役所所在地:高知県高岡郡四万十町琴平町16-17
郵便番号:786-8501
電話番号:0880-22-3111(代表)
FAX:0880-22-3123
メールアドレス:
与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。
掲載する内容は
①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)
②旅人の記録
③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)
④所在地
⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)
⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
⑧編集人のつぶやき
※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。
■地勢・概要(自然条件)
四万十町は、平成18年3月20日に高知県の窪川町、大正町、十和村の2町1村が合併して誕生した新町です。
位置は、東から西に流れる四万十川の中流域にあり、東南部は土佐湾に面しています。町域は東西43.7km、南北26.5km、総面積642.30km2であり、そのうち林野が87.1%を占め、田畑は4.8%を占めるに過ぎません。集落の多くは四万十川とその支流の河川沿いや台地上にあり、一部は土佐湾に面する海岸部にあります。
四万十町東部(旧窪川町)は、中央部を南流する四万十流域の標高230mの高南台地に位置し、約2,000haの農地が広がっております。
四万十町中部(旧大正町)は、幡多郡の北部「北幡地域」に位置し、平野は四万十川、梼原川沿いにわずかに見られるが、そのほとんどを山林が占めています。
四万十町西部(旧十和村)は、村の中心部を東から西に四万十川が蛇行して流れ、流域沿いに農地が点在しているが、総面積の約9割を山林が占めています。
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼とこなへ村
▼かげの村
▼かい坂本村
▼六たんぢ村
▼かみあり村
▼かわゐ村
▼しるし石
▼うしろ川
▼ねゝさき村
▼五社
▼みやうち村
▼仁井田村(惣名)
▼別當岩本寺
▼くぼ川町
▼おかさき
▼ふる市
▼きんしょの村
▼みねのうえ村
▼かた坂
1808年(文化5年5月21日~25日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▼志和本浦
▼志和浦
▼小弦津
▼大弦津
▼冠崎
▼与津村
▼坂越
▼与津浦
▼助合山
▼与津浦湊口
▽杓子浜
▼岬ノ山
▼小室浜
▼小室浦
▼小島戸
▼大島戸
▼水谷
▼本脇
▼清水谷
▼風谷
1808年(文化5年5月21日~24日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼志和浦
▼お室の浜
▼窪川
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼とこなべ村
▼かげの村
▼かいの村
▼六たんじ村
▼かミあか村
▼川井村
▼うしろ川
▼仁井田村
▼卅七番五社
▼久保川町
▼別當岩本院
▼久保川村
▼おほさき
▼古市川
▼峯のうへ村
▼かた坂
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼七子峠
▼床鍋
▼替坂本
▼神有
▼仁井田
▼志和
▼道徳
▼東又
▼平串
▼呼坂
▼見付
▼片坂
▼根元原
▼根々崎
▼春分峠
▼湯上り橋
▼松葉川
