与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。
掲載する内容は
①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)
②旅人の記録
③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)
④所在地
⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)
⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
⑧編集人のつぶやき
※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。
役所所在地:香美市土佐山田町宝町1-2-1
郵便番号:782-8501
電話番号:0887-53-3111(代表)
FAX:0887-53-5958(代表)
メールアドレス:
■地勢・概要
▼自然
本市は、物部川、国分川の源流域から高知平野に至る変化に富んだ市域を有し、東北部は1,000~1,800mの急峻な四国山地が広がり、山間部は秩父古生層*からなり、市域を貫く物部川の源流域となっています。
気候は比較的温暖ですが、平野部から山間部の標高による寒暖差は大きく、高地では亜寒帯の植物もみられます。降水量は、山間部で多くなっており、森林資源の形成や農作物の育成に適した地域となっています。
市域の約9割を森林が占め、物部川上流域には天然林も残され、べふ峡、轟の滝をはじめとする景観が広がり、アメゴ、アユ、カワセミ、ホタル等の多様な生物を抱える貴重な自然が残っています。
上流域から、剣山国定公園、奥物部県立自然公園、龍河洞県立自然公園などに指定される豊かな自然を有しています。
▼土地利用
本市は、高知県の、7.6%に及ぶ537.86kmの広い面積を有していますが、87.6%が森林となっており、可住地面積は平野部を中心に1割強となっています。
山間部では森林の7割を占める人工林を活用した林業や気温差を活かしたユズの生産が行われています。一方、平野部では温暖な気候を利用した稲作、ねぎ、ニラ、しょうがなどの農作物が生産されています。
物部川や支流域には棚田が発達し、集落が広く分布しています。平野部はまとまった農地と市街地となっています。市街地は高知中央広域都市圏に含まれ、市街化区域と市街化調整区域に線引きされ、計画的な開発が行われています。
▼歴史
本市は、縄文、弥生時代の遺跡が確認されるなど、古くから栄え、物部川を軸に人や物が行き交い、町や里が築かれてきました。山間地に点在する集落には平家伝説なども残っています。
明治時代以降、山間部で生産された木材や木炭が土佐山田町に集積し、林業の発展とともに「土佐打刃物」の生産も盛んになりました。
土佐山田町は物部川流域の中心都市として繁栄し、「文化のたまるまち」ともいわれました。大正14年には高知-土佐山田間に鉄道が開通、昭和5年には角茂谷まで開通、その後整備が進み、昭和63年に瀬戸大橋が開通し岡山までつながりました。
また、昭和35年には高知空港が供用開始、昭和62年に高知自動車道が大豊~南国間で開通、瀬戸大橋の開通により交通圏が大きく拡大しました。
■観光・文化
▼自然資源
山岳・鍾乳洞:三嶺(日本二百名山)、白髪山、石立山、矢筈山、龍河洞
湖・河川・滝:物部川、べふ峡、奥物部湖、西熊渓谷、轟の滝(日本の滝百選)、大荒の滝、岩屋の滝、毘沙門の滝、大たびの滝
▼人文資源
神社仏閣:笹普賢堂、大日寺、伊勢丸神明宮、高照寺、大川上美良布神社、八王子宮、予岳寺、野中神社(お婉堂)、小松神社、塩峯公士方神社
史跡・遺構等:山田堰跡、谷秦山邸跡と墓所、渓鬼荘、土佐塩の道、山田城跡
神事・伝統芸能:いざなぎ流舞神楽、太刀踊、山田太鼓、韮生太鼓、大川上美良布神社の御神幸
伝統産業:土佐打刃物、フラフ
▼観光施設
公園:日ノ御子河川公園、平山親水公園、鏡野公園(日本の桜百選)、秦山公園、香北の自然公園
博物館・資料館・美術館:奥物部美術館、吉井勇記念館、アンパンマンミュージアム、詩とメルヘン絵本館、龍河洞博物館、市立美術館、農林業体験実習館、森林総合センター、森林学習展示館
スポーツ・レクリエーション施設:子どもの広場、土佐山田スタジアム、土佐山田ゴルフ倶楽部
健康づくり施設:香北健康センターセレネ
▼その他
特産物:ゆず、やっこねぎ、しいたけ、かりかり桃子、ぎんなん、地酒等
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼記載なし
1808年(文化5年5月2日~8日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▽穴内村
▽国見峠
▽権蔵坂
1808年(文化5年5月2日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼(亀岩村・権若坂)
▼穴内村
▼国見坂
▼桃の休場
▼国見峠の休場
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼記載なし
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼国見山(くにみやま)
▼油石(あぶらいし)
▼神母ノ木(いげのき)
▼岩村(いわむら)
▼馬袋(うまぶくろ)
▼飼古屋(かいごや)
▼鏡野(かがみの)
▼樫谷(かしたに)
▼片地(かたじ)
▼京田(きょうでん)
▼葛目(くずめ)
▼倉入橋(くらいればし)
▼佐岡(さおか)
▼繁藤(しげとう)
▼新改(しんかい)
▼秦山町(じんざんちょう)
▼須江(すえ)
▼高柳(たかやなぎ)
▼談議所(だんぎしょ)
▼戸板島(といたじま)
▼南松(なんまつ)
▼百石(ひゃっこく)
▼甫喜ヶ峰(ほきがみね)
▼夢野(ゆめの)
▼龍河洞(りゅうがどう)
▼明戸(あかりど)
▼猪野々(いのの)
▼岩改(いわかい)
▼大荒の滝(おおあれのたき)
▼暁霞(ぎょうか・あかつか)
▼計多(けた)
▼御在所山(ございしょやま)
▼清爪(せいづめ)
▼太郎丸(たろうまる)
▼韮生野(にろうの)
▼根須(ねず)
▼萩野(はぎの)
▼橋川野(はしかわの)
▼日ノ御子(ひのみこ)
▼府内(ふない)
▼伊勢丸(いせまる)
▼大栃(おーどち)
▼押谷(おすだに)
▼塩(しお)
▼庄谷相(しょうだにあい)
▼仙頭(せんどう)
▼拓(つぶせ)
▼槙山(まきやま)
▼安丸(やすまる)
▼柳瀬(やないせ)
▼四ツ足峠(よつあしとうげ)
香美市土佐山田町
兼山の新町建設「山田野地」
山田郷は平安期にみえる香美郡八郷の一つ。時代によって範囲は幾分違ってくるが吉田東吾『大日本地名辞書』 (1907)には「今山田野地村・明治村・大楠植村・佐岡村是也深渕郷の西北、殖田郷の東、岩村郷の北、物部川の西」とある。また『日本地理志料』 には「吉祥寺・町田・加茂・林田・七野・高棚・狭間谷・舟谷・小島・杉田・大比良・大法寺・山田・野地・岩積・西後入・大後入・中後入・有太・秋友・河内・遅越・佐岡・上村・二十四邑」とある。
現在の市街地の街並みは小倉少介・野中兼山の新田開発と市町づくりで発展していった。特に舟入川の開設に伴う往来の要衝として氾濫原にあった「古町」を上段の河岸段丘に「新町」を移した。今でもその西町、東町の名称は残っている(詳しくは山田の段を参照)。
33.607257,133.742108
