『土佐一覧記』を歩く⑮中村
武内 文治
川村与惣太は、中村を訪ね「中村の古城と言ふは一条公の城也」のひとことから、土佐一条公の兼良・教房・房冬・房基・兼定(康政)の五代の歴史を述べ最後に、康政公の和歌“植置し庭の藤なみ心あらば 此春ばかり咲な匂ふな”を引用して次の与惣太の歌でくくっている(兼定と康政を同一人として書かれている)。
立帰り昔の春ぞ忍ばるる
咲かず匂はぬ藤なみの跡
川村 与惣太
この歌に詠まれる「藤」は藤原氏にゆかりのある花だが、藤の花を臨終時にたなびく紫雲=往生の証拠としてありがたがり、戦火に向かうわが身の行く末を藤の花にかけたのであろう。次に中村と題して
何処ぞと問わずとも知れ前うしろ
二つの川の中村の里
川村 与惣太
なんといったって中村は一条さんの町。松葉のような愛でたい二つの川こそ、土佐の小京都である証だ (勝手読)
一条公が京都をしのんで中村の町づくりをしたという、その二つの川は、四万十川(桂川)と後川(鴨川)。
松葉に抱かれた幡多の都は、一条公が幡多庄に下向していらい、それまで、土地に依存してきた「荘園領主」中村から、北幡の木材資源の流通や明貿易により「経済都市」中村へと脱皮していった。単に応仁の乱から逃れたというより戦略的な意図が感じられる。幡多庄といっても窪川台地も含まれ、遠く土佐市蓮池まで軍事侵攻した武士集団でもあり、海外貿易を実行できる技術集団でもある。たんなる中村のお公家さんではないのだ。
江戸後期に歩いた与惣太が「中村」と歌に詠んだ中村の地名がちょっと複雑だ。教房が下向し住まいを設けたのは幡多庄の「土佐波多中村館」で別の記録では「土佐波多御所」「土佐御所」「中村御所」とも称されている。
中世の景観を示す『長宗我部地検帳』には幡多郡中村郷地検帳として、津崎村・不破村の次に中村築地口(鬼ヶホキ)、中村トウメキ、中村蔵谷と続き、いったん宇山村に移り、次に中村宮田少路、中村下町、中村崩岸、中村左岡、中村利岡、中村興村と記されている。この中村〇〇が村方(郷分)で、次に市屋敷として立町東町、新町南之町、上町北ノ町などの町方(街分)が続いて記される。中村には狭義の中村と広義の中村の意味を併せもっているのだ。
明治二十二年の町村制施行により、村方の中村と、市屋敷をもとに発展した商業地域の町方・中村町と、周辺の右山村・角崎村・不破村が合併し、村の名称が「中村」となった。本来自治体名称は地域名称に行政機関名称である市区町村を付して決定されるが、明治の合併で村制を布くときに中村+村ではなく、単に中村とした。複雑になったのは明治三十一年に町制を布くおりに、中町とはならずに中村町となった。加えて平成の合併では中村市を廃して四万十市となった。自治体の名称はどうでもよくて、中村の歴史的名称はかわらないというプライドなのだろうか。
そう、中村は大都会なのだ。
中村高校に入学したのは五十年以上前のこと。大正から高知県交通のバスで杓子峠を越えて中村に来た。京町五丁目の近藤芳子さんの下宿で三年間過ごした。田舎からみれば中村は都だった。すべての時間と空間は自分のものと思った。ラジオの深夜放送に聞き入ったし、友人と朝まで話もした。バイトも家庭教師や新聞配達と転々とし、矢部酒店の酒の配達は二年間続いた。遊ぶ金は自分で稼いだ。一年一組で出会った二人の友人、江戸アケミとKHK家庭放送局のヨシツグも今はいないが、それでも中村は一番好きなところだ。常連やカテコテで呑むと、きまって定宿の寿吉まで街角をぶらりと歩きながら「あのとき」を懐かしむ。
(次回は「四万十川」)
『土佐一覧記』を歩く⑭小松
武内 文治
川村与惣太の『土佐一覧記』は、土佐一国をくまなく見聞し、その土地の地名や故事とともに自らの歌を寄せた行脚の記録である。当時の地名や名所を項立てする形で綴られその数五百五十七か所。なかには地図から消えた地名もある。その一つが「小松村」である。
姫小松うつし植てや今日よりは
ふせ屋のつまに千代を契らん
川村 与惣太
布施屋でもないのに一宿一飯のお世話になった。丁度、浜ノ川でいただいた松の苗を感謝のしるしにここで育てることにしよう(勝手読)
甲把瑞益が江戸中期の仁井田郷をまとめた地誌『仁井田郷談』に「相生の松」が書かれている。西行も貫之もここに来て詠んだという古松は、四万十町仁井田の浜ノ川集落にあったという。相生の松は「長寿」とともに雄松雌松二つの松が寄り添って一つの松のようにみえることから「和合」の象徴とされる。
「ふせ屋(布施屋)」とは日本各地に作られた旅行者の一時救護所であるが、この小松村にあったとは思えない。伏屋と漢字を当てれば、屋根の低いみすぼらしい家のことでもある。旅人の与惣太を温かく一夜をもてなしてくれた奥方に「ふせ屋のつま」とかけて感謝を詠んだのであろう。ただ、「千代を契らん」とはただ事ではない。
この小松村は、浜の川集落から谷上りの山越えで東川角に折り付くところである。長宗我部地検帳にも村名の記録はないが、小松ノ川のホノギがあり、カミ大田・イツリハ谷など東川角の小字に比定されるホノギもある。この『仁井田郷談』に仁井田庄本在家郷十二か村の一つの村として「小松村(田地三拾一石弐斗一舛三合)」とあることから、川津野村の枝村であったと思える。
現在は居住する家はなく四万十堆肥センターの施設が見えるだけで、「小松」という地名がここらあたりにありますかと尋ねても地元の人ですら誰も知らないという返事だ。
大野晃さんが「限界集落」の概念を提唱して荒廃する中山間地の諸問題について発言されていたが、今は「消滅集落」という言葉が使われだした。四万十町でも「島戸・大鶴津・小鶴津」など海岸域で消滅集落となっている。
オープン・ヒナタ(https://kenzkenz.xsrv.jp/open-hinata/#s81hPv)のサイトを閲覧すれば確認することができ、黒潮町では「若山(川奥)伊與喜川(伊與喜)平野(伊田)黒瀬(有井川)三軒屋(有井川)旭川(加持川)」の地名が地図から消えている。
このように現代の地図から消えた地名を書籍にしたのが『地名レッドデータブック』。戦前の地形図から消えた地名八万三千あまりの古地名を記録した貴重なデータ集である。テレビでは「ポツンと一軒家」が人気番組となっている。人里離れた一軒家で暮らす人物をとりあげる人生ドラマ。なんの理由で、どんな暮らしをしているのか、高齢者のたくましい生き方は世間の関心事でもある。
高知県は限界集落や消滅集落の先進地。昭和三十五年頃から山の暮らしが成り立たなくなり都市部への職の移転が進み山間の集落人口は激減しはじめた。昭和四十年代、高知で唯一、行政支援により「廃村」にむけた集団移転をしたのが「山の街」といわれた芸西村久重地区である。いまでも「村の記憶」は生きており、祭りと久重小学校の同窓会は定期的に開かれているという。通称「久重会」の集まりがあり、訪ねてお話を伺ったことがある。地図から消えた集落名は「宇留志(21戸)加重(19戸)板渕(15戸)ツヅラヲ(7戸)・大屋敷(7戸)」。ツヅラヲの集落跡は今でも廃屋が残っている。村を去るとき屋敷地周りには帰ってこないという決意からか木が植えられた。墓石を担いで墓じまいもした。遷座した神社もあるという。
芸西村にはカシオオープンで有名な高知黒潮カントリークラブもあり、そのゴルフ場開発で消えた恵馬集落もある。集落が消えるのは過疎だけでなく大規模開発でも見られる。南国市久枝の茶ノ芝・山ノ前集落は、龍馬空港の滑走路となっている。その山ノ前集落の北に25mの小山があった。幾度も津波から守った小山を地元の人は「命山」と呼んでいた。今は、空港ビルが命山となっている。ダムに沈んだ村もある。小さな四国がそれなりに工業化していったのは「四国のいのち」早明浦ダムの四県分水によるものだろう。
歴史とは繁栄と衰退の振幅に他ならない。ここ幡多の辺地も便利になったが、山に生きる「文化」は消えつつある。
(次回は「中村」)
『土佐一覧記』を歩く⑬藤ノ川
武内 文治
ここ、藤ノ川は四万十市西土佐にもあるが、窪川の一連の歌とともにあることから四万十町の藤ノ川といえる。上ノ加江から志和を経て窪川台地にたどりついた川村与惣太は、東又川の川面に映る紫の藤の花を集落の名称に充てて詠んだのだろう。
