与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。
掲載する内容は
①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)
②旅人の記録
③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)
④所在地
⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)
⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
⑧編集人のつぶやき
※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。
役所所在地:室戸市浮津25番地1
郵便番号:781-7185
電話番号:0887-22-1111
FAX:0887-22-1120
メールアドレス:
■地勢
県都高知市の東方78kmに位置し、太平洋にⅤ字形に突出した日本八景の室戸岬を中心に東西53.3kmの海岸線を有している。地形は面積の約8割以上を山林が占め、南北に山脈が縦走し、海岸近くでは特異な海岸段丘を形成している。気候は年間を通じて温暖であり、亜熱帯性気候の性格を帯びている。年平均気温は16℃台、年間降水量は、2000mm以上と高温多湿な特徴をみせビワをはじめ作物の栽培には絶好である。
■歴史
大化の改新の後.室津郷が置かれて以来の古い歴史を持ち、弘法大師により最御崎寺、津照寺、金剛頂寺がひらかれ、東土佐文化の中心として栄えてきた。また、藩政時代には網捕鯨の振興、津呂、室津港の開削が行われ水産都市・室戸発展の礎が築かれた。明治22年4月の市町村制実施により佐喜浜、津呂(昭和4年に室戸岬町に変更)、室戸、吉良川、羽根の5村が生まれ昭和18年までに羽根村を除く4村に町制がひかれ、昭和33年9月25日に新市町村建設促進法に基づく5か町村合併が各町村議会で議決され昭和34年3月1日に5か町村が合併し「室戸市」として発足した。市制発足以来、激動する経済社会情勢の中で、長期的な視点に立ち総合的・計画的・効率的な行財政運営を推進するため、昭和36年3月「室戸市建設計画」、昭和44年4月、昭和47年11月、昭和55年3月にそれぞれ「室戸市振興計画」を、平成3年3月、平成13年3月に「室戸市総合振興計画」を策定し、「豊かな住み良い都市」づくりに努めてきた。更に「室戸の自然や資源を活かした産業の振興と、これまで育んできた歴史や文化を大切にし、健康で心豊かに安心して暮らせるまち」づくりを将来像として、平成23年3月に「室戸市総合振興計画」を策定した。
■文化観光
室戸岬
太平洋の荒波が打ち寄せる室戸岬は昭和2年日本八景の一つに選ばれ、亜熱帯性樹林や海岸植物が国の天然記念物となり岬一帯が昭和3年名勝の指定を受け、昭和39年には「室戸阿南海岸国定公園」の指定を受けた。平成8年には「日本の渚・百選」に選定された。また、台風銀座として有名で山上には台風観測レーダーが設置されており、平成6年には風力発電所が設置された。岩礁に砕け散るダイナミックな荒波、一面に漂う潮の香りの中で、白亜の室戸岬灯台はひときわ美しい。冬でも霜の降りない温暖な気候が産んだ、ハマユウ、アロエ、アコウ、アオギリ、ハイビスカスなどの亜熱帯植物、青く高い南国的な空が室戸の魅力のポイントである。
御厨人窟(みくろど)
およそ1200年前若き日の弘法大師が室戸の地を修業地として、難行苦行の末、証悟したと伝えられている。また大師がこの洞窟から見える空と海に感銘を覚えた事から空海の名前につながったといわれており、平成8年には「室戸岬・御厨人窟の波音」が、「残したい日本の音風景百選」に選定された。
土佐室戸鯨舟競漕大会
江戸寛永年間より明治の末まで続いた室戸の古式捕鯨、その歴史を思い起こし復元された勢子舟によるレースが毎年7月中旬に開催される。
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼入木村(いりき)八まんの宮
▼并川
▼さきのはまうら
▼おさき村
▼かぶか坂村
▼しゐな村
▼かみみつ村
▼下三津村
▼東寺(最御崎寺)
▼津呂浦
▼津寺(津照寺)
▼むろ津浦(室津浦)
▼西寺(金剛頂寺)
▼うきつ浦
▼行道さき