逆川(深渕郷逆川村/校注土佐一覧記p119)
「さかさまの川もある世に老楽の 若さに帰る年波やなき」
本流と逆に流れる「逆さ川」
与惣太は「さかさまの川もある世に老楽の 若さに帰る年波やなき」と逆川を自分にかけて人生はままならぬと詠う。聞楽山を源として物部川に逆流しつつ土佐山田町神母ノ木でその本流に入る片地川の上流域が土佐山田町逆川(さかがわ)。地内の龍河洞付近はまさに本流とは逆に流れる位置となる。『地検帳』にも逆川ノ村とある中世以前の地名だ。
合流先の河川の増水により水が逆流することがある河川(四万十市川登)や本流の流れとは逆の方向に流れる河川(物部町舞川・香我美町舞川)を「逆川(さかがわ・さかさがわ)」と呼び、全国に分布する。高知県では佐川を北に流れる柳瀬川や春日側も逆川であり佐川もこの転訛とも思われる。逆川とは呼ばないが四万十市川登は四万十川の増水時はまさに逆流する「川登現象」となる。永瀬ダムに合流する舞川も香南市香我美町撫川を源流域として物部川とは逆方向に21kmも北流する川である。
人生、プレイバック
NHK・BSプレミアム「日本縦断こころ旅」で火野正平が「人生下り坂最高」という。正平さんと同世代の男子諸君は共感しているのでは。上り坂、下り坂と人生の起伏にも似た自転車旅にとって下り坂は苦しみからの開放、そんな時フッとでた自然な言葉のようだ。与惣太も50歳を過ぎあの世もそこにと予感する旅先で、逆川を見てプレイバックしたのだろう。「今が最高」「人生下り坂最高」と思って詠んだと思いたい。
影山(山田郷影山村/校注土佐一覧記p130)
「夕日かげ山路照らして岩つつじ こき紅の色ぞあらそふ」
香美の大峰山
与惣太はどうして影山の大峰山に参詣しないのかと不思議に思ったが、調べたら明治8年に影山・林田・山田島の三部落が勧請したものだという。山容が大和大峰山に似ていることからというが、山頂に至る行者道には鐘かけ岩、競り割岩、胎内くぐり、西の覗、亀の岩とあり修験道発祥の大峰山に似せた設えである。明治維新の大罪は一片の神仏分離令。各地の修験僧がこの地に烽火を上げたのだろう。昭和30年頃まで四国各地の先達が集まって護摩供養が盛大に行われたと『土佐山田町史』(p934)は記している。香美郡には修験者(山伏)とその山修行の場が多い。大峰山(夜須・手結)、大峰山(山田・片地)、高坂山(物部・笹)、石立山(物部・別府)などあり香美は神の居ます場所、祈りの地、修行の地である。
影山城のあるところは土佐山田町間の小高い丘で片地川の右岸、その北側が土佐山田テクノパークである。
33.616728,133.719320
夢野(山田郷片地村/校注土佐一覧記p132)
「幾度か寝覚しつらん秋の夜の 夢野の鹿の声を聞にも」
「夢」は「ユリ」「ユラ」「ユル」は台地や丘陵の平坦面
『地検帳』「山田郷地検帳」に小村として佐川藪(佐古薮)がありその次に夢野として「ウシツキイシ上道トツイチトイアイ」「鹿ヲトシの東駒伏一籠」「野畠ヤシキ理有」など8筆がある。現在の土佐山田町佐古薮の小字に「シカヲトシ」「ユメノ」があり、鏡野公園の南側、県道22号線の向いが「夢野」と比定できる。土佐山田町宮ノ口には「夢野南ノ丸」「夢野酒屋床北」、土佐山田町神母ノ木にも「夢野」の字があることから片地小学校周辺が夢野と呼ばれていたようだ。『地検帳』の佐川藪は現在の佐古薮である。
中世に夢野と洒落た地名になっているが、「ユリ」「ユラ」「ユル」は台地や丘陵の平坦面にちなむ地形用語であることからこの音節の転訛ではないかと推理する。県下で夢の付く小字はここだけである。
「カーヒョー・ヒヒ・カイヨ」
物部川左岸・神母ノ木に「鹿寝覚(シカノネザメ)」という字、佐古薮には「シカヲトシ」という字がある。当時も鹿は有害鳥獣であったらしく「鹿落とし(しかおとし)」の設えがあったのだろう。鹿は「ピー」と鳴くものかと思いきや万葉集など古歌では「カーヒョー・ヒヒ・カイヨ」と詠んでいる。『土佐一覧記』でも鹿は郭公(21首)に次ぐ10首が詠まれている。
古今集(雑1034)
「秋の野に妻なき鹿の年を経てなぞわが恋のかひよとぞ鳴く」
一人身の鹿が夜な夜な効(かい)もなく「かひよ、かいよ」と雌を求め捜し泣く、夜這歌。
与惣太は詞書に「此野は韮生にあり。平かなる広野」とある。片地小学校や高知工科大学の西側が土佐山田町船谷にあたり『地検帳』の船谷を見ると「韮生口」「アカリト口」というホノギがある。韮生郷への入口となる明戸峠はこの船谷の裏山である。
香美市土佐山田町神母ノ木~佐野
夢森(山田郷宮ノ口村/校注土佐一覧記p134)
「たのまじよ露の契りのかり枕 結ぶも夢の森の下草」
森と丸
『校注土佐一覧記』では「夢野一帯にある森林で、神母ノ木から佐野付近へかけてであろう」と山本武雄氏は推定している。
物部川左岸の河岸段丘の二段目となるところに片地小学校や高知工科大学がありそこに「夢野南ノ丸」という字がある。丸は男の幼名(牛若丸)、船名(明神丸)、本丸の城郭(二の丸)、中世の名田からきた田地の所有者をつけたもの(太郎丸)、などとともにモリの転訛として山を意味する名称でもある。特に徳島県に多く分布する。ただ、語尾に丸のつく地名は山田郷、大忍庄に多く分布するので森と断定はできないが、付近に城郭の記録もないし条里制の区画でもないことから古くはこの付近を夢森と言われていたのがいつしか転訛して夢野の丸になったのではないか。高知県の未来の森を創る高知県立林業大学校や高知工科大学がこの地にあることは縁である。
与惣太はこの片地周辺が気に入ったらしく「夢野」「鏡石」「影山・古城」と立て続けに詠んでいる。さては、物部川の大水で渡しがかなわず待機することになったのか。すぐに出立するなら明戸峠から韮生郷を目指したはずである。やはりここは夢の中で待ったのだろう。
33.629736,133.717046
佐野(山田郷佐岡村/校注土佐一覧記p130)
「ふけ渡る月もながれて涼しさの 深くなり行く秋の川風」
左の野 「佐野」
佐野は土佐山田町に編入されるまで佐岡村と呼ばれた8村落(本村・大平・有谷・佐竹・中後入・西後入・大後入・佐野)の一つ。物部川右岸沿いに河岸段丘が形成され農地が広がる。この佐岡の山側に大平地区があり高知県立林業大学校が開設されている。高知県森林総合センターや森林技術センターもあり「林業の拠点」ともいえるのが佐岡である。
『土佐山田町地名解説』には佐岡の説明に「南部にある半坂山を北へ向かい越える時は物部川を右に、諸岡陵を左にする故に左岡とせり」を引用し、村の入口から左側に岡がある地としている。上下(かみしも・うえした)や東西南北の方向地名は一地点を基準とした方向地名で基となる地名から位置関係が理解できるが、左右の場合は何を基準にしているかを推定しなければならない。例えば同じ佐岡の地名が四万十市の後川左岸にあるが、その右岸が右山である。京都の右京左京と同じように一条氏の御所を基準としたものと理解できる。
また、左右の違いは民俗学的にも大きな意味をもつ。「左遷」「左巻き」などの言葉があるが、何れもマイナス評価で「右尊左卑」が常識となっている。逆に古来は左=聖(呪術・宗教的活動)、右=俗(世俗的生活活動/)が文化的基礎にあったという 。
「村の入口から左側に岡」といわれても、韮生郷から明戸峠を越えて山田郷の夢野に折り付けば、佐岡は「右岡」になってしまう。そう思っていたら行方不明の子どもを探したスーパーボランティアの尾畠春夫さんが「子どもは上の方に向かって行く習性がある」とインタビューに答えていた。左京右京は別として俗世間では下方から上方が命名の基準となるのかもしれない。
佐野は狭野?
