時興津三崎山城で、公領である興津の代官を勤めたという。三代丹後守宗隆は本在家城に住み本在家郷七九五石を領有し、家臣は中間、足軽共合わせ59人であったという。一条房基に属し西川角ハイタツ城で青木番頭職を勤めた。その後、長宗我部元親の配下となり、元親の命を受け窪川氏、西原氏、志和氏とともに朝鮮征伐に従軍した。子孫が元親に反抗して殺されたので、本在家城は絶えた。

 

勝賀野城跡 【位置:勝賀野字土尻山  城主:勝賀野衛門尉

 ▲十進座標:33.275346,133.140746(271m)  引用:資料1「窪川町史」p139

 城址は、勝賀野小字土尻山の山腹にあったが、平成の初め、国営農地造成のため掘削され消滅した。城と日吉神社との谷間に築かれた堀渕の跡は残されている。当時は満々と水を湛え、城内の用水に、また、防御の要害ともなり、農業灌漑用水としても利用されたであろう。今も若干の水が溜まり往時を偲ぶことができる。

 この城は、戦国時代に伊予河野家の一族勝賀野衛門尉がこの地を開拓して城を構え、田地210石を所領し勢力を張っていた。衛門尉の子次郎兵衛益家は、幡多中村城主である吉良左京進親貞(元親の弟)の家臣となって中村に居住したが、のち、親貞の子親実が蓮池城主になるとこれに従い蓮池に移った。すこぶる勇猛で武芸にも長じていたが、長宗我部家のお家騒動の巻き添えを食い、追手にかかり遂に蓮池城下で相果てた。世の人たちが蓮池城址に碑を建てて霊を弔っている。

 

志和分城跡 【位置:七里(志和分)字楠ガ谷  城主:西松兵庫

 ▲十進座標:33.251160,133.126477(290m)  引用:資料1「窪川町史」p139

 城址は志和分小字楠ガ谷の山中にある。県道322号線の直上に位置し、小径ながら山道もあり容易に登ることができる。

 現在城址は、雑木林となっているが、詰(東西10m、南北15m)、二の段、切岸、堀切(比高3m)等も残っており、小規模ながらも山城であったことを証明している。

 志和分はその名のとおり志和城主所領の飛地の一つで、一族の西松兵庫が城と田禄30石を守っていた。文禄4年(1595)志和氏が長宗我部元親の侵攻によって滅亡したので、この城も絶えた。

 なお、志和分城と西ノ川城との中間の山林中に、西松兵庫夫妻まつの墓があり、その子孫が祭っている。 

 

西ノ川城跡 【位置:西ノ川字城ガタオ  城主:不詳

 ▲十進座標:33.259934,133.115255(337m)  引用:資料1「窪川町史」p140

 城址は西ノ川小字城ガタオの山頂にある。山麓から短時間で城址に登ることができる。

 現在は山林となって草木の繁茂に任せているが、詰(東西10m、南北17m)、二の段、三の段、土塁、礎石、堀切等その遺存状況は良好で郭地も広い。周囲の斜面は急峻で、しかも東斜面は四万十川本流に接し、天険の要害となっている。

 城主等由来は不詳であるが、志和分城とは峰伝いに近接しているので志和分城主の兼任ではなかったかと思われる。

 

川ノ内城跡 【位置:川ノ内字尻高山  城主:西宗澄

 ▲十進座標:33.303955,133.132399(679m)  引用:資料1「窪川町史」p140

 城址は、川ノ内小字尻高山(679m)の国有林山頂にある。西ノ谷の砂防ダムを登り口として急峻な防火帯を登攀すること約40分。ようようにして城台に至る。現在は雑木が密生しているものの、詰(東西10m、南北15m)、二の段、三の段、堀切、竪堀等の跡が残されており、城址であることを物語っている。

 城主は、影山城主西和泉守宗勝の父宗澄といわれる。宗澄は一条氏から長宗我部元親に主の代るとき、宗勝に家領を譲り、川ノ内村に新土居を構え隠居したと旧記にある。

 