▼土石硯石
▼もと村
▼ぐろみ村
▼きらかわ村
▼はね浦
1808年(文化5年4月21日~25日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▽ころころ石
▼入木村
▼佐喜浜浦
▼尾崎村
▼清水
▽椎名村
▼三津浦
▼津呂浦(往古は津呂を東寺村)
▼高岡村
▼室戸山明星院最御崎寺(東寺)
▼大師堂
▼四十寺山(東寺の続き山)
▼室津浦(五六百積の湊なり)
▼宝珠山津照寺(津寺)
▼浮津浦
▼元村
▼竜頭山金剛頂寺(西寺)
▽元浦(硯石)
▼行当崎(行当村あり)
▼吉良川浦
▼羽根浦
▼尾僧村
1808年(文化5年3月26日~4月25日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼入木村
▼崎の浜
▼日置坂
▼鹿岡(かぶか)
▼椎名村
▼三津浦
▼三つの浜
▼三崎の岩屋(神明窟・御厨人窟)
▼東寺
▼津呂浦
▼室津
▼津寺
▼浮津川
▼浮津
▼平等(ならし)
▼ならし川
▼元村
▼元川
▼硯の浦
▼行当の端(はな)
▼岩屋・切不動
▼吉良川
▼尾僧
▼羽根の中山
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼法界庵
▼入木村
▼おさき村
▼かふか坂村
▼しない村
▼上ミつ村
▼下ミつ村
▼ヒシャゴハイ石
▼合間権現
▼石地蔵
▼御加持水
▼金石
▼女人庵
▼廿四番室戸山明星院最御崎寺(東寺)・二王門・鎮守八幡社・愛宕社・天満宮・大師堂
▼津呂浦
▼久保津浦
▼津浦
▼二十五番寶珠山真言院津照寺・二王門・大師堂・妙見堂・金毘羅堂
▼うきつ浦
▼道崎
▼くろミ村
▼もと村
▼二十六番龍頭山光明院金剛頂寺・二王門・鎮守熊野社・多宝塔・弁天社・奥院
▼きら川村
▼はね浦
▼はね石
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼入木
▼舟場
▼四十寺山
▼津呂
▼菜生
▼奈良師
▼行当
▼新村
▼黒耳
▼櫨山(枦山)
▼羽根
▼命谷橋
33.423221,134.222181
いろいろの千種の花の分け入り
桐の籬に秋をふかめて
室戸市の東端にあり、州郡志には戸数七三とみえ、天正の地検帳には入木村196石5斗5升4合と記されている。
(校注土佐一覧記p38)
33.547171,134.300759
このサイト欄の
『平成の土佐一覧記』は
本年10月、室戸市の
現地調査実施後に執筆予定
■統計(入木村→入木)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 40 | 72 | ||
人数 | 204 | 365 | ||
馬 |
8 |
|||
牛 | 33 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
33.400716,134.209692
行さきの浜の浜ゆふそのままに
路守るてふ神に手向けん
野根山東南麓を源流とする佐喜浜川流域に開け、州郡志には崎浜村とあり、13の小村を合わすと戸数は276(入木を含む)。別に崎之浜浦が戸数200余と船10と記録されている。
(校注土佐一覧記p38)
■統計(崎浜村→佐喜浜) ※入来・尾崎を除く
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 323 | 816 | ||
人数 | 1、564 | 3、301 | ||
馬 | 39 | |||
牛 | 143 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
■統計(椎名村→椎名と鹿岡・清水・飛鳥)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 75 | 223 | ||
人数 | 429 | 987 | ||
馬 | ||||
牛 | 75 | |||
猟銃 | ||||
船 | 21 | |||
網 |
室戸市室戸岬町椎名
椎名浦のおくにあり
風はやみ高根は晴れて村雲の
たつみが谷は時雨てぞ行く
椎名川の支流で三之谷であろう。巽は方位で東南の方角を意味しており、美濃山近くの谷である。
(校注土佐一覧記p40)
33.322926,134.172421