『民俗地名語彙辞典』には、全国に分布する佐野地名だが多くは「狭い土地」を意味するサノのようだと書いている。また『地名用語語彙辞典』には、サノの項で①サ(接頭語)・ノ(野)の意味もあり美称地名として「佐」を付す場合もあるとしている。
香美市土佐山田町
33.618408,133.715715
鏡野(土佐山田町若しくは野市町/校注土佐一覧記p119)
「暮行けば月もうつろふ鏡野の 草葉にみがく露の白玉」
鏡石(山田郷片地村/校注土佐一覧記p133)
「みがきえぬ心のくもり返りみて 向ふ鏡の石もはづかし」
鏡野の由来
古代にさかのぼる地名で香我美の野という物部川下流域を示す地名であろう。一般的には物部川の左岸(東岸)が鏡野、右岸(西岸)が香我美・長岡両郡に広がる山田野地ではあるが、どちらも物部川の未開の河岸段丘であり氾濫原である。土佐山田町片地に鏡野公園、土佐山田町楠目に鏡野中学校の地名を刻んでいる。
鏡野の由来について『土佐幽考』 に二つの伝承として、一つは郡司・物部鏡連家主の姓にちなんだもの、もう一つは土佐山田町神母ノ木の字名にもなっている鏡岩にまつわる話とある。「姓は地名からが80%」の原則から判断すると鏡石の段で述べたが物部川のほとりで行き交う人を映した鏡岩が納得する。
与惣太は今夜も野宿かと思う。今風のテントや寝袋、コンロ・コッフェルもフリーズドライの食品もない昔の野営である。鏡野は未開の採草地。向こうにはここかしこと竈の煙はたなびいているが今夜は露をしのぐ間借りもない。そんな野原にぽっかりと月が照らす、そんなイメージを読む。鏡野は、条里制により開発された田園風景ではない。
郡名も川の名も「鏡石」
与惣太は詞書で「此石は夢野にあり。磨る鏡のごとし。此郡をかがみ郡と言ふも此石による名なりとぞ。そのこ川をかがみ川と言う」と記し、郡名(香美郡・かがみごうり)も川の名(古名・鏡川は江戸期に物部川となる)も鏡石が由来と説明する。
(山田野地村・明治村・大楠植村・佐岡村)
山田城(楠目城)・加茂城・談議所城
山田・古城(山田郷楠目村/校注土佐一覧記p127)
「山田守苅穂の庵の秋深けて 風に鳴子の音ぞさびしき」
山田の野開き 地政学上の橋頭保
香我美の北端の台地。『地検帳』の検地の時点では市街地の形成には至っていない。『地検帳』では山田郷の小村「中野西」の次に「新野」があり、そのホノギに「新野北町」「南町東ハシ」と芝荒地が見える。『土佐山田町史』(p364)も旧山田町の西南端の平地部にあるわずか2町歩程度の幻の町の痕跡とある。山田氏が長宗我部に支配される前の出来事で野中兼山の「市村」づくりの半世紀以上前の話である。
山田堰の完成とともに舟入川の水運を利用して香美郡韮生の地と高知城下の交易点として山田の野開きが始まったのが正保元年(1644)という。「現在のなんまつ橋の南、上井と中井にはさまれた地域の古町から、今の秦山町付近の新町に移されたが、東西の交通路を考えて、再び旧山田町の街並みの線に移住させられた」と立証する文献史資料はないが推定できると『土佐山田町史』に記されている。
山田野地村が山田野地町となった記録が寛延2年(1749)の古文書にあり 、当時、野地町は東1丁から9丁まであり、山田野地は町分と郷分に分かれていたとある。舟入川の整備とともに区画街路の街並みも東町と西町として整備され、それぞれに「公儀の井戸」も設置された。「東の井戸」が現在も山田郵便局の斜め前(東本町3丁目)にある。
山田は人と物が交わる地政学上の重要な位置にある町として発展してきた。
岩積神社(山田郷岩積村/校注土佐一覧記p129)
「動ぎなき御代の守も跡たれし 誓ひぞ仰ぐ岩積の神」
物部川を鎮める磐座
日本に古くからある自然崇拝。それは山であり森であり岩である。巨石信仰の対象となる神の依代である岩を磐座(いわくら/磐倉・岩倉)という。岩や石の重さ硬さが不動永遠の命を象徴するものとして信仰の対象になったものだろう。ナスカの地上絵、屋久島宮之浦岳の巨石アート、足摺の唐人駄馬石群など今では人気のパワースポットである。岩手県の岩は『三ツ石さま』と呼ばれる大岩を由来とするなど、岩の字のついた地名は多く、かつてその地域の幸福を願って神を祀った場所であったという。
土佐山田駅から真っすぐ南下すると物部川の戸板橋に辿り着くがその左側(右岸)に通称・岩積神社(右上の写真)がある。堰留神社(いどめ)・石留神社(いわどめ)として境内地に説明書きがあり「物部川の中州にできた戸板島村の北端にある巨石が洪水のたび河水を堰き留めて、村を水害から守ってくれるので、村人たちはこの巨石を磐座(いわくら)として堰留の神、石留岩積の神としてまつったものである」と書いてある。それでも文化12年(1815)の大洪水では堰留神社の社殿が流失し同年10月に再興したという棟札がある。寛政元年(1789)の『物部川絵図』 には「岩ツミ社」とあり、また神社記には地元では御岩大権現として崇敬されていたが明治元年に社名を堰留神社に改称したとある。
与惣太も詞書に御岩権現、堰留石留神社と書いている。物部川を鎮める神社である。
金地神社(山田郷神通寺村/校注土佐一覧記p124)
「伏し仰ぐ心のぬさを手向にて 祈るまことを神や守らん」
物部と熊野と大将軍
金地神社(神奈地神社)の周辺は条里制の区分けが字名として残る古来よりの地である。『校注土佐一覧記』には「往時は元三所大将軍と称しており、祭神は事代主命とも加奈地姫ともいう」とある。神奈地祇神社は、明治維新後に郷社となったが、祭神は「饒速日命」物部氏祖3世の孫「天忍男命(あめのおしおのみこと)」の妻「賀奈良地姫(かならちひめ/賀奈良知姫)」を神奈地祇神社として当地へ祀ったもので、三所大将軍と称したと伝えられている。
『土佐幽考』には、里人当社祭神を「賀奈地姫」としていたとの記載がある。別の書では国産み神話の際に生まれた五島列島を神格化したのが「忍男」。「多し男」の意味で五島列島の島々を表現したもの。「賀奈地姫」は奈良盆地の南西を支配する葛城国造「剣根命」の娘であり、その子が尾張連の祖神となり、娘が第5代孝昭天皇の妻となっている。
物部氏の勢力の強いこの地域に賀奈地姫を祀ったのは自然で、その賀奈地が転訛して金地となりこの地の地名となったのだろう。ただ鎮座地は神通寺で金地は西隣(南国市金地)に位置する。ここは物部川の氾濫原、流路の変更で何度が移動したのではないかと思われる。
金地のカネの意味
金地のカナは金属に関連する地名が一般的であるが、カネ(矩)で「直角」「曲がった」という意味もある。また高知の方言でカナグルがある。カク(掻く)ナグ(薙)で崩壊地形浸食地形をいう場合や焼畑地名のカナの転訛もあるという。どうもこの金地は関係なく「賀奈良知姫」が由来のようだ。