▼壱斗俵
▼神ノ西
▼大井野
▼口神ノ川
▼天ノ川
▼小室
▼打井川
▼希ノ川
▼葛籠川
▼田野々
▼大正
▼茅吹手
志和(志和郷志和村/校注土佐一覧記p435)
名を隠して
「ぬぎ更る別れもつらし花染の 袂を春のかたみと思へば」
※愛おしいあなたは、恥じらうことなく袖を振って見送ってくれるが、それもいっときで色あせる桜の花のようにやがてすべてが過ぎ去ってしまう(編集子勝手読)
「はづかしなよその見る目も老楽の おもてによする志和の浦波」
※志和の波音とともに舞い散る桜が先を見えなくする。迷ったっていいじゃないか、棺桶近いおいらは寄せる波のようにあるがままよ、自由恋愛だ(編集子勝手読)
▽志和(校注土佐一覧記p299)
中世にすでに漁村集落を形成していたらしい。寛保郷帳には戸数191・人数825・馬30・銃7・船46・網36とある。享保元年の記録(西郡廻見日記)には戸数6・人数30余・牛5・猟銃2とありとある。
鶴(大弦津村/校注土佐一覧記p299)
鶴と言う所にて或人の賀算に詠める
「行末は千代に八千代に相生の 松によはひを契るとも鶴」
※この鶴の大海原の松もすばらしい。甘いも辛いもこの松のように夫婦ともどもあやかって長生きしろよ(編集子勝手読)
※「賀算」とは、長寿を祝う風習。還暦(60)、古希(70)、米寿(88)、白寿(99歳)など。
▽鶴津(校注土佐一覧記p300)
州郡志には小弦津村と大弦津村とあり、南路志には小鶴村と大鶴村となっている。享保元年の『西郡廻見日記』には小鶴津が戸数6・人数30余・牛5・猟銃2とあり、大鶴津が戸数7・人数45・牛6と記載されている。
33.227246,133.241737
槿花宮(志和村/校注土佐一覧記p300)
此宮有堂原。所ㇾ祭志和城主和泉守女西原城主西原藤兵衛妻。(中略)土佐物語に委し。今里人天神とも言う。
「咲いづる花もやつみて朝顔の 名におふ神のぬさに手向けん」
※満開の木槿の花がおまんを偲んでいる。旅人もそっと祈りをささげる(編集子勝手読)
※「此宮有堂原」とあることから合祀する前の槿花神社は字堂原にあったか
▽槿花宮(校注土佐一覧記p300)
現在志和天満宮に合祀されている。槿花神社は今天神ともいい、志和左京助の内室おまんが一日でしぼむ花のように若くして死んだので、それを憐んで祠を建てて祀ったと伝えている。槿花は朝顔のこと。むくげの花をいったりもする。
おまん
藤川(藤ノ川村/校注土佐一覧記p289)
「咲かけてうつろふからに紫の 色なほ深き藤の川なみ」
※藤の花はいつまでもその紫をとどめることはできない。花の盛りは過ぎて衰えてしまうが、それを忘れまいと藤ノ川の川面にその色をとどめている。(編集子勝手読)
※図書館本系統本では「鳥形山」の次に掲載、広谷系統本(サイト下のフォトギャラリー参照)では「茂串・古城」の次。
※藤の花の季節は晩春(4月)
▽藤ノ川(校注土佐一覧記p289)
寛保郷帳には戸数25・人数95・馬11・牛5・猟銃2とあるり、窪川郷13村の一つである。
柿木山(柿木山村/校注土佐一覧記p290)
此里の夕煙を見て
「山里は夕入雲にうづもれて 柴の煙の末もわかれず」
※里の夕餉の煙は闇に消えよくは見えない。すっかり遅くなっての草枕、安芸のみなは達者だろうか(編集子勝手読)
※図書館本系統本では「天川(天ノ川)」の次に掲載、広谷系統本では志和→津留→津野山→鳥形山の次である。
※柿木山村は汢ノ川村、神有村、浜ノ川村とともに現在では大字仁井田となっている。柿木山村は長宗我部地検帳の比定地からみれば仁井田川左岸の本田集落あたりか
※山本氏は幡多郡の段に「茶臼森」として位置を「窪川町仁井田」と記している。確かに茶臼森は仁井田(浜ノ川)と東川角(小松村)の間に所在するが、与惣太が歩いた「茶臼森」は中村の具同の南に位置する「香山寺」でないかと思われる。