咲かけてうつろふからに紫の
色なほ深き藤の川なみ
川村 与惣太
藤の花はいつまでもその紫をとどめることはできない。花の盛りは過ぎて衰えてしまうが、それを忘れまいと藤ノ川の川面にその色をとどめている。そこには老いた私の顔も映っている(勝手読)
藤の花は藤棚で鑑賞するためによく植えられるが、「フシ」は柴(シバ)の古語。山野に生える小さな雑木の総称として呼ばれ、薪等の生活資材に利用されることから、県内各地で伏原や藤藪の地名が刻まれている。特に藤蔓はツル性の植物として結ぶ・巻く・括る・束ねる・縛る・引っ張るなど貴重なカズラとして重用された。
辻重憲は『史談くぼかわ・第五号』で藤ノ川の地名について「藤ヅルは農民にとっては大切なものであった。この藤ヅルの多く生える土地との意味であろう」と述べる。
一方、中村の郷土史家・岡村憲治は『西南の地名』で「藤ノ川 渕のある川沿いの集落の意と考えられ、平家落人の伝説などがある」と、西土佐村藤ノ川(現四万十市)、窪川町藤ノ川(現四万十町)、土佐清水市藤ノ川(宗呂)の事例をあげ、藤地名の多くは樹木ではなく淵に由来するものと別の説を述べる。
いずれにしても、藤葛は暮らしに欠かせない植物として縄文時代から昭和の時代まで利用されており、有名な「祖谷のかずら橋」は橋の構造材にも使われてきた。そういった意味からも「藤」の名の付く地名は多く、大字では四万十町藤ノ川のほか、香美市土佐山田町繁藤、仁淀川町藤ノ野、黒潮町の藤縄、四万十市の藤・若藤・西土佐藤ノ川があり、小字ではフヂが五十三か所、フジが三百七か所ある。
文献にでる「藤」は、古くは『古事記』に「布遅葛(フヂクズ)を取りて、一宿の間に衣・褌及び襪・沓を織り縫ひ」とあるように、フヂや葛の皮の繊維などで布を織り、眼の荒い粗衣としてつくられたと説明され、万葉集でも「藤衣」の歌が二首詠まれている。
須磨の海人の塩焼き衣の藤衣
間遠にしあればいまだ着なれず(四一三)
大君の塩焼く海人の藤衣
なれはすれどもいやめづらしも(二九七一)
藤衣は労働着として利用されたというが、動物性繊維(絹・綿)は位の高い人、植物性繊維(木綿・麻・楮・藤・葛)は身分の低い人と、衣類には貧富の差があったという。
「藤」地名の語源については、もう一つの説がある。富士の裾野の山容を、藤の「垂れ下がる形状」にあわせて「長いスロープの美しい形態」をフジと呼ばせた地形地名説である。ただし、藤は、古事記に記されているようにフヂで、富士はフジ。文書作成ソフトでは藤はフジと入力しないと漢字変換できないが、本来はフヂであり、上代語の解釈で言えば別物である(地検帳のホノギもフチとある)。
余談となるが富士山について。
富士山の文献上の初出は『常陸風土記(七一三年)』の「福慈」、もう少し後の『万葉集』には「不尽山・不士能高嶺」などで「富士」の漢字は平安初期の『続日本記』に初めて現れるという。つまり、八世紀初頭まではフジ山は別の名前だったことになる。谷有二の『山名の不思議』に
「阿蘇・熱海・浅虫や信州の浅間山など南方系言語では、アサマの「asa」は煙(活火山)や湯気(温泉)を意味する。白村江の戦い(六六三年)の大敗戦後の渡来人による大移動が原因で「フジ山」に置き換えられたのかと考える。」
と述べる。
山をご神体としてその山名を神社名とする事例はあまたあり、富士山をご神体とする浅間大社(せんげんたいしゃ)は本来なら富士大社と呼ばれていたはずである。浅間のアサマこそが富士山のもとの名ではなかったか。
古代ヤマト王権による白村江の戦いの敗戦がターニングポイントとなり、日出ずる国の象徴ともいえる富士山の山名が新たにつくられたという歴史の皮肉は面白い。
藤の話がヘチにそれてしまった。
(次回は「畑焼山」)
『土佐一覧記』を歩く⑫立目
武内 文治
四万十町窪川から四万十川を下り口神ノ川から大向にさしかかる所を「立目」といい、それより西の地域を立目の西の合成で立西地域という。川村与惣太はこの地域が好きなのか天ノ川・川口・寺野・秋丸・野地の五地区で和歌を詠んでいる。
数あまた影をうつして天の川
もゆる蛍や星と見ゆらん (天ノ川)
さらでだに流れてはやき月影を
川瀬の水に映してぞ見る (川口)
杣木こる斧のひゞきはそことしも
いかでことふる谷の山彦 (寺野)
さびしさは草のは山に置く露の
玉も乱るる秋の夕風 (秋丸)
よなよなの露の宿りもいかならん
秋風そよぐ野地の萩原 (野地)
川村与惣太が『土佐一覧記』で詠んだ地区は五百五十八地区。なかでも一番の詠まれた地域が立西地域の五地区であろう。川口を中心として、半径三km円に入るくらいの距離である。何が気に入ったのだろうか、歌からは読み取ることはできない。ただ、『土佐一覧記』の窪川の段の詞書に「此所の市中にある人隠居し侍るを尋ねて」とあることから、その隠居宅で宿をとり、窪川のよもやま話から、ここを拠点にして廻り歩いたのかもしれない。
この立西地域の基準となる「立目」の地名が気になる。
須崎・浦ノ内の「立目ポンカン」は有名だが、高知県下に立目(タチメ・タツメ)の小字が67か所に分布し、黒潮町でも蜷川にタツメとあり、四万十町には若井・中神ノ川・大向・奈路・大井川にもある長宗我部地検帳にも記される中世以前の地名だ。
立目とは何か。
弓道で弓を放つ回数を立目と呼ぶのは聞いたことがある。矢を引き、その目が先の目を射る、凛とした立身からイメージとして理解できるが、各地に弓道場があるとは思えない。
どの地名辞典にも「立目」の説明はないが、『綜合民俗語彙辞典』のタツマの項に、「狩猟の撃ち手の配置をいう。熊の通路を見つけておいて出てくるのを狙撃する。“立待”の意から出た語ではないか。栃木県ではタツメ、伊豆半島ではタズマ」とある。立待がタチメに転訛し、狩猟を生業とするものにとって重要な場所であったからこそ地名として刻まれたもので、弓道の立目もそこからきたものと思われる。
口神ノ川と大向と川口の境となるここの立目は、穿入蛇行する四万十川の首に位置し緩やかな撓みのある峠となっている、まさしく狩猟の立待する地形である。同じく大井川の立目は、付近に「保登峠」「折付」など往来地名も多く、大井川から八木を経由して井﨑に向かう往還道でもある。獣の通路でもあり、狩猟の最適地であったことだろう。
それにしても、与惣太は野宿を詠んだ歌が多いが、旅籠屋に泊ったという記述はない。
十年前から『土佐一覧記』に詠まれた土地を東は東洋町の甲浦から西は宿毛の松尾峠まで歩いているし、三年前には松浦武四郎の歩いた四国遍路の記した地名を訪ね歩いたのだが、一日に三、四十km歩いて一番の楽しみは風呂と食事である。風呂に入れば体の奥底から深い息がほーとでるし、極楽極楽と声が自然にほとびでる。与惣太の歌にはそんな光景はひとつも見えない。
『今昔物語』に「四国の辺地と云ふは伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり」とあるように、当時の高野聖、熊野御師、山伏、比丘尼、六部衆などの辺地修行者は海や山を巡り各所の霊験所を参って厳しい修行の旅を重ね、「日暮れにければ、人の家に借り宿りむ」と寺院(旦過・布施屋)や善根宿等の一定の援助を期待していた。そんな辺地修行者も、江戸初期になるとヘンロも庶民に普及していった。真稔の『四国徧禮道指南』などの遍路ガイドブックもベストセラーとなるなど一般化された遍路開花期である。徐々に宿泊・道路・治安など周辺の社会資本の充実が図られていったのだった。
今では観光化され、世界遺産も目指す四国遍路ではあるが、一方で仏教本来の教えとして「乞食の中にこそ、古も今も仏菩薩の化身は在す」と乞食修行をする遍路もいる。
金剛頂寺の別当でもあった与惣太だから、吟遊とはいえ頭陀袋の旅であり、一番の楽しみでもある風呂にも入らなかったのだろうか。
(次回は「藤川(四万十町藤ノ川)」)
『土佐一覧記』を歩く⑪埜地
武内 文治