与惣太は詞書で「居民称大将軍」と書いている。『校注土佐一覧記』で山本武雄氏は「三所大将軍」と説明している。三所は王子、若一王子、若王子、新宮、十二所、権現など熊野神社の一群である。県下各地に79社が勧請されている。熊野の御師(おし)と熊野で修行した地元の先達が熊野信仰の伝道者として各地で修験しながら各地の有力者が勧請していったのだろう。大将軍神社は香美郡(夜須村・王子村・吉原村・神通寺村)、長岡郡の平野部に多い。『長宗我部地検帳の神々』 によると安芸郡に3社、香美郡に5社、長岡郡に2社あるがほとんどが未詳である。大将軍と勇ましい社名ではあるが縁結びの神であったり陰陽師の祭神であったりする。香南市吉川町の説明で述べたが、室町から戦国時代にかけて流行した大将軍信仰で陰陽道による星占いに関係したためと思われる。
物部川が「神(香美)の奈備(依代)」
賀奈地の音は神奈備に通じる。この地に流れる物部川を神奈備(かむなび・かみなび・かんなび)として神の依代としたのではないか。「神」は香美であり、「奈備」は隠れるを意味する。修験の山伏(熊野信仰)、陰陽師(大将軍)、いざなぎ流(民間信仰)にみられる香美郡は古来より信仰の刻まれた神の居ます地である。
甫木(山田郷東川村/校注土佐一覧記p177)
「蔦葛はひ松はれてうつぼきの 枯たる後も紅葉をぞ見る」
北山越えの抜け道防御
『校注土佐一覧記』では長岡郡の段に載せられている。古くは甫喜山と呼ばれその山稜に辿りつけば「甫喜ヶ峰森林公園」となる。昭和53年、第29回全国植樹祭がこの地で行われ、その102haの県有林を森林公園として整備したもの。アセビの森など是非訪れていただきたい。
JR土讃線は山田を過ぎると新改川流域の山地をあくせくと東川へと標高を刻み甫喜山のトンネルをくぐり繁藤へと至る。この地に山城が必要であったのは「北山越え」の抜け道として防御することによると思える。
香美市香北町
物部川中流域の町
『土佐國白湾往来』 は地高帳を引用し韮生郷の村々を「はきの、橋川野、かりやがの、白川、太郎丸、いおろい、下野尻、上野尻、西又、荒川、古井、西峯、あらせ、韮生野、ひのミこ、横谷、中谷、谷相、ほうの木、小川、吉野、ねす、下田、白石、長野、中内、大井平、ひうらこミ、わらびの、長瀬、清爪、伊野々、日比原、柚木」と物部分となる「やないせ、かぢさこ、安丸、下池、上池、神通寺、くろたい、五王堂、南池、さゝ、大西、窪」とし「以上四十六ヶ村なり」としている。
香北町の区域は、明治の合併で三つの自治体となった。
●暁霞村(あかつかむら/物部川中流右岸/面積36.95k㎡/総人口1,637人)
白川村・五百蔵村・有川村・荒瀬村・西峯村・川野村・古井村・西又村の区域。村名は村の中央の山・赤塚山(847m)に由来する。
●在所村(ざいしょむら/物部川中上流両岸/面積67.83k㎡/総人口3,908人)
川ノ内村・谷相村・中谷村・横谷村・朴木村・長野村・大束村・大井平村・梅之窪村・日浦古味村・清爪村・日比原村・猪野々村・(ここから左岸域)永瀬村・蕨野村・白石村・祢須村の区域
●美良布村(びらふむら/主に物部川中流左岸/面積39.84k㎡/総人口4,956人)
橋川野村・岩改村・萩野村・太郎丸村・下野尻村・上野尻村・韮生野村・小川村・吉野村・(右岸域)日野御子村の区域。のち西川村の一部編入。
昭和31年(1956)に美良布町と暁霞村が合併し大宮町。昭和36年(1961)、大宮町と在所村が合併して香北町が発足した。
萩野(韮生郷萩野村/校注土佐一覧記p131)
「立かへりまた来て訪はんあかず見る 色もゆかりの萩の錦を」
韮生往還は明戸峠を越えて
韮生郷は物部川の両岸に集落が形成されている。明治の合併も右岸と左岸に分けられた。大河・物部川により往来が妨げられる土地柄で、与惣太もどのルートを辿るか悩んだことだろう。明戸峠を越える韮生往還を歩くことにした。
萩野の由来
萩野の由来について『美良布文化史』では「元暦、文治の頃萩野勘解由太夫という者が居住し地名となった」と紹介している 。外から入ってきたものは通常、地元民に同化するため開拓したその地の地名を冠するものが常套であったように思う。
萩の野という植物ハギに因んだ地名のようでもあるが、地形地名のハケ若しくは剥ぐ(ハグ)が萩に転訛したのではないかと推考する。香美郡は徳島県境から南西にむけて物部川が太平洋に流下しその流域に集落が点在する地形である。その物部川・萩野川・中西川・西の川・香宗川の川筋、秋葉山山系(三宝山山系)・熊王山山系・月見山山系など山筋の南西方向の地形に対し、北西方向に横ずれした形状が、香北町太郎丸から萩野川を遡上し西川の文代に越え、別役から香南市香我美町の別役へ、そこから夜須町の羽尾に通ずる線に見られる。萩野の小字に「栗尾」「薬研サコ」「岩ガラ」「ソゲグエ」「鍋倉」と崩壊地名らしきものが多いのはこの地形によるものか。
この萩野は土佐山田町境にあり字名である「休場」から「国木谷」に入り「ヲソ越」「タカノス」「松葉」「坂ノ谷」と登りつめると「明戸」となる。明戸峠(あかりどとうげ)は韮生郷と山田郷との境で、越えると土佐山田町間へ折り付く往還道である。
鏡野の三倍は広い日本
昔、韮生の山人が子どもを連れてこの峠に立った。前面に広がる平地やあたりの美しい景色にみとれた子どもは驚いて「おとう、あそこも日本か」と聞いた 。父親は「まだ知らざったか、お前はまことに山人じゃ。ありゃ鏡野という平野じゃ。日本はまだあの三倍あるぞ」と教えたという。「韮生の山人」と未開の人のような昔ばなしになっているが、恥じることはない。韮生・槙山の山の暮らしはその世界が循環型社会、持続可能な圏域であった。決して文明の進歩に取り残されたのではなく、江戸の鎖国政策のように豊かな文化と人間性が育まれた世界であったと思う。
今は車社会で明戸峠を越えることもないがこの子どもが大人になって見えた世界は、土佐山田テクノパークや高知工科大学のキャンパスになっている。
「立かへりまた来て訪はん」とあることから明戸峠の往来であったろう。飽かずに萩の紅葉を愛でた歌ではあるが、萩野の地名にかけた創作ではなかろうか。
大山川美良布神社(韮生郷韮生野村/校注土佐一覧記p135)
「数あまた曳しめ縄に願ふ事 おほ川上の社とは見る」
美良布の川上さま