▽柿木山(校注土佐一覧記p290)
寛保郷帳には戸数36・人数157・馬13・牛5とみえ、古くは仁井田庄久礼郷10カ村の一つであった。
小松村(小松村/校注土佐一覧記p291)
「姫小松うつし植てや今日よりは ふせ屋のつまに千代を契らん」
※昨晩は布施屋でもないのに、一宿一飯お世話になった。丁度、浜ノ川でいただいた松の種を感謝を込めここで育てよう(編集子勝手読)
※仁井田郷談に「相生の松」が書かれている(南路志③p273)。西行も貫之も爰に来て詠んだという古松は仁井田・浜ノ川にあったという。
※相生の松は「長寿」とともに雄松雌松二つの松が寄り添って一つの松のようにみえることから「和合」の象徴とされる。与惣太はふせ屋の妻と何の契りをしたのだろう
※「ふせ屋(布施屋)」とは日本各地に作られた旅行者の一時救護所であるが、この小松村にあったとは思えない(伏屋(ふせや)は屋根の低いみすぼらしい家のことでもある)。旅人の与惣太を温かく一夜をもてなしてくれた奥方に「ふせ屋のつま」とかけて感謝を詠んだのであろう。
▽小松村
仁井田五社(仕出原村/校注土佐一覧記p291)
此五社と言は大華表村山祇の五社也。所謂大山祇 麓山祇 正勝山祇 離山祇の五社なりとぞ
「此山の五つの社あとしめて 国やすかれと守る神がき」
又五社の中に伊予大明神と言ふは人王七代の帝孝霊天皇第二皇子彦狭鳴尊を祀るとぞ。昔四国の名も分れず伊予の二名の島と書しころ、皇子此島に討けられ伊予親王と号す。薨逝ましまして大華表村に御廟を建らる。其後仁井田五社の中宮に陵を移し伊予大明神と仰ぎ侍る。
御母細媛尊は是より11町北の山上に祀る。此里に跡たれますことをかうがへみれば、人王40代天武天皇白鳳年中諸国大地震しける時、当国の田苑50余万頃没して海となりし、其田数をかぞふれば150万石におよびぬ。そのかみ二名の島と言ひし時の中央なるまま此仁井田郷を城地となしたらんか。白鳳より安永元年まで1102年、孝霊天皇よりは2063年を経たりき。仰ぐも遠き神のむかしなりけり。
「土佐に今いよの御神の跡たれて 二名の島の昔をぞ知る」
又言、五社は仁井田五城の氏神を祀るとぞ。東 西 志和 西原 窪川此五人之領主五人衆と云。東は天日城主福良介兵衛宗澄。西は川内城主西田彦太郎宗勝。志和城主南波勘介宗茂。西原城主西原摂津守貞清。窪川城主山内備後守宣澄此五人也
▽仁井田五社(校注土佐一覧記p292)
華表は、墓所の前に立てる門や神社の前に建てる鳥居のことである。古くは宮内村三島大明神に長さ十間の大鳥居があり、仁井田の大鳥居として親しまれていた。
宮内村は中古に大華表村(大鳥居村)と称したものか。古くは五社を仁井田大明神といい社殿が五殿あるので五社と呼ばれていた。
南路志には、仁井田郷宮内村に東大宮三島大明神・今大神・中宮・伊予大明神・西今宮・聖宮の五社が鎮座し、それぞれ神職が祭祀を司っていたことを記述している。
仁井田五社として、大山祇・麓山祇・正勝山祇・離(籬または鴳)山祇を記述しており、この四社へ中山祇(伊予大明神)を加えて五社となる。
また仁井田五社の氏神については、東は東大宮とも一の宮とも呼び、三島大明神ともいう。本地は空海作と伝える不動明王である。西は今天神とも二の宮とも呼ばれ、本地は空海作と伝える観音である。
志和は聖の宮とも五宮とも呼ばれ、本地は空海作と伝える勝軍地蔵である。また窪川は中宮伊予大明神と称し三の宮ともいう。本地は空海作と伝えられる阿弥陀を祭っている。
「こうがへ」とは考えるの意。広谷本の二名島は、図書館本では土佐郡で既述している。
茂串・古城(窪川村/校注土佐一覧記p290)
「世の業のしげくしあれば心にも まかせぬ中ぞうとくなりにき」