川村与惣太が仁井田郷を旅したのは秋。志和の海岸から東又に入り、五社を詣で窪川の友人宅に泊り、四万十川を下っている。この間、窪川で詠まれた歌は二十首。その一つが埜地で詠まれた次の歌である。
よなよなの露の宿りもいかならん
秋風そよぐ野地の萩原
川村 与惣太
露のようなはかないいっときの宿りも、こうも続くと老体に軋みがくる。夜な夜なの秋(飽き)の風は野地の里の一面の萩の花を波打たせ今日の希望を誘ってくれる。今夜は畳の上で寝たいものだ (勝手読)
与惣太は「埜地」と記しているが、四万十町野地のことである。長宗我部地検帳には「中マ畠、ソイエ畠、天一畠、中ヤシキ畠、井ノクチ畠」と畠地名のホノギが多くみられ、水利も芳しくないことからまさしく野地の荒れ野の様相がうかがえる。あれから四百年、今ではすっかり圃場整備とため池整備が進み一面に田が広がっている。
野地とは葦(よし) 、真菰(まこも)など川辺に草の生えた水辺の低い原野、湿地のことをいい、ヤチの転訛と思われる。それゆえか「野地」の地名は高知県下にも広く分布し、大字では四万十町には他に日野地があり、梼原町大野地、同影野地、宿毛市野地がある。また小字では県下全域に120か所も分布する。「野」は、ムラの生活空間と奥山との緩衝地帯で、あの世に旅立つ野辺送りはまさに境界である。
その野地で有名なのが野中兼山の鏡野開発の歴史を示す「土佐の三野地」である。兼山はこの地の開発にあたり三つの市町を創設した。市町は開発地に物資の集散地として整備され「売買につき免税」の優遇をもって商家の集積を図った。その三野地が①山田野地(香美市土佐山田町市街地)、②西野地(南国市後免市街地)、③野市(香南市野市町東野・西野))の三拠点で現在の市街地形成の基となっている。後免はこの市町免税地の名残りの地名である。
野地は荒野を意味する。承久の乱(1221)で土佐に配流となった土御門上皇が月見山(香南市香我美町岸本)から未開の地を眺め「鏡野やたが偽りの名のみして恋ふる都の影もうつらず」と香美の里を鏡野と詠んだとされる。いまでこそ、鏡野台地(香長平野)に市街地の広がる「野地」であるが、兼山の開発以前は荒野の「野地」であったことだろう。
ここ四万十町野地は、四万十川の特徴的な景観である穿入蛇行の地にある。これは、南海トラフの隆起による大地のシワである。津野町の不入山を源流域とする四万十川は南流し、土佐湾まであと8kmの四万十町窪川の市街地付近から西流し、山の奥地に向けて川が下る錯覚をさそう。
それは、40-10万年前の古四万十川の西方への逆流が始まったことに起因する。古四万十川は与津地川を経て興津へ流れていたが、南海トラフの隆起は、河川水をせき止め、窪川地域の湖沼化を経て現在の高南台地が形成された。新たな河川として若井川、家地川(羽立川)を経て伊与木川から土佐湾に流れるようになり、旧十和村や旧大正町の河川水も伊与木川へと流れていたという。さらに南海トラフの隆起の影響を受けて伊与木川の排出口を失い、現在の西に流れる四万十川となったという(満塩大洸・山下修司『高知大学学術研究報告第39巻』(1990))。旧窪川町と旧大正町の境界から河岸段丘における農地の減少という地形的な変化が古四万十川の逆流であることを証明している。
余談ではあるが、野地の隣に家地川の集落があり、四国電力「佐賀取水堰」が設置され、四万十川から伊与木川に分水、有効落差147mの導水により佐賀発電所(黒潮町市野々川)で発電されている。現在に残る古四万十川の残影といえる。この佐賀取水堰、地元では家地川ダムと呼ぶ。水利権期限の2001年にかけて家地川ダム撤去運動が起きとき「四国電力は家地川ダム(取水堰)でなく佐賀取水堰と命名するのか」と照会してみた。電力側は発電施設が主で落差エネルギーを貯水するダムや堰は従物であるという見解だった。ダムは湖水に沈む集落を亡所とさせてしまう。幡多地域の消費電力をまかなう津賀発電所(津賀ダム)ではなく、ダム所在地の地元が呼ぶ古味野々ダム(津賀発電所)と名称変更するなど、地物名称にも愛情のある命名法をルール化していただきたいものだ。
(次回は「秋丸(四万十町秋丸)」)
『土佐一覧記』を歩く⑩矢立森
武内 文治
矢立森は昔の御留山といわれる奥山である。大正から四万十川の第一支河川梼原川を5キロメートルくらい北に上ると大正大奈路の集落。ここから東方に第2支川中津川とたもとを分かれる。この集落の橋のたもとに「矢立旅館」がある。ここら辺りで矢立とは「矢立街道」のことである。矢立街道は梼原川と中津川の分水嶺を北に進み、八足や木屋ヶ内、中津川と各集落の分岐を設けつつ下津井や松原に至る旧往還道である。その下津井分岐を折り付くと下津井となる。
川村与惣太は、津野山郷にも足を踏み入れているので、その途上でこの歌が詠まれたのであろう。
かり人の矢立の森を分け行けば
妻こもるとや鹿ぞ鳴なる
川村 与惣太
狩人が矢立の森に入ると、深山から鹿の鳴き声がする。つれあいが撃ちとられたのかさびしげに「悲~ヒー」と鳴いている(勝手読)
与惣太は「矢立森」と記しているが、矢立は、一般的には旅人などが携行する筆記用具のことである。もう一つ、矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器「箙(えびら)」の意味もある。
千葉徳爾氏の『狩猟伝承』に「日向の山間では猪を撃ち取って分配し終わってから、三発空砲をうって山の神に感謝の心をあらわす。これをヤタテという。古くは弓矢を用いて行った儀礼を、鉄炮の時代に入っても行い、名称もそのままヤといったものかと思われる」とある。与惣太は「かり人の矢立の森」と詠んでいることから、狩猟の地に相応しく、矢立地名が東北や九州の奥山に多く分布することから「箙=矢立」と理解したい。越知町の奥山・佐之国に矢立の小字があり、狩猟語彙としては黒潮町蜷川の小字に「タツメ(立目)」「ヲソバトコ」「シシバ」「ヲソ越」など地名に刻まれたものがたくさん見える。
今も昔も、シシの食害にはほとほと困っていたことだろう。現在では、有害鳥獣駆除を進めるため奨励助成金制度が設けられている。鹿や猪を駆除した写真とともに耳を役所に提出する手続きという。奨励金制度のない時代、猟師は獲物をしとめたら授けてくれた山ノ神に感謝する作法として左耳をその場で山ノ神に供え、右耳は里で解体した後射止めたものが右耳をさばき山ノ神に供えるという。そんなしきたりも、両方の耳を「証拠品」として「オカミ」に提出し2万円の金品をいただく。世の中は変わってしまった。
柳田国男氏は『鹿の耳』に「切るのが必ず耳でなければならなかった。耳で表現する彼等の感情は、常は静かにたっていて、意外な時にその耳を振り動かす。」と述べている。その見えぬものを察知する高い能力を備える耳が神秘にして生贄とする対象になったのであろう。「耳取」「耳切」「耳塚」など同類の多くの地名が刻まれている。
耳切とは、物騒な話ではあるが「耳なし芳一」の受難物語はとくに有名で、全国各地に類話がある。安徳天皇の御陵伝説地である横倉山のちかくに「耳切屋敷」の昔話がある。尺八の上手い清吉の全身に呪文を書いたが耳だけ書き忘れてしまい、引きちぎられてしまったという。高知県下に「耳切」の小字が32か所分布するのも怪異奇譚が刻まれたことによるものだろう。黒潮町では上川口にミミキレ谷、馬荷に耳キレ山、下田の口にミミキレ山があり中村高校の寮付近が「耳切」と呼ばれていた。
矢立森などの奥山には、オラビ、風うて、古そま、野鎌、だれなど魔物奇譚がたくさんあるが、いまでも、山仕事や山歩きで実感するのが「だれ」である。
もう三十年くらい前のこと。営林署の人と奥山に入って昼飯どきになった。山師の弁当はびっくりするくらい大きい。箸でスコップのようにすくい口いっぱいに入れ、「もっそうめしの最後の一口は、後ろに投げて山の神さんにあげてダレにとりつかれんようにする」といった。山歩きでダレに憑りつかれた経験は幾度もあったので、それいらい最後の一口を後ろに放り投げる習慣となった。歩き遍路のとき徳島の南・八坂八浜の別格札所鯖大師を訪ねた。「鯖」とは魚ではなく「さば(生飯)」のことだそうだ。生飯の唐音〝さんぱん〟が転訛したもので「散飯・三把・三飯」とも書く。生飯とは食事のときに自分の食物から取り分けた飯粒。屋根などに置き、鬼神・餓鬼に供え、鳥獣に施すものという。