柳瀬城跡 【位置:七里(柳瀬)字荒谷山  城主:西和泉守

 ▲十進座標:33.252595,133.144995(377m)  引用:資料1「窪川町史」p140

 城址は、柳瀬小字荒谷山の山上にある。県道19号線脇の入口から、急峻な山地を尾根伝いに登ると城台に達する。

 現在、城址は雑木の繁茂に没しているが、詰(東西15m、南北15m)、二の段、比高2mの堀切、切岸、それに土塁が見られ、山城の跡であることを証明している。見通しは良く四万十川を挟んで七里平野、西川角平野が一望できる。

 この城は一条氏が築いたもので、影山城主西和泉守の支城ではなかったかと旧記に記されている。

 

茶臼山城(川原番城)跡 【位置:仁井田(神有)茶臼山  城主:西和泉守宗勝

 ▲十進座標:33.252685,133.151958(410m)  引用:資料1「窪川町史」p141

 仁井田神有の茶臼山(標高401m)山頂にある。山麓の中平貞実氏の裏山を尾根伝いに登ること30分で城址に達する。

 現在は植林地となっている。詰は東西18m、南北16mの広さをもち、二の段、三の段は切岸によって一段低く造成され、土塁、堀切、竪堀が残されている。城台の樹間から仁井田、東川角、西川角、宮内、東又の各平野が一望できる。

 この城は一条氏の番城で、影山城主西和泉守宗勝の兼掌であったと旧記にある。

 なお、太平洋戦争中は、ここに郷土防衛隊の対空監視所が設置されていた。

 

21)中ノ越城跡 【位置:仁井田(中ノ越)  城主:安並右京進

 ▲十進座標:33.234237,133.154866(331m)  引用:資料1「窪川町史」p141

 仁井田小字中ノ越の城山にあった。町道近くの孟宗竹林を抜け、雑木林を登ると容易に城跡に達する。

 現在は植林地となっているが、詰(東西30m、南北18m)、一段下って二の段(東西10m、南北10m)、それに比高3mの切岸、堀切、礎石等が残っている。

 この城は、天文5年(1536)、一条氏が仁井田庄を領有したとき、五人衆をそれぞれ番頭職とし、その番頭職の目付として、一条氏の四家老の一人である安並右京進を配置し監守させた。

 天正2年(1574)、一条六代氏政卿が大津(現南国市)に遷る途ゆうらいえつ中この城に寄られたとき、隣邑の城主来謁して供応し、また、和歌の会を催して卿を慰めたと旧記にある。

 

22)神有城(山ノ上城)跡 【位置:仁井田(神有)字陣ケ森  城主:不詳

 ▲十進座標:33.250532,133.159071(370m)  引用:資料1「窪川町史」p141

 仁井田神有小字陣ケ森の東端にあり、城址の直下を国道56号線並びにJR土讃線が通っている。線路脇の入口から険阻な山道ではあるが短時間で登ることができる。

 現在は山林地となっている。詰は東西10m、南北15mの広さを確保し、二の段、土塁、堀切の跡を残している。また、東斜面は仁井田川に接し、南北の急斜面の自然地形が防備を助けている。城台からは川を挟んで神有、六反地、仁井田、汢ノ川、本田が展望できる。

 城主や由来等不詳。恐らく茶臼山城の支城(砦)であったのではないか。

 

23)白皇城(床鍋城)跡 【位置:床鍋・大汢山国有林  城主:白皇千助兵衛

 ▲十進座標:33.319573,133.177139(503m)  引用:資料1「窪川町史」p142

 床鍋七子峠の大野見分岐から北方1.7kmの国有林大汢山の山中に城址がある。

 城址は現在樹海となって見通しは良くないが、城床、切岸、堀切がその跡を留めている。

 元慶元年(877)、平家の家臣白皇千助兵衛が、北岡五右衛門ほか数多の家来を率いてこの城を築いた。伝承によれば、白皇千助兵衛が、任地へ赴く国主源望の通行条件として、海神の怒りを鎮めるため八幡宮の創建を請願した。国主はこれを聞き入れ、翌元慶二年、與津の浜に興津八幡宮の勧請をみたという。