※世の煩いはいっぱいあるがどうにもならないもの、ケセラセラ(let it be)でいこうじゃないか。(編集子勝手読)
※図書館本系統本では「柿木山(仁井田)」の次に「茂串」として掲載、広谷系統本では柿木山の後に「茂串」、二名島の後に「窪川」とある。
▽茂串(校注土佐一覧記p290)
明応9年(1500)鎌倉から移住した窪川氏が、茂串山(372m)山頂に築城し北麓に居を構えた。所領は2,650石余で、後に長宗我部氏を江戸前期には山内藩家老窪川山内氏の知行となっている。中村・宇和島街道の分岐点にあたり要害の地とされた。
茂串の地名は長宗我部地検帳にも『土佐國七郡郷村帳』にも見当たらず、州郡志に茂串山城として記載されている。今では窪川町の一町名として名残をとどめている。
▽古城
山頂に城跡を有し、古井戸が二基残っている。窪川氏は嗣子二人を文禄の役で失い断絶した。天正17年(1589)の地検帳に39代3歩の「クホ川土居」として記録されている。南路志には窪川村に茂串山古城として記載されている。
窪川(窪川村/校注土佐一覧記p293)
此所の市中にある人隠居し待るを尋て
「のがれては市の住居も山里も 空し心のかくれがにして」
※この町を終の棲家とした友よ、一人静に佇み、行き交う人のそを聞いているのだろうが、旅人の私と同じではないか(編集子勝手読)
「さらでだに距たる物を旅衣 たちこし方の山の白雲」
※世の煩いはいっぱいあるがどうにもならないもの、ケセラセラ(let it be)でいこうじゃないか(編集子勝手読)
※図書館本系統本では「窪川」の記述はない。広谷系統本では柿木山の後に「茂串」、二名島の後に「窪川」とある。ただし、「校注土佐一覧記」では二名島の段を設けていない。
▽窪川(校注土佐一覧記p293)
窪川町の西南部四万十川流域を、近世窪川郷と称しており、この窪川は茂串を中心に拡大した地域をさしたものであろう。
天正17年(1589)の地検帳によると、榊山には「市ハシツメ」「市恵美酒堂」等の市の記載があり、この市町は文化元年(1805)には窪川土居下は54軒に発展している。
窪川村は寛保郷帳には戸数123・人数461・馬45・牛5と記録されている。
▽古城(校注土佐一覧記p293)
古城は窪川土居を指したものか。窪川山内氏は5,000石を領していたが、元和元年の一国一城令で廃城となり、後に後嗣なく享保2年(1717)断絶している。
イチとは
この「市」について佐々木馬吉氏は、今の古市であり、才能境から農協給油所あたりまでで、構成人家が多いと説明している(『天正の窪川』)。中世までの市が、近世になり別の場所に新たな市が形成され、これまでの市を古市と呼び変えたもので、県下各地に古市がみられる。ただ、市の場所から別のイチも解釈できる。 漢字の理解では市場の「市」だろうが、巫女の「佾(いつ)」の転訛もある。周辺のホノギに「石神クホ」「市屋敷」「目代ヤシキ」「エビス堂」とあることから「佾」のイチでなかろうかとも考える。
西原(西原村/校注土佐一覧記p294)
「夕ごりの雲かとみればたく柴の 煙ぞくゆる遠の山里」
※今宵も一人の草枕。西原の里は、あちらこちらで夕餉の煙がたなびいている。家族のぬくもりは久しいなー(編集子勝手読)
※「夕ごり」とは露や霜が夕方に凝り固まることと理解すれば、冬に詠まれた歌か
※図書館本系統本では「西原」の記述はない。広谷系統本では仁井田五社→窪川・古城→西原・古城→寺森(寺野)の順。
▽西原(校注土佐一覧記p294)
窪川村の南、四万十川の左岸に位置し、大永の頃(1521~1527)西原氏が築城し、以来西原村となった。
寛保郷帳には戸数19・人数105・馬29と記載されている。
▽古城(校注土佐一覧記p294)