登山ブームで多くの人が入山し奥山が一般化していったが、奥山は魔物の巣窟なのだ。今でも「オラビ、風うて、古そま、野鎌」は静かに潜んでいることを忘れてはいけない。
最後の一口を山の神にオスソワケを忘れてはいけない。
(次回は「埜地(四万十町野地)」)
『土佐一覧記』を歩く⑨胡井志
武内 文治
大正で詠まれた三首の歌は、それぞれその縁故地に歌碑として刻まれているが、この歌は胡井志(四万十町小石)の対岸の大正温泉の庭に設えている。
今宵しも夢にも見つる故郷を
こひしの里に草枕して
川村 与惣太
こんなに遠い山里に来てしまった。懐かしい安芸の故郷を思い浮かべ、今宵はゆるりと夢見で寝るとしよう(勝手読)
この『土佐一覧記』には、「草枕・かり枕・旅枕・磯枕」など旅寝の物寂しさを詠んだ歌が多い。なかでもこの歌はご当地のひいきもあって一番好きで、与惣太が当てた「胡井志」の漢字を号として使ったものだった。
小石の集落は、大正から四万十川第一の支流・梼原川を二kmほど上った最初の集落である。戸数は十戸で、対岸に江師の集落が広がる。四方を江師に囲まれた面積わずか五haと四万十町で一番小さな大字である。『土佐州郡志』には「東限小石峯西限津野之大川南限榧之木本北限宮之向東西五町南北十二町戸僅ニ」とある。長宗我部地検帳には「江志村」の枝村として小石村と書かれているが、江戸期になってわずか二戸ながら村の位置づけであった。
地内の北端と南端に茶堂が二つあったことから昔から往来の要の地であったことだろう。茶堂は旧道沿いに設けられた吹き抜けで三方には壁がない簡素な小堂。高知県西北部、愛媛県肱川流域に多く見られ、今でも下津井地区などでは集落の人々による茶の接待や念仏・虫除け祈禱など独特の年中行事を行っている。残念なことに小石の二つの茶堂も今はなく小さな祠に弘法大師像、地蔵像、千手観音像など六体の石仏が祀られている。
「天保七年(1836)丙申 三界萬霊 江師村中」
とあり、大師像に刻字された世話人の名前も江師の住人であることから、何らかの理由で小石側に遷されたか両集落の共同運営であったかもしれない。
半世紀以上前の記憶ではあるが、白い装束の母子二人のヘンド(遍路)が茶堂で煮炊きしていたこと、集落の接待行事に江師の永山春世ばあ、森信雄ばあなどからお菓子をもらったことなどを覚えている。
江戸アケミが小石の茶堂に佇んでいたのは中村高等学校一年の夏休みだった。中村から杓子峠を越え歩いて私を訪ねてきたのだった。私は急性肺炎で中村の西南病院に入院していたため不在。私の実家に泊めてくれということもできず帰る夜道も叶わず、茶堂で思案していたのだろう。茶堂の隣の子どもが「おかあちゃん。お茶堂に知らんお兄ちゃんがおるけん、泊まらしちゃってや。」と言ったという。江戸アケミは後に有名になったロックグループJAGATARAのいわば芸名、本名は正孝。高校時代、土曜日には二人で寝袋をもってあちこちに出かけバス停などで野宿したし、学年の終わりには鳥取砂丘まで歩いて出かけたことだった。
この茶堂の傍らには石灯籠と権現石がある。この休石に腰かけて対岸に広がる江師集落を眺め、この茶堂で草枕をしたのだろう。川村与惣太は金剛頂寺別当職を隠居して土佐一国の辺地紀行にでかけ和歌で綴った『土佐一覧記』を表わした。隠居は人生の折り返し点、この先の越し方を描くため非日常の旅にでたと思われる。そんな自分も退職後に、川村与惣太の訪ねた地をなぞって歩いているし、松浦武四郎の『四国遍路道中雑誌』に刻まれた土地を訪ね歩いた。先日も大阪・天満橋の八軒家浜から紀州・和歌山まで九十九王子を当時の逝きし世の面影を偲びつつ訪ね歩いた。小石はそんな旅心を育む土地なのだろうか。
与惣太は小石を「胡井志」と綴っているが、他の文献に胡井志の記述はない。大正町史には「小さな石地の意と思われる。」とあるが、そのまんまである。昔の人は、「小江師(コ・エシ)」と呼び、それがいつとなく転訛してコイシとなり、小石の漢字を当てたのではないか。
江師も全国に例がなく、中村の郷土史家・岡村憲治氏の『西南の地名』に「 江師 “師”は湿地、谷地の小川のある意、冷泉の湧くところ。』とあるが疑問が多い。地名の多くは地形をもって名づけられる場合が多い。四万十川の河川景観の特徴である穿入曲流の還流丘陵が、ここ江師の地形的特徴であり、集落の中央に位置する字「村中山」に鎮座する河内神社の鎮守の森が丁度「頭」であり、その周囲となる旧河床が「大きな窪地」に見える、まさにメキシカンハットのような地形である。
この江師の地形に類似した地名に「エゴ」がある。日当たりの良い窪地、丘に囲まれた土地、川の流れが曲がった入江となったりして淀んでいる所といった意味があり、語源は動詞の刳(エグ)るからきたものという。高知県下に「エゴ」の小字が24か所あり、黒潮町上田の口に下エゴ・上エゴ、四万十市蕨岡や磯ノ川にもみられる。「江越(えごし)」地名も三原村宮ノ川に江越山がある。また「シ」については、方言に「おんし・おとこし・おなごし」の人を意味する「シ」がある。そうなれば「凹状地形に住む人」から江師となったのか。合理的な根拠は一つもないが、思い浮かべたままの備忘録である。今回も地名遊びで終わってしまった。
(次回は「矢立」)
『土佐一覧記』を歩く⑧上山
武内 文治
四万十町大正の地域交流センターの前庭の歌碑に刻まれているのが、上山で詠まれた次の歌である。
山里の物さびしさはま柴焼く
けぶりも雲にまがふ夕暮
川村 与惣太
里の夕餉の煙が雲とひとつになっていく。家族の団らんに加えて雲までさらっていくのか。二つの大川もこの上山の里で合わさっている。私は今日も一人寝なのだ。 (勝手読)
山本武雄は『校注土佐一覧記』の巻頭にこの歌碑の写真とともに、はじめにとして「ある朝、高知新聞を開くと『碑のある風景』に、幡多郡大正町に建てられている・・」と大正町で詠まれた三首がそれぞれ歌碑として建てられていることを紹介している。
①上山 旧大正町立中央公民館前(s46/大正)
②胡井志 旧大正温泉(s46/江師)
③矢立森 旧下津井ヘルスセンター(s52/下津井)
歌碑は施設の建設記念として建てられたが、当時の教育長や町長を歴任した武政秀美の発意であったと思われる。
川村与惣太が記した「上山」は、いわゆる北幡と呼ばれる下山郷・上山郷の上流域の山国で、長宗我部時代の在地支配単位として機能していた。その領域は広く、近世には上山郷下分(旧昭和村)、上山郷上分(旧大正町)、十川(旧十川村)、山中(旧富山村)の五十一ヶ村として大庄屋が大正(旧大正町田野々)に置かれていた。長宗我部地検帳には給地として上山分の名がほぼ全域に示されている。上山とは在郷開発領主の名前でもある。
その上山郷の古い縁起が上山郷の旧郷社・熊野神社で、四万十川と梼原川が合流するところに鎮座している。社寺の由緒書きや棟札には建久元(1190)年、田辺湛増の子・永旦が熊野三山権現本宮十二所を勧請したとあるが、いささか疑問。源平争乱の勝者である熊野別当湛増がこの地に逃れることもなく、平氏側に与した熊野田辺の傍系がこの地にわたり、上山郷の開発領主の寄進により、紀州熊野社領となったものと思われる。
この上山郷の地方文書による詳細な記録はないなかで、目良裕昭は一条教房の土佐下向と山林資源の関係について『遠流の地・土佐』(高知県立歴史民俗資料館企画展図録)の紙面で、教房の土佐下向は幡多庄の周辺海域が占めた海運・航海上の重要な位置(土佐沖航路・瀬戸内航路・琉球東アジア航路)に注目し対明貿易による膨大な利益を得ることを目的としたと述べ、その交易のモノとなるのが四万十川流域の豊かな木材資源であるとの見方を示している。
