黒潮町(くろしおちょう)


 

入野【いりの】444

 

黒潮町入野

33.023561,133.008428

 

入野(入野村/校注土佐一覧記p308)

古歌

「小男鹿の入野の薄初尾花 いつしか妹が手枕にせん」

  人丸(ほか多数)

此入野に一宮尊良親王の旧跡あり(略) 

今も猶此里ばかり忍び音も 鳴かで有井の山郭公

 

▽入野

 古代の大方郷入野。土佐湾西岸の最大の砂浜で入野の松原として有名である。この松原は元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりといわれ、宝永4年(1707)の地震津波で大被害を受けたが、村の各戸が黒松6本あて毎年植えて復旧した。

 入野は元弘の乱によって後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が流され、元弘3年帰京するまで大方に住まわれた。 

(山本武雄著『校注土佐一覧記』p308)

 

令和の『土佐一覧記』を歩く 

入野とは

「入野」は入りこんでいる野、まわりを山などに囲まれて人目につかない野のこと。西日本に分布する地形地名。「入」のみの地名もあり「エリ」に転訛する場合もある。 

入野の枕詞「小男鹿」

『さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ』万葉集(秋相聞2277/作者不詳)を勝手読みすると「入野のすすきの初尾花のような愛しい人よ、いつになったら腕を枕に共寝することができようか」。「小男鹿」は野を分け入る鹿のことで入野の枕詞。ここの入野は京都市西京区大原野の入野神社あたりか

 

「有井川」には尊良親王の配流中、忠節を尽くした南朝忠臣有井三郎左衛門豊高の墓(高知県史跡)がある。 

 黒潮町教育委員会の説明文によると『元弘2年(1332)3月下旬お船は遠流の地土佐畑の庄にお着きになり王無の浜で大平弾正らに迎えられ、初め「奥湊川大平の館」次に「佛が森中腹の行在所」へ、三度目の行在所として「有井庄米原の里」にお遷しした』とある。

(武内文治)


土佐一覧記を歩く②入野」『大形』321号、大方文学学級、2021.3

 

いつしかと入野の浜に今日は来て

うら珍しく拾う袖貝

朝日かげのどかに匂ふ花の香も

神の社は一入にして

川村 与惣太

 土佐一覧記には原本がなく、地名や与惣太の歌、古歌も写本する者の嗜好によるものか幾分違ってくる。

この「入野」の二つの歌の前段に「畑野」をもうけ

菫さく畑野の原の夕雲雀

なれにゆかりの草に臥すらし

と詠っている。『校注土佐一覧記』の著者である山本武雄氏は「畑野」を「御坊畑」ではないかと仮定している。前回、大形319号では流謫の地となる有井川を遷ろう尊良親王をホトトギスに例えて紹介したが、高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時幡多全域を「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないかと推論する。

 与惣太は次の古歌を引用している。

小男鹿の入野の薄初尾花

いつしか妹が手枕にせん

 写本では「人丸」としているが柿本人麻呂のことであろう。新古今和歌集に「さをしかのいる野のすすき初尾花 いつしかいもが手枕にせむ<柿本人麻呂>」とある。京都市西京区の西、大原野上羽町付近を古くは入野の里といわれススキの歌枕となっている。同じ入野地名であることから古歌を引いて観光案内することはよくあること。「入野」は全国に分布する地名で入山、入野といった山地や原野の奥の方を意味する場合が多い。この地の入野は「入野ねぎ沢一反」「幡多郡入野蜷川之内」「入野庄」「入野郷」といった古文書の記載から中世以前からの地名であることは読み取れるが由来などは分からない(ねぎ沢は旧役場の東側)。

 川村与惣太が入野を旅したのは安永元年頃(1722-1774)である。その少し前、宝永年間(1704-1711)に編纂された土佐の地誌『土佐州郡志』にも尊良親王が姫に贈った小袖が入野に流れついたという「小袖貝伝説」が書かれていることから入野では一級の「名所図会」であるといえる。名所図会といえば、王無の浜、王迎といった尊良親王を物語る地名がある。与惣太も詞書に「玉なしの浜といふもあり」と書き

秋風のみぎわの芦を吹き敷きて

葉に置く露の玉なしの浜

と玉なしの浜で草枕をしているようすがうかがわれる。

 土佐州郡志にも「大奈志濱」と記録されていることから、往古よりの地名ではある。伝承では尊良親王がすでに大平弾正の館に移ったあとであったことから「王無し浜」と里人が称えるようになったといわれる。

 この浜の上の段丘に大迎団地があり「大ナシ谷」の小字がみえる。長宗我部地検帳にも同じホノギがあることから中世以前の地名であるが、ナシはならし(平)の転訛で大きな平坦地の意味をもつ地形地名ではないかと考える。近世の世相の安定が尊良親王物語を醸成させていったのではないか。ナシノキをアリノキとするなど「ナシ」を嫌い改称された地名は多いが、ここではあえてナシ(無)の意味を持たせている。いずれにしても、王無し浜、、待王坂、王森山、弾正の館、王野山(大野山)、国王サコ、大野宮跡、仏が森、米原、中尾山などの尊良の故地を訪ねる山歩きを復原すれば「令和の名所絵図」にもなると思うがどうだろう。

 昨秋、四国を歩いて廻ったとき、あかつき館の西の四ツ辻に武田徳右衛門のへんろ道石を見つけた。遍路道しるべの作善行に生涯をささげた有名な行者の一人だが、道とともに遍路にとっての難題が宿である。当時は旅籠も未整備で善根宿にたよることができなければ野宿となる。土佐には東に佐喜浜入木の仏海庵、西に下ノ加江市野瀬の真稔庵がある。仏海上人も真稔も宿の大切さを重々承知していたことから自ら遍路宿を整備したものだろう。与惣太は安芸の西寺(金剛頂寺)の別当であった人。その出自ならどの寺も厚遇したであろうに、歌には「草枕」「草に伏す」「露の宿」「磯枕」など旅寝の歌が多く詠まれている。与惣太の旅のスタイルはこの二首によくあらわれている。

世はかりのためしを見せて御仏の

日毎にかはる宿りなるらん(日高村日下)

宿かれどいぬもやられぬ麻衣

うち山陰のあまの苫やに(須崎市土崎)

 この世は仮の世。隠居の身として、もとの僧籍を利用することなく自律する「旅人の矜持」には感服するしだい。GoTo頼りの人にはさぞかし驚きだろう。私も中村高校時代、友の江戸アケミ(ロックグループじゃがたらリーダー)と歩き旅(放浪)をよくしたが、早咲のバス停や大方球場のベンチはいつもの「苫や」だった。時代は過ぎて、今回の四国歩きは民宿みやこ。夕食は居酒屋ぽこぺんで中高文芸部先輩の山〇幸〇氏にお接待していただいた(誌上で感謝)。

 先の歌にある「神の社」が加茂神社。古地図をみると吹上川が神社の脇を流れているが、その境内に「嘉永七甲寅の歳(1854年12月24日)十一月四日(中略)申剋(午後4時)に至て忽大震動西蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海嘯也・・」と安政津浪の碑があった。天変地異や黒船来襲を期に「嘉永」は「安政」と改元されたことから安政の大地震となったもの。「34・4mショック」からもう十年近い。早く備えてみんなが笑って過ごせるまちづくりを進めた黒潮町。覚悟を感じる取り組みは高知で一番だとエールを送りたい。           

(武内文治)