美良布の川上さまと知られる大川上美良布神社。社殿には「正一位大川上美良布神社」と掲げられている。土佐式内社21座(香美郡4座)の一つで韮生郷の総鎮守となる由緒ある神社である。境内にある神社略記に、主祭神は大田々祢古命(おほたたねこのみこと)。別名、大田田根子(おほたたねこ)、意富多多泥古(おほたたねこ)、大田々禰古命(おほたたねこのみこと)、大直禰古命(おほたたねこのみこと)と呼ばれる。合祭神は、大物主命、活玉依比売命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比売命、健甕槌命とある。境内社に若宮神社、琴平神社、御崎神社がある。雄略天皇の御代(465-479)に創建されたというが確かな記録はない。
主祭神は神主の祖
「古事記」では大物主命の何世かの孫(意富多多泥古)とあり、「日本書紀」では大物主命の子(大田々根子)とあることから、記述の相違はあるが、崇神天皇の時代に疫病が流行して万民が苦しんだ時、天皇は大物主命のお告げによって大物主命の子孫の大田々称古命に神々を祭らせ、それ以来疫病が治まって人々は安んじて生活できるようになったといわれている。その大田々称古命に関係するゆかりの神々を合祀していることも興味あることだ。大田々祢古命が「神主の祖」とも呼ばれる由縁である。
川上様の「おなばれ行列」
高知県無形民俗文化財に指定されている「おなばれ(神輿の神幸)」の行列を順に書くと発先道払(みちはらい)―太鼓(たいこ)―獅子頭(ししがしら)―真榊(まさかき)―鼻高面(はなだかめん)―挟箱(はさみばこ)―羽熊(はぐま)―鳥毛(とりげ)―台笠立傘(だいがさたてがさ)―指揮(ざい)―真法螺貝(ほらがい)―碁盤(ごばん)―棒打(ぼううち)―楯板(たていた)―御銃(おつつ)―弾丸筥(たまばこ)―弓(おゆみ)―鉾(ほこ)―薙刀(まぎなた)―旗(はた)―金幣(きんぺい)―辛櫃(からひつ)―楽太鼓(がくたいこ)―竜笛(りゅうてき)―篳篥(ひちりき)―鳳笙(ほうじょう)―御太刀(おんたち)―禰宜(ねぎ)―鼻高面(はなだかめん)―駕籠丁(かごかき)―神輿(みこし)―駕籠丁(かごかき)―長柄傘(ながえのかさ)―発子(おこしだい)―宮司(ぐうじ)―神職雇神職―町村長・氏子総代浦安舞奉納舞姫―神馬(しんめ)―供馬―稚児行列となっている。11月3日が川上様の秋祭り。古式にのっとった「おなばれ行列」をみてはいかが。
韮生と美良布
神社の鎮座地は美良布ではなくて韮生野となっている。韮生野は今では香北町の大字の一つとなっているが物部川の中流域から西熊渓谷の上流域までを韮生郷と呼んでいた。『南路志』には韮生郷の47カ村を記しているが一時は土佐山田町佐竹も韮生郷であったが元禄16年(1703)佐岡村に入ったと『韮生一統記』に書いてある。
韮生と美良布の音が似ている。『南路志』に「韮をミラというは古音にて此地名も古へはミラフといひし」とある。いつごろから韮生と呼ばれたかは明確ではないが仁明天皇の承和8年(841)8月に美良布神社の神名がみえているので、ニロウがミラフに転訛したとすれば、それ以前からの名称であろう。『地検帳』には「韮生谷」がみえ、現在の香北町(西川と岩改を除く)と物部村上韮生川流域(大栃を含まず)がこれに含まれると『香北町史』(2006年版、p48)に記してある。だだし、逆に大川上美良布神社にちなんで「ビラフ」の地名が生まれその音便「ビロウ」が転訛して「ニロウ」になったという説もある。
33.657353,133.782835
日野(校注土佐一覧記p132)
「秋ちかくなりぬと見えて草の葉に 宿る夕日のかげも露けき」
日野はどこか
『校注土佐一覧記』の著者、山本武雄氏も「日野」がどこを指すのか決めあぐねていた。物部町仙頭の日の地集落、槙山川桑ノ川上流の日の地集落、香北町日ノ御子地区の三ヶ所をあげ、道順から考えて物部町仙頭地区の日の地集落(国道195号線日の地トンネルを抜けた仙頭大橋の下流右岸域)だと推定している。
日差しに恵まれる集落
日野地名と同じように日浦、日野地、日向など、山間で北に山を背負い南面に開けた日のよくあたる小平地な土地柄を名づけたものである。香南市香我美町舞川の日向川、大豊町日浦、本山町北山字ヒノヂ、土佐町田井字日之地、越知町鎌井田日ノ浦、佐川町東組字日ノ地、仁淀川町日浦、土佐市永野の日ノ地、梼原町中平の日ノ地、四万十町日野地、四万十町久保川の日の地など字地名を入れれば書ききれないほどである。日差しに恵まれる集落は田畑の実りにも人の暮らしにも有難い。
安徳天皇伝説を刻む地名
香北町の日ノ御子(ひのみこ)は「ひの見こ」「日野御子」「日御子」などとも書かれた古い地名。安徳天皇伝説もある。土佐に落ち延びた安徳天皇がこの韮生の地で皇子を生んだ。皇子がやがてこの地に移ってきたことから天子を日にたとえ日の御子と申し上げ、その後地名となったというものである 。
与惣太は日野について詞書もなく歌にも地名らしきものはない。日野の段の歌に「秋ちかく・・」とあり秋に詠まれた歌となる。隣の長野の段では小男鹿の求愛の鹿声を詠んだ秋の歌。柀山の段では「郭公初音・・」とあり夏の歌とすれば旅の流れからみると日ノ御子ではないかと思える。槙山を訪ねて魅かれる景観は影仙頭や影山崎である。その地をのぞむのに格好の場所は対岸の日の地(仙頭大橋の右岸集落)である。
はたして、与惣太はどこでこの歌を詠んだのか。 歴史の物語性、日差しに恵まれる景観を考慮し、とりあえず日ノ御子を「日野」としたが、再考の余地もある。
33.665139,133.818541
長野(韮生郷長野村/校注土佐一覧記p131)
「小男鹿の妻恋わびて秋の夜の 長野の原に音をや鳴らん」
永野は「長野」という地形地名
物部川北岸に河岸段丘が長く2kmも続く地形地名の「長野」だろう。ナガ(長・永・那賀)には、動詞ナガル(流)の語幹として傾斜地やナギ(薙)が転訛した崩壊地名の意味する場合もあるという。『地検帳』には永の村とある。『元禄郷帳』には長野村とあり、当時は両方の漢字をあてたのだろう。小村は永野・永岡・中野・谷内がある。
「ぴーひー」という高い鹿の鳴き音が、深い闇夜の山間に渡っていく。地形図では県営吉野ダム湖畔の北側右岸に河岸段丘が二段にわたって広がる田園風景の永野、ご多分に漏れず鹿の食害にあっていることだろう。と思い訪ねてみれば古民家風のカフェや特別養護老人ホームや郵便局やタクシーや病院まである町の佇まいだ。
33.682068,133.846135
轡城
与惣太は白石の古城を訪ねている。別名轡城(くつわじょう)。詞書に「天正中山崎藤太夫居之」とあるのみで歌は詠まれていない。山崎氏の祖先は摂津国山崎に住んでいたので姓を山崎とした。白石城を築いた萩野氏滅亡後に豊岡八幡宮の宮司からこの城に移ったという。