土佐藩の財政の窮地を救ったのが白髪ヒノキであることは有名な話で、他国の材を寄せ付けない白髪ヒノキは大阪木材市場跡に土佐堀・白髪橋の地物名まで刻んでいる。「土佐は山国」、上山郷と名づけられた「山の郷」である。近代になり「西の魚梁瀬、東の大正」といわれるほど国有林野事業は盛況を極めた。高知県で最後まで残った森林鉄道(正式には林用軌道)は昭和四十二年三月二十五日に終山式を迎えトラック輸送となった。トラック搬出とチェンソー導入により林野事業は活況をあらわしていた。『高知林友(昭和三十五年九月号)』によると、大正営林署には三百五十六人の雇用があった。今は事務所に数名という盛衰である。
昨年、奈良・天理教本部の「昭和普請」の記録映画を見た。芳川地区国有林野の巨大ヒノキを天理教本部の南礼拝殿主柱として搬出された記録映画で、全十五巻の十六ミリ記録映画をデジタル再編集したものである。今でも神々しく林立しているこの「昭和の献木」ついて山﨑眞弓は『地域資料叢書㉓続・四万十の地名を歩く』に「小野川利國氏の手記―旧大正町「昭和天理教大改修献木」にかかる新資料―」と題して報告している。巨大ヒノキを伐採搬出したのは昭和五年のことで、手記の作者・小野川利國氏が十三才の頃の記憶をもとに八十才になって書き下ろしたものである。この記録映画や手記は、九十年前の山の暮らし、ふるさとの姿、林業の現場を知ることができる第一級の史資料である(当該報告書の詳細はホームページ『四万十町地名辞典(https://www.shimanto-chimei.com/)』を参照)。
与惣太が記した地名・上山は郷名を示す広域地名で、詠まれたところの村名は田野々である。長宗我部地名帳にも記録される中世以前の地名・田野々は平成の合併で大正へと大字の変更がされ消えた地名となった。地物としては田野々小学校など残っているが、大正時代に東上山村を大正村に名称変更した「大正」を刻むために、結果として中世以前の歴史ある地名が百年前の年号あやかり地名に二度負けたことになる。
平成の合併では多くの自治体名称や歴史的地名が消えた。中村、佐賀、大方もしかりである。『市町村合併法定協議会運営マニュアル・基本編』で新市町村の名称基準がしめされ「人口規模の最も大きい市町村の名称が選ばれる危惧」を回避する行動となり「名称の知名度、対外的にも覚えやすい名称」による命名へと誘導されることになった。波多国五郷の一つ、「大方」も合併優先の配慮から「黒潮」となった。全国で進められる学校統合も新学校名に混乱が起きている。地名・地物の命名のあり方について明確なルールを示す重要な時期と思えるがどうだろう。
地名はコミュニケーションの符号であるとともに、大地に刻まれた過去の営為を記憶する語り部でもある。
(次回は「胡井志(四万十町小石)」)
【後日譚】旧大正町にある三基の歌碑の提案者は郷土史家の伊与木定さんだと武内敏博さんが声を寄せていただきました。
『土佐一覧記』を歩く⑦止止路岐
武内 文治
そよふけに夢も結ばず嵐吹く
夕とどろきの里の旅寝は
川村 与惣太
その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていってしまった。轟の里で今宵も一人、水音の語らいを友として草枕としよう (勝手読)
安芸の歌人、川村与惣太は上山郷の奥深い地まで訪ねている。土佐一覧記の写本の一つである図書館本(高知オーテピア図書館所蔵)の歌の掲載順は上山(四万十町大正)、矢立森(四万十町下津井)、長生(西土佐長生)、止止路岐、胡井志(四万十町小石)とあり、また広谷本では、長生、止止路、胡井志、上山、矢立森となっている。歌の流れから与惣太の足取りは、四万十川左岸となる長生から鷹の巣山を越えて井崎にいったん降り付き、井崎谷から大井川、野々川、戸口へと四万十川左岸をたどり、轟集落を訪ねたのだろう。
この轟集落には四万十川最大の川中島の三島があり、二つに分かれた川は急流となり波音を立てて下流側で合流する。「轟」とはこの川音に由来する。「三島」は沈下橋二つと抜水橋と鉄道橋梁で結ばれ、圃場整備された農地では稲作とナバナの栽培がおこなわれる。春、一面の菜の花で覆いつくされる景観はイッピンだ。
与惣太が歩いたのは明和・安永年間だから二百五十年前のことで、この地の郷社・三島神社を参詣し、川音のにぎやかさに足を止め旅寝となったのだろう。
この「轟」地名は全国に分布し、高知県下にも百八十か所の地名がある。同類の「ドウメキ(百笑)」も中村市街地の赤鉄橋たもとの百笑、高知市春野町弘岡の百笑集落など八か所ある。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなども水音からきた地形地名で、ヒトは大地から湧き出る水とこの世の叫びに畏敬の念を抱いたことだろう。大地の叫び「ドド」のオノマトペ(自然界の音や物事の状態などを音で象徴的に表した語)こそコトバの祖型であり、地名に刻まれた音韻とその分布から言語の変化(縄文語、日本祖語、アイヌ語、琉球語、日本各地の方言など)を推論することができるのではと考える。
また、「三島」は、たぶん尊称の御が三に交代したものではないか。秀麗な山・三嶺を徳島県側はミウネ、高知県側はサンレイと呼ぶのと同じだろう。島は他から隔離された所の意で、海の島だけでなく一定の管理用域を島と呼ぶのは、ヤクザ用語のシマ(縄張り)、江戸吉原の遊郭もシマと呼ばれる例がある。島地名は全国に見られ、海のない岐阜県の村でも路傍の石に「島内安全」と刻まれている。徳島では、吉野川下流域に広がる沖積土の田園をシマといい、七つあるシマの一つが徳島であり、県名になったという。ここの三島には郷社・三島神社が永正十年(1513)に勧請(明治の大洪水で遷宮)されているが、社名が地名となったのか、御島と呼ばれた地に同音の神社を勧請したかは不明である。
この三島神社が面白い。五来重著『四国遍路の寺』に「大三島のもとは、仁井田の五社だという伝承がいつからか伝わっていて(中略)もとは仁井田(旧窪川町)のほうにあって、それが転々と移って大三島にまつられたのではないか」と大三島(大山祇神社・今治市大三島町宮原)と五社(高岡神社・四万十町仕出原・宮内)の関係を述べられている。五社の創建は六世紀ごろ、伊予の豪族・物部姓越智玉澄(越智守興の子・河野一族の祖)が跡目争いから当地に逃れた時期の勧請で、仁井田神社と呼ばれていた。大三島神社の本地仏は大通智勝仏で、四国側の宿坊・南光坊(五十五番札所)の本尊も大通智勝仏。かたや岩本寺(三十七番札所)は五社の本地仏を本尊として不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来(大通智勝仏)・薬師如来・地蔵菩薩を併記している。大通智勝仏を本尊とする四国霊場はこの二寺だけである。越智玉澄は伊予に復帰し河野一族の祖となった。その後も窪川台地の開拓(窪川五人衆)や津野山開拓など河野家の子孫が土佐に流れ、その地を開拓するとともに多くの三島神社を勧請している。また五来重は「伊予の名族(河野)のいちばんの祖先が岩本寺の奥の院である所の五社にまつられて、しかもそのもとは陵(みささぎ)です。ここは伊予を支配した越智」氏の先祖の陵ということで非常に重んじられた」とも述べる。越智玉澄の父・越智守興は天智天皇二年(663)の白村江の戦いに出兵して大敗戦となった。この白村江の戦いは歴史の分水嶺で、東アジアにおける新秩序の到来となり、その後の五十年の政治変動と大移動は「日本」という新しい国家秩序の建設と創作、ヤマト王朝への歴史の一元化の始まりとなったといえる。この混乱の中で越智玉澄は河野玉澄に羽化していったのではないか。そんな歴史を思い巡らす。
四万十川は地質学的にも面白く、三十万年前の古四万十川は逆流(今のほうが平地から山間に逆流しているよう)し伊与木川から土佐湾に流れていたという。そんな四万十川の特徴的な景観の一つに穿入蛇行と蛇行切断による環流丘陵(大井川・戸口・大正・江師・西ノ川・下津井など)の形成がある。轟集落の隣の戸口集落がその一つ。それも含め、春にはこの地を歩いてもらいたいものだ。
(次回は「上山(大正)」)
『土佐一覧記』を歩く⑥佐賀
武内 文治
忘れきや軒にふるまふ笹がにの
いとかき絶てくるよしもなし
川村 与惣太