中世仁井田庄に勢を張った西原氏が後ろ山に築城した。天正ごろ西原紀伊守貞清は新在家村に移り、地検帳には土居1反27代とある。
長宗我部氏の没落後貞清は他国に去り西原氏は滅んだと伝えており、出自が紀州日高庄であったため紀伊守を名乗った。
州郡志と南路志には若井村と西原村や新在家村にその名がみえている。
若井(若井村/校注土佐一覧記p295)
「真柴たく煙にもみつ山賊の 世渡る業の心細さは」
※草枕の夕餉に焚く煙はどうしようもない。それを目当てに山賊(やまがつ)が押し寄せてもしかたがない、「同じ世」どうにでもせい(編集子勝手読)
※世渡る業は世間でいう山賊だけではない。何も盗んでないとはいえ似たような行い(業)はあるのではと深読みする。
▽若井(校注土佐一覧記p295)
西原村の南にあり、高野を含む窪川郷13か村の一つで、寛保郷帳には戸数42・人数215・馬34と記録されている。
峰の上(峰ノ上村/校注土佐一覧記p296)
「越て行くをち方人の跡見へて 折敷のこす峰の椎柴」
※幡多にむかう片坂を急いで降りいく旅人の姿が遠くに見える。一夜の床からあわただしい旅のようすがうかがえる。(編集子勝手読)
※椎柴の季節は晩秋(10月)
※図書館本系統本では「峰ノ上」の記述はない。広谷系統本では寺森(寺野)→川口→秋丸→埜地→天川→若井→峰ノ上の順
▽峰ノ上(校注土佐一覧記p296)
佐賀町との境の片坂に近く、寛保郷帳に戸数10・人数41・馬4という小村である。
「越てゆく」の歌は本山町汗見と同じうたであるが、図書館本には峰の上の記述がない。
天川(天ノ川村/校注土佐一覧記p289)
「数あまた影をうつして天の川 もゆる蛍や星と見ゆらん」
※地平に乱舞する蛍の一瞬の輝きも、明日は天空を回る星に昇華することだろう、わが身はどうなることやら(編集子勝手読)
※与惣太も「天ノ川」の地名に夜空に瞬く流星群を思い起こしたのだろう。この時代も夢多い「天ノ川」の地名だった。季節は仲夏(6月)
※図書館本系統本では「藤川(藤ノ川)」の次に掲載しているが、広谷系統本では秋丸→埜地(野地)→天川(天ノ川)→若井→峰ノ上の順である。
▽天川(校注土佐一覧記p289)
長宗我部地検帳に仁井田郷天川之村とあり、寛保郷帳には戸数5・人数20・馬3が記録されている。
川口(川口村/校注土佐一覧記p295)
「さらでだに流れてはやき月影を 川瀬の水に映してぞ見る」
※そうでなくても世の移ろいは早いもの、今宵の月も川面に仮の姿を映しだし、すーと流れていく。あー私も老いたものだ(編集子勝手読)
▽川口(校注土佐一覧記p295)
天ノ川の西北・井細川と四万十川の合流点に開けた土地で、寛保郷帳には戸数30・人数195・馬37・牛3・猟銃2が記録され、馬の頭数が多い。
御留山と木材運搬
川口は井細川が四万十川との合流点にあり、上流域には国有林野が広がっている。州郡志には折合村の御留山だけでも大江山・根之尾山・須見山・板島山・拂川山・獵屋山・長者奈呂山がある。寛保郷帳に記録される馬の数が37頭と際立って多いのは木材運搬のためではないかと考える。
寺森(寺野村/校注土佐一覧記p294)
「杣木こる斧のひゞきはそことしも いかでことふる谷の山彦」
※木を伐る斧の音がコーンカーン響きわたる。静かな山里も山彦が賑わいの応援団となっている。(編集子勝手読)
※図書館本系統本では「寺森」の記述はない。広谷系統本では窪川・古城→西原・古城→寺森(寺野)→川口→秋丸の順。
▽寺森(校注土佐一覧記p294)
寺森の地名は見当たらないが、寺野の森と解するなれば、寺野は川口村の北に当たり、西は大正町に隣接している。
寛保郷帳には戸数21・人数96・馬13・牛2・猟銃3と記録されている。
秋丸(秋丸村/校注土佐一覧記p295)
「さびしさは草のは山に置く露の 玉も乱るる秋の夕風」
