役所所在地:高知県四万十市大橋通4丁目10
郵便番号:787-8501
電話番号:0880-34-111
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与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。
掲載する内容は
①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)
②旅人の記録
③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)
④所在地
⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)
⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
⑧編集人のつぶやき
※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。
■歴史/文化/地理/紀行
■四万十市の「木・花・鳥・魚」
木「柳」
柳は種類が多く四万十川流域に群生しているのはアカメヤナギです。また堤防などに植えられている枝垂れ柳はしなやかな緑の小枝が涼風になびかされ、清流のせせらぎに映え、誰の心にもさわやかさを感じさることなど清流四万十川にふさわしいことから市の木となりました。
花「藤」
藤は市内一円に群生し、開花とともに柔和な春のおとづれを市民の誰もが感じ得るとともに、華麗に垂れ下がる花弁は、室町の時代この四万十市域を支配していた一條文化の象徴でもあり、四万十市にふさわしいことから市の花となりました。
鳥「カワセミ」
カワセミは、清流のシンボル又は川の宝石ともいわれ、コバルト色の背中と橙色の服面をもったくちばしの大きい美しい小型の鳥で、四万十川の本・支流にも多く生息しています。カワセミはその餌となる小魚が見える水面近くの枝や岩場に留まり、じっと獲物を待ち続けることが多く、注意して見回さないとその姿を見ることは難しいのですが、餌場を飛んで移動する際には、「チチ-」という澄んだ泣き声とともに、川面の1メートル程度上空を、青色の矢が横切るとそれはカワセミです。
魚「アユ」
アユは、早春に稚魚が四万十川の河口に群れをなして遊泳し、そして上流へと遡上します。勢いある流れの中で、岩の間をたゆまなく力強く泳ぐ姿は、若さと躍動の象徴でも有り、清流四万十川、母なる川四万十川とともに未来に向け躍進する新市四万十市を象徴付けるにふさわしいことから市の魚となりました。
四万十川の鮎漁は、毎年5月から6月に解禁となり、10月から11月に一時「止め川」と呼ばれる禁漁期間になりますが、その後「落ちアユ」漁が1月末まで続けられます。漁法は、刺し網を利用する火振り漁、投網(トアミ)、ナゲアミ、地曳網、オトリガケ、シャビキ、シャクリガケ、ピンガケなど非常に多くあります。
■「四万十市」の名称由来
新市名称は第1回中村市・西土佐村合併協議会(平成16年8月16日)に提案され、即日確認し、「四万十市」と決定された。
「先の4カ町村(四万十市・大方町・佐賀町・西土佐村)の合併協議会において、全国公募し小委員会で5候補に絞り四万十市と決定した経緯がある。今回の合併協議会でも同じ手続きを踏みたいが時間的な課題(合併申請期限)もあり、先の合併協議会において中村市、西土佐村も「四万十市」で同意確認していることから今回も「四万十市」としたい」と合併協議会幹事会から提案。
名称の由来についてはあらためて協議はなかったが、合併協議会の澤田会長(中村市長)が「先の合併協でも新市名称は議会で了承という経緯もあり、四万十川を中心に地域おこしを考え、あるいは環境保全を考えるという意味合いもある。そういう意味でも四万十市にすることは自然の流れでは」と補足説明した。あわせて、中村市の街区の名称に「中村」を付し、西土佐村の大字名称に「西土佐」を付すことを確認した。
なお、中村・大方・佐賀・西土佐合併協議会の新市名称の決定経緯は次のとおり。
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼たかしま村
▼さね崎村天満
▼ま崎村薬師堂
▼つくらふち村
1808年(文化5年5月29日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▼伊屋村
▼鍋島村平野
▼下田浦
▼四万十川(渡川)
▼間崎
▼初崎
▼剣山
▼トウ崎
▼小名鹿
▼名鹿
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼高しま村
▼四萬十川
▼下田港
▼さね崎村
▼天満宮