「笹がに」について山本武雄は『校注土佐一覧記』で「クモの古称である」と説明する。下の句の初語が「いと」であることからクモと理解すべきなのだろう。土佐方言では騒々しい子どものことを「ささがに」という。
軒の連なる賑わいのあった旧街筋も車社会により大通りへ、郊外商業施設へと移り、どこも今は子どもの遊び声すら聞こえない静かな佇まいだ。「忘れきや軒に」はそんな情景を想起する。
その佐賀の旧道筋の一角に『熊乃屋』がある。軒先には竹筒がいつも吊るされている。
『熊乃屋』旅館はその屋号が示すように上山郷の熊野神社(四万十町大正字ウログチ鎮座)の潮汲み祭事に立ち寄るところだ。熊野神社の清浄人は毎年、十一月十日に熊野浦で潮垢離して、新しい竹筒十四本に潮水を入れ海藻で栓をする。その一つを一宿の御礼として『熊乃屋』に設えるのである。
『佐賀町農民史』(一九八三年)に慶長二年(一五九七)と昭和五十七年(一九八二)の地図が掲載されているが地検帳によると仲野々村のカチワラというホノギに弘瀬源左衛門が住んでいたが、今の地図に合わせてみると熊乃屋がそこにあたるようだ。熊乃屋はその昔『錦屋』と称して庄屋や逓送の仕事をしていたと『佐賀町農民史』には記してある。以前、熊乃屋旅館を営んでいたのが山本友明さんで、その祖先が田辺湛増にお供して紀州熊野からきたという。昨年、竹筒交換の際に、丁度松山から帰省していた奥方と出会うことができた。「毎年秋の熊野さん大祭には田野々まで出向いたものだった」と懐かしく話していただいた。
上山郷の熊野神社と熊野浦の熊野神社、伊与木郷の熊野神社の三社はあたかも熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)のようで、それらの縁起や棟札からもうかがい知ることができる。この鎌倉時代から連綿と続く佐賀越えの潮汲み祭事の道は、伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“塩の道”であり“軍事の道”であり“信仰の道”でもある。また、上山郷の山中分(旧幡多郡山中村・現在の大用地域)の木材搬出が伊才原から山越えで交通の結節点である馬荷に送られ蛎瀬川を経由して田野浦から積み出されたという。尊良親王にまつわる小袖伝説と侍臣秦道文を祀る道文神社(四万十町打井川字京殿鎮座)の由来など、山と海の往来は今以上に盛んであったことだろう。
(連載「黒潮町編」おしまい)
『土佐一覧記』を歩く⑤伊与木
武内 文治
伊与木での詞書には「此所より過ぎこし方をかえりみて」として、二首詠んでいる。
さらでだにへだたる物を旅衣
たちこし方の山の夕霧
草枕かりの宿りの芦すかき
ふしにしくとも何か恨みん
川村 与惣太
素人の勝手読みでは、前の歌は「そうでなくても歳を重ね病葉のようになってしまった。この夕霧と同じように明日は消えてしまうのだ」。後の歌は「今日も草枕となった。芦を拝借して寝床としたが何も恨まれることはない。芦も私も時が来れば消えてしまうものなんだ」といったとこか。
与惣太の墓は室戸市元から二十六番札所への山のへんろ道に入るところにあるが、この歌のように草となり消えていく寸前であった。
この歳になると「こし方」といった言葉が気になってしまう。たぶんに与惣太もそうであったことだろう。東寺(金剛頂寺)の別当職を五十二歳(一七七二)で辞し土佐一国の行脚をして、まとめた書物がこの『土佐一覧記』である。四国遍路が退職者の通過儀礼となっているが、与惣太も「隠居」という分岐点でこし方を見返り、趣味の詩歌を楽しむための旅となったのだろう。ただ、泊った場所や何を食したのかなど旅の詳しい内容は記録されておらず、旅の姿も歌の中から読み解くことしかできない。
この二首ともに「旅衣」と「草枕」と詠まれているが、「東海道五十三次」のイメージとは程遠く、土佐路はへんろ道筋であっても宿泊所は十分整備されていない時代である。僧籍の与惣太にとって頭陀袋と旅むしろを身に着けた旅姿であったことだろう。民俗学者の柳田国男は「タビという日本語は、或はタマワルと語源が一つで、人の給与をあてにして歩く点が、物乞いなどと一つであったのではないか。英語などのジャーニーは「その日暮らし」ということであり、トラベルはフランス語の労苦という字と本一つの言葉らしい。」と述べている。
「草枕」は草を結んで枕とする旅寝をあらわし、わびしい宿泊や仮の宿を暗示する。『土佐一覧記』には多くの「草枕」の歌が詠まれているが、伊与木でも野宿となった。
与惣太の記した「伊与木」は中世以前からの「伊与木郷」であるが、この地をぶらり歩けば地名の名づけが面白い。国道に架かる歩道橋には「JR伊与喜駅」「黒潮町伊与喜」の表示板がある。川は本流が「伊与木川」で小谷の「伊与喜川」がここで合流する。この「伊与木川」に架かる橋は「伊与喜橋」とあり、住む人は「伊与木」と複雑でどう読んでもイーヨキである。
私の所属する「奥四万十山の暮らし調査団」は二年にわたって上山郷(四万十町大正地域)と伊与木郷を結ぶ往還道について調査を行った。一次調査では楠瀬慶太が『佐賀越の民俗誌』で「佐賀越は伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“軍事の道”、“信仰の道”でもある」と述べ、「佐賀越の古道(峠道)を介して山村―農村―海村―都市がつながる“海山経済圏”とも言える経済流通圏が機能していたことが想定できる」と経済史的視点で交通網が整備されていない社会においての“峠道”の役割を検証した。二次調査では、私が『続・佐賀越の民俗誌』でその信仰の道として上山郷の郷社「熊野神社(鎮座地・四万十町大正字ウログチノ上ヱ)」の「潮汲みの祭事の道」について現地踏査した内容を報告している。(どちらもhp「四万十町地名辞典」で閲覧ができ、公立図書館には当報告書を納本している)。
伊与木郷の郷社「熊野神社(黒潮町熊井字法泉寺山鎮座)」の縁起と相関性が強く、熊野浦に向かう「潮汲みの祭事の道」もおそらく八百年の連綿とした祭事であったことだろう。
伊与木郷の熊野神社が鎮座す「熊井」について、片岡雅文は『土佐地名往来』で南路志や地元の伝承を紹介し「熊野の神の居ますところ」と呼ばれそれが転じて熊井となったと説明する。熊居は熊野別当湛増が居を構え熊野神社を勧請したと言いたいのだろうが名づけに無理がある。また、高知の民俗学者の桂井和雄は高知市の久万、春野町弘岡下の久万、中土佐町大野見の久万秋などを挙げ川沿いの平地の称としている。熊野のクマ(隈)は、奥まった所、辺鄙な所の意味の他、クマ(曲)の意味する河川の湾曲部分も考えられる。地形図で見れば一目瞭然、伊与木川が熊井で大きく屈曲していることがよくわかる。私は「神田」地名が各地にあるように「クマイ」は、中世神仏にお供えするための米を耕作する田「供米田(くまいでん)」ではないかと推論する。
伊与木郷の「イヨ」は全国に分布する。高知市から荒倉トンネルを抜け春野に入った集落が「伊予川」である。土佐清水市には「伊予駄場」もある。樹木が高いさま、そびえるさまを表す「イヨ」で一般的には深い谷に多い地名。深い谷を意味する地名に同類のイヤ(祖谷・伊谷・伊屋・弥谷)がある。ただ当地「伊与木」は海岸線からは近く深い谷のイメージはないので、国名伝播によるものかもしれない。
今回は地名逍遥で終わってしまって申し訳ない。
ともあれ、「前に進め」で一生懸命だった明治からの「近代」。多少の失敗も前に進むことで帳消しにしてきた流儀も、だんだんほころびがめだってきた。口でごまかす政治も実体のない経済もコロナワクチンの開発もできない科学も情けない。希望のない世界となったいま、「三歩進んで二歩さがる」では解決できない深刻な近代の末期症状だ。
(次回は「佐賀」)
『土佐一覧記』を歩く④鈴
武内 文治
御祓する川瀬の波の涼しさは
はや水かみに秋や立つらん
川村 与惣太
詞書もなく、「鈴」と書いてこの歌を寄せている。
訪ねた鈴は小さな港をまん中にすえて小鈴と鈴川にそった狭隘な田畑が山を突くように設えてある。休校となった鈴小学校を地区みんなで育んだしるしの河川プールがある。