 

24)中江城(新在家城)跡 【位置:土居字中江山  城主:西原紀伊守貞清

 ▲十進座標:33.236444,133.194755(292m)  引用:資料1「窪川町史」p142

 城址は、東又土居小字中江山の山頂にある。国元建設の裏山道を登ると容易に城址に至る。

 現在は木々の覆うところとなっている。山頂を削平して造った詰(東西20m、南北18m)、二の段、三の段、土塁、礎石を残している。なお、段差3mの切岸、堀切、それに数条の竪堀があり、中世の城館跡を証明している。城台からは、土居、奈路、弘見、遠くは黒石、本堂が一望できる。

 この城は、明応元年(1492)に仁井田五人衆の一人西原紀伊守貞清が築いたものである。新在家郷一二か村、窪川郷五か村その他與津分を含め二一か村を占有し、その所領高は2247石を数え、家臣は騎馬武者二二騎、中間と足軽を加えて63人という強大な勢力を保有していた。西原紀伊守貞清は長宗我部元親が仁井田郷を侵略したのでその配下となった。文禄2年(1592)2月、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時は、元親の命により朝鮮へ出陣したが、敵の謀った毒水を飲んで戦死したので、城は絶えた。

 

25)奈路城跡 【位置:奈路字城山  城主:松沢善兵衛

 ▲十進座標:(m)  引用:資料1「窪川町史」p142

 城址は東又奈路小字城山にある。県道326号線の直上に位置し、容易に登ることができる。

現在は灌木に覆われているが見通しは良い。城台は東西10m、南北25mの単郭である。四周は比高3mの切岸で防御され、竪堀、堀切で敵襲に備えていた。

 城主は、中江城主西原貞清の重臣松沢善兵衛といわれ、知行は141石。松沢善兵衛は、後に長宗我部元親の進攻軍と戦い、藤ノ川において陣没したことが古文書にある。

 

26)志和城跡 【位置:志和字城山  城主:志和権之助宗茂

 ▲十進座標:(m)  引用:資料1「窪川町史」p143

 城址は窪川町志和小字城山にある。県道326号線脇の登り口から竹林を抜け山道を進むと城址に達する。

 城址の保存は良好で、詰(本丸)、二の段、三の段、土塁、石塁が残されている。本丸は東西16m、南北20mの広さを保有している。また、城台の一隅には城八幡宮が祭られている。

 この城は戦国時代、伊予河野氏の一族、志和権之助宗茂の居城であった。志和、矢井賀、大鶴津、小鶴津のほか、東又、松葉川、上ノ加江等にも領地があり、所領高は1845石に及んだ。家臣は騎馬武者、中間足軽を合わせ64人を抱えていた。

 文禄2年、宗茂と弟の勘助は長宗我部元親の命により朝鮮征伐に出征し、軍功をたてて帰還したが、元親にその武勇を妬まれて宗茂は梼原で、弟勘助は安芸でそれぞれ謀殺され、更に、城攻めに遭い炎上したので志和城は壊滅した。

 

27)興津城跡 【位置:興津字三崎山  城主:東伊賀守

 ▲十進座標:33.156442,133.214974(218m)  引用:資料1「窪川町史」p143

 城址は、窪川町興津小字三崎山の山頂にある。忠霊塔の裏を登り口として、雑木や茨をくぐり約30分にして城址に至る。

 現在は、樹木やにが竹に覆われている。詰は東西15m、南北20m。周囲に幅2mの土石塁がある。これに加えて、二の段、三の段、切岸、火立場(狼煙場)等の跡が残り、浦城としての特色も備えている。密生した樹間から郷分、浦分、小室の浜を眺望できる。

 城主は東伊賀守といわれ、一条氏より與津代官役を申付けられて、今から450年前に築城したものである。

 