※今宵も草枕となってしまった。先ほどまでの雨もやみ静まり返った山里。風が通り過ぎるだけで、葉末の玉露が流れていく。(編集子勝手読)
▽秋丸(校注土佐一覧記p295)
天ノ川と野地の中間に位置し、寛保郷帳には戸数28・人数152・馬22・牛7・猟銃2とある。窪川町には大野見村境近くに上秋丸がある。
埜地(野地村/校注土佐一覧記p295)
「よなよなの露の宿りもいかならん 秋風そよぐ野地の萩原」
※今宵も野宿となりめいってしまう。萎えた心は秋風になびく萩と一緒、どうしてこんな旅をしてるのだろうか (編集子勝手読)
※季節は三秋。露の宿とあるから野地で宿泊していることになる。
▽埜地(校注土佐一覧記p295)
天ノ川の西南下流に位置し、寛保郷帳によると戸数31・人数137・馬23と記録されている。
上山(上山郷/校注土佐一覧記p365)
「山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮」
※こんな遠くまで来てしまった。旅のかりねに真柴の煙が雲のようにたなびいている。煙は安芸まで届くだろうか(編集子勝手読)
※大正の三ヶ所を詠んだ与惣太の歌はすべて歌碑として残されている。土佐全域を歩いた紀行歌集である土佐一覧記を紹介した山本武雄氏の著「校注土佐一覧記」は、この大正の歌碑を冒頭で紹介し称賛している。歌碑建設に尽力されたのは武政秀美氏である。この歌は、昭和46年大正町中央公民館前に建てられた。
※図書館本系統本では伊与野(宿毛市)→呼﨑(宿毛市)→上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。
▽上山(校注土佐一覧記p365)
上山郷は幡多郡四万十川上流の山間部を占め、大部分は大正町と十和村に含まれ、一部は窪川町と中村市に属している。上山村は上山郷の中心集落で、『西郡廻見日記』には「上山上村18村・上山下村24村」とある。寛保郷帳には戸数94・人数393・馬24・牛4・猟銃16と記録されている。
「山里の」の歌は、昭和46年大正町中央公民館前に歌碑が建てられた。
小石(小石村/校注土佐一覧記p368)
「今宵しも夢にも見つる故郷を こひしの里に草枕して」
※こんなに遠ない山里に来てしまった。懐かしい安芸の故郷を思い浮かべ、今宵はゆるりと夢見で寝るとしよう(編集子勝手読)
※山本武雄氏は校注土佐一覧記を出版するにあたり「はじめに」として、この句碑に敬意を表し冒頭の写真にも大正町にある3つの与惣太の歌碑を掲載している。与惣太の歌碑は、町内に旧大正中央公民館前と下津井保養センター、その他県内に2カ所、与惣太の地元の室戸市役所前と南国市十市の石土池の湖畔にある。江師保養センターは現在大正温泉となっている。
※大正で詠まれた三首の歌は、それぞれその所在に歌碑として刻まれているが、建設にあたって尽力したのが武政秀美氏である。彼の自伝「里に生きて里に死す」の第2弾が刊行されたら、その経緯が分かっただろうがその前に亡くなってしまった。残念
▽胡井志(校注土佐一覧記p368)
梼原川と仁井田川の合流点のやや上流に位置し、州郡志には「戸僅に2戸」とみえる。寛保郷帳には戸数4・人数7と記録されている小村である。対岸の江師は戸数35・人数181・馬15・牛2・猟銃8と記されている。
昭和45年「今宵しも」の歌碑が、小石を一望できる江師の保養センターの庭に建てられた。
33.295355,132.945085
矢立森(校注土佐一覧記p366)
「かり人の矢立の森を分け行けば 妻こもるとや鹿ぞ鳴なる」
※深山・矢立の森に狩りにでかけた。鹿はオスを鳴き続けるのに、残された私は家に籠って静かに待つのみである(編集子勝手読)
▽矢立森(校注土佐一覧記p366)
