■本川という川名
土佐州郡志の上山上村の本村(田野々)の項に四至として『東限瀬里村西限大川南限家之市北限後山・・・津野山川在西新井田川在南過合流』とある。川を特定することは、役人や旅人など外の人には必要でも地下の生活者にとって固有な名称としての川は必要なかったのだろう。身近な川は「川」であり、利用する「川原」であって、合流する大きい川は「本川」と区別していたのだろう。流域の河川名称は生活上において必要でなく、郷村としての名称で事足りたといえる。
■山は点でなく面
同じく山もそうである。利用する里山、奥山(御留山)の森林に固有な名称を付したのであって、登山の習慣もない昔は山頂に何の興味を示さなかったのではないか。州郡志にも記しているのは御留山だけである。明治になり所有区分するため特定の山頂を中心に裾野を区画し、東峰山、西峰山、北峰山としたのではないか。
■集落名と集落河川名
町内に多く見られる川地名だが、「渡川水系河川整備計画・平成27年2月(国土交通省四国地方整備局/高知県)」に芳川は芳川川、希ノ川(四手ノ川)は四手の川川、窪川中津川は中津川川とある。大正中津川に流れる河川の公称は「渡川水系2次支川中津川」となっている。ちなみに川の起点は梼原川合流点であるが終点は、『右岸森ヶ内山・左岸北峯山』となっている(渡川水系河川整備計画p122)。源流点は国有林小松尾山であることから、国有林は管理外ということである。また、中津川トンネルの大奈路側に架かる橋の銘板には「中津川川」と書かれているが、一番新しい中津川2号橋には「中津川」と書かれている。芳川の川をだれも「よしかわがわ」とは言わないが、気にする人は悩むかもしれない。
四万十市の旧名称の中村市もそうである。土佐一条氏の城下町として歴史を刻んだ中村は明治の合併で中村、右山村等が合併し、中村(中が地名で村は市町村制の区分)が発足し明治31年に町制施行したおりに中村から中村町に名称変更した。地名である「中」と自治体区分名称である「村」が一つの固有名化され、それに町制の区分名称が加えられたことになる。松葉川の中村も郷村名がそのまま大字となったものである。地名2文字化の習慣から一文字を避けた結果だろうか。いずれにしても芳川川としたのは、芳川は郷村の地名であって河川流域を示す固有名称は「芳川(吉川)+川」と生真面目な行政職員が名付けたのだろう。
■橋の名前
また、「橋」は「はし」か「きょう」か、「川」は「かわ」か「がわ」か。先ほどの中津川橋」は「なかつかわはし」と読みを入れているし、中津川2号橋は「なかつかわにごうきょう」と書かれている。いずれにしても、構造物の銘板はその名称を長期間公称することになるから、注意を払っていただきたい。
橋梁の名称などを示すために設置される銘板を橋名板というが、橋歴板(事業主体・橋の構造・材質・設計施工会社など)も設置する自治体もあるという。昨年、大正大奈路にできた橋の橋名板で見ると、右岸からみて左側に「漢字表記の橋名(大木絆第二橋)」右側に「交差する河川などの地物名(梼原川)」、左岸からみて左側に「ひらがな表記の橋名(おおききずなだいにきょう)」右側に「竣工年月(平成26年5月)」と、高知県建設工事仕様書第6編道路編の4-8-10橋名板の項に基づき書いてある。このことから、国道439号線の起点が徳島であること、2号橋が先に完成したことが推測できるが「大木絆」は意味不明。管理者に照会すると「地元が、大奈路と木屋ケ内の頭字に絆を加えて命名した」とのこと。橋の名前の付け方には苦労があるでしょうが、「大奈路のかみの橋」と名無しの権兵衛橋とならないよう、親が子供の名前を決めるときの愛情をもって名付けていただきたいものである。
百年単位で記憶される橋については、橋の命名、記録する橋構造等の内容、親柱・高欄のデザインなど請負契約額の1%程度は必要経費としてしっかり充てて架橋していただきたいものだ。北幡の赤鉄橋といわれる大正橋(大正3年架橋)の親柱は、今も堂々とした佇まいを主張している。
※写真は、大正橋の親柱(上頭から吾川を写す)