28)的尾地城跡 【位置:興津  城主:中西筑後守

 ▲十進座標:(m)  引用:資料1「窪川町史」p143

 城址は、興津的尾地坂の南麓丘陵地にある。円蔵寺の左横を登り口として、急峻な斜面を登上すると城址に達する。

 現在は雑木林となっている。詰は東西15m、南北30mと広大で、二の段、三の段が削平され土塁、石塁、比高2mの切岸、堀切、礎石が遺存している。古老の話によれば煙哨蔵(火薬庫)の跡もあったという。

 城主は本在家城主東丹後守の一族である中西筑後守が、一条氏の番士として居城し、知行100石を所領していた。

 

 

 

・大正地区

資料1:「高知県大正町和田林城跡」大正町教育委員会/1984昭和59年

資料2:「大正町史通史編」大正町町史編集会議/2006平成18年 p79

 

上山城(田野々城・土居林城) 【位置:田野々の北方、字城山 城主:上山出羽左衛門】

▲十進座標:33.201610,132.973682(288m)  引用:資料1「高知県大正町和田林城跡」p4

 標高300m前後で南にはり出す山の綾線上に約1,000㎡の平坦な詰をもち、上方に2条の堀リ切りと下方に3段の郭をもつ。

上山出羽左衛門の居城は田野々村字城山の峠という伝承はあるが、文献はない。

 この山城の下方に字土居屋敷があり、長宗我部地検帳には「トイ東□□ 一所 壱反四拾代 上ヤシキ 田野々村 加賀抱 主居」とある。

 『土佐州郡志』に「城址三所、和田林在南、遅越山在西、土居林在北、領主田那部氏世々居之」とある。

 

遅越城跡 【位置:大正字ウヤガタ 城主:上山出羽左衛門

▲十進座標:33.198315,132.967712    引用:資料1「高知県大正町和田林城跡」p8

梼原川の西岸、吾川ウヤガタに所在し上山城の出城とされている。標高281mの山頂で、頂上に400㎡ほどの平胆部があり、北方に2段、南方に1 段の平坦な郭状地形を有している。

和田林城跡 【位置:大正字坪サコ・椎山・亀山  城主:上山出羽左衛門

▲十進座標:33.194230,132.973489(175m)   引用:資料1「高知県大正町和田林城跡」p1

 和田林城跡はl幡多郡大正町田野々字坪サコ、椎山、亀山にまたがる中世城跡である。

 標高176~187mの通称「森駄場」がある。市街地との比高約30mの森駄場には、現在高知県立大正高等学校(※現在の四万十高校)、NHKテレビ塔(※ラジオ塔)などの施設と、田野々地区最大の畑地がある。その南端部、駄場との比向9~10mの小山状の地形が和田林城跡である。

 この城跡は昭和58年7月14日、田野々小学校造成工事に伴う踏査によって確認された城跡である。

 梼原川、四万十川の流れと、旧河道とされる市街地の中にはさまれた丘陵上に所在する本城は.、自然の要塞地としては最高の場所であったかも知れない。

 城郭は、詰、堀切、北ノ段、東ノ段、竪堀8で構成されている。

 

北ノ川城跡 【位置:大正北ノ川字古城三ノ丸 城主:上山出羽左衛門

▲十進座標:33.187595,133.048977(192m)    

 仁井田川と相去川の合流点の東の山の尾根で現在は果樹園と山林になっている。

構成は詰の段、二ノ段、空堀の跡。

上山郷を本拠とする土豪田那邊及び上山氏の居城が由来で、長宗我部地検帳の喜多川の段に「古城詰ノタイ、古城二ノ段」とある。 

 土佐州郡志に「壘址 喜多野川出羽者居之」とある。 (大正町史資料編p14)

 『高知県大正町和田林城跡』p8には「標高170m前後の地点にあり、現状は畑と山である。頂上には500~600㎡の詰があり、南に1段、北に2段にわたる郭状地形があり、一部竪堀状遺構も存在する」。

 