『地検帳』には「影古味ノ村」と「白石ノ村」とに二分されていたと書かれているが白石の字図をみても影古味村は不明。明治9年に二段の河岸段丘となるこの地の下段にある「下タ田村(しもただむら)」と合併し白石村となった。地図には下田・和田・府内の地名がある。
原始の色「白と黒」
人類が初めて手にした色は黒ではなかったか。火を起こす技術の発見から多くの文化を獲得し、光によって闇を征服し時間と空間を拡大することが可能となった。火が燃えた後の煤や炭によって黒の使用を覚えた。ゲンルマン祖語では「燃えた」、印欧語では「燃える、輝く」といった意味が黒で、人類最初に獲得した色ではないか。その「くろ」と同じように「しろ」や「あか」や「あお」の基本色彩語が最古の色であるという。KUROーSIRO、AKAーAWOの二組の反対語対としてなっており、それぞれの語尾に「い」を付けて形容詞活用ができるが他の黄などはできない。また、接頭語に「真っ」をこの4色につけることができるが、他の色はこれができない。この4色が最古の色と呼ばれる所以である。もっと言えば「真っ白い」、「真っ黒い」はいえても「真っ赤い」、「真っ青い」はないことから、白と黒が人類最初の色といえる。
白石地名の分布と意味
札幌市白石区、宮城県白石市、佐賀県白石町の自治体名称がある。河川や山名、島名に多くみられ花崗岩や石灰岩による色彩形状から名付けとみられる地域が瀬戸内沿岸、四国山地に見られる。
高知県内では香美市香北町白石のほか土佐町白石(しれいし)、越知町白石、仁淀川町白石川、須崎市白石、津野町白石、四万十市白石がある。
『地名用語語源辞典』には白石のシラ(白)は「白色」だけでなく、それを語幹とするさまざまな用語の例から多様な意義が考えられるとして、①シルシ(著)に通じ「明るくはっきりした様子」②動詞シロムの語幹で「勢いの弱まった状態」③雪の山詞(方言)➃塩の異称⑤シロ(城)で「城郭」⑥シロ(代)で「田。田地。田の一区画」⑦魚のよく集まる場所(方言:愛知・山口)⑧茸のよく生える場所(方言:栃木・広島)⑨緩やかな傾斜地。丘上や山腹の平坦地⑩動詞シロク(退)の語幹で「引っ込んだ場所」⑪動詞シロム(搾)の語幹で「しぼられたような地形」(方言:香川県・愛媛県)などをあげている。
高知の方言では石灰岩のことを「シラメ・シラメイワ」という。新しいも、味の付いていないものを「シラッタ」というのは、取り立てのチリメンジャコを「シラス」というのと同じであろう。「スラ」は材木を伐り出すときにできる傾斜面の滑りみちで、このスラが転訛して「シラ」となるのも考えられる。
ただ、白石の場合、石を形容する色彩名称の「白」と理解するのが自然であろう。
33.687246,133.847079
蕨野(韮生郷蕨野村/校注土佐一覧記p131)
「うき事を身につむからに早蕨の 下にもゆるもあはれにぞ見る」
山中往還の賑わいを刻む地名
どうして与惣太は蕨野を詠んだのか。不思議なくらい山いっぱいの普通の集落である。寛文7年(1667)の郷村石高には「原比野」とある。
ここから中谷川を上りトンネルをくぐると物部である。庄谷相から拓を下に見ながら塩の道を大栃に向かうとタオになったところがあり朽ち果てた茶屋(臼杵店屋)がある。丁度ここがトンネルの上となる。
蕨野の全図をみると轡城(白石城)の南側に飛地がみられる。三等三角点の琴平山(425.9m)の大字・拓との境辺りと思われる。字名に「イチノタニ」「クツワダニ」「タビカタ」とある。イチは巫女の佾とも読める。轡(くつわ)の別名は姒・銜(くつわ)で遊女屋を意味する。ここは塩の道の途中で「拓店屋跡」のあると塩の道の由来の看板にある。車社会では考えにくいが山中の往還は賑わいがあっただろう。
春と秋の韮生の地
香美郡を旅する与惣太が詠んだ歌は秋が大半であるのに、この蕨野の歌は「早蕨(仲春)」で、長瀬の歌は「桃のさかずき(春)」で、春に詠まれた歌となる。対岸の伊野野(猪野々)、長野(永野)、日野(日ノ御子)、佐野で詠んだ歌などはそれぞれ秋である。物部川には渡しはあるものの、昔の往還は左岸東岸にそれぞれ設えていた。与惣太は韮生の地を二度訪ねたのではないか。
33.701421,133.857937
長瀬(韮生郷永瀬村/校注土佐一覧記p132)
「言の葉はかきながせども岩間行 水にぞよどむ桃のさかづき」
長い瀬
白石、蕨野、長瀬と続けざまの詠地である。
昭和31年(1956)に竣工した永瀬ダムのお膝元、左岸が永瀬でダムを少し下ると南西にまっすぐ流れる瀬となる。この長い瀬が地名の由来であろう。
香美市香北町猪野々1726
33.705670,133.851306
伊野野(韮生郷伊野々村/校注土佐一覧記p137)
詞書「此里に宿し時落葉混雨といふ題をまうけて」
山里の吉井勇記念館
吉井勇は「寂しければまだ夜明けぬに戸を繰りぬ 猪野々の里の深霜のいろ」と3年ほど暮らした猪野々を詠んでいる。渓鬼荘を建てたのは昭和9年(1934)、今ではこの山里の地に吉井勇記念館も建てられその脇に移築されている。
『土佐州郡志』には「伝へ云フ古へ伊野々常心ト云者ノ此村ニ居故ニ名」とこの地に開拓者として住みついた伊野々常心の名字が由来という。地名にしたという開拓者の名は「猪野」である。そんな関係で猪野の常心が伊野々常心と呼ばれそれが地名の伊野野(猪野々)になったというのか。
「の」の意味
地名を理解するうえで「の」は難解である。例えば「藤原鎌足」「平清盛」「源義経」は「ふじわらのかまたり」「たいらのきよもり」「みなもとのよしつね」と読み、古の人は姓と名の間に「の」を入れて読むと教えられた。正確に言えば天皇から下命された藤原・源・平といった血縁集団を示す「氏(うじ)」については、氏のあとに「の」を付け、職業・職能を示す称号としての「姓(かばね)」については「の」を付せずにそのまま読むという氏姓制度のルールがある。そう理解すれば猪野は氏ではないので「の」を付けることはないので伊野々に転訛するのは不自然と言える。
また、猪野々が、「猪」が棲む「野」に連体系助詞の「の」を間に加え、漢字表記として猪野々となったとも考えられるが、しっくりこない。
「野々」地名のいろいろ
それでは猪野々の「野々」は何を意味するのか。全国に分布する「〇野々」地名を拾って検証してみることとする。
全国の「市野々」地名は、山形県米沢市市野々、山形県新庄市市野々、山形県尾花沢市市野々、山形県小国町市野々、福島県喜多方市市野々、千葉県木更津市市野々、千葉県いずみ市市野々、新潟県糸魚川市市野々、福井県永平寺町市野々、和歌山県那智勝浦町市野々、兵庫県篠山市市野々、熊本県菊池市市野々、宮崎県都城市市野々、鹿児島県霧島市市野々があり、高知県では土佐市・黒潮町・四万十市・土佐清水市に分布する。