丁度、大敷から引き揚げた大漁に港はにぎわっていた。ひなびた漁村のイメージはなく若い漁師もたくさんおり、黒い顔が光り輝き、大きな声がひびきわたる。数十年前に訪ねたときは荷稲から山を越えた記憶だが、今は天空の「おさかな街道」。
この歌は、片坂から伊与木、佐賀と吟遊されるなかに含まれた一首で、中村街道から離れ、山を越えはるか遠い鈴をどうして訪ねたのか。歌一首ではその脈絡を知ることはできない。
この歌には潮の匂いはない。御祓(みそぎ)する川水は涼しいがこの奥山は秋をむかえているのだろうといった歌だろうか。鈴には天満宮(浜ヤシキ)が産土神で崇敬神として熊野神社(本モ谷)、厳島神社(上灘山)、恵美須神社(ウタノハエ)が『高知県神社明細帳』に載せられている。当時の天満宮の例祭は六月二十五日と九月二五日。新暦をあたれば八月上旬くらいなので、六月の天満宮例祭かもしれない。天満宮は小鈴から港につくとすぐ北側の山に鎮座する。津波避難場所に最適な位置となる。この歌の「涼しさ」を鈴にかけて詠みこんだのかもしれない。
鈴は、「鈴村」として長宗我部地検帳にもある中世以前の地名で、海蔵寺、小鈴、コミ、ハマサキなどのホノギと同じ小字が残る。漢字一字の村名は少なく幡多では藤、越、橘、轟、錦、樺、烏の七村しかない。右山の岡村憲治氏は『西南の地名』で「すすがすずに転訛したもので、端や隅の土地(例)能登半島珠洲」とあるが、珠洲の語源は能登の山野に茂る篠の植生地名、岬を意味する地名、珠洲岬の南に鎮座する須須神社の祭神御穂須須美命に由来するという説などあるが「須須美」説が一番しっくりくるが、勝手に思い浮かべてみる。
鈴は、「邪気を払う鳴り物」として、神社の社頭に吊るすもの、神楽・能楽の楽器としてつかうもの、四国遍路などの金剛杖に付けたり手に持って熊などの獣除けにするなどいろいろであるが、音により清浄な空間を醸し出すことに共通点がある。一方で、律令時代の駅制において馬に乗る身分証として「駅鈴(えきれい)」が用いられたという。鈴は鐸の字も当てられるが、駅の旧字も驛で「馬」と「睪」である。「睪」が次々とつらなる様を表すことから、乗り換えの馬を置く中継所が「駅(驛)」となる。ただ、この地に固有の「鈴」にまつわる伝承があるわけでもない。
やはり、地名は漢字でなく読み「スス・スズ」で読み解かなければならない。『民俗地名語彙辞典』の「スズ」には①稲わらを乾燥させるために積み重ねて作る「稲積」をいうとある。大正ではスズとは言わずグロ・イナグロという。稲積の形に見立てた山名は多いという。山だけでなく岩礁や小島にも付されるという。鈴の地元の人だけが使う雀バエ、ススジマなどがあるかもしれない。四万十町の鈴ヶ森もその形状による山名だろうか。そういえば熊野修験の御師「鈴木」はこの稲積のスズに由来する名で、熊野詣の代参や熊野護符を配る修験者が全国に散らばり現地に定着して鈴木の姓を広めたという。熊野浦は熊野神社漂着に由来する地名で、大正の熊野神社も同じ縁起をもっている。②清水の湧き出るところをいう。伊勢神宮の禊川は五十鈴川である。『高知県方言辞典』(浜田数義・土居重俊)にも「スズ 徳利(おもに”おみきすず”という)」とある。また、幡多ではわらぶきの家「ススブケ」というそうで、イナグロ・イシグロのグロだけでなく、スズも使っていた痕跡のようだ。スス・スズにはイネ科のススキの意味もあるようだ。
平凡社の『石川県の地名』を調べていたら、珠洲郡の段に「ススミ(須須見とも)は「日本書紀」天智天皇三年(六六四)是歳条などにみえる烽(狼煙)の古訓「ススミ」に関係するといわれ、あるいは海辺の狼煙をあげる所の神という。この神社や珠洲岬の北西方には日本海に面して狼煙のろしの地名が残っていることも有力な証左といえよう。」とある。当地には「火立場」もあることから「烽(ススミ)」からきた地名かもしれない。
歌一首の鈴だから、「鈴」一字に、想像をめぐらした地名逍遥となってしまった。
(次回は「伊与木」)
『土佐一覧記』を歩く③橘川
武内 文治
川村与惣太は賀茂神社の段で「此社入野松原にあり。八幡と堂宇に祀る。南は賀茂北は八幡なり。二十一座の一社也」と土佐国の式内社二十一社の一つとして詞書を記す。
朝日かげのどかに匂ふ花の香も
神の社は一入にして
川村 与惣太
東浜松原に鎮座する加茂神社の祭神は、明治に編纂された『高知県神社明細帳』によると別雷命(わきいかづちのかみ)。式内社・賀茂神社に比定される古社とあるが縁起沿革等未詳であり定かではない。祭神からよみとれば京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の系統となるが、『続日本紀巻廿五』天平宝字八年(七六四)十一月庚子の段には、高鴨神が大和の葛城山で大泊瀬天皇(雄略天皇)の怒りに触れて土佐に流罪とある。別の記録には初めに幡多郡の賀茂社、次いで土佐神社に移祀されたという。後に大和の葛城に戻され祀られたのが奈良県御所市鴨神に鎮座する高鴨神社で祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)となっている。土佐神社というより高知ではシナネさまで有名だが、ここも祭神は味鋤高彦根神である。
『高知県神社明細帳』には県下に賀茂・加茂・鴨を冠する神社(土佐神社を除く)が十六社あり多くの祭神は別雷命で味鋤高彦根神は一社もない。「幡多郡の賀茂社」を「入野・加茂神社」と比定するなら脈絡からみれば祭神は味鋤高彦根神であるはずなのに別雷命となっているのは不思議である。ただし『大方町史』には「祭神 加茂神社は味鉏高彦根命で、土佐一宮の土佐神社と同神である。」と書かれている。また、南国市植田に鎮座する式内社・殖田神社も土佐神社と同じく祭神は味鋤高彦根神であり社殿には「高賀茂大明神」とある。
宗教学者の山折哲雄は「カミは空間を遊幸し森や山のような幽暗な場所に鎮座する機能を持ち、ホトケはその華麗な肉身を現わして人々の眼前でまつられる」と目に見えないカミと目に見えるホトケを対比的に説明する。氏子にとって神社の御神体や祭神は根本的な意味はなく、山と里、祭壇と御輿、新宮と旅所といった「神幸」と「憑依」を厳粛な形式美で織りなす神秘性が信仰の基層となっているのではないかと思える。
橘の名をなつかしみ郭公
川瀬の波におちかえりなく
川村 与惣太
『万葉集』には百六十種以上の植物が歌われているが、なかでも萩が一番多く百四十二首、次に梅の百十九首となっている。「橘」の歌は六十九首(第五位)とそれなりに頑張っている。万葉当時の花見といえば春は梅、秋は萩で、桜の花見という表現はなかったとのことである。
与惣太は五百五十七首のうち二首詠んでいる。右の歌のように橘と郭公(ホトトギス)は万葉集でも同時性をもって詠まれている。土佐一覧記に所収する花木を読んだ歌で一番多いのが松二十八首、次に桜七首、竹六首、萩六首、藤五首とつづく。梅は意外に少なく橘と同じ二首である。時代とともに詠まれる花も変容していくということである。歌の意味は素養がなくよく理解できない。
与惣太は賀茂神社の次に「橘川」の段を設けている。橘川の所在について、山本武雄は『校注 土佐一覧記』に「御坊畑の北方で、入野郷の一村」と記し現在の黒潮町大方橘川を比定している。その根拠は写本の一つである図書館本(高知オーテピア図書館所蔵)にある「賀茂神社」、「橘川」、「蕨岡」と東から西にむけた地名のならびによるものと思われる。加茂神社から八丁山をまいて橘川に入り馬荷を越えて蕨岡に向かったと見える。
『土佐州郡志』の馬荷村の段には「比和之谷坂 入野浮津往還路橘川村界也」、「岩神上坂 中村往還蕨岡村界」、「黒尊坂 井才原村来往路」とあることから馬荷村を核とした交通の要衝であったことがうかがえ、橘川はその通過点であったのだろう。
目良裕昭は『地域資料叢書⑲四万十の地名を歩く』に「中世土佐北幡地域における木材搬出と流通の一断面」と題してしてこの往来路を使用した上山郷の山中分(旧幡多郡山中村)の木材搬出について地検帳の給地、『土佐国蠧簡集』560 号「堀内文書」により論考を進めている。
