■長宗我部地検帳の中津川
四万十町の大正中津川の地名で文字として最初に記されているのは長宗我部地検帳で、現存している368冊のひとつの表紙には「慶長弐年丁酉年二月六日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」とある。中津川の検地は下津井の「ソウカイ」「イノヽ」「舟ノセ」から足川川沿いに松原往還を越え森が内分れから森河内村に入り中津河村を終えて三月廿四日に下道村へと移っている。
当時の田畑宅地を固有する地名はホノギとよばれ、現在の公称地名の字にあたるものであるが、慶長時代に使用されていた地名が現在も使われている。森が内集落では、「中ヤシキ>中屋敷」「上クホ>上ミ久保」「タカヤフ>高籔」、本村集落では「中カイチ>仲ヶ市」「地蔵院ヤシキ>地蔵院」「ツルイノモト>ツルイノ本」「ウシハラ>ウルシハラ」、成川では「成川>成川」「ウスキ>薄木」がある。
■地名は先人の語り部
現在使われている公称地名としての微細地名は小字であるが、この小字は土地の表示に関する登記として「土地の所在」に記載されている。四万十町は番地を大字(例えば大正中津川)ごとに起番していることから地番の識別に小字(例えばツルイノモト)が必要でなくなり、いつかは廃れる運命であろう。若い人が日常会話に字名を使って場所を特定することは皆無といえる。地名が生き物である以上、消えゆく地名は致し方ないかもしれないが、過去の様子を推測する手がかりになる「歴史遺産」でもある。六郎谷はロクロを由来とする地名で木地師が住んでいたのではないか、地蔵院は昔に寺社が所在したところで、仲ヶ市はヶ市をカイチ(カイト・コウチ・カイド・垣内・開地・河内など)とすれば(民俗地名語彙辞典上p190)、村内に新たに開墾された耕地が形成され本村の分村として奥に森ヶ内がありその間に仲ヶ市が位置付けられたのではないか。「・・久保」や「梅・・」の災害地名、「・・駄場」や「・・畝」の自然地名、「・・タオ」などの方言転訛した地名、これらの類似地名が流布・分布した交流のあかしなど聞き耳を立てれば饒舌にも語ってくる。
地名は先人の語り部である。
■消えた地名
また、「地名」は地名が本来的にもつ表象として命名者の願望や思想をも反映するもので、人為的に作用されることになる。その作用された新しい地名のひとつが平成の合併を機に改められた「大正中津川」である。この合併を機に大正町では四手ノ川も希ノ川に改称した。烏が古城となり、黒川が里川になったように暗いイメージの地名を佳名好字とした命名者の意思の表れであろう。四手が死への旅立ちをイメージするからという地区民の思いであった。ただ、地区民総意とはいえ安易な地名の変更はいかがなものか。窪川には五社さんの鎮座する仕出原(しではら)があるように「四手・仕出」は「紙垂(しで)」で注連縄や御幣などにつけて垂らす断ち折った紙のことであり、断ち方が稲妻をイメージしていることから稲作豊作や邪気を追い払う象徴でもある。
四手ノ川の地名の由来は、二つに谷が分かれる地形が御幣に挟む紙垂(四手)に似ている由縁か、シデの木が群生していた土地であったかもしれない。「田野々」も「大正」に改められた。消えゆく大正町の名を残すため役場の所在地であった田野々を廃して大正にしたという。大正天皇の即位を由来とした大正より古い田野々地名がなくなることを為政者は後世にどう説明するのだろうか。四万十町が発行する四万十町全図に田野々や四手ノ川を併記するように求めたが「町の公称地名として田野々や四手ノ川は存在しない」とのことで頑なに記載を拒否された経緯がある。
消えた地名は語る場を失う。
■自然数の地名
昨年の9月に念願の中津川2号橋が竣工し災害に強い安全な通路が確保できたが、中津川にはこの1種町道の大奈路中津川線のほか中津川1号線から8号線の自然数による名称が付されている町道がある。橋梁や道路施設の名称も地名の対象であるが、この自然数の名称が実用上の要請として何を語るのだろうか、行政のセンスを疑うものである。町道成川線であれば成川口を起点として、国有林野にぽつんとある民有地の成川集落のあったところまでだろうと想像できるし、町道森ヶ内線は大奈路中津川線の終点から森が内集落を登りつめる路線で、久木ノ森線は中津川トンネルができたことから従前の回り道を久木ノ森線としたのだろうと理解できる。中津川1号線は、農家民宿はこばを通りサワタリ沈下橋までの路線であるがサワタリ線や函場線としないのはどうしてか。
自然数の地名は何も語ってくれない。
■用の美 日用雑貨のような地名
「地名」はその時代の生業や地形の語り部であり、時代の経過により変化する生き物でもある。民俗学者の柳田国男は「地名の研究」で『人と土地との交渉がすなわち地名である。』と述べているように、地名は、一人若しくは二人以上の人が認知できる特定の箇所に対して言葉や文字で付される固有の名称であり、未来への希望やリスクを示す命名者の意思の表れでもある。
博物館が「モノ」を主人公として、幾多の災害や困難を乗り越えて時を引き継ぐ伝世品が大切に取り扱われているのに比べ、「地名」はモノとして銘板に刻まれることはあっても固有の名称として人が人に特定の情報として伝えるための道具でしかない。日用雑貨のように使われることにその使命があることは理解しているが、ぞんざいな扱いをうけていることが残念である。
東日本大震災からはや4年が過ぎた。東北にも高知にも津波を記録する古来の「災害地名」がしっかり残されている。私たちはその地名から先人が自然災害に対し後世に喚起したメッセージを読み解く責任がある。
自称地名ハンターとして地名を摘み紡ぐものとして「地名」に敬意を払っていただくことを切に望むものである。
※写真は大正中津川の本村集落、郷土史家徳広誠男宅の「四万十街道ひなまつり」
※PDF「大正中津川地名辞典」は、来年(2016年)3月の公開予定です。