また「田野々」地名は四国に多い。三重県熊野市田野々、香川県観音寺市大野原町田野々、徳島県三好市田野々、徳島県上勝町田野々があり、高知県では南国市・梼原町・四万十町にある。その他の高知県下の野々地名は当地「猪野々」のほか「安野々(大豊町)」「沖野々(大豊町)」「堂野々(佐川町)」「襟野々(佐川町)」「宮野々(梼原町)」「姫野々(津野町)」「鍵野々(津野町)」「槙野々(中土佐町)」「宮野々(中土佐町)」「折野々(中土佐町)」「古味野々(四万十町)」「馬野々(黒潮町)」がある。
「ノノ・ノーノー」について巫女研究の第一人者の中山太郎は『日本巫女史』 で「信州の北部では巫女をノノーといっているのに反して、南部ではイチイといっているという」と述べ「信州は古くから巫女の名産地。信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、神社に属して神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云ふ」と日本第一の巫女村である禰津村のノノウ暮らしについて詳しく述べている。また、柳田國男は、幼児語で月をノノサン、仏菩薩をノノサマなど各地の例を引いて「例えば山形県の米沢地方では、ノノサマは仏菩薩だが、ノノは書物であり、ノンノといえば佾のことである」「沖縄では花がノウノウ、肥後の葦北郡でも花をノウノウ又はナナ、同球磨郡には美しいをナナカという形容詞も出来て来て、伊豆新島でも供花がノンノウであるといふ・神仏などを拝む人の言葉が常にナウナウを以て始まる」 と述べている。ノウノウが単なる幼児言葉や方言だけでは説明できない古い言葉のようである。高知県の幼児言葉に「ノーノーサン」がある。神様仏様に手を合わせてお願いする前の呼びかけ言葉である。『高知県方言辞典』には「のーのー」の項に「【幼】神様・仏様。梼原・中土佐・窪川」とある。
『地名用語語源辞典』(楠原・溝手)は「のの[篦、野々]」として項を設け「①ノ・ノ(助詞)~という地名②巫女に関する地名か[鏡味]。信州では巫女のをノノということから。③ヌノの転もあるか」と説明し、解説では、はっきりしない地名の一つと結んでいる。
また片岡雅文氏は『土佐地名往来』(2007年9月25日付高知新聞夕刊)で四万十町の田野々をとりあげている。「田野々村は、中央に丘陵(森駄場)を残し、旧河道跡に平地が開けた地形であり、地名の『たのの』は『たなの』がなまり変わった言葉で、段丘のある開き地に由来」と『大正町史』を引用し、四万十川の特徴である環状蛇行跡の段丘“棚の野”が転訛したものと現地を訪ね結論付けている。連体系助詞「の」と理解なら、この地に熊野から移り住んで熊野神社を勧請した田那部氏の野が田那の野になり田野々に転訛したとも考えられる。
先の高知県内の事例のように野々の前に来る文字「市(佾)」「田」「姫」「宮」「槙」など神仏に関連する文字のように思える。この地の猪野々は「イツノノ(佾野々)」が転訛して猪野々となったのではないか。京都府福知山市の猪野々、兵庫県朝来市生野町猪野々との関連を含め検証したい。
詞書があるだけで、本歌は写本である図書館本系・広谷本系の双方に載せられていない。『校注土佐一覧記』の著者である山本武雄氏は未だ発見されていない『土佐一覧記』の原本に期待を寄せる。
永瀬から猪野々に架かる橋が新神賀橋。神賀山は平家伝説の山で猪野々の奥山である。修験の山・高板山と御在所山が一直線に並ぶのは不思議な世界だ。
香美市物部町
「伝説の扉」の上韮生と「神秘の扉」の槇山
香美市物部町大栃は永瀬ダム湖畔に市街地が広がる旧物部村の中心地。ここから物部川本流域の槙山地域(大忍庄槙山郷)と支流の上韮生流域の上韮生地域(韮生郷)の二つに分かれる。物部の新しい観光パンフレットも「伝説の扉(上韮生編)」と「神秘の扉(槇山編)」の二つがあり、「山々にかかった霧は刻々と表情を変え、まるで来るものを試しているかのようである。一歩、山の中に足を踏み入れると、そこには“何か”が存在するかのような感覚になる」と書かれている。
霧と神秘に包まれたワンダーランド
物部には秀麗な山容を誇る三嶺(さんれい/1893m)をはじめとした阿波境の山稜が登山者の人気のスポットがある。この奥山には至る所に神々が宿り、平穏な山の日常と深い山の気配は「いざなぎ流」をはじめとする独特の文化が形成されている。柳瀬の平井集落や影仙頭の山村景観は自然への祈りを感じさせる。パンフレットにはこうも書いてある。
「ようこそ 霧と神秘に包まれた、ワンダーランドへ」
香美市物部町槙山
33.697851,133.897891
柀山(大忍庄槙山郷/校注土佐一覧記p119)
「郭公初音はひとり聞とだに 告やる方もなき山の庵」
山間僻地まで丹念に開発
『地検帳』の一つ「土佐国香美郡大忍庄地検帳事」(天正16年)の表紙に槇山ノ内として石内ノ村、専当村、清遠、押谷、小浜、禰キヤ、岡ノ内、別やく、イチウ、別府、庄谷間、中谷川、頓定、大トチノ村、柳ノ上ノ村とある。『物べ村志』には地検帳に見られる槇山のヤシキや登録人別に反別とその村の四至・ホノギをまとめているのでこの段では省略する。「山間僻地まで丹念に開発されていたことが極めて明瞭」と編者の松本実氏は述べる。藩政時代は槙山郷、明治22年(1889)に14か村が一つになり香美郡で一番大きい槙山村となった。槙ノ山、柀山とも書かれる。
「マキヤマ」の意味
岡内幸盛氏の『柀山風土記』には「槙ノ山ト云地名ハ山々ニ槙ノ大木多アリテ槙ノ山トハ号シナラム今遠キ山中ニ槙ノ古株幾ラモ残リテアリ」と記して槙の木が地名の由来としている。『四国樹木名方言集』 によると犬槙(イヌマキ)を東洋町ではオトメとか単にマキと呼ばれ、高野槙(こうやまき)をホンマキという。『民俗地名語彙辞典』ではマキについて①屋敷林②巻、間木、牧。マキは同族、同族集団を表す古い語で、古代の民族、中世の一家一門、近世の本家・分家など同族関係にあるものがマキ。また村落の共同作業をもいう③地名例としては小平地にあるものが多い④槙のつく地名の所は地すべり、土石流が起こる土地のよう。土石流が地物を巻き込んで流下するさまをみてマキ地名とした。と書いている。高知の方言にマクルがある。山で薪を拾うとき、その材料を山上から山下へ順に転がして集める意で、転がす・捨てる・たたむといった行為にあたる(『高知県方言辞典』)。急峻な山峡の槙山には、焼畑や狩猟、山仕事といった山の暮らしを象徴する「マクル」が似合っている。
郭公はホトトギス?