下津井・清水川城跡 【位置:下津井字清水川 城主:不明】

▲十進座標:33.294099,132.946420(311m) 

 地区の南側にある標高306mの山頂、北半分の範囲を占めている。詰・二ノ段・三ノ段・堀切一条の遺構が認められる(大正町史通史編

p83)。

 清水川には城跡と伝承される地点に、詰・郭・空堀の遺構がある(高知県大正町和田林城跡p8)

下津井・城ケ森城跡 【位置:下津井字城ケ森 城主:不明】

▲十進座標:33.291131,132.945862(290m) 

城ケ森には、詰・郭・空堀状遺構がある。 (「高知県大正町和田林城跡」p9)

 「大正町史通史編」には山の神城として「下津井字山の神にあり、清水川城跡と同一の尾根に存在している。標高313mの山頂に、詰・二ノ段・三ノ段・堀切一条の遺構が認められる」とある。

 

下津井・フロノ谷城跡 【位置:下津井字フロノ谷 城主:不明】

▲十進座標:33.293149,132.943330(265m) 

 西源寺のある背後の山、標高約260mの尾根先端部にある。詰・二ノ段・曲輪・堀一条の遺構が存在している(「大正町史通史編」p83)

 フロノ谷には、詰や郭状遺構がある。 (「高知県大正町和田林城跡」p9)

 

■城郭の地名

 

「地名は忘れられた文化財」(服部英雄氏) 

「地名は目に見えざる無形の文化遺産」(谷川健一)

  中世の城郭は、今では痕跡をとどめることはなく、土塁や堀切の一部が遺構として残すにとどまる。

 全国各地にある「城山」などの城に関係する地名は、城郭の存在を探ることができる。

 特に、高知には長宗我部地検帳という第一級の文献史料があり、その関連地名(ホノギ)の周辺から現在の字や地形図を調べ、その所在を比定する作業を進めれば、きっとあなたも中川氏のような「山城ハンター」になることができる。

 

山城の存在を示す地名

 

土居(どい)・土ゐ・土井

 中世では土塁を土居と呼び、武士の居館跡にみられる。

 類似の地名に「土手之内」、「土手ノ越」などもあるが、堤防や猪垣(ししがき)などの土塁に由来するのもあるので注意

今宮土居屋敷(宮内)、土居(七里)、土井屋式(七里)、土居ノ前(上秋丸)、土居屋敷(床鍋)、土居ノ内(奈路)、土居ノ谷(志和)、土居ヤシキ(瀬里)、土井ダ(打井川)、上古土居(江師)、土居屋シキ(下津井)、古土居(里川)、ドイノヲキ(戸川)

 

城山・城之内・古城

城山は山城跡に多くみられる。「しろやま」ではなく「じょうやま」と読む場合が多い。これは「城」をシロと読むのは比較的新しく、古くはジョウと読まれていた。「城」に「丈」の字をあてることもある。

古城(金上野)、城山(仕出原)、城山(宮内)、古城山(七里)、古城山(奈路)、古城ノ下(志和)、城山(大正)、古城詰(大正北ノ川)、古城二ノ段(大正北ノ川)

 

 

木戸(きど)・城戸・戸張・外張

城郭や城下の出入り口には「木戸」が設けられ、城の外郭に設けられた防御施設である虎口とその周辺全体を「戸張」という。

城戸木森(大正中津川)

 

馬場・バンバ・的場・犬ノ馬場

馬場や的場は乗馬や弓矢など武芸の鍛錬を行った場所である。

神社の神事である競馬(くらべうま)や射礼(じゃらい)に関する地名もあり注意が必要

古馬場(宮内)、馬場スエ(七里)、ハマンノ馬場(興津)

 

 

要害(ようがい)・竜ケ谷(りゅうがい)・竜会・流外・幽界

地形が険しく人が近づきがたいさまを要害というが、それが転じて、地形を利用して陣地を構築することを「要害を構える」という。このことから、陣地を「要害」と称することになり、「ヨウガイ」から転じた漢字が多くある。

 


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