車社会の今となっては理解できないような奥山の往来ではあるが、与惣太もこの奥山を踏み入って蕨岡に向かったことだろう。 (次回は「鈴」)
『土佐一覧記』を歩く②入野
武内 文治
いつしかと入野の浜に今日は来て
うら珍しく拾う袖貝
朝日かげのどかに匂ふ花の香も
神の社は一入にして
川村 与惣太
土佐一覧記には原本がなく、地名や与惣太の歌、古歌も写本する者の嗜好によるものか幾分違ってくる。
この「入野」の二つの歌の前段に「畑野」をもうけ
菫さく畑野の原の夕雲雀
なれにゆかりの草に臥すらし
と詠っている。『校注土佐一覧記』の著者である山本武雄氏は「畑野」を「御坊畑」ではないかと仮定している。前回、大形319号では流謫の地となる有井川を遷ろう尊良親王をホトトギスに例えて紹介したが、高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時幡多全域を「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないかと推論する。
与惣太は次の古歌を引用している。
小男鹿の入野の薄初尾花
いつしか妹が手枕にせん
写本では「人丸」としているが柿本人麻呂のことであろう。新古今和歌集に「さをしかのいる野のすすき初尾花 いつしかいもが手枕にせむ<柿本人麻呂>」とある。京都市西京区の西、大原野上羽町付近を古くは入野の里といわれススキの歌枕となっている。同じ入野地名であることから古歌を引いて観光案内することはよくあること。「入野」は全国に分布する地名で入山、入野といった山地や原野の奥の方を意味する場合が多い。この地の入野は「入野ねぎ沢一反」「幡多郡入野蜷川之内」「入野庄」「入野郷」といった古文書の記載から中世以前からの地名であることは読み取れるが由来などは分からない(ねぎ沢は旧役場の東側)。
川村与惣太が入野を旅したのは安永元年頃(1722-1774)である。その少し前、宝永年間(1704-1711)に編纂された土佐の地誌『土佐州郡志』にも尊良親王が姫に贈った小袖が入野に流れついたという「小袖貝伝説」が書かれていることから入野では一級の「名所図会」であるといえる。名所図会といえば、王無の浜、王迎といった尊良親王を物語る地名がある。与惣太も詞書に「玉なしの浜といふもあり」と書き
秋風のみぎわの芦を吹き敷きて
葉に置く露の玉なしの浜
と玉なしの浜で草枕をしているようすがうかがわれる。
土佐州郡志にも「大奈志濱」と記録されていることから、往古よりの地名ではある。伝承では尊良親王がすでに大平弾正の館に移ったあとであったことから「王無し浜」と里人が称えるようになったといわれる。
この浜の上の段丘に大迎団地があり「大ナシ谷」の小字がみえる。長宗我部地検帳にも同じホノギがあることから中世以前の地名であるが、ナシはならし(平)の転訛で大きな平坦地の意味をもつ地形地名ではないかと考える。近世の世相の安定が尊良親王物語を醸成させていったのではないか。ナシノキをアリノキとするなど「ナシ」を嫌い改称された地名は多いが、ここではあえてナシ(無)の意味を持たせている。いずれにしても、王無し浜、、待王坂、王森山、弾正の館、王野山(大野山)、国王サコ、大野宮跡、仏が森、米原、中尾山などの尊良の故地を訪ねる山歩きを復原すれば「令和の名所絵図」にもなると思うがどうだろう。
昨秋、四国を歩いて廻ったとき、あかつき館の西の四ツ辻に武田徳右衛門のへんろ道石を見つけた。遍路道しるべの作善行に生涯をささげた有名な行者の一人だが、道とともに遍路にとっての難題が宿である。当時は旅籠も未整備で善根宿にたよることができなければ野宿となる。土佐には東に佐喜浜入木の仏海庵、西に下ノ加江市野瀬の真稔庵がある。仏海上人も真稔も宿の大切さを重々承知していたことから自ら遍路宿を整備したものだろう。与惣太は安芸の西寺(金剛頂寺)の別当であった人。その出自ならどの寺も厚遇したであろうに、歌には「草枕」「草に伏す」「露の宿」「磯枕」など旅寝の歌が多く詠まれている。与惣太の旅のスタイルはこの二首によくあらわれている。
世はかりのためしを見せて御仏の
日毎にかはる宿りなるらん(日高村日下)
宿かれどいぬもやられぬ麻衣
うち山陰のあまの苫やに(須崎市土崎)
この世は仮の世。隠居の身として、もとの僧籍を利用することなく自律する「旅人の矜持」には感服するしだい。GoTo頼りの人にはさぞかし驚きだろう。私も中村高校時代、友の江戸アケミ(ロックグループじゃがたらリーダー)と歩き旅(放浪)をよくしたが、早咲のバス停や大方球場のベンチはいつもの「苫や」だった。時代は過ぎて、今回の四国歩きは民宿みやこ。夕食は居酒屋ぽこぺんで中高文芸部先輩の山〇幸〇氏にお接待していただいた(誌上で感謝)。
先の歌にある「神の社」が加茂神社。古地図をみると吹上川が神社の脇を流れているが、その境内に「嘉永七甲寅の歳(1854年12月24日)十一月四日(中略)申剋(午後4時)に至て忽大震動西蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海嘯也・・」と安政津浪の碑があった。天変地異や黒船来襲を期に「嘉永」は「安政」と改元されたことから安政の大地震となったもの。「34・4mショック」からもう十年近い。早く備えてみんなが笑って過ごせるまちづくりを進めた黒潮町。覚悟を感じる取り組みは高知で一番だとエールを送りたい。 (次回は「橘川」)
『土佐一覧記』を歩く①有井川
武内 文治
今も猶此里ばかり忍び音も
鳴かで有井の山郭公
古言は今にながれて有井川
音にこそたてね山郭公
川村 与惣太
安芸の歌人、川村与惣太が有井川を訪ね詠んだ『土佐一覧記』所収の二首である。西寺(金剛頂寺)の別当を辞して土佐一国の辺地紀行の旅にでたのが明和九年(一七七二)のこと。五十二歳の隠居の身として東の甲浦から宿毛の松尾坂まで歌で綴った旅日記であり江戸末期の風土記でもある。この『土佐一覧記』の原本はいまだ発見されておらず、多少の違いをみせる数冊の写本がある。黒潮町では、東から「鈴」、「伊与木」、「佐賀」、「有井川」、「入野」、「畑野(御坊畑か)」、「橘川(大方橘川)」の七地区、十三首が詠まれている。
この有井川の二つの歌は、次に書かれた「入野の袖貝」の歌の序詞としてくまれたものと思われる。このレトリックとなる「山郭公(やまほととぎす)」は、現在刊行されている『校注土佐一覧記(山本武雄著)』では山郭公であるが、別の写本では「山時鳥」となっている。平安初期の古文書から「ホトトギス」に「郭公」の字があてられており、近代に入ってからは「カッコウ」を「郭公」と表記するようになった。土佐一覧記に詠まれる動物は郭公が一番多く二十一首あるが、どうしてホトトギスが多く詠まれるのか。
カッコウはその姿をたまに見かけることができるが、ホトトギスは鳴き声のみである。姿を見せずに鳴くことからよけいに印象が強く、上代人以来多くの和歌に詠まれたものに違いない。
有井川の地を訪ねた与惣太は、自分の巣も定めないで身を隠し渡り歩くホトトギスに、流謫の地を遷ろう尊良親王(たかよし)の心象を重ねて詠んだものだろう。
一般的にホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」といわれるが大正では「ゴッチョウタベタカ」。遠野では「包丁欠けたか」、佐渡では「本尊欠けたか」と鳴くという。「死出の田長(しでのたおさ)」の伝えもある。姿が見えない渡り鳥は各地で多様な鳴き声の物語を托卵のように育んできた。
有井川の地内に宮地山がある。『南路志』では保元の乱で土佐に配流となった藤原師長の配所が宮地山だという。別の古文書には「宮地山 有井川村田丁に有」とあることから、先述の「死出の田長(ホトトギスの別名)」の田長が転訛して田丁になったものと考えてしまう。また、西谷集落の小谷に「テンシヨモリ谷・天上森谷」の小字があるがこれもテンチョウに読める。いずれにしても、地名は歴史を刻んだ隠し文字でもある。流れついた都人(ホトトギス)を揺籃(托卵)するように温かく迎えたのが有井川の人々であった。