『土佐一覧記』には「郭公」の和歌が21首詠まれている。次に多い鳥が鶴の7首であるからいかに多いかが理解できる。ただ、当時はホトトギスのことを「郭公」としているものがあるという。ホトトギス(不如帰・時鳥・杜鵑・子規など)は1首もないので「郭公」は、カッコー(閑古鳥)でなくホトトギスではないか。鳴き声は「テッペンカケタカ」「特許許可局」と聞き取ったりしているが夕方によく鳴くのでご当地方言の「ごっちょうたべたか」が馴染んでいる。
托卵で有名なカッコーは矢筈山や三嶺など高山ではよく聞くことができる。
香美市物部町大栃
葛橋(大忍庄槙山郷/校注土佐一覧記p135)
「世を渡る習ひは誰も語りけり 葛の橋を通ふ杣人」
ホイホイ一里
「祖谷のかずら橋」が今では代名詞にもなっているが、奥山の急峻な渓谷の往来に必要な設えであったことだろう。
韮生・槙山の集落は山影の谷筋にはなくそこから登った山の中腹の緩傾斜地にある。槙山には「ホイホイ一里」という言葉がある。ホーイと呼べばホーイと応えあえる向かい合いの集落。それでも谷に降り登り返せば一里はあるという意味である。かずら橋は安全・便利な往来に欠かすことのできない橋で、上韮生には中ノ上、笹、五王堂が共同で一カ所、安丸に一カ所、柳瀬に二カ所の一本橋があり、槙山には大栃、押谷、岡ノ内にそれぞれかずら橋があったという。それは地元の人々の労働奉仕により維持されたものである 。
橋は虹と一緒 あちらとことらの希望の架け橋
与惣太は詞書に「此橋は韮生の山川にかけたり」と書き始め、蔓橋の設え方、渡る様子など記し「爪木(つまぎ/薪)こりて此橋を通ひ日日の業とし侍る」と結んでいる。大栃の葛橋の図は皆山集にも所収されている。
33.740614,133.973379
小松神社(大忍庄槙山郷別役村/校注土佐一覧記p119)
「千代よろづ御代ながかれとゆふだすき かけて小松の神に祈らん」
転げ落ちた御神体
どうして道の下に小松神社が鎮座するのかという疑問に、『韮生物語』は「昔一人の婆さんが御神体を負うて別役の須道(すどう)に辿り着き、御神体をおろしこの地に鎮め祭ったところ、御神体は光を放ち飛んでいきはるか下の谷の岸にあり、どうしても動かないためこの地に祭ることになった」と書いてある。
氏子は町外から
小松神社は香美郡にある式内社4座の一つ。小松の音は功満王(こうまんおう)のコマが転訛してコマツとなり、小松氏一族が祖先として祭ったものと言われている。功満王は古代伝承上の渡来人で秦氏らの祖とされる。この小松の名字は県東部では一番多く、土佐山田、香北、物部、夜須、香我美、野市と大忍庄、韮生郷、山田郷では第一位、安芸市でも第一位である。
小松神社への道は国道195号(土佐中街道)を大栃から岡ノ内地区まで進みそこを左折、国道の上を走る市道を別役まで歩くと小松神社の鳥居が見える。社殿はここから337段の石段を下ったところである。鳥居の端に石碑があり「昭和31年(1956)槙山村別役集落52軒300人位の人口同年上韮生村と合併物部村に(中略)昭和63年別役集落解散」と書いている。現在では氏子会を結成して出身者が祭りをおこなっているとのことである。
かつての新開拓地の別符も、今は5人
詞書に「此社は大忍庄柀山別役村にあり。小松氏の祖神なりとぞ。二十一座の一社なり」とある。この槙山の奥地まで与惣太は足を延ばしているようだ。
小松神社が鎮座する別役集落。今では総人口5人となっている。この別役地名は高知県に分布する地名で東洋町野根の別役、南国市三畠字別役、安芸市東川の別役、香美市香北町西川の別役、香南市香我美町別役がみられる。桂井和雄氏は別役地名について「別役は別府、別符、別枝と同じように新開拓地の意味で、荘園を作るために必要な太政官が発行する官符(特許状)をもって新たに開拓された荘園を別の符と呼ばれたのだろう」と述べている(『おらんく話』p199)。この新たな荘園を大忍庄では別役と名づけられたのか。ただし、物部には別府(べふ)もある。
33.785086,133.881433
笹(韮生郷笹村/校注土佐一覧記p138)
「時雨行なごりの露の玉笹に そよぐ嵐の音もさむけき」
廃屋となった笹温泉
上韮生川の上流、五王堂の分岐からさらに北へと支流の笹川を進む。昔あった笹温泉も今は廃屋と化している。谷川沿いの土居番から走らせば明賀集落を過ぎ林道を登れば徳島県境の「矢筈峠(通称アリラン峠)」となる。ここから西と東にむけ二つの登山道がある。西へ稜線を進めば土佐矢筈山(1608m)から京柱峠へ縦走道、東の登山道に進めば綱附森(1643m)から三嶺(1893m)への稜線山歩となる。
山に祈るアイヌ的な暮らし
平家伝説の残る笹ではあるが、一ノ瀬橋近くで出会った老人は「廃屋となる家がひとつまた一つと増えている」と言う。通りすがりの者にも笑顔で迎えるのは人恋しさからだろう。宮地たえこの小説『槙山のそら』 の「峠を越えて」に、上韮生の山で生きる営林署の様子、昭和の暮らしが描かれているが、土佐の輪伐法のしきたりを忘れ「昭和」という一時代ですべての山を収奪してしまった。山は国の都合に合わせた装置ではない。100年の森は100年そこに暮らす人とともに育まれるもの。木地師は奥山の八合目以上を利用できるし、アイヌは山の一部を祈りながら利用してきた。山の所有権から利用権へ、と思っていたら森林経営管理法が本年どさくさ施行となった。所有権と管理権の分離と思っていたらそうでもない。山で持続的に暮らす自伐林業を育成する目的と思いきや、その逆で大規模林業経営者と持続性のない大規模伐採を進めているようできな臭い。アイヌ的な生き方が、山を育てる。
笹は山の暮らしを考えさせられる場所である。
山の暮らしを刻む地名「金輪木」
地形図を見れば「ナナヘツイ」とある。ヘツリは絶壁のヘリや川岸などようやく通行できる険しい道の意となり信越地方でよく使われる。その上の字名が「潰河」とあり「潰野々」もある。急峻な渓谷に険しい道を設えたものかと思っていたら漢字で「七竈」とある。関西では竈をへっついと呼ばれることからであろう。安徳天皇が7つの竈を作って食事をしたという昔ばなしがあるが真意は分からない。
また、笹の字名に「カナワギ」「中番カナワギ」がある。「金輪木」は高知県下の山間部に分布する地名(香美市物部町根木屋・梼原町越知面永野)で、類似の「金輪松」は安芸市穴内・大豊町西峰・本山町坂本・いの町小川津賀才・津野町力石にある。金輪は伐採木の両端の木口に鉄製の金の輪をはめ込んで木場落としをする道具で、鉄やフイゴなど鍛冶道具を持ち込み現場仕立てをしたという。せっかくの良材の木口が割れたりそげたりしないよう保護する道具である 。山国土佐ならではの地名である。
与惣太は笹を「此所を時雨の晴間に過行とて」と記し詠んでいる。明賀まで進んで笹越え(久シ峯)から大豊を目指したのであろう。次は長岡郡大豊町へ向かう。