此山の紅葉を見て
山高み里にしられぬ時雨にや
ぬるで紅葉のはやく染らん
室津と椎名を結ぶ最短距離の十連坂にある標高358メートルの山である。
(校注土佐一覧記p41)
※『州郡志』には椎名村の段に山川として「十連山」「四十寺山」が書かれている。
此山は海辺の高山なり
みの山や室戸の沖を見渡せば
限りもなみの末の白雲
十連坂の南にある標高383メートルの山で、寛永初期に津呂浦の多田五郎右衛門が捕鯨を始め、冬の下り鯨を捕獲するための「海見」(山見)と称して見張り番を置いた。図は合図の標識で、海見は他に山見の鼻と日沖や三津の鳥越等に置かれたようである。
(校注土佐一覧記p41)
※ここに国土地理院の三等三角点が設置されているが点名は「四十寺(しじゅうでら)」で、点の記には「標高:382.96m、所在地:室戸市室津字四十寺山3065番1」となっている。
※点名となっている四十寺は室津側から登れば標高313mにある霊山・四十寺を越えさらに登った先である。
此山みの山につらねたる峰にて
眺望たぐひなし
土佐の海紀の路をさして行く
船は波に木の葉の浮ぶとも見る
標高313メートルの霊山で、最御崎寺(東寺)が最初に堂宇を建て地と伝えられている。南路志には「往古当寺は今之寺地より子丑の向に当たり、凡一里半ばかり奥四十寺山と申高山に有ㇾ之」とし、山頂に昔の寺堂床の跡があると記述している。
(校注土佐一覧記p42)
袖ぬれて立こそかへれ貝拾ふ
干潟に汐やみつの浦人
椎名の南に位置し、近世に入って三津・高岡・坂本を三津村と呼んでいた。津呂港が改修されて坂本は津呂に吸収された。
捕鯨基地となったのは享保3年(1718)港の改修が行われてからで、漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった。
(校注土佐一覧記p42)
※『州郡志』には東寺村の四至に「自高岡界至椎名界之間」とあり、寺社・薬師堂について「在三津村」とあることから、当時は東寺村の村名が正式であったかと思える。また、高岡村坂本村の段に東寺領と記載されていることから東寺を核にしてまとまっていたといえる。
■統計(三津村<東寺村>→三津・高岡上・高岡下)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 84 | 318 | ||
人数 | 370 | 1、435 | ||
馬 | 21 | |||
牛 | 26 | |||
猟銃 | ||||
船 | 12 | |||
網 |
見るほども波に明け行くかげもをし
室戸が崎の夏の夜の月
高知県の東南端に位置し、太平洋に突き出た岬で、空海が唐から帰国後、大同2年(807)最御崎寺を建てた。俗に東寺と呼ばれ標高180メートルの山上にあり、室戸山明星院最御崎寺と称し四国八十八カ所二十四番札所である。古くは室津庄と安田庄と潮江庄を領していた。
(校注土佐一覧記p43)
日本新八景に室戸岬
昭和2年の春、大阪毎日新聞と海岸の部で鞆の浦に勝利「仁丹に負けるな」の投票運動2,618,892票(次点鞆の浦1,914,630票)
此石は室戸崎の窟の辺にあり。色黒き細石にきらきらと光ありて誠に星のどとし
室戸崎日も暮ゆかば夕つづの
星の名におふ石やてらさん
室戸岬にある「斑れい岩」のととである。『今昔物語』巻十一第九話弘法大師渡唐伝真言教帰来語に、空海が「求聞持ノ行ヲ観念スルニ明星口ニ入ル」とあり、口中に飛び入った明星を海に向かって吐き出したところ、その光水底に沈みて今にありと記し、明星石が生まれたと伝えている。
(校注土佐一覧記p44)
33.251537,134.180660
比内に愛満権現を祀る大なる岩窟有て、室戸崎の俚語に昔牛鬼此窟にすみたりとぞ
世に知らぬ岩屋の奥も住めば猶
うしとて鬼や出て行けん
空海が青年時代に室戸岬先端の洞窟の御厨人窟(みくろどう)で修行し、虚空蔵求聞持を悟った聖地である。近くに空海入定1150年遠忌を記念して青年大師の巨像が、真言宗豊山派により建立されている。
洞窟は二つあり、北は神明窟で天照大神を祀り、南が御厨人窟で五社権現(愛満権現)を祀っている。
(校注土佐一覧記p45)
33.265748,134.165597
此所に湊あり。岩を伐りぬき掘なしたれば類ひ稀なる湊にぞありける。浦の名をかくして
いづれをかあだなりと見ん玉笹の
露にうつろふ稲妻のかげ