▼まさき村
▼薬師堂
▼つくらふち村
▼いつた坂
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼四万十川
▼半家
▼鵜ノ江
▼川登
▼具同
▼百笑
▼中村
▼為松公園
▼古津賀
▼渡川
▼不破
▼角崎
▼鍋島
▼間崎
▼初崎
▼串江
▼下田
▼双海
▼常六
藤村(藤村/校注土佐一覧記p316)
「春深くなり行くままに咲かけて 波のあや織る藤のむらさき」
▽藤村
この地で産出する白土は尾土焼の陶土として用いられている。
中村(中村/校注土佐一覧記p319)
「何処ぞと問わずとも知れ前うしろ 二つの川の中村の里」
「立帰り昔の春ぞ忍ばるる 咲かず匂はぬ藤なみの跡」
川村与惣太は、中村を訪ね「中村の古城と言ふは一条公の城也」のひとことから、土佐一条公の兼良・教房・房冬・房基・兼定(康政)の五代の歴史を述べ最後に、康政公の和歌“植置し庭の藤なみ心あらば 此春ばかり咲な匂ふな”を引用して次の与惣太の歌でくくっている(兼定と康政を同一人として書かれている)。
立帰り昔の春ぞ忍ばるる
咲かず匂はぬ藤なみの跡
川村 与惣太
この歌に詠まれる「藤」は藤原氏にゆかりのある花だが、藤の花を臨終時にたなびく紫雲=往生の証拠としてありがたがり、戦火に向かうわが身の行く末を藤の花にかけたのであろう。次に中村と題して
何処ぞと問わずとも知れ前うしろ
二つの川の中村の里
川村 与惣太
なんといったって中村は一条さんの町。松葉のような愛でたい二つの川こそ、土佐の小京都である証だ (勝手読)
一条公が京都をしのんで中村の町づくりをしたという、その二つの川は、四万十川(桂川)と後川(鴨川)。
松葉に抱かれた幡多の都は、一条公が幡多庄に下向していらい、それまで、土地に依存してきた「荘園領主」中村から、北幡の木材資源の流通や明貿易により「経済都市」中村へと脱皮していった。単に応仁の乱から逃れたというより戦略的な意図が感じられる。幡多庄といっても窪川台地も含まれ、遠く土佐市蓮池まで軍事侵攻した武士集団でもあり、海外貿易を実行できる技術集団でもある。たんなる中村のお公家さんではないのだ。
江戸後期に歩いた与惣太が「中村」と歌に詠んだ中村の地名がちょっと複雑だ。教房が下向し住まいを設けたのは幡多庄の「土佐波多中村館」で別の記録では「土佐波多御所」「土佐御所」「中村御所」とも称されている。
中世の景観を示す『長宗我部地検帳』には幡多郡中村郷地検帳として、津崎村・不破村の次に中村築地口(鬼ヶホキ)、中村トウメキ、中村蔵谷と続き、いったん宇山村に移り、次に中村宮田少路、中村下町、中村崩岸、中村左岡、中村利岡、中村興村と記されている。この中村〇〇が村方(郷分)で、次に市屋敷として立町東町、新町南之町、上町北ノ町などの町方(街分)が続いて記される。中村には狭義の中村と広義の中村の意味を併せもっているのだ。
明治二十二年の町村制施行により、村方の中村と、市屋敷をもとに発展した商業地域の町方・中村町と、周辺の右山村・角崎村・不破村が合併し、村の名称が「中村」となった。本来自治体名称は地域名称に行政機関名称である市区町村を付して決定されるが、明治の合併で村制を布くときに中村+村ではなく、単に中村とした。複雑になったのは明治三十一年に町制を布くおりに、中町とはならずに中村町となった。加えて平成の合併では中村市を廃して四万十市となった。自治体の名称はどうでもよくて、中村の歴史的名称はかわらないというプライドなのだろうか。
そう、中村は大都会なのだ。
中村高校に入学したのは五十年以上前のこと。大正から高知県交通のバスで杓子峠を越えて中村に来た。京町五丁目の近藤芳子さんの下宿で三年間過ごした。田舎からみれば中村は都だった。すべての時間と空間は自分のものと思った。ラジオの深夜放送に聞き入ったし、友人と朝まで話もした。バイトも家庭教師や新聞配達と転々とし、矢部酒店の酒の配達は二年間続いた。遊ぶ金は自分で稼いだ。一年一組で出会った二人の友人、江戸アケミとKHK家庭放送局のヨシツグも今はいないが、それでも中村は一番好きなところだ。常連やカテコテで呑むと、きまって定宿の寿吉まで街角をぶらりと歩きながら「あのとき」を懐かしむ。
四万十市・四万十町・中土佐町・津野町・梼原町
四万十川(中村/校注土佐一覧記p323)
「照る月の影も流れて澄み渡り 川瀬すずしき夜半の秋風」
鍋島(鍋島村/校注土佐一覧記p324)
「夕露の玉かづらして女郎花 まがきに立てる色ぞなまめく」
秋田(あいだ)、神母谷(いげんだに)、生ノ川(おいのかわ)、大用(おおゆー)、九樹(くじゅー)、古尾(こび)、実崎(さんざき)、手洗川(たらいがわ)、百笑(どーめき)、名鹿(なしし)、茅生(かよう)、中半(なかば)、長生(ながおい)、用井(もちい)、半家(はげ)