矢立森(718m)は小石の北・大奈路から旧街道に入り梼原への途中にある。今は西峰山と呼ぶ。
「かり人の・・」の歌は、下津井のヘルスセンターに歌碑が建てられている。
矢立往還
校注土佐一覧記では「矢立森」を西峰山(718m)とし、所在を下津井と比定している。梼原川と中津川の分水嶺となる稜線にある。矢立森は矢立往還にある奥山といった意味合いではないか。矢立往還は、大正大奈路から中津川と梼原川の間の稜線を松原に向かう旧往還である。それなりに整備されて往還の名残りを味わいながら登山することができる。
「矢立」は筆記用具か箙か
「矢立」とは旅人などが携行する筆記用具のことであるが、矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器「箙(えびら)」の意味もある。旧往還道であることから旅人の携帯用筆記用具が似合うが、「かり人の・・」の歌のとおりこの奥山は狩猟の地でもある。千葉徳爾氏の『狩猟伝承』に「日向の山間では猪を撃ち取って分配し終わってから、三発空砲をうって山の神に感謝の心をあらわす。これをヤタテという。古くは弓矢を用いて行った儀礼を、鉄炮の時代に入っても行い、名称もそのままヤといったものかと思われる」とある。
矢立地名は東北や九州の奥山に多く分布することから狩猟地名と理解したい。「矢立」のほか、「立目」「松尾」「鳥越」「シガキ」「ヌタ」「イザキ」「サルウチ」「ハシリ」なども狩猟地名の一つと思える。
止止路岐(上山郷轟村/校注土佐一覧記p367)
「そよふけに夢も結ばず嵐吹く 夕とどろきの里の旅寝は」
※その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていった。轟の里で今宵も一人、草枕(編集子勝手読)
※図書館本系統本では上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。
▽止止路岐(校注土佐一覧記p367)
大正町の西、愛媛県境の村で、江戸時代は上山郷下分と呼ばれており、寛保郷帳には戸数5・人数22・馬1と記録されている。
トドロ
トドロは川の水が落ち込む落差で大きい音がする、その水音に由来する地名。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなどの地名が各地にある。四万十町にも、トドロガ谷(寺野)、轟頭(野地)、コトドロ(家地川)、トドロ上(家地川)、轟川(見付)、轟﨑(東川角)、轟口(東川角)、西轟山(宮内)、轟ヶ市(窪川中津川)、轟(床鍋)、轟ヶ谷(与津地)、轟山(与津地)、轟(志和)、轟﨑(大正)、轟山(瀬里)、轟ノサコ(相去)、轟瀬ノ岡(浦越)、トドロホキ(昭和)がある。
昭和に轟集落があり、校注土佐一覧記ではここを比定地としているが、浦越にも「轟の上」という地名(地理院地形図)があり大正にも轟崎があり、その上流には通称「瀬里轟」という。浦越の瀬は「二艘の瀬」と呼ばれる四万十川中流域で一、二番を争う瀬で、カヤックをする者にとって「行くか、陸を曳くか」思案する場所でもある。瀬里轟も二艘の瀬と争う激流。川音の激しさは二艘の瀬ではあるが、三島神社が鎮座するこの地であり、昭和の轟を比定している校注土佐一覧記は正当といえる。
難読地名
檜生原(ひさはら)、市生原(いちうばら)、越行(えっきょう)、神野々(こーのの)、八千数(はっせんず)、金上野(きんじょの)、相去(あいざれ)、上宮(じょーぐー)、下藤蔵(げとーぞー)、茅吹手(かやぶくて)、相後(あいご)、実弘(さねひろ)、柳瀬(やなぜ※松葉川地区の七里・やなぎせ※十和地区の井﨑)、六川山(むかわやま)、井細川(いさいがわ)、吹の峰(ふきのとー※大正側・ふきのみね※十和側)