土佐捕鯨発祥の地で、多田五郎右衛門が寛永初年捕鯨を始めている。
津呂港は天然の船溜まりを石州浪人最蔵坊が開削し、さらに寛永・慶安年聞にも改修が行われ、寛文元年(1661)野中兼山が大工事を行い、現在の旧港ができている。
谷真潮は、野中兼山の改修以降、宝永地震のため隆起して浅くなった港を見て、
室戸崎掘りし港の勲しも
甲斐なきばかりあせにけるかな
かくしつつ埋みやはてん室戸崎
岩根うげちしあたら湊を
と詠んだ。
(校注土佐一覧記p45)
■統計(津呂村→津呂・坂本) ※津呂には菜生を含む
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 242 | 1、145 | ||
人数 | 1、280 | 4、925 | ||
馬 | 21 | |||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | 72 | |||
網 |
郭公いづこはあれどふり出て
初音聞かせよ耳崎の山
室津城主惟宗長氏が、長宗我部元親の進攻に備えて出城を築いた山で、今では多田山とも城床山とも呼び、津呂組捕鯨の多田氏の墓苑がある。頂上から室戸港や室戸平野が一望できる。出城を師後の城と呼んでいた。
(校注土佐一覧記p46)
古歌
水底の月の上より漕ぐ船の
棹にさはるは桂なるべし
紀貫之
室津川左岸と中流に早くから開けており、承平5年(935)正月11日から20日まで、紀貫之が凪待ちのために十泊した「むろつの泊」で、土佐日記の中でも一番盛り上がりを見せる場面である。
今村楽は室戸十景を選んで歌を詠んでいる。
(①室戸帰帆・波戸崎納涼・津照寺晩鐘・四十寺山暮雪・愛宕山秋月・伊曽田落雁・芽子原牝鹿・平等津夜雨・三角山晴嵐・硯賀浦夕照・
(校注土佐一覧記p47)
※校注一覧記の著者・山本武雄氏は土佐日記の「むろつの泊」の場所は室津としているが、「むろつの泊」の別位置として鹿持雅澄や土佐史談会の大御所・寺石正路氏が「津呂説」を唱えていたことを述べていない。
その上、氏は、津呂の段で津呂港わきにある「紀貫之朝臣泊舟之處」の碑の写真を載せながら、その誤りの注釈を入れていないのは土佐郷土誌の父といわれる寺石氏への遠慮なのか不思議である。
佐藤省三氏は『土佐日記を推理する』で津呂説を①当時は川湊が主流②掘り湊をつくる室戸郷の人力不足③津呂には集落が形成されていない等で否定している。
※紀貫之の歌「水底の・・・」の現代訳がある。『水底の月のうえを通って漕ぎ進む船の棹さきにゴツゴツと触れるものは中国の古い伝説にいう月の中に生えているという桂の木らしい。』
■統計(室津村<領家村含む>→河内~大谷・町分の2)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 323 | 1,675 | ||
人数 | 1、453 | 7、211 | ||
馬 | 93 | |||
牛 | 230 | |||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
しげりそふ緑も波にうつろひて
松の下行く水の涼しさ
室津城は現在ハザマと呼ばれ土居山にあり、近くにマトバの字名も残っている。城主の室津氏は惟宗氏とも言い、古くから安芸郡一円に勢力を張っていた土豪である。
(校注土佐一覧記p51)
小山田の室のはや早生ほに出て
いつしか秋の色を見すらん
室津城の麓に上里・下里があり、州郡志には土居村とみえ領家・蔵戸・稲石・長野の名と共に、古くから農耕の中心であった。
(校注土佐一覧記p51)
此社は天津彦根命を祀ると式社考に見えたり。室津古城の北川の辺りなる小高き森に鎮座す。延喜式神名帳に記して当国二十一座の一社なり
川の辺に天の御神の跡たれて
深き恵のながれをぞくむ
室津川西岸・室津城跡の北方尾根の小丘に鎮座し、延喜式神名帳に載る二十一社の一つで、室津神社である。
俗に天の神とも天津大明神とも呼ばれ、谷秦山は凡川内直の祖神を祭ったものであるとしている。
(校注土佐一覧記p52)
難読地名
飛鳥(あすか)、安居(あんご)、稲石(いなし)、入木(いるぎ)、奥郷(おーこ)、鹿岡(かぶか)、川長(かわたけ)、北生(きたおい)、行当(ぎょーど)、蔵戸(くろど)、黒耳(くろみ)、新村(しむら)、苫坂(とまさか)、菜生(なばえ)、平等津(ならし)、畑古矢(はたごや)、日南(ひなた)